4-7 君、死に給う事勿れ(その7)
一晩中フェデリコの様子を監視し続けたトモキだったが、結局フェデリコは何の動きも起こす事は無かった。
夜中、暗闇の中でジッと息を潜める野獣や魔獣が、道の近くまで寄ってきてトモキを捉えて離さなかったが、それらが結界内に入ろうとする度にバチリ、と電磁音に近い音を立てて前足を弾き飛ばしていた。そして彼らは入れないことを悟るとしばらく惜しむ様にトモキの周りをウロウロして、やがて去っていった。
トモキは、魔獣達が近づいて来る度に緊張を強めていた。やはりフェデリコの話は嘘だったのでは無いか、自分だけは安全でトモキを何らかの理由で亡き者にしようとしているのではないか。
(――この人を、信じていいのか……)
そんな考えばかりが過り、トモキは傍らの愛剣を離す事が出来なかった。
こんな不安に怯えて過ごすくらいならば。何度も剣を鞘から引き抜き、寝ているフェデリコの首に剣を押し当てては我に返って元の場所に戻って座る。朝までそんな時間を過ごしたトモキは、肉体的にはともかく精神的にはかなり疲弊していた。
それでもトモキは前を歩いているフェデリコには平静を装い、全てを偽り隠した。弱みを見せたくなかった。弱みを握られることを恐れた。握られた弱みによって、何かしらトモキが利用される事があってはならない。だから努めて疲労を押し隠し、黙って淡々とフェデリコの後ろを歩き続けた。
「見えたよ。あれが僕の村だ」
声を掛けられ、トモキは顔を上げた。
いつの間にか山道は消えて広い平野道に二人は出ていた。背の高かった木々は低木へと変わり、雑草や野草が生い茂る草原がそこにあった。
爽やかな風が吹き抜ける。自然の薫りの中、トモキは空を見上げた。雲ひとつ無い青空が広がり、高くまで昇った太陽が燦々と陽光を地上に注いでいる。草木は光を反射して瑞々しい碧をトモキの瞳に投影してくる。
鼻を微かに擽る薫りを吸い込み、遠くをトモキは見た。風に揺られて左右に首を振る草の向こうにうっすらと影を現した村。幾つもの家が手前から奥へと並び、村の周囲を木で出来た、大人の背丈よりも高い柵が取り囲んでいた。
トモキとフェデリコが近づくと、村の入口に当たる門の前で槍を携えていた若者の姿が大きくなる。フェデリコが手を振り、すると向こうも掲げかけた槍を降ろして手を挙げて近づいてきた。
「なんだフェデリコさんか。お帰りなさい。今回は早かったんですね?」
「やあ、ジャスパー。見張り番ご苦労様。まあね、忙しいからってセツさんに早々に追い立てられちゃったんだよ。お陰でクタクタさ。早く家に帰って一息吐きたいね」
「そうでしたか。それで、そちらの方は?」
ジャスパーとフェデリコが呼んだ門兵は、荷物を背負ったトモキを一瞥するとフェデリコに尋ねた。トモキはフェデリコの横に立つと、咄嗟に無害な笑顔を貼り付ける。それは、魔技高で生活する中で自らに襲いかかる被害を小さくするために無意識に身につけた悲しい習慣だった。だがそんな事を知らないフェデリコはその表情を見て一瞬顔を引き攣らせ、しかし気を取り直すとジャスパーに紹介した。
「ああ、彼は客だよ。トモキっていって、セツさんの所で暮らしてるんだ。今後彼も交易の為に村にやってくるから覚えておいてくれ」
「分かりました。それでは……」ジャスパーは槍を石鎚を地面に打ち付けて敬礼した。「ようこそシエナ村へ、トモキさん。何もない小さな村ですが、滞在中はごゆっくりお過ごしください」
「ありがとうございます」
ジャスパーと握手を交わし、丁寧にトモキは礼を述べた。呆れ顔でフェデリコはその様子を見ていたが、ジャスパーに辞去の挨拶を述べると村の中心部へとトモキと共に向かう。
「意外と整ってるんですね。村って聞いてましたのでもっと田舎を想像してましたし、人ももっと少ないと思ってました」
トモキは村の様子を眺めながら呟いた。
門から真っ直ぐにメインストリートとも言える道が伸びていて、その両隣にはポツポツと野菜を売っていたり、日用品を売っていたりする店が点在していた。店同士の隙間から見える村の奥側には畑が広々とあって、農作業をする農民達の姿も見える。道端には、今は消灯しているが街灯があって、警察らしき制服に身を包んだ人物が剣を腰に携えて警らをしている。他にも傭兵だろうか、軽鎧と弓や剣で武装した幾人ともすれ違っていく。
「君はここを未開の地か何かと勘違いしてやいないかい? 幾ら辺鄙な場所だからってそれなりに発展してなきゃ生活はできないからね。それに、道中で話した通り傍の山には野獣や魔獣の類も居るから最低限の武装は必要なんだよ」
トモキを連れ立ったフェデリコだが、道行く人とすれ違う度に彼らに声を掛けられ、挨拶を交わしながら歩いて行く。
「やあフェデリコ。今回は早いんだね」
「ああ、セツさんにさっさと帰れって追い返されちゃったよ」
「あら村長。いつもご苦労様」
「ヨハンナさん、こんにちは。お元気なのは結構ですけど、農作業で腰を痛めないでくださいよ」
「おう、村長。トリヴィーノから良い肉仕入れといたぜ」
「本当かい、ジョセフ! 後で寄らせてもらうから安く売ってくれよ!」
誰もが気安い様子でフェデリコに話し掛け、フェデリコもまたそんな村人の態度を気にした様子も無く気軽に応じる。そこにフェデリコが村長だという威厳や畏敬の念は見られないが、代わりに身近な存在であり、村人全てにとって家族であるかのような、そんな優しさがあるような気がトモキはした。
「……ん? どうかしたかい?」
「いえ、何でもありませんよ」
もし、こんな村で生まれていたら――そんな「if」がトモキの頭を過ったが、どうせ詮無き事だ、と考えを放り捨てた。過ぎた事を、まして自分ではどうにも出来ない出自を悩んでも仕方ないのだから。
「皆、耳が早いなぁ」
フェデリコが何処か呆れを含んだ口調で溜息を吐いた。それを聞いてトモキは正面に眼を向けた。フェデリコの視線の先には他の家よりも少しだけ大きな家があり、そしてその家の前には十人程の村人達が集まってフェデリコの帰りを待っていた。
住民達の暖かい出迎えを見て「参ったなぁ」と呟きを漏らすフェデリコだが、その声は呆れと言うよりもその実、照れくささと恥ずかしさ、そしてそれを遥かに上回る嬉しさが入り混じっていた。
「待ってたよ、フェデリコ! 今回の首尾はどうだったかい?」
「悪くない結果だったよ。ちょっと待ってくれ」
フェデリコが我が家に近づくと一人の壮年の男性が進み出て、セツとの取引結果を尋ねてくる。それに応えながらフェデリコは背負っていた荷物を下ろし、中身を取り出そうとするが、集まった村人達の怪訝そうな視線がトモキに注がれているのに気づいた。トモキは村人達の視線に居心地の悪さを覚えるが、そこに見知らぬ人物への不審以上の感情は無い様に思えた。どうやら自分の顔はこの村までは伝わっていない様だ、と少し安堵を覚えていると、トモキの背がフェデリコに軽く叩かれる。
「皆気になってるようだから先に彼を紹介させてくれ。
彼はトモキ。今後彼もセツさんとの取引に参加する事になったから顔を覚えておいてくれ」
そうフェデリコが告げると幾分皆の視線が和らぐ。が、未だ誰何の視線は強く、得体の知れない部外者に不安を覚えているようであった。
「彼は最近になってセツさんの元へ住んでいる、云わば彼女の弟子だよ」
だが村人達にフェデリコがそう告げた瞬間、全員のトモキに向けた視線が目に見えて柔らかくなった。何処か遠巻きだったトモキとの距離が近くなり、表情も怯えが混じっていたものが暖かいものに変わっていく。中にはトモキの傍に寄ってきて手を握り、「いつもありがとうねぇ……」と涙ぐみながら(トモキからすれば)見当違いな礼を述べてくる老婆も居た。
「なんだ、そうだったのかい。てっきり何処の馬の骨ともしれない行き倒れでも連れてきたのかと思ったよ。フェデリコはお人好しだからねぇ」
「ははは……」
フェデリコはトモキの素性を知らない。まさにどこの馬の骨ともしれない人物なのだが正直にそれに応えるわけにはいかず、乾いた笑い声を上げてフェデリコは誤魔化した。
その一方でトモキは恨みがましくフェデリコを睨みつけていた。
トモキはこの場に長いするつもりなど毛頭なかった。セツに村との交易役を押し付けられたとはいえ、それは一時的なものだ。傷が完治し、このまま周辺地理の情報が集まったら出て行く身だ。それ故に村の人達と親密になる気は無く、また親しまれる気もない。ましてセツの弟子になったつもりなど欠片も無く、かと言って次々にセツに対する感謝を口にする年配の方に対して、面と向かって否定するのも躊躇われた。結果、トモキは村人達を騙すような事を言ったフェデリコを非難がましく睨みつけるしか無かったのだが、そんな視線を向けられたフェデリコはどこ吹く風と肩を竦めるだけだった。
「フェデリコ」
「小父さん」
そんな中、村人達の間を割るようにして一人の男性がフェデリコの前に歩み出た。トモキが見る限り、男性はすでに老年に差し掛かろうという頃合だ。短く切り揃えられた髪にはかなり白髪が混ざり、顔に刻まれた皺は彼の人生の苦難を表している様だった。
村人達の相手をしていたフェデリコはその男性の方へ向き直ると、どちらともなく手を差し出して握手し、軽く抱き合って互いの顔を見た。
「どうやら今回も無事に辿り着けた様だな」
「はい。でも心配しすぎですよ。父について行っていた頃からもう十年は経つんですから」
「何事も慣れた物事に落とし穴が待ち受けているものだ。ましてあの道はこの辺りで最も危険なのだからな。お前なら油断することは無いだろうから問題ないのだろうが、送り出す身としては毎回不安で堪らんよ。ましてお前の父が命を落としてからまだ数年しか経っておらんのだから」
「分かっています。あの道ではちょっとした油断が命取りになりますから。これからも十分に気を付けて行きますよ」
「そうか。ならば良い。もうこれ以上悲しい思いはしたくないからな」
「ええ。せっかく父から受け取った役割ですから。まだまだ精進が必要な身でもありますし、おいそれと他の人に譲る気はありませんよ」
「理解った。ならばこれ以上は改めて言うまい。
それはそうと、山の様子はどうだったか? 何かセツ様は仰っていたか?」
「いえ、特には。特に魔物や魔族の動きに異常は把握されていない様です。ただ、ここ一ヶ月は雨が多くなりそうなので山裾や川へ近づく時は注意するようにと」
「ふむ……ではその旨を集会場の壁に張り出しておくか」
そんなやり取りを交わすフェデリコと男性の様子を、一人困惑しながら村人の中に取り残されていたトモキは眺めていたが、不意に制服の裾を引っ張られた。その感触に足元を見遣れば、トモキの腰くらいの背丈の子供達が二人、真ん丸な眼をトモキに向けていた。
「ねーねーお兄ちゃん」
「……何かな?」
全く似ていないはずなのにその姿がシオのそれに重なる。心臓を直接鷲掴みにされた様な錯覚を覚え、息苦しさに喘ぐ。しかしそれも一瞬の事で、苦しさは刹那に過ぎ去る。トモキは笑顔の被り物をしたまましゃがみ、子供達と目線を同じにして努めて穏やかに声を発した。
「お兄ちゃんってセツ様のお弟子様なんだよね?」
「そうだよ」
認めたくはないけれど。内心だけでそう吐き捨てて頷いてみせる。
「セツ様ってどんな人?」
「どんな人、か……」
トモキはセツの姿を思い浮かべた。印象としては、どこまでも白い人物。白い髪に白い着物を纏って、幼い容姿にも関わらず何処か老成し、何故か蠱惑的な眼を向けてくる時もある。非常にアンバランスな想像だが、見た目は置いておいて――
「得体の知れない人、かな……?」
川に流されてやってきた見知らぬ男を何喰わぬ顔で自分の家に住まわせる。普通の神経では考えられないが、果たして彼女は何を考えているのか。そもそも彼女は何者なのか。一週間一緒に過ごしていても一向に分からない。
「……?」
だがそんな回答をしたところで小さな子供達が理解できるはずもない。不思議そうな顔をしてトモキの顔を見上げる子供達。
「とっても素晴らしい方だよ」
だがそんな子供達の疑問に、男性との会話を終えたフェデリコが応えた。
「素晴らしい人?」
「それってスゲーって事!?」
「ああ、そうだよ」フェデリコは男の子の頭を撫でてにこやかに笑う。「村の皆があの人の作ってくれた薬のお世話になったんだ。病気になった時や怪我をした時に飲むとすーぐよくなるんだよ。マルコとジェシカも飲んだこと無いかな?」
「飲んだことあるのー?」
「もしかして、あの苦いやつ?」
マルコが顔を思い切り顰めてみせ、フェデリコは苦笑いをした。
「そ。あの苦いやつ。飲んだことあるだろう?」
「私、あの薬嫌い~」
「僕もー!」
「だけど、その薬のお陰で二人共こうして元気に遊べてるんだからね。だからセツ様には感謝しようね?」
「分かったぁ! あ、けど僕達、セツ様に会えないから『ありがとうございました』って言えない……」
「そういう時はじゃな」
眼に見えて落ち込んだマルコとジェシカの二人に、先ほどトモキに向かって涙を流して感謝を述べていた老婆が近寄ってきた。そして子供達二人の頭を皺だらけの手で撫でると、目元の皺を更に深くした。
「自分の心の中で『ありがとうございました』と唱えるんじゃ。そしてフェデリコか、そこのトモキ殿に感謝の気持ちを伝えるがええ。二人の気持ちはきっとセツ様にも伝わるじゃろう」
「え……」
「ホントー?」
「ああ、本当じゃとも。のう、トモキ殿?」
自分を巻き込まないで欲しい、とトモキは貼り付けた笑顔を固めたまま思いつつも曖昧な返事をした。自分はセツの弟子でも何でもない。そう言えたらこの心苦しさから解放されてどれだけ楽か、とは思うが、子供達から向けられる純粋な眼差しを前にしてノー、とは言えない。どうせフェデリコもセツの所へやってくるんだから、と敢えて視線をフェデリコに向けてみるがわざとらしく肩を竦めるだけで、困ったような笑みを老婆に向けてもニコニコと穏やかな微笑みを返してくるばかりだ。
「……うん、伝えておくよ。マルコとジェシカ、だったかな?」
「そうだよ!」
「ちゃんと伝えてね! 絶対だよ!」
仕方ない、と観念したトモキは極力マルコ達の顔を見ないようにして二人の髪を撫でた。
「儂等村人達もみーんな感謝しとると伝えておくれの。
それはそうとフェデリコ。セツ様の様子はどうだったかの? 息災か?」
「ええ、元気も元気。僕を蹴り飛ばそうとしかねないくらいの勢いで元気でしたよ」
「それは重畳じゃ。村に医者は居れども結局は薬が重要じゃ。あの方の作る薬が無かったら儂等もこうして元気で生きては居らんじゃろうからの」
朗らかに笑う老婆。確かに彼女の薬は良く効く、と効果をよく知るトモキも頷かざるを得ない。彼女の薬を讃え、誇らしげな老婆だったが「じゃが……」と不意に口を濁らせた。
「後、どれだけセツ様の薬を享受できるかのう……」
「何か、不安があるんですか?」
老婆の不安そうな言葉にトモキはつい尋ねた。老婆は軽く首を振って少し寂しそうに笑った。
「セツ様ももう相当な高齢じゃろうと思うてな。儂ももう六十になるが、ジェシカと同じ年頃から彼女のお世話になっておる。当時のセツ様がお幾つじゃったかは知らんが、少なくとも儂よりか年上じゃろうて。そう考えると不安でのぅ……」
老婆の言葉を聞き、トモキは眼を見開いてフェデリコの方を振り向いた。老婆の言う「セツ様」がトモキの知るセツと同じであれば、セツは相当な老齢のはずだ。しかしトモキを助けたセツはどう見ても幼子でしかなく、老婆の言うような高齢にはとても見えない。
しかし、トモキが見たフェデリコは驚いた様子は無い。老婆の話を聞きながら相槌を打ち、平素と変わらぬ様子だ。老婆の他の村人達も同じ様に老婆の言葉に頷いていることからも老婆が呆けているというわけでもあるまい。
「フェデリコさん、セツは……」
「トモキ君」
些かの混乱を覚えながらトモキはフェデリコからの答えを欲した。しかしフェデリコはトモキの言葉を遮ると、トモキに横顔を向けたままで言葉を発した。
「世の中、謎のままで居た方が良いこともあるんだ」
その口調はひどくトモキの心を握りしめた。だから「トモキ殿、お頼みます」と期待の篭った言葉を老婆から告げられても、トモキはそれに応えることが出来なかった。
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