4-15 君、死に給う事勿れ(その15)
「魔王が復活したんじゃ」
そこに割って入る声。振り返れば腰が大きく曲がり、皺だらけの顔で険しい表情を浮かべる老婆が居た。
「おう、クリス婆さんじゃねぇか。魔王がどうしたって?」
「魔王が復活した、と言ったんじゃ。魔王が復活したせいで魔族の連中が世界中で勢いづいておって、それはここらも例外じゃないんじゃ。魔族に追いやられたせいで魔獣が行き場を無くして、その結果村にまで近づいてきておるんじゃよ」
神経質そうな面持ちで手足を震わせながら老婆は言い放った。老婆の口調は真面目そのものだ。トモキは彼女が本気でそう言っているのが分かった。
しかしジョセフはそんな彼女の言葉を鼻で笑い飛ばした。
「はん、随分と面白ぇ事言うじゃねぇか。婆さんのジョークにしちゃ笑えた方だぜ」
「冗談では無いわ! 儂には理解るんじゃ。古の時代に封印された魔王が蘇り、それを待ちわびておった魔族が今に人類に向かって反旗を翻し、一斉に襲いかかってくる。今は様子見しかしとらんが見とれ、今に人類は滅ぶ。この村に今こうして不知の病が流行っとるのがその証じゃ」
「そうかいそうかい。俺は魔王なんざ生まれてこの方聞いたことも見たこともねぇけどよ、まあ居るとしようぜ。んで、それと村で流行ってる病気に何の関係があるんだ?」
「まだ分からんのか、お主は! 魔王の眷属である吸血種が魔獣を操っておるんじゃ! 魔獣に病の元を持たせ、村の人間に感染させておるんじゃ。その証拠にグスマンも魔獣に噛まれて、その後見たことも無い病気で死んだでは無いか!」
「おいおい、魔族に追い立てられて魔獣が村に近づいて来たんじゃなかったのかよ? それにグスマンのジジィが死んだのは去年の話じゃねぇか」
呆れた様子でジョセフは溜息を吐いた。一年も前の村の事情をトモキが知る由も無いが、少なくとも老婆の話が支離滅裂であることは分かった。年老いた老婆の戯言、と聞き捨ててもいい類の話だろうが、しかし吸血種という単語が出てきた以上捨て置く事はできなかった。
無論、老婆の話が正しいとは微塵も思ってはいない。しかしこうして騒ぐ人間が居ると、話が何処でどう捻れて広まるか分かったものではない。元の世界でも単なる噂話の話が真実とはかけ離れて伝わっていき大騒ぎになった事例を知っている。まして、今は村全体が不安に押し潰されそうになっている時期だ。不安を振り払うために非論理的で非倫理的な行動に出てくる様な者が居ないとも限らなかった。
(これも念のためセツに伝えておくか)
そうしてトモキが思案している間に老婆はジョセフに向かってしつこく自らの主張を繰り返し、やがてよろよろと杖を突きながら歩き去っていった。
「……すまねぇな、変な話を聞かせちまってよ」
「いえ、気にしないでください。
たぶん不安なんだと思います。悪いことが重なってますからね。こじつけでもなんでも理由があればある程度安心できますから」
「ちょっと前まではクリス婆さんも元気だったんだがなぁ……旦那に先立たれちまってから一気に呆けが進んだみたいでな。ああして出鱈目な話を村に撒き散らす様になっちまった。
と、立ち話が過ぎちまったな。アンタ、これからどうするんだ?」
「フェデリコさんの所に行こうかな、と。村長なら他にも知ってることがあるかもしれませんし」
「そうか! ならちょっと待ってくれ!」ジョセフは一度奥に引込み、すぐに手に袋を持って戻ってきた。「今朝トリヴィーノから仕入れた肉だ。これをフェデリコに渡してくれや。他の人間がどうなってもいいってわけじゃねぇが、村長であるアイツが倒れたらもっと困るからな。なんだかんだ言って村の連中はアイツに期待してんだ。だからこれでも食って精を出せやって伝えといてくれ」
「分かりました」
「あと、アイツが自分ちに居なけりゃ多分隣のアイリスん嬢ちゃんのトコだ。少なくともどっちかには居ると思うぜ」
ジョセフから肉入りの袋を受け取ると、トモキは礼を述べて手を振って別れた。そして村の中心にあるフェデリコの家へと脚を向ける。程なくして広場が見えてきて、その奥にある彼の家が姿を現した。
フェデリコの家の前にある広場にはいつも人が集まっている印象をトモキは持っていた。夕暮れ前になれば商店が簡易的な出店を開き、夕飯の材料や惣菜を売りに出し、それを狙う女性の姿が目立っていた。しかし今は通りと同じく人の姿はまばらで、活気の欠片も感じられない。陽が落ちかけ、トモキの長く伸びた影が広場を黒く塗り潰していく。
「フェデリコさん!」
村の中では大きめに分類される家の前に立ち、戸を三度ノックする。しばらく待つが返事は無い。もう一度中に向かって声を掛けるがやはり反応は無い。
そのままトモキは隣の家に眼を向けた。ジョセフが言うには、自宅に居なければ隣家に居る、との事だったが。
「アイリスって女の人っぽい名前だけど……」
フェデリコとの関係は何だろうか。「嬢ちゃん」と呼んでいた事から少なくともジョセフから見れば子供の様な年齢ということか。トモキは当たりを付けた。そうであればフェデリコとさして変わらない年齢の可能性もあるが。
「恋人、とかね」
ジョセフにそこら辺をもっと聞いておけば良かった、とトモキは小さく歯噛みした。そうであればフェデリコをからかうネタがまた一つ増えただろうに、と思う。まあそこは本人達に聞けばすぐに分かることだが。
「……戸を開けた瞬間甘い空気だったらどうしようか」
飄々として卒なく何でもこなすフェデリコだが、そんな彼がデレデレと鼻の下を伸ばしていたらどうしてくれようか。トモキは想像してみたが、「やあ、君も早く良い人を見つけなよ」などとにやけ顔で宣ってきたので顔面に全力パンチをお見舞いしてやった。
「いや、実際には殴らないけど」
トモキが本気で殴れば頭が吹っ飛ぶ。流石に村長殺しは言い訳できなくなるので自制しよう、と強くトモキは念じた。自信は無いが。
くだらない想像を、頭を振って振り払うとトモキはアイリス嬢の家と思われる戸をノックして声を張り上げた。
「ごめんくださーい! フェデリコさん居ますか!?」
返事は無い。しかし中から人が動く気配がしたためトモキがそのまま待っていると戸が開かれ、中からフェデリコが姿を現した。
「はい、どなた……あれ、トモキ?」
「どうも。ジョセフさんからこちらだと聞きましたので」
トモキの姿を認めるとフェデリコは愛好を崩した。だがその顔色は悪く、濃い疲労が見て取れた。
「……大丈夫ですか? 何だか調子が悪そうですけど」
「そうかい? ……そうかもね。村の状態が状態だからね。君も聞いてるんだろう?」
「ええ……大変な事になってるみたいですね。セツも心配してましたよ。フェデリコさんは予定の日になってもやって来ないし、村の様子を見ると何か異変が起きてるみたいだって」
「それで君を寄越したわけか」
フェデリコは溜息を吐いた。それは呆れと言うよりは安堵の色合いが強い。表情は暗いが、家から出てきた時よりは幾分和らいでいる。そしてトモキから目線を外してしばし考える仕草をした後、手招きをして家の中に招き入れる。
「いいんですか? アイリスさん、でしたか? ここ、その人の家なんじゃないですか?」
「いいんだ。彼女は……今はとても対応できる状況じゃないからね」フェデリコは眉間に深い皺を刻み、何かを堪える様に下唇を噛み締めた。「それに、君には彼女の状態を見せておきたいんだ」
その言葉でトモキは何となく状況を察した。唾を嚥下し、喉が上下に大きく動いた。
フェデリコに付き従って家の中に脚を踏み入れる。廊下を通り、奥の部屋に入る。
そこは八畳程の広さの部屋だった。中央からやや端よりに四人がけのテーブルがあり、上には花瓶が一つ置かれ、しおれた花が一輪刺さっていた。奥には窓があり、夕日が微かに部屋に差し込んでいる。その下にはシングルベッド。ベッドの中には独りの女性が眠っていた。
「アイリス、お客さんを連れてきたよ」
フェデリコはアイリスに向かって声を掛けた。だが女性から反応は無い。苦しげに浅い呼吸を繰り返し、堅く閉じられた目頭には皺が寄っている。
傍らに置かれた椅子にフェデリコは力なく腰を下ろした。両肘を太腿に乗せ、背中を丸めている様はまるで老人の様だ。彼は、眠ったままのアイリスの手を取ると両手で握りこみ、祈るように彼女の手を自分の額に当てた。
「二日前から眼を覚まさないんだ」
夕陽で横顔に暗い影を落とすフェデリコは、声を震わせた。トモキは言葉を返せない。
「その前からずっと熱を出してて食欲も無かった。最初は風邪を引いたのかと思った。昔からすぐ風邪を引く子だったから。矛盾した言い方になるけど、心配してたけど余り心配してなかった。深刻に捉えてなかったんだ。横になっていればすぐに快復すると思ってた。でも、治らなかった。状態はどんどん悪くなっていって、それと同時に村でも病死する人が出始めた。そこでようやく僕は村で蔓延している病気が彼女にも牙を向いたんだと気づいたんだ」
遅すぎたんだ、と呟き、フェデリコは奥歯を悔しさに噛み締め、軋む音がした。
「もっと早くおかしい事に気づくべきだったんだ。ずっと高熱を出して、暖かい布団の中で彼女は寝てるのに、汗を<ruby><rb>一滴も</rb><rt>・・・</rt></ruby>掻いていないんだ。そんな事はあり得ないのに。水分が足りないのかと思って水を飲ませてもすぐに吐き出してしまう。どうしたらいいか分からずにいる内にこのザマだ」
「……セツの薬は飲ませてみたんですか?」
「当然だろ。最初に調子を崩した時から飲ませてる。けれど、全く効果が無いんだ。村の連中だってセツがこれまでに渡してくれた薬を飲んでる。なのに、なのに……全く効果が無い。村の医者だって診察してくれたけど、こんな病気は聞いた事が無いって匙を投げた。トリヴィーノまで人を遣って医者を連れてきて見てもらったけど、答えは同じだった。このままじゃ……」
フェデリコは強くアイリスの手を握り締めた。小さく嗚咽が混じる。心の中で渦巻く熱を冷ますようにフェデリコは大きく息を吐き出すと、眠ったままのアイリスの頬を撫でて愛おしく見つめた。
「……セツにも相談しようとも思った。今までの薬じゃ効かなくても彼女ならきっと新しく有効な薬を創りだしてくれるんじゃないかって……だけど、僕は彼女の傍を離れる勇気が持てなかった」
虚ろな瞳をフェデリコはトモキに向けた。潤んだその瞳は彼の葛藤を深く湛えていた。
「僕と彼女は、アイリスは幼馴染なんだ」
「そう、だったんですか……」
「そして……今は婚約者でもある」
「っ! …………」
言葉を失うトモキからフェデリコは視線を外し、彼女の金色の髪を優しく撫でた。
「このまま僕がここに居たからって彼女の病気が良くなるわけじゃない。そんな事は分かってる。僕は村長だ。このシエナ村の村長だ。村の皆の為にやるべき事は分かってるんだ。だけど、出来なかった。もし僕が村を離れている時に彼女にもしもの事があったら……そう思うだけで脚が震えてくるんだ。この椅子の上から立ち上がれなくなるんだ。
情けなくて笑っちゃうだろ?」
そうフェデリコは自嘲するが、トモキは笑えるはずも無い。彼は彼女を真摯に愛し、快復を願っている。彼女を失う事を何より恐れている。そんな彼を誰が笑うことができるだろうか。そんなフェデリコを見るのが辛く、トモキは顔を彼から逸らした。
そんなトモキの様子を察したか、フェデリコは「すまない」と小さく謝罪を口にした。
「だからトモキ。君が来てくれてホッとしたんだ」
そう言ってフェデリコは徐ろに立ち上がると、眠ったままのアイリスに掛けられていた掛け布団を剥がした。
「フェデリコさん?」
「そして君にも見て欲しい。彼女に何が起きているかを」
そしてフェデリコはアイリスの寝間着のボタンを外していき、されるがままになっているアイリスの胸元を大きく曝け出した。
「ちょ、ちょっと! フェデリコさん!」
「セツに伝えて欲しいんだ。この症状に心当たりが無いか。そして、この病気を治す薬を知らないか訪ねてくれないだろうか」
突然の暴挙にトモキは慌てて目元を自分で隠してアイリスから眼を逸らした。しかし続いたフェデリコの言葉にそっと手をずらしてアイリスの胸元を見た。
トモキは息を飲んだ。横になったアイリスの胃の辺りから首元まで青紫色の痣の様なものが覆い尽くしていた。元がかなり色白なだけによりその痣が際立つ。彼女の体に降りかかっている明らかな異常にトモキは圧倒された。
「これ……は……」
「最初はたぶんお腹からだったんだと思う。そこは特に痣が酷いんだ。彼女が眼を覚まさなくなった時には胸の辺りまで来てて、痣はまだ今も広がり続ける」
トモキは緊張しながらアイリスの臍の上の辺りに軽く触れてなぞった。指先から伝わる感覚だと皮膚が変色しているだけで腫れは感じられない。
「頼む、トモキ……! セツに一刻も早く伝えて欲しい。そして彼女を、アイリスを……」
フェデリコは立ち上がり、トモキの肩を掴んだ。トモキが軽い痛みを覚える程に強く掴まれたその腕は震え、声色からもフェデリコが相当追い詰められている事が感じられる。
だからトモキはその手を取り、しっかりと握り返して力強く答えた。
「分かりました……! すぐに戻ってセツに話してきます。大丈夫です。セツの事ですからすぐに手を打ってくれるはずです」
「トモキ……」フェデリコは顔を上げてトモキの顔を見つめ、眦に溜まった涙が頬を伝って落ちていく「ありがとう……それから、ごめん。宜しく頼みます……」
頭を下げて全身を震わせながらフェデリコは感謝の言葉を述べた。
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