はんぶんのきもち(1)
スズメのさえずりが聞こえる。この部屋に越してきてから、毎朝こんな感じだった。目覚まし時計なんて必要がないくらい。ガラスのサッシの向こう、ベランダの手すりにすずなりに並んだシルエットが、白いカーテンのスクリーンに映しだされている。
榊田シンはむっくりと布団から上半身を起こした。ここでの生活にもだいぶ慣れてきた。実家のベッドとは違う、畳に布団の睡眠にもようやく馴染んできたところだ。無駄な出費を抑えるためにも、ベッドの購入は断念することにしよう。
ぐるり、と視線を巡らせると、部屋の隅でシキがちょこんと膝を抱えているのが見えた。いつもと同じ、純白のノースリーブのワンピース。ふわふわとした柔らかそうな長い黒髪。シンが目覚めたのに気が付いて、シキはすくっと立ち上がった。
「おはよう、シキ」
シンの言葉を聞いて、シキの表情がぱぁっと明るくなった。
シキは、見た目は大体五歳くらいの女の子だ。ぱっちりとした大きな目に、ぷにっとした頬、すらりと細くて白い四肢。子供服のモデルにでもなれそうなくらい可愛い。
ててて、とシンの方に駆け寄ってきて、シキはにっこりと微笑んだ。シキは言葉を発することはできない。あれこれと手を尽くして教えてみようと試みてはいるのだが、一向に覚えてくれる気配はなかった。やはり、覚えること自体が不可能なのだろう。
シンはシキの頭に、掌を乗せようとした。右手の指がシキの髪に触れそうになって、それからすぅ、とすり抜ける。きょとん、とした顔をしてから、シキはシンの腕をきゅっと掴んできた。暖かくも、冷たくもない不思議な感触。再び浮かんだ笑顔が、シンには光を放つみたいに眩しく感じられた。
シキには実体がない。こちらからシキに触れることは、基本的には無理なのだそうだ。シキの方は、シキ自身が望んだ時には触れることができる。「ただしそれも擬似的なもの」だという話だが、シンにはよく理解できなかった。
「とりあえず、ご飯にしよう」
もそもそと布団から起き上がると、シンはダイニングキッチンの方に移動した。
大学に通うようになってから借りたこのアパートは、シン一人には必要以上に広い。1LDKもあっても、扱い方に困ってしまう。駅から歩いて十分、コンビニまで五分と、立地もなかなかの好条件だ。
本当はワンルームでも良かったのだが、母親がどうしてもということでこの部屋を借りることになった。シンのことを、少しでも気にかけていると主張したかったのだろう。シンは別にそんなことは要求していないし、期待もしていなかった。今は折半としているが、大学生活が落ち着いて、バイトも決まってくるようならば、シンはここの家賃ぐらいは全額自分で払うつもりでいた。
テレビを点けると、朝の情報番組をやっていた。若い男のアナウンサーが陽気にしゃべっている。ダイニングキッチンが、急に賑やかな雰囲気に包まれた。シキの様子を見ると、相変わらずテレビには関心がなさそうだった。シンの隣にいて、目が合うとにっこりと笑いかけてくる。
シキは、人間ではない。
幽霊、とも違う。コトハの説明によれば、人間には霊魂がある。霊が記憶であり、魂が意識である。幽霊というのは『霊』が漂っているものであり、記憶だ。それに対して、シキの場合は魂そのもの。産まれる前の魂の待機室『ガフの部屋』から飛び出してきた、人間の魂だということだった。
言語は記憶に属する特性であるため、純粋な意識体であるシキには学習できない。そもそも、学習という行為自体が記憶と密接に関連している。『霊』がなく、『魂』だけのシキがどのような原理に基づき、どのようにして世界を認識しているのか。魔法使いとして広い知見を持つコトハにも、よく判らないということだった。
シンは八枚切りの食パンをトースターに入れて、電気ケトルでお湯を沸かした。シキは肉体を持たないので、食事を摂る必要がない。いつもシンが食べている姿を不思議そうに眺めているだけだ。こればかりは、未だにどうしても違和感を覚えてしまう。
それ以外のこと――シキが常に一緒にいるということに関しては、シンは特に問題を感じなかった。最初の頃こそ不安もあったが、シキはいつもシンの傍で大人しくしているだけだった。寂しい一人暮らしにおいて、可愛い女の子の姿が常に近くにあるというのは、まんざら悪いことでもないだろう。
それに、シキについては、はっきりとしていることが一つある。
シキは、近い将来に産まれてくるであろうシンの子供、未来の娘の魂だというのだ。
言われてみれば、目元や顔つきに面影がある。シキは自らの存在を確定させるために、自分の父親であるシンのところにやってきたのではないか、というのがコトハの見立てだった。
それが理由なのかどうかは判らないが、シンはシキと一緒にいることが苦痛ではなかった。むしろ、シキの笑顔を見ていると安心できるし。そこにいてくれることに、感謝すらしたくなってくる。
もっとも、他の普通の人間の目には見えないということなので、人前では色々と注意しておかないといけない。
シン自身、もはや普通の人間ではない。魔法研究会に所属する、魔法使いの一人なのだから。
アパートを出て駅まで歩いて、電車に乗って一駅。シンがこの春から通っている尖央大学は、そこにあった。
大学のある駅の近くにも、似たような家賃の物件はいくらでもある。ただ、『学校に通う』というけじめを持っておいた方が良いだろうと、シンはあえて隣の駅の近くに部屋を借りていた。このことは、色々な意味で正解だった。少なくとも、素行のよろしくない自称友人たちの溜まり場にされる事態だけは回避できていた。
シンは文学部国文学科の一年生、通称国文一年だ。就職という観点からすると、あまり良いとはいえない進路ではあったが、やりたいことがあって選んだ専攻だった。大学に入って最初の二年間の一般教養過程を終えれば、色々と興味のある勉強ができるようになるだろう。
満員電車を降りて、シンは他の学生たちに混ざってぞろぞろと大学に向かって歩きだした。人ごみの中では、シキはどこかシンの目の届かないところにふぃ、と消えてしまう。少し空いてくると、思い出したように横を歩いていたりする。シキの姿はシンにしか見えていないのだから、下手に反応すればたちまち不審人物として通報されてしまう。
何食わぬ顔で、それでいてちらちらとシキの様子を気にかけながら、シンは大学の敷地内に入った。
午前中の間は、学内の人影はまばらなものだ。ほとんどの学生は朝早くからの講義を履修しようとはしないし、仮に講義があったとしても、キャンパスの中をぶらぶらとさまよったりはしない。シンはまずは教務科の掲示板を見て、休講情報を確認した。これが携帯で確認できるようになれば、ここまでくる手間も省けてだいぶ楽になるのだが。
残念ながら今日の講義は予定通りにとりおこなわれるらしい。やれやれと肩を落として、シンはクラブハウス棟の方に向かって歩き始めた。
クラブハウス棟は、大学の敷地内のもっとも奥まった場所に存在している。尖央大学に大小無数に存在しているクラブ活動のうち、大学の学生会に正式に認可された団体には、予算と部室が与えられる。その部室が置かれているのがクラブハウス棟だ。
築二十年以上は経っている、オンボロのコンクリートむき出しの三階建ての建物。手すりの錆び止め塗料ははがれて、壁には大きな亀裂が走っている。この地域に大型地震でもきたならば、すぐにでも倒壊してしまうだろう。中からは雑多な騒音が漏れ出していて、ここが廃墟ではなくクラブハウスとして正常に機能していることを知らしめている。
シンはその脇を通り抜けた。一般の生徒には、クラブハウス棟が大学の敷地のどん詰まりだと認識されている。この先にあるのは、大学で出たゴミをまとめておく集積場と、裏山の斜面を覆う雑木林だ。
ところが、そこには知る人ぞ知る建物があった。現在のクラブハウス棟が建設される前に、学生会によって管理されていた部室棟、旧クラブハウス――という名を冠せられた、数棟のプレハブだ。
築二十年のクラブハウス棟より古いのだから、その惨状は推して知るべきだった。ゴミ集積場の設備の一部だと言われても全く違和感がない。建物のすぐ目の前にまで裏山の木の枝がせり出してきていて、どこに入り口があるのかすら定かではない。シンも最初に連れてこられた時は、絶対に騙されていると確信したものだった。
その中でも一番奥、最もみすぼらしいプレハブのドアの前に、シンは立った。足元のアスファルトはでこぼこで、ちょっとでも気を許せば歩いているだけでけつまずきそうだ。見上げれば、錆びて穴だらけの雨どいが無残に折れ曲がっている。視線を正面に戻すと、年季の入ったスチールのドアに、白い画用紙の手描きポスターが張り付けてあった。
『魔法研究会』
色鉛筆で、やたらと明るくポップにそう書かれている。ミスマッチも甚だしい感じだ。やった当人が満足そうだったので、シンは何も言わないことにしていた。どちらにしろ、この部屋を訪れてくるような変わり者は限られている。本来、このような表札ですら不必要なものだろう。
「失礼しまーす」
ごんごん、とノックしてシンはドアを開けた。鍵がかかっていることなどまずない。この学校の辺境、廃墟の一歩手前の部室を、第二の自室として利用している先輩がいるのだ。というか、シンはこの部室に誰もいなくて、ドアに鍵がかかっているところ、というのを見たことがなかった。
「榊田君、おはよう」
挨拶してきたのは、教育二年の橘ユイだった。外からは想像もつかないにくらい片付いた、それでも十分におんぼろな室内で、ユイは電気ケトルでお湯を沸かしていた。シャギの入った肩までの明るい栗色の髪。きちんとした薄いピンクのブラウスに、すらりとしたグレーのスラックス姿。真面目な教育者志望の女子大生、という出で立ちだった。
部室の入り口の可愛すぎるポスターを描いたのは、ユイだ。この掃き溜めを通り越してごみ溜めのような空間に、ユイは場違いなくらいにファンシーな雰囲気を運び込んでくる。教育学専攻で、教師を目指しているということだが、間違いなく小学校教諭、あるいは幼稚園の先生辺りが向いているだろう。
「おはようございます、橘先輩」
部室の中に入ると、シンは室内を見渡した。広さは丁度六畳。床はうちっぱなしでテカテカのコンクリート。その上に小さめのテーブルが置かれ、数脚のボロい丸椅子が取り囲んでいる。壁際には大きめのスチール棚が一つ。そこには電子レンジと小型の液晶テレビが鎮座していた。
奥の壁の方に目をやって、シンはふぅ、と溜め息を吐いた。ここまでは貧乏な苦学生たちの棲家という様相だったのが、唐突にライトグリーンの高級そうなソファが視界に飛び込んでくる。この部室の床面積の優に四分の一は、そのソファが占めていた。横長で、ソファベッドとしても利用可能。というか、現にそのソファの上では、一人の女性がごろん、と横になっていた。
「宮屋敷先輩、おはようございます」
シンがそう声をかけると、ソファの上に仰向けに寝転がっている女性――宮屋敷コトハはうっすらを目を開けた。
「・・・ああ、その声は榊田君か」
「そうですよ。おはようございます」
うーん、と伸びをしてから、コトハは身体を起こさずにごろり、と横を向いた。グリーンのゆったりとしたセーターに、濃いブルーのタックスカート。縁なしの眼鏡には、長い黒髪が乱雑に覆いかぶさっている。その向こうにあるはずの挑戦的な釣り目は、今のところ開いているのか閉じているのかさっぱりわからなかった。
「今、ユイにコーヒーを淹れてもらおうとしているところだ。それを飲まないと、私は意識を保てそうになくてね」
ぶつぶつと喋っているコトハに向かって、シキが駆けだした。椅子もテーブルもすり抜けて、コトハのすぐ横に立つ。自分の髪の毛でぐちゃぐちゃになったコトハの顔を覗き込んで、シキはにっこりと微笑んだ。
「ああ、シキ、おはよう。相変わらず元気そうで何よりだ」
「シキの経過が見たいから毎日顔を出してほしいって言ったのは、宮屋敷先輩じゃないですか」
シンに言われて、コトハはしぶしぶという様子で上半身を起こした。顔を覆う髪を払って、ふわぁ、と大きくあくびをする。普通にしていれば、きりっとして知的な美女という印象だが、残念ながらもう手遅れだ。シンはすっかりコトハのだらしない日常を見慣れてしまっていた。
「しっかりしてください」
まだ半分夢見心地、という表情のコトハは、不機嫌そうなシンの顔を見てにやり、と人の悪い笑みを浮かべてみせた。
「わかったよ、パパ」
コトハの横で、シキがにこにことしている。シンはむっと眉根を寄せた。シキはシンの娘として生まれてくる魂。
そして同時に、コトハの娘として生まれてくる魂でもあった。
そもそもは、シンが今の部屋に越してきた時、目に見えないシキの存在に気が付いたところから始まった。何かの気配は感じるが、そこまで危険なものとも思えない。そう考えていたところで、シンは尖央大学魔法研究会に勧誘された。
「榊田君にはもともと魔法使いとしての素質があったんだよ」
魔法研究会は、こんな名前だが尖央大学に古くから存在する正式な部活だ。活動内容は児童館を対象にしたボランティアサークルとなっているが、その実態は本物の魔法使いの集まりだった。
「魔法使いの力は、放っておけば厄介ごとの種にもなる。その素質を持つ学生を早い段階で囲い込んで、相互監視していると思ってくれればいい」
その魔法研究会の現在の部長が、心理四年の宮屋敷コトハだった。
入学したばかりのシンにはあずかり知らないことだったが、心理四年の『魔女先輩』といえば変わり者の代名詞だった。その魔女先輩に目をつけられたということで、シンの方もすっかり珍獣のような扱いを受ける羽目となっていた。
「失礼しちゃうよね。別に誰かに迷惑をかけてるってわけでもないのに」
魔法研究会を訪れたシンは、コトハによって魔法使いとしての才能を開花させられた。コトハに言わせれば『栓』を外された。
結果として、シンはシキの存在を認識し、その姿を見ることができるようになった。シキが何者か、ということについても、コトハが色々と調べてくれたおかげで、おぼろげながら判ってきていた。
その内容は驚くべき、かつ解せないものだった。
「この子はね、榊田君。君の娘として産まれてくる魂なのだよ」
そこまでは理解した。いや、十分に突拍子もない出来事ではあったが、コトハによってシキと名付けられた少女の姿を見ていると、シンは不思議と心が落ち着いた。「娘である」と宣言されて、妙に納得できてしまった。
その次が問題だ。
「この子は、どうやら私の娘でもある。榊田君と私の間に産まれた娘、ということになるのかな」
シンは驚いて言葉を失った。その場にいたユイも、あまりの事実にぽかーんと口を開けたままだった。シキだけが、嬉しそうにシンとコトハの顔を見比べていた。シキのその反応を見る限り、間違いではないのだろう。実際、シキの黒髪や顔のつくりは、コトハのものと瓜二つだった。
大学に入って一ヶ月も経たずに、シンは産まれてくる前の自分の娘に出会った。更に続けて、その母親、つまり自分の妻になるかもしれない女性と出会ったことになる。順番も、何もかもがメチャクチャだった。
「未来は不確定なものだし、決まっていることなんて何もない。ただ、シキはその未来を確定させるためにやってきたと、そう考えるのが自然だね」
父親になる男に、自分の望む母親になる女を選ばせるため。
未来が、そうなるために過去に干渉してきた。
非常にややこしいし、とんでもないことだ。
「まあ深く考える必要はないよ。さっきも言ったけど、未来は不確定だ。しばらくはシキの様子を見てみようじゃないか」
そう語るコトハは、どこか楽しそうだった。
シキのことも気になるし、シンはそのまま魔法研究会に入部することにした。それも結局はシキの掌の上で踊らされているようで、今一つ納得しがたいものがあったが。
宮屋敷コトハが自分の妻になるかもしれない、という見立てには、実はシンは密かに胸がときめいていた。見た目、第一印象はきつい感じがするとはいえ、コトハは美人だし、スタイルも良い。それに。
その時はまだ、コトハがそこまでだらしない性格の持ち主だとは、シンには判っていなかった。さらに言えば、あまりにも目まぐるしく様々なことが起きていたので、その時は冷静な判断を下すことができていなかった。
詐欺のようなものだ。シンはそう考えていた。