2-2 欲せよ、然すれば与えられん(ぬ)(その2)
一回くらいランキングに載ってみたい
暗い森に曙光が射し込んだ。木陰で雨宿りしていた小鳥たちが夜明けを知って一斉に飛び立つ。囀りが静寂を破り、新たな一日の始まりを告げていく。森の中で体を休めていた獣たちもまた光と共に動き出し、一方で夜を活動の場としていた者達は安息を求めて銘々の塒へと帰っていく。
飛び立つ鳥達によって新緑の葉が揺れた。十分な瑞々しさを持ったそれから雫が次々と落ちていき、前夜に降った雨によって出来た溜りに溶け込む。小さな衝撃は水面に波紋を広げ、反射する朝日を奇妙に震わせた。
落ちていく雫達。その一つがトモキの顔に落ち、刺激を伝える。鋭い冷たさにトモキは泥で汚れた顔を顰め、そして瞳を焼く眩さに固く瞼を閉じる。だが意識は覚醒に向かい、トモキの思考も胡乱なものから整流されていく。
「あっ!」
声を上げてトモキは跳ね起きた。支えを失ったバネの様に弾け、濡れた前髪からは汚れた滴がトモキの顔を流れ落ちる。定まらない焦点が点で交わり視界が明瞭へと化していく。
日常とは異なる森の中。局所的に木漏れ日が差し込んできてはいるものの全体として辺りは暗い。どうして、と呟きが青ざめた唇から零れ落ちたと同時。
「ひっ!」
ふと傍らを見遣れば、巨大な猪獅子が横たわっていた。それを見たトモキは小さく悲鳴を上げ、尻を引きずって後退る。そして昨日の出来事が鮮烈な記憶の残滓となって蘇ってくる。
「そうだった……」
固く握られたままの剣を見ながらトモキは呟いた。意識して柄を握る手の力を緩めると、するりと剣が抜け落ちていく。微かに乾いた泥の残る右腕を顔に近づけ、鼻を動かす。臭いはもう殆ど残っていなかった。だが自分が動物の命を奪ったという事実は、猪獅子がそうであるのと同じく動かない。
顔を滑り落ちていく鮮血。あの感触ははっきりと覚えている。ヌルリとした粘着質と熱の感触だ。小さな羽虫などに対してはこれまでも命をたくさん奪ってきたが、命というものをあそこまで鮮烈に感じた事は今まで無かった。血が、あそこまで重いという事に気づけなかった。
次々に記憶が蘇っていく。恐怖と渇望。感情を伴ったその奔流の中でトモキは貫く様な頭痛を感じ、頭を振った。
「これ以上、考えるのは止めよう……」
思い出せば出すほど気分はひどく陰鬱になる。前に進めなくなる。猪獅子から眼を逸して立ち上がる。地面に寝ていたからか節々が痛む。疲れが残っているのか、それとも体調を崩してしまったか体がフラつき、木に手を突いた。
雨に打たれ、全身ずぶ濡れのまま寝たのだ。体調を崩すのも当たり前か、と熱っぽさを感じる頭でそう自嘲し、目元に掛かる前髪を掻き上げた。水溜りの中に転がる剣を拾い上げ、肺腑の中の濁りきった空気を大きく吐き出す。
「どうしようか……」
一晩が経過してもトモキが独りである状況は変わらなかった。ユウヤの姿は結局は無く、聞いた足音にしてもこの猪獅子のものでしかなかった。右腕をつかむ左手に力が篭もる。不安だがトモキはこれからの方針を自らで決めなければならなかった。
ユウヤを探してこの森の中を彷徨うか、それとも森を抜ける事を第一目的とするべきか。心の叫ぶ声に耳を傾ければ、ユウヤを探し出したい。独りで考え、独りで決めるよりも誰かと相談しながら決めたい。物理的に独りと言う状況はトモキにとって慣れておらず、それ故に心が落ち着かない。もし自分の判断が間違っていたら、と考えると、その先は想像しただけで身震いがする。自分とは異なる考えを持つ誰かが傍に居て欲しいと切に思う。
しかし、その為に宛ても無く広い森を探しまわるのも馬鹿げた話だ、と冷静な部分が囁く。森の中にユウヤが居る、という確証があるのならばそれも選べるかもしれないが、居る「かもしれない」という不確定でかつ可能性の低い願望に縋るにはトモキの状態は十分ではない。まずは生きなければ。昨夜、願ったように。
頭痛に苛まれながらトモキは悩み、たっぷり十分程迷った末にトモキは選んだ。
「……ひとまずは森を出よう。ここは危険だ」
あの猪獅子みたいな魔獣が他にも居るかもしれない。居ないと考えるのは森の雰囲気が許さず、またトモキもそこまで楽観的ではない。ユウヤも独りで居るかもしれない。もしくは魔物と戦っているかもしれないと思うと心が軋む想いだが、同時にユウヤなら何とかなっているんじゃないかと思った。彼が途方に暮れている姿が想像できない。彼は自分とは違うのだから、と。
とりあえずは、と薄日が射し込む方へと進む事にした。出口がどれほど遠いかは分からないが、太陽が見える以上、いつかは森にも終わりがあるはずだ。しかし――
「重いな……」
自分の事とは言え、何かを自分独りで決めるというのはとてもエネルギーを使うものなんだな、と空を仰ぎながら息を吐き出した。
泥濘の中をトモキは進む。濡れた靴と纏わり付く泥のせいで一歩がひどく重いが、進まなければ。一歩、また一歩と踏みしめていく内にいつしか泥道も歩き慣れていく。トモキは森の外へと歩いて行き、気づかぬ内に猪獅子からは遠くなっていた。
そしてトモキの姿が見えなくなり、森の中の風景に溶け切った頃、どこからともなく新たな魔物の群れが現れる。虎とも豹ともつかない姿の四脚の魔物達は猪獅子の傍に警戒しながら近づき、やがて息絶えている事を確認するとその身に齧り付く。最初の一匹を皮切りにしてその他の個体も次々に喰らいついていき、山にも思えた体を喰らい尽くしていく。身が小さくなり、虎達の胃が満たされる。分厚い肉体が骨へと変貌していく。そしてその虎達の上空では翼を大きく広げた鳥獣達もまた獲物を見定めていた。
想像以上に深い。
それが、歩きながらトモキが何度も思い浮かべたフレーズだ。そしてまた同じフレーズが頭を過り、自分の頭がまともに働いていない事を不意に自覚させられ、苛立たせる。額から流れ落ちた汗が眼に入り、トモキは乱暴に目元を拭って指先に乗ったそれを焦りと共に打ち捨てた。
どれくらい経ったのだろうか。
トモキは腕時計を見遣った。アナログのそれは、だが秒針が常に同じ場所を指し続けており本来の役目を果たせていない。しかし猪獅子の元を去ってすでに相当な時間が過ぎ去っているだろう事は分かる。朝に目を焼いた光は、すでに南中を越え、新緑の葉の隙間を縫って射し込む光はかなり赤くなってきていた。
「……少し休もう」
手頃な木を見繕うとトモキは歩き始めて何度目か分からない休息の為に腰を下ろす。そして両手を使って脚を揉み解し、眼を閉じて空を見上げると落胆の篭った溜息を吐いた。
トモキの疲労は限界に近づいていた。肉体的にも精神的にも辛いものがあり、トモキの青白い顔色にも如実に現れている。それには、この世界に飛ばされてからまともな栄養補給を出来ていない事も要因の一つであった。
人が生きる上で心身両面の意味から食事は重要であるが、魔術師にとっては通常の人間よりも栄養補給は重要な役割を為す。魔術師は生きるだけで一般的な人よりも数倍の栄養を必要とし、エネルギーを摂取できなければ活動がすぐに困難になってしまう。魔術を使えないトモキも例外では無く、今も座っているだけであるのに目眩が止まらない。周囲は汗ばむくらいに暑いのに、体の芯は冷えきっていて大地から力を根刮ぎ奪い取られているかの様な感覚を覚えていた。明らかな体の不調が、見知らぬ場所で独り彷徨っている心理的不安を更に強めていた。
(今度こそ……死んじゃうのかな……?)
眼を閉じ、暗闇の中でトモキは呟いた。
猪獅子に追われた時も本気で死を覚悟したが、あの時とは違う。あの時は目に見える脅威があった。襲い掛かってくる死が目の前にあった。気を一瞬でも抜けば終わってしまう、そんな緊張があり、抗うべき相手が、理不尽が形取ってそこにはあった。
だが今はどうか。空腹、乾き。それから逃げることはできず、抵抗する実体が無い。何に憤ればいいのか分からず、誰に苛立ちをぶつければいいのか、それが分からない。ジワジワと真綿で首を絞められるかの様にゆっくりと、だが確実に死をもたらしてくる。孤独な死を見せびらかせながら、しかし決して一足飛びにはやってこず恐怖を煽ってくる。
閉じていた眼を開けた。見上げた樹木には葉が茂るばかりで食料となりそうな実は見当たらない。少し顔を気怠げに動かして他の木も見てみるが、同じ樹木が並ぶばかりで変わり映えがしない。
トモキは眼を閉じ、クシャリと顔を歪めた。そして膝を抱え込み、膝頭に顔を押し付けると同時に涙が溢れてきた。
「誰か……助けてよっ……」
一体僕が何をしたというのか。出来る限り真面目に生きて、父と母を愛し、悪い事なんてした事は無い。今の自分が置かれている状況が罰だとすれば、何に対する罰だというのか。
(さっさと消えてくれりゃいいのになぁ)
憎い声が頭の中を駆け巡る。消えればいい、消えてくれと何度聞いただろうか。幾度存在を否定されただろうか。
生きるのが罪か。こうしてただ生きているその事が罪だというのか。その罰だと、言うのだろうか。
(ふざけるな……!)
トモキの中に火が灯った。憤怒の炎だ。力が入らない腕に無理やり力が込められ、固く拳が握りこまれる。涙に濡れた眦が吊り上がり、ヘラヘラと嗤って自分を見下していた級友の姿を目の前に幻視する。
(あいつが、あいつが居なければ……)
こんな世界に飛ばされなかった。こんなに辛い思いをしなかった。秋山ショウが逃げるのを邪魔しなければ、逃げ切れたのに。
(あの男は、僕を殺そうとした。
嗤って――僕を殺そうとした)
だが生き残った。幸か不幸か、こんな場所で生き残ってしまった。独りになった。それでも生きている。
(ならば――)
――今度は僕が……
そこまで考えてトモキは我に返った。そして、自分の思考を振り返り、慄然とした。
今、自分は何を考えていたのか。自分の手を見下ろす。手は震えていて、しかし固く握りこまれたまま、握り込まれた先から血が滲んで赤く汚れていた。
(切り裂いた、生きた肉の手触りは気持ち良かっただろう?)
笑う少年の声が耳の奥で木霊した。昨夜は否定した。だが、今は否定できなかった。あれだけ昨日は命を奪う事に衝撃を受け、忌避したというのに、またこうして誰かの命を奪う事を望んでしまった自分が居る。
(それが君の本性だ)
もう一度少年の言葉が頭に響いた。そんな事は、無い。否定しながらトモキは、血で汚れるのも構わず顔を両手で覆った。
「……行こう」
トモキはふらつきながら立ち上がった。動いていなければ恐ろしい思考が自分を支配してしまいそうで怖かった。
よろよろとした足取りでトモキは出口を探して再び彷徨い始める。全ての思考を自分の外に追いやり、ただ脚を動かす事に脳のリソースを費やす。
やがて、本格的に夜の帳が近づいてくる。日中でも薄暗かった森の中が更に光を失い、夜目に優れたトモキの眼でも足元が覚束なくなり始める。空を見上げればすでに朱と濃紺が入り混じっていた。
「もう諦めなよ」
「自分を偽るのなんて疲れるだけだろ? 自分に正直になれよ」
昨日の少年が現れてはそんな甘言を言い放ち、消えていく。トモキはその言葉を無視して歩く。少年の方に向き直る事もせず、前だけを向いて。いつしか、トモキの手には鞘に収めたはずの剣が固く握られていた。
いつしかトモキの中で休むという選択肢は消えていた。休んでしまえば、また思考が危うくなる。少年の甘言に飲み込まれ、自失してしまう。そんな予感と強迫に押さえつけられ、進み続ける事しか頭には無かった。森を出るまで、夜通しでも歩き続ける。
トモキが覚悟を決めた時、森の雰囲気が変わっていることに気づいた。木々の密度が薄くなり、一歩進む毎に視界が開け、濡れた土と樹木とは異なる薫りが鼻腔の中で燻り始める。新鮮な風がトモキの額の汗を流し飛ばして行った。吹き込む先のそのまた先に、田畑の緑が見えた。人の営みが、そこに見えた。
「あ……!」
トモキは走り出した。疲労は忘却の果てに置き去り、薄暗い外の世界がこの上なく輝いたものに見えた。足元はいつからか泥濘が無くなり、しっかり踏み込む事が出来るくらいに固い。左右には杭が立ち並び、人の手で整備された跡がある。
果たして、トモキは森から飛び出した。大きな夕日が山間へと沈みかけ、鮮やかな夕焼が巨大な影を一面に投げかけていた。
やっと、出れた。不安から解き放たれた。その実、まだ不安の根源は何一つ解消されていないのだが、人の薫りがする場所へ辿り着けたというだけでトモキの心はかなり晴れやかになっていた。
トモキが降り立った場所は田舎の街道の様だった。どうやら森の一部が大きく迫り出しているらしく、道が大きく湾曲している。そのせいで左右のどちらを向いても道の先は見えない。遠くには小さく民家らしき建物が見え、夕餉の準備をしているのだろうか。微かに煙の様なものが見えた。
安心したせいだろうか。ここに来てトモキの腹が空腹を強く訴え始める。全身の怠さも限界を越え、ついにトモキはその場に膝を突いてしまった。
「後、少しだけ……」
頑張れ、と自分に言い聞かせる。叱咤し、両脚を強く叩いて立ち上がろうとした。
と、その時だった。ガラガラガラ、と何かを転がすような音が響き始めた。荒れ道を走る車輪の様な音だ。何だろう、とトモキが音のする方向を見遣った時だ。
街道のカーブを曲がり切った何かが姿を現す。
トラックだ。トモキは外見を見てそう思った。巨大な車体がトモキの眼の前に迫ってきた。
怒鳴り声が聞こえるが、気を抜いていたトモキの体は固まってしまい、ギャリギャリと車輪が悲鳴を上げた。そしてまさに先端がトモキの鼻先に触れるか、というところで停止する。
「と、止まった……」
「馬鹿野郎がっ!! 道のど真ん中で座ってる奴があるかっ!!」
頭上から怒鳴られ、トモキは身を竦めた。上を見れば馬車の御者台の屋根の上に薄いグレーの髪の男が独り立っており、トモキを睨みつけている。薄暗くて見え辛いが、胸と腰の部分には鎧の様な意匠の金属板が取り付けられており、腕や脚にも防具らしきものが装着されている。
見慣れない格好につい見入ってしまったが、男にもう一度怒鳴り声を貰い、トモキは急いで立ち上がった。男の言う通り、道の上に座っていれば危ないのは自明であり、トモキとしても弁解の余地は無い。道の脇に避け、頭を下げようとするが、男は御者台から飛び降りると腰に携えていた剣をトモキに向けてきた。
「何者だよ、お前」声は冷たい。「って、聞くまでもねえか。剥き出しの剣を手にしてんだからな。お前、最近ここらで好き勝手やってるっていう盗賊団だな。他に仲間が居る気配もねぇし、独りで居るって事は斥候か? 見慣れねぇ格好だが、東の方から流れてきたか、それとも南の大陸からか。ま、どっちでもいいさ。それにしても残念だったな。盗賊を目の前にして見逃す程、俺らは甘くねぇ」
「ち、違っ……」
「そんなギラギラした眼をして、殺気を振りまいといて何が違うっていうんだよ」
トモキは男が何を言っているのか分からなかった。自分に敵対する意思は無く、殺気などと言うものを出せるはずもない。自分はただ森で迷って、やっと外に出てきただけだ。
乾きで粘つく喉を微かな唾液で潤して否定しようとするが、それよりも男が先に言葉を続ける。
「ちょうど退屈してたところだ。それに、少しは働かなきゃ仕事を任せてくれた親父に合わせる顔がねぇしな」
目の前の若い男が嬉しそうに笑い、スッと剣を構え、トモキに近づく。接近したおかげで馬車に付けられた明かりに照らされた男の顔が明瞭になる。鋭く細められた眼と眦に残る一本の傷跡。やや面長の顔立ちで、大きな口は、端が左右に引かれて弧を描いている。だが表情とは裏腹に剣から伝わってくるのは紛れもない殺意だった。
対するトモキは混乱の極みにあった。極限状態から脱したと思えば、間髪入れずして今度はやっと見つけた人間から敵意を向けられ、否定する機会を逸してしまった。
トモキは反応に窮した。急な状況の変化についていけず、また元々トモキは会話が苦手であり、誤解を解こうにも言葉が出てこない。そうしている内にいつの間にかトモキの周囲は、同じ意匠の軽鎧を着た幾人もの男達に囲まれて剣を向けられていた。
「さあ、構えろよ。斥候役だから期待はできねぇけど、お前の実力を見せるくらいはしてみろよ。楽に叩き潰してやるからさ。皆、手を出すなよ? 後、念の為他の奴らが森に隠れてねぇか警戒しとけ」
周りの男達を手で制しながら、更に一歩目の前の男がトモキに近づく。トモキは一歩後退る。また一歩進む。今度はトモキも腰の剣に手を伸ばしかけた。
殺らなければ、殺られる。混乱の中でその考えが体を駆け回り、沸騰するかの様に体全体が熱を発しているような感覚。それと同時に、殺伐とした考えが自然と出てきた事に戦慄を覚えた。
(どうして、こんな……)
訳が分からない。何故自分は今剣を向けられているのだろうか。何もしていないというのに。剣を握る右手は震え、それを見た男は鼻で笑う。トモキは歯を食い縛った。
(怖いけど……)
逃げ出したいけど、だが逃げる為にも剣を奮わなければならないのか。誰も、傷つけたくはないのに。状況に愕然としつつも、煩悶としつつも男に剣を向けかけたその時。
「そこまでにしておいてあげてくださいな。彼に敵意は無いようですよ?」
柔和な声が響き、それと同時に男達が一斉に背後を振り向く。そして左右に囲みが別れて、その奥から恰幅の良い中年の男が一人輪の中に分け入ってくる。
「このような少年一人によってたかって剣を向けているのを見るのも余り気持ちの良いものではありませんね」
「ニコラウスさん、しかしだな……」
「ここまで襲撃も無くて鬱憤が溜まっているのも分かりますが、少し気が逸っているのでは? 私には行き倒れかけている旅の少年にしか見えませんが」
「だがそいつは剣を持っている。商人のアンタには分からねぇかもしれねぇけど、さっきから殺気をばら撒いてやる気満々だ。危険だ」
「このご時世に剣を持っている旅人など珍しくもありませんし、殺気は確かに感じ取ることはできませんが、何か事情がお有りなのでは? 事情も聞かずに斬りかかるばかりでは徒に敵を増やしてしまうだけですよ? そうなれば貴方がたの氏族の悪評も立ってしまうのでは? それに貴方がたは腕が立つと評判の氏族だ。斬り捨てるのはこの方が斬り掛かってきてからでも遅くないのではないですか?」
丸い縁取りの眼鏡のズレを直しながらニコニコと笑顔を絶やさずに告げられ、軽く舌打ちすると渋々といった様子で剣を鞘に収める。殺気立った空気が弛緩し、その雰囲気に支えられていたトモキは思わずその場に座り込んでしまった。情けないとも思うが、すでにトモキの体力も限界を越えていた。
「申し訳ありませんね。私の連れ達が失礼致しました」
「あ、いえ。こちらこそありがとうございました……」
謝罪の言葉を口にする壮年の男に、トモキもまた青白い顔で深々と頭を下げた。そこで剣を握ったままであることに気づいた。折角、場が平和に治まり掛けているのだ。このままではまた余計な誤解を生みかねない。トモキは慌てて剣を鞘に収めた。
「ところで、こんな日も暮れようという時にこのような何も無い場所でどうなされました?」
「えっと……」
尋ねられ、トモキは答えようとするも口籠った。異世界に辿り着いたと考えているが、そもそも本当にそうであるのか確信は無いし、告げたところで信じてもらえるか。何よりトモキ自身が状況を把握しきれていない。だがここで押し黙るのも失礼だと空転する思考から言葉を絞り出そうとした時、空腹に耐えかねたトモキの腹が不満を訴えた。
途端に朱に染まるトモキの顔。恥ずかしそうに上目でそっと男の顔を見遣ると、男は愉快そうに声を上げて笑った。だがそれは咎めるでも嘲るでも無い、純粋な笑いだった。
「行き倒れとは口から出まかせではありましたが、強ち嘘というわけで内容ですな。
おっと、自己紹介がまだでしたね。私はニコラウスという、しがない行商人です。もし宜しければ近くの街までお送りしますよ。なに、移動中は暇でしてね。差し支えなければ移動中の慰みに旅のお話でも聞かせて頂けませんかな?」
そう言ってニコラウスは笑顔でトモキに向かって手を差し伸べた。
お読み頂きありがとうございました。
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次回の投稿は11/8頃を予定しています。
11/2改訂:ニコラウスの容姿を少し修正。ストーリーには一切関係ありません。