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2-3 欲せよ、然すれば与えられん(ぬ)(その3)


 パキリ。火に焼べられた薪が音を立てた。割れた木から火の粉が舞い上がり、一瞬だけ焚き火の炎が大きく空へ伸びる。しかしそれも刹那の事。すぐに元の大きさへと還っていく。焼き折れた薪はそのままゆっくりと身を炎の中へ深く沈めていき、やがて他の薪と同じ様に炭と化した。

 暗い夜空が薄く照らされている。街灯など無い夜空には無数の星々が煌き、上弦の月が笑顔を浮かべて見下ろしている。月の下では数人の男達が車座になって火を囲んでいる。食事を終えて酒を飲んでいるせいか、男が一人立ち上がってフラフラと覚束ない足取りで何かしらの仕草を行うと、それを見た残りの数人がゲラゲラと笑って、あるいは罵るような大声が聞こえてくるがそこに悪意は無く、陽気な雰囲気が尚更男達を楽しく酔わせていた。

 また一本、焼べられた枝が音を立てた。その音の元をトモキは一瞥し、すぐに視線を元に戻す。そして眼を薄く細めて楽しそうに歓声を上げる武装したままの男達の宴席を眺めた。

 陽気な場所から離れ、トモキは一人で絵を描いていた。笑い転げる男達の姿を、楽し気な空気と共に白い画用紙に浮かび上がらせる。握るのは一本の鉛筆。色は黒のみだが力加減と鉛筆の角度を巧みに操る。もう一箇所焚き火を囲んだ集団があり、そちらからも笑い声が上がっているが、集中しているトモキの耳には入らない。熱気は十分、だが光源としては心許ない焚き火の傍でトモキは薄暗さを気にせず、一心に目に映る景色を紙の上に描き続けた。


「ほほう、中々の腕ですな。もしかするとそれなりに名のある絵描きでしたか?」


 背後から声を掛けられてトモキは手を止めた。振り返ればニコラウスが人の良さそうな笑みを浮かべ、両手に持ったカップからは湯気が暖か気に立ち昇っていた。


「そんな……とんでもないです。単なる趣味で描いてるだけですから」

「いやいや、そんな謙遜される必要はありませんよ? こう見えても絵はそれなりに造詣が深い自信がありましてな。今の腕前でも十分買い手が付く程だと思いますが、このまま描き続けていればいずれは歴史に名を残す程の画家になれますぞ、きっと」

「はは、ありがとうございます。あ、そうだ。この紙と鉛筆も頂いちゃって、それにご飯まで御馳走してもらって何から何まで本当にありがとうございます。本当に何て御礼を言っていいか……」

「なんのなんの。紙の一枚や二枚大したことはありませんよ。むしろ立派な絵を描かれている様を見させて頂いてこちらの方が申し訳ないくらいです。ああ、そうそう。我がルドルフ家が代々行商のお供にしている香草茶です。お口に合うかは分かりませんが、宜しければどうぞ。旅の疲れが取れますぞ?」


 トモキを煽てながらニコラウスはトモキにカップの一方を差し出した。トモキは傍らに置いた制服の上着の上に紙と鉛筆を置くと、未だ冷えが残る両手でカップを抱えてそっと中身を啜る。最初、その熱さに思わず顔を顰めたが、改めて口に含むと口内に広がる芳醇な香りに感嘆の声を上げた。


「おいしい……!」

「ほっほ、気に入って頂けた様ですな」


 熱さ故に一気に、とはいかないまでもトモキは茶をどんどん飲み干していく。見知らぬ人間の間に佇む、森の中に居た時とはまた異なる緊張が体を支配していたのだが、喉をうっすらと焼く熱と優しい香りが、トモキの強張りを解していった。そんな様子のトモキを見て、ニコラウスもまた嬉しそうに眦の皺を深くして顔を綻ばせていた。


「――さて、落ち着かれたところで、差し支えなければ事情を聞かせて頂いても宜しいですかな? もちろんトモキさんが何処かで街から追われる様な事をしたとも思えませんが、明日には街に入る以上、私としても人員の素性くらいは知っておかなければ門兵に説明できませんので」


 移動しながら素性を聞く、という話でトモキを馬車――とはいっても馬は居らず、荷車を引いているのは魔素を利用した小型の低空飛行機であったが――に乗せたニコラウスだったが、トモキが満足に歩けない程疲弊しているのを見て取ると、すぐに野営をすることを決めた。自分のせいで旅程を変更させるのは申し訳ない、自分は大丈夫だ、と強弁するトモキだったが、そんなトモキをニコラウスは穏やかに宥め、早々に野営できる拓けた場所を確保すると、旅慣れた行商人らしく護衛に雇った兵たちに指示して火起しや食事といった準備を進め、トモキの事情はまた後ほど、となっていた。


「分かりました。勿論構いませんが……」


 そこまで言ってトモキは口籠った。

 トモキとてニコラウスから求められれば話すのは吝かでは無い。短い時間の中で数えきれない程の恩を受けた相手であるし、行商人であれば元の世界へと戻る為の情報を何かしら持っているかもしれない。だが、果たして上手く話が伝わるだろうか、と礑と疑問が浮かんだ。

 特異点、と言うのはトモキの世界での通称だ。原理も何も分かっていないブラックボックスだが、この世界にも――まだ異世界だと決まった訳ではないが――それは認識されているのだろうか。ここの認識が無く、異なる世界という概念が無いならば説明の仕方を変えなければならない。


「あくまで差し支えなければ、ですから。もし話したく無い事であるなら無理強いはしませんよ」

「あ、いえ、そういう訳じゃ無いんです。ただ、どう説明していいのか、と思いまして」

 果たして、トモキは有りの侭を話す事にした。どうやら自分はこことは異なる世界に居て、黒い孔に落ちた。気がついたら森の奥に居て、魔獣に襲われながらも人里を探して何とか街道に出ることができた。会話が得意では無いトモキは、こういった事を時折言葉に詰まりながらも、一つ一つ丁寧に説明していった。それをニコラウスは口を挟むでも無く黙って、時に相槌を打ちながら最後までトモキの話を神妙な様子で聞いていた。


「――というところでニコラウスさんに助けてもらったんです」

「なるほどなるほど。いやはや、大変な出来事に巻き込まれてしまったようですな」


 そう言ってニコラウスはトモキに同情するかの様に眉根を寄せて俯き、話している間に冷めてしまった茶を一気に飲み干した。つられてトモキもカップを見遣り、話し続けたせいで乾きを覚えた喉を潤すべく、ゆっくりと喉の奥へ流し込んでいった。


「そうですか、トモキさんは『迷人』でしたか。なるほど、道理で服装に見覚えが無いわけですな」

「メイジン?」

「左様です。極稀にですが、トモキさんの様に何処から来られたのか分からない不思議な方が現れるそうです。私も直接お会いした事は無いのですが、此方のものとは似て非なる言葉を使い、常識的な事も慣習も全く知らないとの事で、その、皆さん随分と苦労なさったとか。発見された時にどなたもひどく戸惑った様子で、まるで迷子の様に狼狽えていたことから『迷人』と呼ばれる様になったと聞いています。私も聞き齧っただけですので正確な由来は存じませんがね」


 メイジン、とトモキはもう一度口に出して反芻した。言葉の響きはいまいちしっくりとは来ないが、なるほど、確かに迷子だと得心した。空腹も満たされ、落ち着いた気持ちでこの世界に放り出された直後を思い返してみれば、ニコラウスの言う通り戸惑い、狼狽えてばかりだった。判断に迷い、常に不安な心持ちでいてとても辛い時間だった。振り返っての出来事を思えば、こうして早々にニコラウスに出会えたのはひどく幸運だった、とトモキは思わずには居られなかった。


「それにしても送り出されたのが不還(かえらず)の森とは……良くぞ無事にお戻りになれましたね」

「不還の森?」

「お前が出て来たっていうあの森の俗称だよ」


 ニコラウスとは逆側からぶっきらぼうな声が聞こえた。そちらを振り返れば、最初にトモキに向かって剣を向けてきた男が不機嫌そうに立っていた。


「おや、アルフォンス君。見回りは交代ですかな?」


 ニコラウスが男――アルフォンスに声を掛けるが、アルフォンスは返事もせずに手に持っていたコップに酒を注ぎ、一気に呷る。そして深く息を吐き出したかと思えば、づかづかとトモキの横にやってきてドカ、という擬音が聞こえてきそうな勢いで座る。その剣幕にトモキは何を言われるのか、と体を震わせて座ったまま少し後退るが、アルフォンスは腰に引っ掛けていた別のコップに酒を注ぐとズイ、とトモキに向かって差し出した。


「え、あ、あの、僕はお酒は……」

「ああ?」


 生まれてこの方、まともに酒を飲んだことの無いトモキは手をワタワタと振って断ろうとするが、次の瞬間には剣を向けられた時と同じく剣呑な視線で睨みつけられて体を小さくする。勢いに圧されるがままにおずおずと手を伸ばしてコップを受け取ってみるも、どうしたものかと左右に視線を彷徨わせる。だが、ニコラウスはニコニコと笑顔を向けるだけで、アルフォンスはと言えば、先ほど飲み干したばかりだと言うのに再びコップに波々注いで不機嫌そうな面持ちで飲み干していた。

 トモキは困った様にコップの中の酒とアルフォンスの姿を見比べていたが、意を決して一気に杯を傾けた。口の中に広がるアルコールの匂い。強烈な熱が舌を、喉を焼いていく。噎せ返る様な濃厚な味にトモキは頭がクラクラと揺れるのを感じた。しかし酒が喉を通り過ぎていった瞬間、それまでが嘘であったかの様に芳醇な香りが鼻を抜けていった。


「凄い……美味しいです、これ」

「当ったり前だろ。俺が持ってる中で一番良い酒なんだからな。

 ……ともかく、同じ酒を飲んだんだ。これで俺とお前は知らない中じゃなくなったわけだ」

「はあ」


 仏頂面のままそう告げて杯を重ねるアルフォンス。だが何処か表情が柔らかくなった様にも感じる。アルフォンスは自分が飲みながらもトモキに向かっても飲むよう促し、コップの中が減ればすぐに酒を注いでやる。トモキはチビチビと飲みながらもアルフォンスが何を言いたいのか、いまいち要領を得ずに困惑して生返事をするだけだったが、隣のニコラウスが耳打ちする。


「ふふふ、アルフォンス君は、どうやらトモキさんと仲直りしたいようですよ」

「えっ?」

「おっさん!!」


 アルフォンスが怒鳴り声を上げるが時既に遅し。トモキはポカンと口を開けてアルフォンスの方を振り向き、その表情を見たアルフォンスはトモキから視線を外してポリポリと頭を掻いた。


「あー、なんだ、その……昔っから親父には『もし出会ったならば迷人には親切にしてやれ』って耳にタコが出来るほど言われててな。それで……お前が迷人だって知らなかったとは言え、仕事上しょうがねぇっつったらしょうがねぇけど、剣を向けちまったし、まあ、そのだな、申し訳ないっつうか……」

「職業精神以上のものも混じってたようにも見えましたが」

「おっさんは黙ってろよ。

 それで、だ。俺も親父に一人前と認めてもらいたいだとか、盗賊の襲撃も無くて実力を皆に示す機会が無かったりだとかで焦ってたりしててだな……あー、まあそれで済むような問題じゃねぇっていうのは分かってんだが、その酒は俺の秘蔵の逸品でな。だからアレだ、その、これで今日の一件は水に流しちゃくれねぇだろうか……?」


 言葉に詰まりながらもそう言い切り、最後には意を決した様にトモキに向かって「スマン」と勢い良く頭を下げた。

 その姿を見て、尚もトモキは戸惑い続けた。魔技高に入学して以来、悪意を向けられるのが日常だった。虐められ、誰もが侮り、謝罪の言葉など一年以上学校に所属して終ぞ聞いた事など無かった。そも、あの特殊な環境下では誰も悪いなどと思っても居なかっただろう。トモキが魔術を使えないと判明して以来、誰もトモキに歩み寄ろうなどとした事は無かった。

 だがこの世界に飛ばされ、最初に出会った人物に頭を下げられた。出会いが悪かったとは言え、自らの非を認め、目の前のアルフォンスの姿からは心のこもった謝罪であること十二分に伝わってくる。


(そうだ、ここは僕が居た場所とは違うんだ)


 理不尽に貶められる事も、無意味に辱められる事も無い。「一人の人間」として尊重される、そんな当たり前の扱いを感じ取り、暖かい想いが胸に込み上げてくる。自然とトモキの表情も綻んだ。


「頭を上げてください、アルフォンスさん。もう過ぎた事ですし、馬車の前に飛び出して、キチンと説明できなかった僕も悪かったんですから。だから僕の方からも謝ります。御免なさい。そして謝罪してくださって、ありがとうございます」


 アルフォンスに向き直り、トモキは深々と頭を下げた。そして今度はニコラウスにも向き直り、「ご迷惑をお掛けして御免なさい」ともう一度頭を下げた。

 謝ったはずが逆に謝られる。そんな事態は想定範囲外だったアルフォンスは、自分に向かって頭を下げたトモキの姿を唖然とした様子で見ていた。だが、トモキを挟んで反対側から愉快そうな笑い声が聞こえ、そこでようやくアルフォンスも我に返った。


「ハッハッハッハ! これはこれは。いやはや、どうも私が助けた相手は思った以上に大物みたいですな。いや、これは愉快愉快。

 トモキさんもどうぞ頭を上げてください。トモキさんの謝罪、しっかりと受け取りましたよ。アルフォンス君も、ねぇ?」


 心底楽しい。そんな様子のニコラウスに改めてアルフォンスも呆気に取られたが、何とか気持ちを持ち直し、そして頭を下げるトモキの頭頂部をマジマジと見つめた。


「なんつーか……お前、馬鹿だな」

「えっ!? あ、す、すいません! また変な事してしまいました?」

「いや、いいんだ。こっちこそ変な事言ったな。すまん。

 それよりも、だ」ガシガシと音が出そうな強さで自分の髪を掻き、アルフォンスは話題を転換した。「不還の森に居たんだって? 迷人として迷い込んだ先がンな場所なんてつくづく運がねー奴だな」

「あっと、すみません、その不還の森ってなんですか?」

「さっきも言った通りお前が出てきたあの森の事だよ。森の浅い所だと滅多に危険はねぇんだけど、何しろ半端無く広い森でな。おまけにちょっと深くまで行くと陽が射さねぇのと生い茂った木々のせいで森に慣れた人間でもすぐに方向感覚を失っちまうんだ。運が良ければまた戻って来れるんだが、何せアテナ聖王国とベネディスク獣皇国の国境を広く跨ぐ形で森が分布してるからな。間違って南北方向に進んでしまったら徒歩だと何ヶ月掛かるか分かったもんじゃねぇ」

「おまけに、森深くは王種猪獅子(グレートダイナボア)古代大鷲(エンシャントイーグル)などの凶悪な魔獣が住み着いていて、地上も空もまともに通行なんて出来ません。なので昔から開発もされずに、万が一そんな場所に一度脚を踏み入れてしまえば二度と外には出られない。そう言った事情から通称『不還の森』と呼ばれているのですよ。ですのでトモキさんが王種猪獅子を倒したと聞いて本当に驚きましたよ」

「はぁ!? お前アイツを倒したの!? 独りでか!?」


 突如アルフォンスが大声を上げてトモキに迫る。トモキの目の前にニュウと顔が現れ、肩を掴んでトモキを揺さぶった。


「え、ええ……偶然みたいなものですけど」

「ンな偶然なんかで王種猪獅子を倒せっかよ。アイツの皮は滅茶苦茶分厚くて、並の剣なら全く歯が立たねぇんだぞ!」

「ふむ……でしたらトモキさんの剣は相当な業物かもしれませんね。少し拝見させて頂いても?」

「はい、別に構いませんよ」


 他ならぬニコラウスの頼みだ。トモキは特に躊躇うことなく傍らに置いた鞘から剣を抜き出し、ニコラウスに手渡した。ニコラウスは軽く礼を述べて、両刃剣を舐める様に見回していく。ポケットから小さな照明を取り出して光を当てたり、剣の腹を指先で軽く叩いてみたりと一通り鑑定の様な仕草を繰り返し、満足したニコラウスはトモキに返した。


「中々の物の様ですが、私がこれまで扱ってきた名剣と比べると特に素晴らしい、という程でも無さそうですね。あ、いえ、十分のそこらの数打ちと比べれば素晴らしいのですが」

「それはそうですよ。あくまで学生向けの剣ですから」

「なるほど。でしたらトモキさんの居らっしゃった場所は、ここらと比べても随分と技術が発展しているのですね。もし輸入できれば商売のチャンスが増えます。自由に行き来できるのであれば是非とも行ってみたいものですが」

「あの、一つ聞いてみてもいいですか?」


 トモキが尋ね、ニコラウスは「何でしょう?」と応じた。トモキは疑問を口にするのを一瞬迷ったが、一縷の望みを託してニコラウスに問いかけた。


「さっきアテナ聖王国とベネディスク獣皇国って名前が出てきましたけど、それって国の名前ですよね? この世界に『日本』って国は無いんでしょうか? もしかしたら『ジャパン』や『ヤパン』だとかそういう呼ばれ方をしてるかもしれないですけど。アルフォンスさんも何か知りませんか?」

「んー……わりぃけど俺は聞いた事はねぇな。おっさんはどうだ?」

「そうですねぇ……」ニコラウスは顎を撫でると、懐から手帳を取り出して捲り、最後の方のページを開くとトモキに向かって差し出した。「これは世界地図ですけれど、どうでしょう? トモキさんの居た国はありますか?」


 緊張の面持ちでトモキは地図を覗きこむ。地図の中心にあるのは巨大な大陸の端で、そこから東に向かって広大な陸地が広がっていた。対して西側はあまり大きくなく、一方で南側にはまた別の巨大な大陸があった。西には海が広がっていて、海を渡れば南北に細長い大陸が海を二分するかのように描かれている。


「ここがアテナでこちら側がベネディスク。今私達が居るこの場所はちょうどその国境付近になります」


 ニコラウスが指で地図をなぞりながらトモキに説明をしていく。


(東はアジアで、西の大陸はアメリカ大陸。だとすればここはヨーロッパに相当する位置なんだけれど……)


 世界の構成は全体的にはトモキの知るものと似通っていた。だが陸地と海の比率や海岸線の形は全く異なっており、地球にはあった幾つかの島国は無い。そして、日本の位置にはただ太平洋に相当するような広大な海が広がっているだけだった。

 トモキは一度眼を閉じて天を仰ぐと、無言で首を横に振った。

 辛い現実だった。これまで微かではあるが希望を持っていた。同じ世界に居て、ただ遠くの場所に飛ばされただけだったのではないか。願望に近い想いではあったが、ニコラウスが小型の魔素低空飛行機で荷馬車を引いていた事から期待は高まっていた。もしかしたら、という疼きは燻りから種火へと変わっていた。だがそれが裏切られた気分をトモキは痛感していた。


「そうでしたか……」


 消沈するトモキに引きずられる様に空気が重苦しいものへと変化する。

 傭兵でもあり冒険者であるアルフォンスにとって故郷や家族、仲間というものは特別だ。仕事柄、故郷を離れる事は多く、数ヶ月に渡って護衛などの仕事をしていると、ある夜にふと仲間の顔が懐かしく思い出す時がある。郷愁の念に駆られ、声を聞きたくなる事だってある。そして同時に、そんな風に思えるほどに思い入れの強い故郷だからこそ危機に陥った時などのここ一番で踏ん張れる事もある。

 そんな故郷を突如失ったトモキの心情は如何ばかりか。アルフォンスは沈痛な面持ちを浮かべてトモキを慮った。だが、トモキの世界がどういった場所かは想像が出来ないが、ここは迷人がそんな心痛を抱えたまま過ごせる様な優しい場所では無い。そして、辛いままの眼差しでこの、トモキにとっては新しい世界を見てほしくない。

 アルフォンスは、突として顔を上げると思いっきりトモキの背中を叩いた。


「まあ……何だ! 酒でも飲んで元気だせよ! ほら、グイッといけ! グイッと!」


 強引にトモキの肩を抱き寄せると、自分のコップの中に入っていた酒をトモキの口元へ持っていき、半ば強引に飲み干させる。当然トモキは慣れない一気飲みに噎せ返り、一頻り喉を焼く熱に咳き込みながら恨みがましくアルフォンスに向かって口を尖らせた。

 だがアルフォンスはトモキの頭を力強く掻き毟るように撫でた。


「お前が居た場所ってぇのがどんだけいい場所だったかは知らねぇけど、ここらだってそんなワリィもんじゃねぇさ。それに、迷人だからって元の場所に戻れねぇって決まったわけじゃねぇんだ。きっと何とかなる。だからよ、そんな湿気た顔すんな」


 そう言って、尚も反論しようとするトモキを黙らせる様にもう一杯強引に流し込んでいく。そして何とか飲み終えるとまたすぐに波々に注ぎ、また強引に飲み干させる。

 トモキは飲酒の経験が殆ど無い。故に杯を重ねるに連れて顔が徐々に赤くなっていく。その様を見てアルフォンスは腹を抱えて笑い声を上げた。

 アルコールが頭に回っていき、トモキの視界も少しずつ揺々と揺れ始める。ついさっきまで落胆し、重かった心と頭を擡げてみれば眼の前で笑い転げるアルフォンス。ふわふわとした感覚と、馬鹿みたいに酒を飲みながら楽しそうにしているアルフォンスを見ていると、何だかトモキも全ての悩みがどうでもいいものであるかの様に思えてきた。


「明日は明日の風が吹く。お前の明日も何とかなるさ。だからお前も笑え」


 トモキと同じく酒が回ってきたのか、アルフォンスも顔を赤くして何度もトモキの肩を強く叩く。叩く回数が三度を数えた時、悪戯心が芽生えたトモキが体の位置を少しずらすと、思い切り振り抜いたアルフォンスが空振り、そのままバランスを崩してトモキ諸共押し倒した。


「ぷ……くく、はははははははははははははっ!!」


 くだらない。普段ならトモキはそう内心で吐き捨てていただろう。なのに、トモキは楽しかった。理由など理解らない。ただ楽しかった。何故だか嬉しかった。これまで酒に酔った大人の姿を横目で冷たく流していたが、なるほど、悪くないものだと得心した。

 空では弧を描いて月が笑っていた。その空は、トモキの居た場所で見たものと同じだった。

 夜空に、どこまでも二人の底抜けの笑い声が響いていった。




お読み頂きありがとうございました。

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次回の投稿は11/15頃を予定しています。

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