4-20 君、死に給う事勿れ(その20)
土日で一気に最後まで投稿します。
4-18が最初ですので読み逃しが無いようご注意下さい。
昨日投稿分を含め、3話目の投稿になります。
雨が降り始めた。
ポツリポツリと落ち始めたそれはあっという間に土砂降りになっていった。つい先日まで振り続けていた雨のせいで元々水分を含んでいた土の地面はすぐに許容量を越えて染み出し、泥濘む。木々の間は烟り、視界は悪くなっていく。
泥濘みに脚を取られながらもトモキは走ることを止めなかった。顔に叩きつけられた雨粒が顔を流れ、拭っても直ぐに目に入って視界を塞ぐ。
「……ふっ!」
日が傾き、薄暗くなってきた森の中で魔獣が一体襲いかかってくる。それをトモキは剣を一閃させる事で難なく斬り伏せた。赤い血が舞い上がり、降りしきる雨で地面へと落とされる。斬り裂かれた死体を、トモキは一瞥だにせずにひたすらに前へと進む。
「フェデリコさん……!」
走りながらフェデリコの不審な態度を思い出し、歯噛みした。奥歯が軋む。
ヨハンの話を聞いた今なら分かる。フェデリコは教会にセツの事をバラしたのだ。人類至上主義――つまりは亜人殲滅を掲げる、云わば「吸血種」にとって最大最悪の敵に情報を与えたのだ。
何を思ってフェデリコがそうしたのかは分からない。「聖女様」が来たから舞い上がって漏らしてしまったのかもしれないし、或いは取引を持ちかけられたのかもしれない。病気を治す代わりに知っている事を話せと言われれば、アイリスを初め、村で病に苦しむ人々を守る村長として断ることは出来なかったのかもしれない。でもそれらも単なる想像だ。流石に彼の思想や信条の全てを語れる程に親密だったわけでも無く、友人としての関係を築き始めたばかりのトモキでは、悔しいが彼の決断の理由を推し量る事は出来ない。
だがしかし、セツとの関係はトモキよりも遥かに長い。普段の二人のやり取りを見ていても互いに信頼し、信用しあっているのはトモキにも見て取れた。軽い嫉妬を覚える程に親密で、だからこそフェデリコが秘密を漏らすことは絶対に無いと思っていたのに。
「くっそがぁっ!!」
こみ上げてくる怒りをトモキは堪え切れない。頭が沸騰しそうで、剣を握る右掌には力を込めすぎて血が滲む。感情そのままにトモキは近くの木に向かって剣を叩きつけた。
「うわっ!」
叩きつけたのが剣の腹だったためにこれまでみたいに切り倒すことが出来ず、トモキは叩きつけた反動と泥濘に脚を取られた事でバランスを崩して転んだ。泥水を頭から被り、口に入った泥を咳き込んで吐き出す。それがトモキの感情を逆撫でし、ギリ、と歯が擦れ、左手を地面に叩きつけた。そのせいで水溜りが弾けてトモキの顔に掛かり、汚れた水が滴り落ちる。顔の下には何事もなかったように再び水溜りが出来て、水面に歪んだ無様な男の顔を映しだした。
水溜りに泣きそうな男の顔が浮かぶ。しかしすぐにトモキは顔を袖で乱暴に拭うとまた走り始めた。
「ほらやって来た、ほらやって来た。また絶望が笑いながらやって来たよ」
いつかの少年がいつの間にかトモキの隣を走っていた。楽しそうに声を上げながら、トモキの神経を逆撫でする侮蔑の笑いを嫌らしく口元に浮かべている。トモキはそれを無視して走る。
「君はいつだって絶望を寄せ集める。君が望まなくたって絶望の方が君を見つけて集まってくるんだ」
耳を貸さずに前に進むトモキに、しかし少年は意に介した様子もなく耳障りな声で囁く。
「でもそれは君のせいじゃない。君が悪いんじゃない。だって絶望の方から集まってくるんだもの。残念ながら君はそういう運命なんだ」
位置を変え、トモキの正面に移動して囁くようにトモキに話しかける。その言葉は聞く耳を持たずとも毒のように内に染みこんでいく。
「世界に嫌われた子。世界に守られない子。元の世界でもこの世界でも。でも君は強い。だから世界は君だけじゃなくて君の周りに牙を向いていくんだ。君の心を折るために」
「黙れよ」
「周囲の人は君ほど強くないからね。だから呆気無く奪われる。ああ! なんて世界は無情なんだ!」
「黙れよっ!!」
「いいや、黙らない」
少年は嘲る様な口ぶりから一転して真面目な口調で言った。
これまでの少年は言いたいことだけを言いながらも、トモキの反論を明確に封じる事は無かった。嘲るだけ嘲って、最後に毒にしかならない事を言い残して消えていく。だがここに来て初めて少年はトモキの反論を封じた。その変化にトモキは戸惑い、面食らって脚を止めかけ、しかし今は急ぐべきだとすぐに落とした速度を元に戻す。
「君は普通の人間よりはずっと強い。でも世界に抗うには、君独りじゃ足りない」
「何が言いたいっ……!」
「君を否定するな」
少年はトモキの顔を下から覗き込む。
「君だけが悪いんじゃない。例え過去の君が過ちを犯してしまったとしても君自身を否定してはならない。君は君であり、久遠トモキという人間を否定したところで過ちが償えるわけでないんだ」
「何を言って……?」
「自らの否定は自己の喪失だ。本性を否定するな。自分を制御しろ。過ちを見失うな。過失を糧に未来を見据えろ。学んだはずだ。過去は消えてなくならない。忘却はその記憶の中の誰かの存在を損なう。記憶とともに世界に抗う力を君は忘れた。だが思いだせ。君は独りじゃない。僕を受け入れれば君は世界にだって反逆できる」
「何を言ってるのか分からないよ!」
絶叫じみた叫びが木々の間に木霊する。少年の言葉が頭の中で響き渡る。何を言っているのかわからないはずなのに、分かる気がしてしまう。心の中に何かが染みこんでいく感覚にトモキは恐怖を覚えた。
その時、視界が拓けた。
木々の姿が消え、空からはよりいっそう強く雨をトモキに叩きつける。ずぶ濡れの体は冷え、しかし激しい運動に因る熱が汗と雨を蒸発させていく。
森を飛び出したトモキは無心で家へ走る。少年の姿はいつの間にか消えていた。代わりに恐ろしい何かが心に纏わり付いていた。
「セツ、セツ、セツ……!」
自身が変質する恐怖から逃れる様にトモキは彼女の名を連呼する。無事で居てくれ、と何事も起きていないでくれ、と願う気持ちで恐怖を覆い隠す。無心を塗り潰そうとする恐怖を願望で塗り潰し、ただ彼女の無事を希う。
ただ、彼女に会いたかった。
果たして、トモキは家に辿り着いた。感情の昂ぶりが呼吸を乱し、家の裏手側から近づいていく。静かな周囲の中で、トモキは他の誰かの存在を感じ取り、家の前の畑の方へ歩いて行った。
そしてトモキは立ち止まった。濃厚な匂いが、降り注ぐ雨にも負けずに漂っていた。
男が居た。もう一人男が居た。着飾った女が居た。その前に、セツが居た。両手を大きく左右に広げ、トモキの帰還を待っていた。
磔にされた姿で。
記憶の中のセツが笑う。
セツが泣く。
セツが怒る。
囲炉裏を囲んだセツがトモキを見て笑う。トモキの胸に顔を埋めてセツが泣く。山の中で道を見失ったトモキを見つけてセツが叱る。そしてセツが消えた。
続いて死んだはずのシオがトモキの前に現れた。川縁で焚き火を囲むシオの笑顔。一生懸命魚を焼くシオの真剣な顔。無言でトモキの前を歩くシオの後ろ姿。馬車の中からトモキを見上げるシオの怯えた表情。多くの表情をトモキに見せ、やがて消える。
隣で肩を組んで酒を飲むアルフォンスの笑顔。仏頂面で酒を注ぐアルフォンス。依頼主を守るために剣を掲げて対峙するアルフォンスの鋭い表情。
特異点に飲み込まれる前のクラスメートの見下した笑い。自宅で心配そうにトモキの様子を窺う両親の姿。卒業式でそれぞれの道を歩いて行く中学の同級生の後ろ姿。
それら様々な記憶が際限なく駆け巡り、やがて砕けた。一枚一枚の画像が欠片となって散らばり、入り混じっていく。何もかもが分からなくなっていく。自分が分からなくなっていく。記憶が――無くなっていく。
そして最後に残った一枚の画。
(――そうだ。僕は……)
泣き叫ぶ声。何をしたのか、何を喚いているのか定かでは無い。それでも数多くの記憶が降り積もっていく中で今も鮮明に、色鮮やかに残っている。
飛び散る血痕。真っ赤に染まった両手。鳴り響くサイレン。そして小さな腕の中で動かなくなったダレカ。
「自分を否定するな。その力があったからこそ君はここまで生き残れた」
少年の声が響く。
「失った過去を取り戻せ」
声が響く。
「思いだせ」
響く。
「君が何者であったかを」
唐突に景色が戻る。
磔にされたセツ。打杭された両掌から赤い血が白い肌の上を流れている。その目の前で男が笑っている。嗤っている。女が笑っている。朗らかに嗤っている。恍惚に身を委ねて嗤っている。
女が何かを喋った。男が剣を振り上げた。トモキの心臓が激しく跳ねた。音がうるさい。やめろ、やめてくれ。
「さあ、世界に反逆を。そして取り戻せ」
頭の中で声が鳴り響く。やめろ。
「僕(君)の世界を」
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!」
剣が、セツの胸を貫いた。貫いた。貫いた?
誰が、誰を? 決まっている。見れば分かるじゃないか。男(女)がセツを、だ。
その結果、どうなった? ねぇ、どうなった? 答えてよ、ねぇ。トモキは自分に問うた。セツの胸を男の剣が貫いた状態で世界は静止したままだ。胸を貫かれた人がどうなるか。
――死んだ、のか?
――無言
「うわああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!」
世界が、広がった。
悲しみの世界が、広がった。止めどない絶望がトモキを支配した。
どす黒く染まっていくトモキの心。絶望と悲しみだけに満たされていく。頭を掻きむしり、泥濘に膝を突き、不意に呼吸が止まったかのようにトモキの絶叫が止んだ。
トモキの叫びに気づいた聖女の護衛達が振り向く。聖女もまた哄笑を止め、優しい笑みを浮かべてトモキの姿を認めた。
「――ああ、この方も吸血種に心を奪われてしまったのですね」
メアリーは悲しげに表情を歪ませ、そして慈しむような視線をトモキに向ける。
「こうなっては仕方ありません。彼にも――神の御下へ行っていただきましょう」
さもそれが当然かのように。聖女は聖女らしくトモキへそう言い放った。それを受けて護衛の一人が、剣をセツの体から引き抜いてトモキに向き直る。その際にセツの体がビク、と跳ねて血が噴き出て男の顔に掛かる。それを見た護衛は不快そうに顔を拭い、剣の腹でセツを殴りつけた。
ユラリ、とトモキが立ち上がった。長く伸びた前髪が濡れて顔に張り付いて、その表情を窺い知ることは出来ない。無言で立ち尽くし、剣を持った右腕はだらしなく下に向けられている。降り注ぐ雨粒でトモキの姿は霞み、不気味さを醸している。雨に打たれるがままの無防備なその様に、しかし何とも言えない奇妙さを護衛達は感じ取っていた。
二人の腕前は客観的にも確かなものだ。本人達も所属する教会の中で戦う力は上位にあると自負している。それを証明するかのようにシエナ村からここまでの道中、多くの魔獣を容易く屠ってきた。聖女に傷一つ負わせる事無く旅を続けられてきている。自信に後押しされ、怯むこと無く剣を構える。
たかが、ガキが一人。それも神に仇なす者だ。
男はそうトモキを断じて嘲り、聖女の前に進み出ていく。強者の雰囲気もトモキからは感じ取れず、感じる奇妙さは神の摂理に反する者が息づいていたその空気に当てられただけだ。例え相手が如何なる者であろうとも、神の御加護を受けている限り敗走は、無い。
即座にトモキを斬り伏せ、そして引き続きこの吸血種に神の代行者として鉄槌を加えなければならない。男はトモキに向かって走りだそうとした。
だが、それよりもトモキは疾かった。走る為に男が僅かに屈んだ瞬間、その眼の前にトモキは居た。
「――は?」
止まる時間。息を飲む男の前でトモキは、悲しげに微笑んでみせた。その顔を見た男の背に戦慄が走った。
駆け抜ける怖気。得体の知れないナニカが目の前に居る。男は未知なる恐怖に急かされ、本能で剣を振るった。それは、不要な物が全て削ぎ落とされた、人生の中でも最高の剣筋であった。
だが、無意味。
「――許さない」
トモキの意思は全てを斬り裂く。何に遮られる事無くその剣は意思に従って糸を張るように真っ直ぐに進む。
振り抜かれた剣は、護衛の男の持つ業物の剣を紙を割くかの如く斬り落とした。金属がぶつかり合う音が一瞬だけ、軽薄に嘲笑った。そして、その先にあった男の体から血が迸った。
背後に居たメアリーの笑顔に血の線が走る。ペチャリ、と粘り気のある音を残して顔に張り付いた。男の体にも右脇腹から真っ直ぐに線が伸び、剣を振りぬいた体勢のまま上半身が二つに別れ、地面に落ちて水飛沫を上げた。
「ザンガーぁぁぁぁっ!!」
トモキの背後からもう一人の男がトモキに躍りかかった。だがトモキは、男の声が聞こえていないのか、笑顔のまま固まったメアリーから眼を離さない。
剣がトモキの背に落ちる。如何にトモキの動きが早かろうと避けることは不可。同僚を殺された男はその仇を取るため、渾身の力で剣を振り下ろした。
しかし、剣はトモキの背の上で止まった。
「なっ……!?」
何かに当たった感触は無かった。だが、止まった。不可思議な現象に慄き、それでも直ぐに気を取り直して体勢を立て直そうとする。
男の体は、しかし動かない。トモキの背に振り下ろした姿勢のまま剣を振り抜くことも振り上げることも、何よりその場から動くどころか指一本動かすことが出来なかった。
剣の下からトモキがゆっくりと動き、初めて振り返った。
「許さない」
静かな声でその一言だけを男に投げつける。剣を構えるでも無く、気怠そうな立ち振舞でトモキは男を見下ろした。
男は恐怖した。自分よりもずっと年下で、背丈も小さいトモキが遥かに大きく見えた。
全身に力を込め、不可視の拘束から逃れようとする。だがどれだけ力を入れ、抜け出そうとしても蟻の体躯程にも動かない。その様子を赤い前髪の奥から覗く、冷たい視線でトモキは眺めてくる。男は動かない体が恐怖で震えた様な気がした。
トモキは呟くように宣告した。
「捻れろ」
瞬間、男の体が言葉通りに捻れた。まず最初に左腕が、次に剣を持った右腕が不可解な方向へ捻れていく。
「ひ……あ……」
男は眼を疑った。不可解な現象。ブチブチと皮膚が、肉が裂け血が溢れ出す。
そして両腕が千切れ飛んだ。
「ぎゃああああああああああああああああっっっ!!」
男は悲鳴を上げた。例えようのない激痛とあり得ない光景。何が自分の身に起きているのか分からない。だが眼の前の少年が何かをしたのは確かで、自分は彼に殺されようとしている。
「ご、ごめ、んなさい……! 助け……」
涙を流しながら命乞いを口にし、だが言い終わる前に男の首が勝手に百八十度後ろに回転し、首が捩じ切られた。
頭を失った男の体は血飛沫を上げ、雨に混ざってトモキの頭を更に赤く染めながら倒れた。それを冷徹な眼差しで見届けたトモキは、転がった頭の所に歩いて行く。
恐怖を宿したままの、顔。トモキの眼に強い感情が灯り、歯が食いしばられる。
トモキは頭を踏み潰した。脳漿が散らばり、飛び出した眼球がただの球体と化した。いつしかトモキは荒く息をしており、原型を留めていない、ただの物となったそれを憤怒の眼で見下ろすと踵を返した。
仮面の様に口元は笑みを浮かべ、しかし眼は恐怖で見開いて地面に座り込んだメアリーの横を抜け、トモキは磔にされたセツの所へ歩いて行った。
白い、小さな掌に突き刺された聖鋲を引き抜く。
セツの冷たい体がトモキの腕に抱かれた。手足や頭からは血を流し、剣を突き刺された胸は致命傷だ。眼は閉じられ、可愛らしい顔にも幾つかの痣が出来ている事から嬲られた事が分かる。頭から流れる雨に紛れて、トモキは泣いた。地面に膝を突き、血が溢れる彼女の胸に顔を押し当てて泣いた。
その中でトモキは雨音に混じるセツの鼓動を聞き取った。だがそれは非常に心もとなく、今にも、後数秒、或いは数分で生の躍動を止めてしまうように思えた。刻一刻と失われていく温もりが、トモキには耐え難い苦痛であり頭がおかしくなりそうだった。
「セツ……」
「ト…モキ……」
トモキの声にセツが反応して眼を開ける。薄っすらとしか開かず、焦点がぼやけているのかその瞳は揺れ動いているが、それでも何とかトモキの顔をとらえた様でセツは薄く笑みを浮かべた。
「セツ……!」
「なん、ちゅう……顔を……しとるんじゃ……男前が……台無し、じゃぞ……」
「……ごめん。間に合わなくて……!」
「何を……謝る、ことがある……最期、に……こう、して帰ってきて、くれたんじゃ……。妾は……嬉しいぞ……」
セツは激しく咳き込んだ。血の塊が大量に吐き出されて抱きかかえたトモキの手を赤く染め、しかし激しく降りしきる雨が瞬く間に洗い流してしまう。
「喋らないで……! お願いだから……」
「よい……。どう、せ……いつかは、こうな、るのが……分かっておった……。そ、れに……お主とは……まだ、まだ話し、たい事が……いっぱい、あ、る、のじゃ……」
大儀そうにセツは息を吸った。喉から、掠れた音がした。
「のう、トモ、キ……お主……にはずいぶん、と世話になった……」
「そんな……僕の方こそお世話になりっぱなしで……まだ、何も返せていません……」
「そんな事は、ない、ぞ……」嬉しそうにセツは笑う。「お主と過ご、す時間は……何物に……も代え難い、もの、じゃった……。妾、の好物……のハジの実、を採って……くれた時は、ほん、とうに嬉し……かった……ぞ」
「だって……セツがあんなに美味しそうに食べるから……だから……セツに喜んで貰いたくて……」
「ああ……あの時、は……特に美味かった……。まさに極上、の味じゃったぞ……。何せ、お主……の気持ちがこもって、おったからの」ふぅ、と大きく息を、血とともに吐き出す。「のう、トモキ……覚えて、おるか……? 崖から……落ちた時に妾が……伝え、た言葉を……」
トモキは涙で濡れた顔で小さく頷いた。それを見てセツは満足そうに頷いた。
「自分の命を……粗末にするな……」
「そう、じゃ……お主はまだ、若い……。多くの苦、難が降りかかって……くるやも、しれん……。じゃが……同じ、くらい……幸せも、舞い……降りてくるん、じゃ……。妾の様、にの……。」セツは微笑んだ。「じゃから……何が、あろうと、生き……るんじゃ。お主……は決して、独りで、は、ない……から」
「うん……うん、分かったよ……!」
「しかし……妾が先に……約束を破って、しまった、の……。お主を……独りにさせ、て、しまう……」
「そんな事、ない……! 僕は独りじゃ、ない……だって、セツが一緒に居てくれるから……いつだって、これからもずっと一緒に居てくれるから……だからセツも独りじゃないよ……」
「そうか……そう、じゃ、の……」
セツの腕が動いた。何かを探すように宙を彷徨い、トモキの頬に触れると嬉しそうに笑った。
「おお、そこに……居ったか……。すまぬ、良く見え、んでの……もう、少し……妾に寄って……くれんか……?」
吐息が掛かる程にトモキは顔をセツの傍に寄せた。セツは両腕を必死でトモキに向かって伸ばし、頬にそっと触れ、優しく撫でた。
「トモキは……暖かい、の……」
掌が、離れた。
セツの腕は力無く地面に落ち、それきり動かなくなった。だが、その顔には満足そうな笑顔が浮かんでいた。
トモキはセツの体を思い切り抱きしめた。優しく、しかし力強く。何処にも行かないと、常に一緒だと眼を閉じたままのセツに伝える様にその体を抱きしめた。
堪え切れない嗚咽がトモキの口から溢れる。止めどない涙が零れ落ちて止まらない。冷たくなったセツの体が堪らなく暖かくて、それが悲しくて震えが止まらない。
トモキは濡れた双眸を笑顔を浮かべたセツに向けた。優しく微笑み、トモキはセツの小さな唇にそっと口付けた。初めてのキスは、とても悲しい記憶となった。
「ありがとう、ございました、セツ……」
軽い体を持ち上げ、これ以上冷たい雨に打たれないように、大きく枝葉を広げた近くの大樹の幹の下に座らせた。丁寧な仕草で座っていて、そうしているとまるで生きているようだ。
「ちょっと待っててね」
しゃがみこむと優しく笑ってそう告げ、トモキはセツに背を向け、一変して表情のごっそりと抜け落ちた顔を座り込んだままのメアリーに向けた。
「ねえ」
「ひっ!」
トモキが声を掛けると、呆然と座り込んでいたメアリーは悲鳴を上げて振り返った。
一歩、トモキが踏み出すとメアリーは張り付いた笑顔のままひどく怯え、尻もちを突いた状態のまま泥の上を後退る。
「教えてくれないかな?」
「ひ、あ……」
「どうして……セツは死なないといけなかったのかな?」
口調は優しく、声色は冷たく。童子がささやかな疑問を口にするように、だが既知の回答を待ち望んでいる様にトモキは尋ねる。
「か、神がわ、わたく、しにお告げにな、なったのです。世、世が乱れているのは、あ、亜人達のせ、せいだと。元の、元のお、穏やかな世界を取り戻す為には世を乱している亜人達を、せ、殲滅せよ、と主は、わたくしにつ、伝えてくださいま、した」
「つまり、セツを殺したのは神様がそうしろって言ったから?」
「そ、そうです。だか、だから神に仕えるわた、わたくしは主のみ、御心のままに尽くすのです。慈悲と慈愛を苦しむひ、人々に与えなければならないのです。皆様がえ、笑顔です、過ごすためには、ひ、必要なこ、事なのですよ」
「ふぅん……そうなんだ」
「そ、その証拠に、主は、ただの娘であったわたくし、にち、力をあ、与えてくださ、いました。わたくしは、主に守、られているのです。だ、だかだからあ、貴方が幾らわたく、しに仇なそうと、こ、殺す事は出来ません」
ならば、どうしてそこまで怯えているのか。滑稽な聖女の姿にトモキは嘲笑を浮かべると共に憐憫さえ覚えた。
「なら僕を殺せよ」
「――え?」
「神様とやらに力を貰ったんだろ? ならその力で僕を殺してみろよ。アンタの言う通りなら神様だってそれを望んでるよ。ここから一歩も動かないで待ってやるからさ」
そう言われ、メアリーは恐怖の中に芽生えた戸惑いを覚えた。しかしこれは好機である。頭の中で囁かれる声に導かれるがままに彼女は立ち上がり、詠唱を口にした。
「わ、私が命じます。この地にす、住まう光の聖霊よ……」
トモキから離れ、恐怖のせいで平時に比べて遥かに辿々しい様子でメアリーが詠唱を口ずさむ。とても戦闘では使えない様な有り様だが、宣言通りトモキは黙って彼女が呪文を唱えるのを眺めるだけだ。一歩たりとも動かず、剣を構える様子も無い。
やがてメアリーを中心として魔素が高まっていく。暗くなっている辺りを照らす様に魔法陣が展開され、集った魔素が高度に濃縮されていく。
「……へ、『神々の怒りっっ!!』」
震える声で魔術名を叫び、メアリーは腕を縦に振り下ろした。同時に空から黄金の雷がトモキ目掛けて降り注いだ。
激しい閃光が眼を焼く。付近の色合いを黒から一気に白へと変える程の強烈な光が立ち込め、雷が衝突した際の莫大なエネルギーは雨で濡れた周囲の水気を一瞬で蒸発させる。
解き放たれたエネルギーは暴風となって吹き荒び、術者であるメアリーにも容赦無く襲いかかった。体勢を崩し、再び尻もちを突く。眼を閉じて暴風に耐え、彼女がそっと眼を開いた時には白煙が立ち込めていた。残るは静寂ばかりだった。
「ほ、ほら御覧なさい! 主を、神を侮るからこの様な事になるのです!」
放たれた魔術の威力は、到底人の身で耐えられるものではない。故に彼女はトモキを、神を侮る不届き者を焼いてやったと確信し、恍惚とした笑みを浮かべて高らかに嘯いた。
「この程度、か……」
だが聞こえてきた声で一瞬にして凍りつく。
風が吹き荒び、立ち込めていた白煙が瞬く間に流される。そこには全くの無傷でトモキが立っていた。
「あ……う、そ……」
「神が、亜人達を殺せと言った。さっきそう言ったよね?」
恐慌している彼女は答えない。だが構わずトモキは彼女に近づいた。
「なら、僕も宣言するよ」
剣を空に掲げた。
メアリーは変わらぬ笑みで、しかし両目から涙を流しながらその姿を見つめた。
「もし本当に教会がセツを殺せと言ったのなら――」
その先をトモキは睨みつけた。
「――僕は魔王になってやる」
剣を、振り下ろした。
直前、彼女は泣き笑いしながら何事かを呟いた。
「 」
剣先から血が滴り落ちている。その色は真っ赤だ。笑顔のまま倒れる聖女から流れる血も、首を捩じ切った男から流れる血も、胴を真っ二つに割いた男から流れる血も、セツから流れる血も、そしてトモキの中を流れる血も、全てが同じ赤だ。そこに違いは無い。
苦しそうにトモキは空を仰いだ。虚ろな瞳で見つめる視線の先に居るのは、果たして何色の血が流れているのだろうか。
身を苛む空虚さに怠さを感じ、トモキはただ聖女だった亡骸を見下ろした。
その時だった。
「メアリーっ!!」
一人の青年が聖女の名を叫んだ。
お読み頂きありがとうございました。
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