無人駅
電車の音が聞こえた。
青い稲の揺れる田圃の向こうから、走り去る列車が見えた。音は徐々に遠ざかっていき、慧太郎が駅に着いたときには、電車は走り去った後だった。
日が高く、気が滅入りそうな天気だった。眼前には見渡す限りの青い水田が広がっている。その奥に山が連なり、澄んだ青空には入道雲が浮かんでいる。周りに民家はほとんどなく、人影もない。けれど、喧しく鳴く蝉の声が耳に張り付き、煩わしく思った。慧太郎は日陰を求めて、足を伸ばした。その無人駅は小さな屋根と、その下にいくつかの椅子があるだけの簡素なつくりだった。慧太郎が時刻表を確認すると、次の電車まで一時間は待たなければならないと分かり、逃げ場のない蒸し暑さに気持ちが沈んだ。
駅には先客がいた。白いブラウスに紺のスカートの女子高校生だった。日陰の下には、少ない椅子が並んでいるだけで、彼女の近くに座るしか場所がないらしい。
慧太郎は先客の様子をこっそりと見た。彼女は俯き、声を詰まらせ泣いていた。隣から聞こえてくる啜り泣く声が、遠くの蝉よりも慧太郎の耳に残った。慧太郎は左腕に巻いた腕時計を何度も確認するが、一向に針は進まない。時間は平等なのだ、と諭すかのようでもある。
慧太郎が背負っていたリュックをコンクリートの地面に置くと、その音に気付き、泣いていた彼女が一度慧太郎を見た。その後、彼女はすぐにまた顔を伏せた。慧太郎は何となく、気まずさを感じた。
慧太郎は流れ落ちてくる汗を拭った。昼に近づき、気温は上がっていた。リュックから飲みかけのペットボトルを引っ張り出す。そのとき、ポケットティッシュも一緒に取り出した。
緊張と暑さのせいか汗の量が増える。気まずさを押し込めて、慧太郎は声をかけた。
「あの、これどうぞ」
彼女はゆっくりと顔を上げると、不思議そうな表情をした。それから、泣き腫らした顔で「ありがとう」と言って受け取った。
彼女は涙を拭うと、口を開いた。
「……君、中学生?」
不意に訊かれた質問に慧太郎は一瞬、動揺した。
「そうです」
「平日の、この時間に、何で中学生が駅にいるの?」
彼女は訝しむように訊いてきた。慧太郎を睨む彼女の目は赤く充血していた。慧太郎は目を逸らして言った。
「休みでもない昼間に、どうして高校生が、駅にいるんですか?」
慧太郎がそう返すと、彼女は初めて表情を緩めた。涙を拭うと、口を開いた。
「私はサボり。君はもしかして、家出ってところかな」
詰め込みすぎて膨らんだリュックを指して、彼女は言った。慧太郎は自分のリュックを見て、ばつが悪そうな顔をした。
「そのリュック、ずいぶん物が入っているみたいだね」
彼女は、事実を確認するように言った。慧太郎は無言で頷いた。
「……ねえ、少し話してもいいかな。たぶん、電車が来るまでには時間があると思うの。この駅って、たいてい一時間に一本しか通らないから」
慧太郎は線路を見た。線路を囲むフェンスを覆うように、背の高い雑草が繁茂していた。
「はい、大丈夫です」
慧太郎は、色褪せた椅子のひとつに腰掛けた。
風が吹いて、田圃の稲が波打つように揺れた。整えられた圃場の中に、赤いトラクターが小さく見えた。遠くの蝉は、休みなく声を鳴らしている。
「ここって、とんでもない田舎よね。どこに行くにも遠いし、交通は不便だし。たまに、出て行きたくなるくらい」
「駅にも何もない」慧太郎は見回して言った。
「そう、コンビニの一つでもあればいいのに」
目に見えるのは、田圃と山だけだった。
「きっと近いうちに、ここは人がいなくなると思う。きれいに見える田圃も、ところどころ農家が辞めてしまった場所があるもの」
彼女は緑の景色を見つめながら言った。視線はそこにない風景を見ているようでもあった。
「私、ここで泣いていたの」彼女は、朝からずっと、と付け足して話し始めた。慧太郎は彼女の言葉に耳を傾けた。
「……ずっと想い続けてきた男を、他の女の子にとられたの」
夏の蝉も疲れたのか、それとも彼女の話が気になるのか、鳴くのを中断していた。
「もう一週間も経つんだけど、気持ちに整理がつかなくて。もしかしたら、整理なんてつけようがないのかもしれない」
彼女は小さく息を吐いた。
「彼は高校の、同級生だった」
彼、を強調するように彼女は言った。
「背が高くて、顔は恰好よくて、女の子に人気のある、悪い男だった。初めはちょっと興味があるだけだったけど、彼のことを知るうちに本気で考えるようになった。それこそ、今年に入ってからは毎日のように想っていたわ。どうすれば上手くいくのかをね」
彼女は自分の手を見つめ、思い出すように語った。
「授業中も、部活の時間も、どこかへ行く時も、彼のことばかり考えていた。何度も何度も頭の中でシミュレーションした。想像の彼は、私の思い通りにいくの。妄想するたびに気分が良かった」
夢見る少女のように、次々と言葉が溢れだす。
「でも」
と、彼女は言葉を切った。いつの間にか、彼女の目には涙が溜まっていた。
「先を越されたんだ。それも、私の親友だった子に」
彼女は泣くのを静かに堪えていた。慧太郎は彼女の苦しそうな表情を見た。間が開くと、蒸し暑さに汗が滲んだ。しばらくして、彼女の口が開いた。
「……その子と私は、小学校からの友人だった」
「長い付き合いですね」
「うん。中学も高校も同じで、毎日同じ電車に乗っていたの。その子のことを思うと、辛くて悲しくて、引き裂かれるような気持ちになる」
彼女の話を聞いていて、慧太郎も苦しい気分になった。
「彼女とは、一緒にいろんな話をした。面白い話も、詰まらない話も、悲しい話も……。それと、彼の話も。彼女と一緒だったから、彼のことを本気になったのかもしれない」
彼女は、ふう、と息を吐いた。喋るのに疲れたのか、置いていた鞄に手をかけた。
「あの子の趣味はお菓子作りで、二人で一緒にお菓子を作ったこともある。それから、彼にあげるお菓子はどれが一番効果的だろうか、って話で盛り上がったこともあった」
彼女は鞄から、水色の包みを取り出した。明るい色の袋はピンクのリボンで結ばれていた。
「お菓子はクッキーに決まってね。焼き上がってたんだ。彼女は上手だったけど、私は料理が苦手で何度も試行錯誤して、違和感の無いように何とかきれいな形に仕上げて」
彼女は、じりじりと日に焼かれる線路に視線を移した。
「せっかく作ったのに、渡すこともなくなっちゃったんだ。だから」
そう言って彼女は、手に持った包みを線路に投げ捨てた。落ちていくクッキーの包みの先に、白い入道雲が見えた。乾いた音を小さく響かせ、それは線路に落ちた。
「彼に渡すことはもうないから」
彼女のその言葉は空虚さを抱えていた。
慧太郎は何かを言おうとしたが、言葉が出てこなかった。どこからか飛んできた烏が、線路に落ちた袋に近づいて来ていた。興味深げに青い包みを突いている。
「どうしてこんなことになったんだろう」
彼女は力なく俯いた。
「私が悪かったのかな。彼に固執したから」
慧太郎は何かを言おうと思ったが、言葉が出なかった。
「親友と、もう今までみたいに話せないなんて、寂しいよ」
弱々しく言う彼女の目からは、涙が流れていた。零れ落ちた滴がコンクリートの地面を黒く濡らした。
彼女の独白が終わると、慧太郎は蒸し暑さに息が詰まりそうになった。隣を向くと、彼女の涙を吸い込んだ紙が、椅子の上にいくつか積み重なっていた。
「全部使っちゃった」
慧太郎の渡したポケットティッシュは、空になっていた。
「構わないですよ。どうせ無料で配っていたやつですから」
慧太郎は、俯く彼女に掛けるべき言葉を探した。
「あの、恋愛の話はよく分からないけれど、きっとまたチャンスはありますよ。人生いろいろな出会いがあるって、人が言ってました。何が最善かは分からないって。だから、一度の失恋くらいどうってことないと思うんです」
一生懸命元気づけるように、拙い言葉で慧太郎は言った。言いながら、山の上に佇む雲を見ていた。相手の顔を真っ直ぐに見るのが、少し恥ずかしいと思えたからだった。大きな入道雲は形が変わっていた。後押しするように蝉の声も力強く空を包んだ。
気付けば、彼女の嗚咽は止まっていた。ゆっくりと彼女が慧太郎のほうを向く。俯いているため、表情はよく見えなかったが、暗い眼差しが覗いていた。湿度の高い空気を吸いこんで、彼女は口を開いた。
「君は、何を言っているの?」
冷たく、渇いた声だった。
「え」
慧太郎は一瞬、何が起きたのか分からなかった。自分が何か間違ったことを言ったのだろうかと、不安になった。彼女の目は虚ろで、どこか遠くを見ているようだった。
「私は、失恋の話なんてしてない」
彼女は当然のことのように言った。慧太郎はこれまでの会話を思い返すが、話が繋がらなかった。いつの間にか、蝉は鳴き止んでいた。慧太郎は足場がなくなるような、底知れぬ不安を感じた。
「……私と親友はずっと、彼を殺す方法を考えていたの」
彼女の声は淡々としていた。慧太郎は暑さとは別に、汗が出てくるのを感じた。
不意に線路の烏が慧太郎の目に入った。烏は痙攣したような動きをして、不自然な恰好で倒れていた。食い破られたクッキーの袋を見て、慧太郎は凍りついたように動けなくなった。
「彼女は一人で計画を実行したの。私に内緒で」
ゆっくりと苦みが口の中に広がるように、理解し始めていた。慧太郎は今までの会話を鮮明に思い出していた。
「ねえ、私のこの想いはどうすればいいの?彼をこの手で殺してやりたかった!」
慧太郎は、弱り死んでいく線路の烏から目が離せなかった。
「最初の予定とは少し違ったけど。彼女は、彼を線路に押し出して、轢き殺した」
彼の死を思い出してか、彼女は泣き顔に小さく笑みを浮かべた。けれど、すぐに表情は険しく歪んだ。
「彼女とは離れたくなかった!ずっと一緒だって、約束してた」
彼女の中で、様々な感情が渦巻いていた。それは絞り出すような悲痛な叫びとなって、慧太郎の耳に届いた。
「なのに、私を事件に巻き込まないために、彼女は一人で捕まって……」
彼女は失った半身を求めるように泣きじゃくった。どこへも向うことのできない思いが、渇いた地面を濡らし続けている。彼女の泣き声だけが、無人駅に響いていた。蝉の声はもう聞こえなかった。
止まった時間を壊すように、電車の音が聞こえた。