4-16 君、死に給う事勿れ(その16)
「それじゃセツに伝えてきます。今から急げば日が変わる前には帰り着けると思いますから」
アイリスの状態を見たトモキはすぐにセツの元へ戻る事にした。数時間に渡って駆け抜けるつもりのため荷物は邪魔になるから、といつもならば持って帰る野菜などの食料の一切を断る。
そんなトモキがさらりと口にした到着予想にフェデリコは面食らい、戸惑いながらも不安に顔を曇らせた。
「あ、ああ……頼むよ。だけど、その、大丈夫なのかい? トモキの強さはある程度知ってはいるつもりだけど危険じゃないかい? 道から外れたりしたら……」
フェデリコとしては一刻も早くセツに助けを求めてもらいたい。だがその道中に何かあって情報が伝えられなければ意味が無い。何より、フェデリコにとってもトモキは年の近い友人の一人だ。自分の婚約者の為に無闇にトモキを危険に晒したくは無かった。
しかしトモキは涼しい顔をして答えた。
「大丈夫です。どうせ時間を短縮するために一直線に家に向かいますから。それに」トモキは腰の剣を撫でた。「魔獣達に襲われても何とかなりますから」
「そ、そうかい……」
初めての道中で一瞬でトモキに組み伏せられた経験のあるフェデリコからすれば返す言葉も無い。時間が無いのは事実で、問答している時間も惜しい。心配ではあったがここはトモキを信じる事を選んだ。
「すぐに戻ってきますから、フェデリコさんはアイリスさんの傍に居てあげてください」
「ああ……気をつけて」
フェデリコに手を振り、トモキはすぐに全力で走り出した。一瞬でフェデリコはトモキの姿を見失い、気づけばトモキは家の屋根の上を飛び跳ねているのを遠目に見つけて唖然とするばかりだ。そのあまりの速度と人並み外れた身体能力に呆気に取られていたが、やがてトモキの姿が見えなくなると眼を閉じ、空を仰いで大きく息を吐き出した。熱のこもった息が肺腑から外に吐き出され、感情の昂ぶりが少し治まる。それと同時に思考に落ち着きを取り戻していく。
セツなら助けてくれる。先ほどトモキにはそう言ったが、果たして本当にそうなのだろうか。フェデリコは不安だった。
セツが何もしてくれない、とは微塵も考えていない。これでも彼女とフェデリコの付き合いは長い。村の事を常に気に掛けてくれているし、今回も異変に気づいてトモキをすぐに寄越してくれた。病気の事を伝えれば必ず努力はしてくれるだろう。
だが、努力ではダメなのだ。フェデリコはアイリスの方に振り向き、戸で遮られた向こうで苦しげに呼吸をする彼女を思い、眉間に力を込めた。アイリスは今、死に瀕している。すでに村の者も何人か死んだ。尚も少しずつだが羅患した村人は増えている。自然治癒した者も居るようだが、最早それは運の領域だろう。気を抜けば絶望に取り憑かれそうになり、彼は両掌で口元を抑えた。
何か、何かしらの決定的な対策を打たねばならない。そして、セツはその決定打となりうるのか。フェデリコは自信が無かった。何故ならば彼女は薬師ではあっても医者では無い。吸血種である彼女は見た目と違い年齢相応に深い知識を携えているが、フェデリコ達にとって未知の病をも彼女は知っているのか。そしてその対応策を考えつくのか。その保証は何処にも無かった。
「……だけど信じるしか無い」
フェデリコは祈るしか無い。無力だ。愛する者が苦しんでいるのを間近で見ておきながら、ただ見守るしかできない。その悔しさにフェデリコは拳を握り締めた。
お願いします、神様。彼女が助かるのであれば、僕の命など惜しくは無い。どうか、どうか。フェデリコは、すでに存在が否定されたはずの神に祈った。当然、祈った所で何か奇跡が起きる訳でもない。ただフェデリコの口から溜息が溢れるばかりだ。
「村長!」
そうして家の中に戻ろうとしたフェデリコだったが、急ぎ自身に向かって駆け寄ってくる村人の姿を認めて脚を止める。
「ヨハン、どうしたんだい? そんなに慌てて」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……お客様だ。今西門に居て、ギュンターにここに案内させてる」
こんな時に。それを聞いてフェデリコは内心で舌打ちをした。何時急変するか分からないアイリスの傍にずっと居てやりたかった。だが村長である自分に客、ということはそれなりの高貴な方か近隣の村長、或いは商人の類か。拒絶できるものであれば拒みたいが、村のその後の事を考えると顔見知りならともかく外からの客を蔑ろにするべきではない。
内心の苛立ちを押し隠し、ヨハンに向かってフェデリコは頷いた。
「……分かった。僕の家に通してくれ。それと申し訳ないんだが……」
「分かってますって。アイリスさんの様子は自分が見ておきます。何かありましたら家の前から大声で呼びますんで」
「すまない……それで、こんな時間にアポなしで僕に会いたいっていう客は誰なんだ? さぞかし立派な人間なんだろうね?」
「それが……」
フェデリコが皮肉るが、顔を青くしているヨハンを見て怪訝な顔をした。緊張と走ってきたここまでやってきた事でヨハンの喉じゃ渇き、上手く舌が回らないらしく生唾を飲み込んだ音がフェデリコにも届く。
これは厄介な客かもしれない。候補として考えられる人物の姿を思い浮かべるフェデリコに、ヨハンはその誰何を伝えた。
「それが……聖女様だって名乗ってます」
フェデリコは頭を抱えて空を仰いだ。
「申し訳ありません。何分辺鄙な村なもので碌なおもてなしも出来ませんで」
「いえ、急に押しかけたのは私達の方ですから。泊めて頂けただけでも十分です」
フェデリコは目の前に座る流麗な女性の前に紅茶を差し出した。白い陶磁器のカップで、来客用のとっておきだ。ずっと食器棚の隅で眠っていたがようやく陽の目を見た物だ。自身の前には普段使いの茶渋が少し染み付いたカップを置く。だが中身も滅多に使わない高級な茶葉だ。いつも飲んでいるものとはまるで違う香りが彼の鼻孔を擽る。
フェデリコが正面に座ったタイミングを見計らって、女性は優雅な仕草でカップにそっと口を付ける。
(聖女、というのはやっぱり普段の所作からこんなに綺麗なんだなぁ……)
自分も紅茶を飲みながらそっと目の前に座る女性の様子をフェデリコは観察した。長い、腰まであるプラチナブロンドの髪は毛先まで手入れが届いていて、旅をしているというのに枝毛の一つも見当たらない。軽く閉じられた二重の瞼から伸びる睫毛は長く、眦は少し釣り上がり気味ではあるが、話し方のせいか気の強そうな印象は無くとても落ち着いて見える。鼻筋もすっきりと通り、神話の一節さえに出てきそうな程に美しい。
(聖女に選ばれる基準っていうのは見た目の美しさもあるのかもねぇ)
聖女の名は最新の情報に疎いフェデリコでも聞いた事があった。教会――リストキレル教曰く「神に選ばれた乙女」。人類至上主義を掲げ、表立っては人々に心の安寧を授ける事を教義としているが、それは裏を返せば亜人排斥を主目的としていることと同義だ。名目上どの国にも肩入れせず、日々布教と人々へ説教しているらしいが――
(人間の国の中枢にもたくさん教徒が入り込んでるって噂だし……)
口さがない者などは、今の人類と亜人の対立を煽っているのは教会である、と主張したりしている。無論、表立って非難する事は無いが。
(さてさて、そんな教会の最重要人物の一人がこんな村の村長に何の用があるっていうんだろうね……?)
そんな感想を抱きながらフェデリコは部屋の隅に視線を移す。そこでは彼女の護衛と思われる二人の男達が直立していた。手を後ろに組み、真っ直ぐ前を見て身動ぎしない。身に纏う鎧は見るからに高級そうで、ちょっとやそっとの攻撃では傷一つ付かないのでは無いかと思った。
(そしてもう一人……)
聖女のすぐ後ろに控える男をフェデリコは見上げた。彼も高級そうな鎧を身につけているが、フェデリコの眼を引いたのは男の髪色だ。真っ黒な髪で、顔立ちからして恐らくはこの国の生まれでは無いのだろう。おまけに随分と年若い。トモキと同じくらいだろうか。しかし聖女の後ろで控えるその姿は、そこに居る事が当たり前だとでもいうように堂々としたものだ。他の護衛の男に比べて特別体格が良い訳では無いが、侍女でも無いのにその年で聖女の傍に控えるということはそれ程の腕前なのか、或いは。
(男女の仲、とかね)
そんな下世話な考えが顔に出たのだろうか。後ろの青年がジロ、とフェデリコを見下ろす。
「自分の顔に何か?」
「い、いえ。何でもございません。随分とお若い様でしたので。不躾でした。申し訳ございません」
「ふふ。確かに若いですから私の護衛としては物足りなく見えてしまいますわね」
「あ、いや、そんなつもりでは……」
「ですが腕は確かですわ。この方がいらっしゃらなければ私達はきっとこの地まで辿りつけておりません」
聖女は微笑んだ。それは男性ならば誰もが見惚れる程に美しく柔らかい笑みではあったが、その表情はフェデリコに、というよりは別の誰かに向けられている様に思えた。青年を紹介する声色にも喜色が溢れている。
(これは当たり、かな……?)
アイリスの笑顔がフェデリコの脳裏に過った。彼女の様子に異変は生じていないだろうか。不安がぶり返し、その心中を誤魔化すためにフェデリコはカップの紅茶を一気に呷った。
「それで、失礼ですが聖女様御一行がこのような辺鄙な村へ如何なる御用でしょうか? ご覧の通り静かな土地ですし、教会の御意向に反するような事も致していないつもりですが?」
「そうですね。本題に入る前に改めて名乗らさせて頂きます。
私の名はメアリー・ベネディクト。リストキレル教南東部教区で司教の任されております。教徒の方には聖女、などと持ち上げて頂いておりますがまだ若輩の身でありますし、幸運にも大司教様に眼をかけて頂いて頂戴した地位に過ぎません。ですので聖女、などと大層な名で呼ばれるのはむず痒いのです。できればフェデリコ村長には気安くメアリー、と呼んで頂ければ嬉しいですわ」
「いや、しかし……」
「ダメですか?」
落ち着いた口調から一転して拗ねた様な眼差しをメアリーは向けてくる。判断に困ったフェデリコは後ろの青年、そして壁際の護衛に助けを視線で求めるが何の反応も返してはくれない。仕方ない、とフェデリコは腹をくくった。助け舟も咎める様な視線も送って来ないという事は別に構わない、という事だろうから。
「分かりました……メアリー様。これで宜しいでしょうか?」
「ええ。お心遣い恐れいりますわ。これまでの旅路で幾つかの町に滞在しましたけれど皆様恐縮してくださるばかりで決して聞き入れて下さいませんで……村長がお話が分かるお方で安心致しました」
「聖女、と言えば今やどの国に於かれましても最上層部の方々が諸手を挙げて歓迎されますから。ましてメアリー様は見目大層麗しいお方ですしね。そんな方が突然ご来訪されたら誰でも緊張して頑なにもなりますよ」
「お上手ですのね。私共の様な者と接するのに慣れていらっしゃるの?」
「まさか。今も緊張して口の中が乾いて、舌が顎に張り付いてしまいそうですよ」
「あらあら。ごめんなさいね。護衛をしてくれている三人共腕は確かではあるのですけれど皆さん真面目で職務に忠実な方ばかりでしたのでこうしてお喋りが弾む事は無かったので少し舞い上がってしまったようです。
それでは本題に……とは言っても特別この村に用事があったわけではありませんの」
「と言いますと……?」
「人と亜人が争って久しいこのご時世です。人心は乱れ、王都や西方の方々はいざ知らず、東方の亜人共と国境を接している地域にお住まいの方々は日々不安と恐怖に苛まれながら生きていらっしゃる事と存じます。
我々リストキレル教会が願うのは人々の心の安寧。現在の争い続けている状況と皆様方の置かれています環境には教皇聖下以下、大変心を痛めております」
「ありがたいお言葉です。聖下のその様なお話を聞けば村の者も大変喜ぶと思います」
「そう仰って頂けますと我々も日々祈りを捧げている甲斐がありますわ。
……しかし悲しい事に、今こうしてお話を交わしている瞬間にも何処かで戦いは起きているでしょう。それは同時に力を持たない町や村の方々が犠牲になっていることを意味します。そういった方々をお救い申し上げたいのですが、いざ戦いになりますと我らは武力を本分とする者共ではありませんのであまりに無力」メアリーは悲しげに眼を伏せた。「ですが、我らには我らの戦いがあり、ともすれば荒廃しそうな民の心を慰めるくらいはできるのでは無いか、と教皇聖下はお考えになりまして我々に国境を近にする地域を巡って人々の御心をお鎮めになるよう指示を下さいました」
「はあ、それでこの村にいらっしゃった、と?」
「ええ。ミュンヘン教区の北方から順に南へと下って行きまして、本日シエナ村へ辿り着いた次第ですの。まだ南へと向かう必要がありますのであまりのんびりとは出来ない旅路ですが、数日の間村に滞在させて頂けないかというお願いに参ったのです」
余計な事を、とフェデリコは内心で吐き捨てた。大都市圏では教会の力は強くなっているが辺境ではその威光もあまり届いてはこない。地方の村では宗教に熱心な者は少なく、むしろ自らの手ではなく存在するかも分からない「何か」に縋る宗教から距離を置くものも多い。まして歴史を紐解けば宗教が絡んだせいで事態が大事になった事も珍しくない。辺境の村でも学校はあるし、その程度の教養を持つものは多くは無いが、決して少ない訳でもない。フェデリコもその例に漏れず、出来ることならば宗教とは関わりあいになりたくはなかった。
だから柔和な笑みを顔面に貼り付け、本心を覆い隠して言葉を紡ぐ。
「それはそれは……ご足労頂きまして大変恐縮でございます。ですがこの村は辺境も辺境故に亜人達との争いの一切は幸いにしてございません」
「あら、そうだったのですね?」
「はい。どうやら教皇聖下を始め皆様方が日々祈りを捧げて頂いているおかげで幸運にも皆平穏に暮らしております。すでに本日は陽も暮れようとしておりますので一晩狭苦しい場所ではありますがお休み頂きまして、一刻も早く人々が苦しんでいるであろう場所へ向かわれるのが聖下のご意向に沿われるかと存じます」
「……貴様」
その時、壁際で控えていた護衛の一人が声を発した。
「先程から聞いていれば聖女様の御慈悲が迷惑であるかの様な物言いだな」
「い、いえ! 決してそういうわけではっ!」
「黙れっ! ……聖女様。辺境の礼儀知らずに我らが教義が何たるかを示す必要が……」
「控えなさい」
腰に携えた剣を握り、抜剣しようとした時、メアリーが静かに遮った。
「しかし……」
「聞こえませんでしたか? 私は控えろ、と言ったのですよ?」
「……申し訳ございません。でしゃばり過ぎました」
恭しく一礼し、再び護衛は壁に張り付くように待機する。それを見てフェデリコは思わず大きく息を吐き出した。それを見てメアリーはクスクスと口元を隠して笑った。
「失礼しました。何分彼も私の事を案じる気持ちが強くて……無礼をお許し下さいな」
「い、いえ……こちらこそ言葉に配慮が足りず失礼を申しました」
「それでは話に戻りましょう……私共は亜人との争いと関係なく、日々の暮らしの中での苦しみについても耳を傾けたいと考えております」
「……非常に有り難いお言葉です」
「そして聞くところによれば、現在、村を疫病が襲っているとか?」
フェデリコは、ハッと項垂れていた頭を上げた。目の前の聖女は柔和に微笑んでいる。
「どうでしょうか? 私はまだ修行中の身ではありますが医学の心得がありますし治癒魔術も使えます。もしフェデリコ村長が宜しければ診察し、要すれば治癒魔術を掛けて差し上げたいと考えているのですけれど」
その言葉にフェデリコは勢い立ち上がった。食い入る様にメアリーの顔を見つめる。
「それは……本当でしょうか?」
「ええ。勿論、私共は神に仕える身。報酬などもお断りさせて頂きます。ああ、でも出来れば教会の方にお布施でもして頂けましたら有難いですわ。当然常識的な額で」
テーブルに手を突いたまま、フェデリコは息を飲んだ。希望が、そこにあった。
まさか治癒魔術による治療を受けられるとは。突然舞い降りた幸運にフェデリコは取り繕うのも忘れて破顔した。特別な金銭を要求するわけでも無く、無茶な申し出を要求された訳でも無い。今だけは神に感謝してもいい。謝辞を天に向かって述べるとフェデリコは深々とメアリーに向かって頭を下げた。
「お願い……します……!」
その言葉にメアリーは湛えていた微笑みを深くし、椅子から立ち上がった。そして部屋の扉の所へ向かい、優しい笑みをフェデリコに向けた。
「それでは早速行きましょう。貴方の大切な方が苦しんでいるのでしょう?」
「どうしてそれを……っ!?」
「ふふ。貴方の様子を見ていれば分かりますわ。さあ、案内してください。苦しみから一刻も早く解放させてあげましょう」
悪戯に笑う聖女の姿にフェデリコは抗えなかった。
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