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4-10 君、死に給う事勿れ(その10)




 東の空から陽が昇る。

 曙光が山奥の小屋を照らし、古びた木板の壁が黒から朝焼け色に変わって眩い光で白く染まる。傍らに作られた十五メートル四方程度の畑からは、湿った土を蹴破って人参や芋類の茎が伸びていて、深緑の葉が陽に照らされて萌黄色にも彩られる。前夜に僅かに振った雨の雫が葉っぱの上を滑り、乾きかけた地面に潤いを追加する。

 小屋の中では香ばしい料理の香りが巡っていた。和風の竈の上には鍋が置かれて重い蓋が蒸気でカタカタと鳴き声を上げる。蓋を開ければ炊立ての米の薫りが立ち昇る。しゃもじを突き入れれば、粘り気のやや少ない白米の隙間から一層の湯気が吹き出す。

 鼻歌を歌いながらセツは米を茶碗に装った。その上から特製の白いソースを掛けていく。別の汁茶碗には鍋からスープを注ぎ、それぞれ二つずつを盆の上へ乗せると沓脱石(くつぬぎいし)を踏んで隣の部屋の前に立つとすぅ、と一度息を吸い込み、引き戸を開けた。

 部屋の中は静まり返っていた。囲炉裏の炭は焼け落ち、朝冷えの空気に土間の温められた風が流れ込む。囲炉裏端には布団が一つ敷かれていて、その中の膨らみが一定のリズムで上下している。それを見てセツは頬を緩めた。

 セツは横目で布団の主を見ながら窓へと向かった。背伸びしながら窓を開け、更に外側にある木の雨戸を押し開けた。途端、曙光が部屋の中へ一気に差し込み、モノクロだった室内が鮮やかに彩られていく。爽やかな山の空気をセツは胸を大きく吸い込んで胸を膨らませ、窓の外から布団の方へと向き直ると白く細い両腕を左右に広げてパン、と柏手を鳴り響かせた。


「さあ、今日も一日が始まったのじゃ! 起きる時間じゃぞ、トモキ!」


 元気よく張り上げられた声が部屋中に響き、もぞもぞと布団の中身――トモキは身動ぎを始めた。上半身を起こし、寝ぼけ眼を両手で猫が顔を洗うように掻き、肺の中の腐った息を吐き出した。


「目が覚めたかの? トモキ、おはよう!」

「……おはようございます」


 自分とのテンションの違いに、心底うざったそうな眼をトモキは向けるが、セツはそれに気づいていないのか弾むような足取りで土間へと戻っていく。


(やっぱり年寄りは朝が強い……)


 セツの年齢を思い出しながらトモキはそんな悪態を吐くが、それが聞こえたかの様にセツが振り向いてトモキを睨んだ。


「何か妙な発言がした気がするんじゃが、気のせいかの?」

「さあ、気のせいじゃないですか?」


 しれっとした顔でトモキは嘯く。「歳だから耳が悪いんだよ」と内心で付け加えるのも忘れずに。


「ふむ、そうか。まあ良いわ」


 そんなトモキの呟きに当然気づくはずもなく、セツは首を傾げながらもそれ以上気にしても仕方ないと気を取り直し、準備しておいた盆を部屋の中に運び込む。


「ほれ、いつまで寝ておる。朝餉じゃ朝餉じゃ。さっさと布団を片付けんとお主は朝飯抜きじゃぞ?」


 それは困る、とトモキは未だ重さの残る瞼を揉みほぐして生え際が赤黒くなり始めた髪の毛を掻き毟って布団から立ち上がった。トモキにとって食事(エネルギー補給)は生きるためには何よりも大事な時間だ。

 急々と布団を抱え、土間を通って外に出る。畑の傍にある物干し竿に掛けると、薄着のせいで感じる肌寒さに体を震わせながら家の中に戻る。

 するとセツはすでに二人分の朝食を並べ終え、残りのスープが入った鍋を自在鉤に引っ掛けているところだった。


「戻ってきたか。それでは頂くとしようかの」


 囲炉裏を挟んで向かい合い、香ばしい薫りを吸い込みながら二人はどちらからともなく手を合わせた。


「えっと、確か……」

「いただきます、です」

「そうじゃそうじゃ。どうにも覚えにくくての」

(そうか? かなりシンプルな言葉だと思うけれど)


 やはり歳か。当然口には出さない。ともかく、今、優先すべき事は食事だ。


「それでは」


 いただきます、と二人の声が揃った。

 新しい一日がまた、始まった。





 トモキがセツの正体を知り、すでに新たに十日が経過していた。

 ずっとセツの家で寝泊まりをし、割り当てられた仕事をこなす。仕事は主に力仕事で丸太から手頃なサイズに薪割りをし、更には古くなった家屋の補修や畑仕事の手伝いだ。また近くの森の中に分け入って囲炉裏で燃やすための薪にする枝を拾い歩いたりもした。

 他にも、先日(強引に)取り決められたように十日に一度、シエナ村へ作成した薬を収めに向かう事もした。帰りには背嚢一杯に食料を詰め込み、険しい道を登り歩く。フェデリコであれば片道一日ずつの往復で二日間要するが、トモキの場合は朝に出て、その日の夜半には戻って来ることができた。それを知ったフェデリコは驚きを隠さなかったが、トモキにしてみればリハビリに近い感覚だ。

 腹の傷も肩の傷もすでに完治し、一人でシエナ村を往復しても体力的な不安は感じられない。道中、試しに道から外れて魔獣を誘い込んでみたが剣の切れ味も自身の動きにも特に違和感はなく、一撃で斬り伏せる事が出来た。

 トモキの調子は万全と言って差し支えない。だがセツの元を去ることは無かった。

 何度か夜中にこっそりと出て行くことも考えた。だが起き上がると何故だかセツの顔を見たくなり、隣の調薬室で穏やかな寝息を立てている彼女の寝顔を見ると出て行く気が失せた。そして夜が明け、一日彼女から頼まれた仕事をこなしていく内に体が生活に馴染んでいく様な気がするのだ。


(こんな……生活をしててもいいのかな……?)


 ここまで心身とも落ち着いた生活を送るのは、元の世界を含めても久しぶりだった。最後に何の不安もなく一日を過ごせたのは果たしていつだっただろうか。トモキは家の屋根の上で、板に釘を打ちつけながら記憶を探る。少なくとも高校に入学してからは記憶に無い。


「……まあいいや」


 トモキは深く考える事を止めた。考えれば考えれば不安になってくるのだ。アルフォンスやシオが亡くなったというのに自分だけこんなに穏やかな生活を送っていていいのか。いつかまた災厄が自分に降り掛かってくるのではないかと、そんな考えが湧き起こってくるのだ。自分だけならばまだしも、セツまで巻き込んでしまうのではないかと。逆に、何も考えなければ心穏やかに過ごせるというもの。


「セツはここで何も考えずに過ごしていれば、やがて心も癒えるとは言ってたけど……」


 トモキ自身、自分の在り方が正常では無いと気づいていた。こうして静かに落ち着いて過ごしていると、自分の事も客観的に見つめる事が出来る。そうして振り返ってみると、他人を誰も信用せずに剣を向ける様な人間性がとても異常な事の様に思えてきたのだ。


「誰彼構わず信用するのは問題だろうけど……」


 自分がフェデリコに言ったセリフだ。手当たり次第傷つけるのは違う、と。信用できる人間とそうでない人間を見分ける力を付ける。それが今自分に必要な事だ。まだ未熟なその見極め力を頼るならば、セツとフェデリコは信頼できると言って差し支えないだろう。

 それでもトモキは怖かった。信頼できなかった。人を信じるのが怖かった。優しく接してくれる彼と彼女が突然豹変するのでは無いかと恐れた。

 新しい釘をケースから取り出して板の隅に小さく打ち込んでいく。

 彼らを恐れると同時に、二人に迷惑を掛けるのがトモキは怖かった。今はこうして何事も無く過ごせているが、果たしていつまでこれが続くのか。いつまでも続く保証は無い。アルフォンスやシオの様に自分と関わる事で死んでしまうかもしれない。呪われた様に自身と自身の周囲の人間に振りかかる悲劇の列にセツ達が加わるのを想像してトモキは身を震わせ、その感情を抑えこむように強く金槌を釘に打ち付けた。


「……ふぅ」


 傷んだ屋根板の取替え作業を終えてトモキは額の汗を拭いた。空を見上げれば雲ひとつ無い快晴で、朝の寒気が何だったのかと思えるくらいに陽光は厳しい。

 釘や金槌を道具箱に仕舞い、トモキは立てかけてあった梯子を降りていく。折りたたみ式のそれを半分に畳み、足場の隙間から腕を通して肩に引っ掛け、左手に道具箱を掴んで家の裏手にある納屋へと向かった。

 取っ手に手を掛け横にずらす。だが開こうとするが立て付けの悪い古い扉はガタガタと音を立てて思い通りに動いてはくれない。


「……これも何とかしないとな」


 右腕に力を込めて無理やり戸を引き開ける。中には竈などで燃やすための大きめの薪が保存してあり、一部にはまだ薪割り前の短い丸太の状態の木材などが乱雑に置かれていた。それでも少し大きめに建てられた納屋にはスペースは十分にあり、適当な場所に梯子を立てかけ、道具箱を棚の上に置いていく。


「あー、そっか。そういえばもうほとんど残ってないんだっけ……」


 補修作業の次は薪割りを、とトモキは丸太を手にしようとしたが、納屋の中にはもう殆ど残っていなかった。あるのはすでに割られた薪が数本と、薪割前の丸太が一本だけ。さて、どうしようかと頭を掻きながら思案していると後ろから声が掛けられた。


「何をしとるんじゃ、こんな所で唸りおって」

「セツ」

「ああ、薪の残りがもう少なくなっておったか」


 トモキが見ていた先を脇から見て合点がいったセツもまたふむ、と顎に手を当て、耳元の白い髪をクルクルと指先で弄ぶ。


「ちょっと待っておれ」


 数瞬考えた後にセツは納屋から出て畑の方へと歩いて行く。トモキもやや遅れて追いかけると、セツは畑脇の道の上に立って眼を閉じていた。

 そして詠唱が始まった。


「地よ、風よ。その身に宿る力を妾に貸し与え、その身に刻んだ知を妾に分け与えよ。『聖霊は知を語るファントム・ウィスパー』」


 詠唱と同時に胸を抱えたセツの両手が光り、白い髪が舞い上がる。それは幻想的な光景で、トモキは思わず息を飲んでセツの後ろ姿に魅入られた。

 詠唱が終わると掌の上の光をセツは手放し、足元の地面に落ちる。瞬間、魔法陣が爆発的に地面の上で膨張し、円状に光の線が走り抜けていった。畑の盛り上がった土を越え、森の木を駆け上り、葉が風に揺られてガサガサと音を奏で、その上を巡る。それはトモキが呼吸を忘れた一瞬の事で、風はすぐに止み、逆立っていたセツの髪もまた重力に引かれて下へ伸びていく。


「ふぅ……どうした、呆けた顔をして?」

「いや……今のは魔術?」


 未だ呆然とした様子の抜けないトモキの質問に、セツは左様と頷いてみせた。


「この間伝えたであろう? 妾達吸血種は固有の魔術を以て情報を知り得ると。今は魔素を山全体に飛ばしての。山の持つ温度や湿度、空気の流れと雲の位置を探ってたんじゃ。これでこの後の天気が理解るんじゃよ」

「そんな事、本当に出来るんですか?」

「ぬ、疑っとるんか?」


 口を尖らせるセツに、トモキは少し眼を逸らして口籠った。


「いや、まあ、出来ないとは思いませんけど……」

「なら証明してみせようかの」


 そう言うとセツは一度家の中に戻り、土間に置いてあった背負うタイプの籠を引きずるようにして持ってきて、ズイとトモキに向かって差し出した。


「今晩から大雨になりそうじゃ。もしかしたらもう少し早いかもしれん。しかも数日続きそうじゃから今の薪の量じゃと足りんじゃろう。ちょっとひとっ走り森へ行って適当に木樵ってきてくれんかの?」

「……まあ別に構いませんけど。だけどどうやって切るんですか? ……まさかあの斧を使って樹の幹を切ってこいって事ですか?」


 不承不承ながら承知するトモキだが、納屋の壁に立てかけられていた斧を思い浮かべながら訝しむように尋ねた。

 納屋の斧は、普段トモキが薪割りに使っているものだが、その刃はかなり錆び付いていた。刀身のほぼ全域が錆で褐色に染まり、刃自体に欠けも見える。トモキが薪割りで使っている以上、木樵る事は出来なくは無いだろうが、太い丸太を一本切るのだって相当な手間になるだろう。


「何を言うとる。そんな物使わんでもお主の腰に立派なもんが挿さっとろうが」

「……もしかしてこの剣で木を斬れ、と?」

「他に何があるんじゃ? お主の股間の粗末なもんで樵ってこいと言うとるかと思うたか?」


 セツからのセクハラにトモキは閉口した。これ以上何か口を開くとダメージが大きくなるのは自分であると判断したトモキは死んだ魚の眼をして納屋へと向かった。


(粗末じゃない……はず)


「剣は木樵の為にあるんじゃないんですけどね。斬れ味は普通の剣より良いとは思いますけど」


 それでもトモキはせめてもの抵抗とばかりに文句を口にした。だがセツはすでに不思議そうにトモキの顔を見て首を傾げた。


「切れるんならなんでも一緒じゃ。それに――人を斬るよりかはマシじゃろう?」


 違いない。

 一縷の反撃の余地も無いセツの言葉に、トモキは今度こそ無言で籠を背負った。


「ああ、そうじゃ。序に森の中で食えそうな山菜とか木の実を見つけたら持って帰ってきて欲しいの。種類が分からんかったら手当たり次第でも構わんからの。どうせ妾が後で判別するでの。それと分かっとるじゃろうがあんまり森の奥には行くんじゃないじゃぞ? 魔獣やら魔族やらが跋扈しとるからの。あと、夕方までには帰ってくるんじゃぞ。さっきも言うたが早ければ夕方くらいから雨が降り始めるやもしれん。ついこの間も雨が振っておったから地盤が弱っているところもあるようじゃからの。寄り道をせんで早く帰ってくるんじゃぞ。いいの?」


 小学生(ガキ)の遣いか。セツの声を、嘆息しながら聞きながらトモキは森の方へと踏み入って行った。


お読み頂きありがとうございました。

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