1-3 距離は近けど、想いは遠く(その3)
手を洗うという口実でユウヤから離れたトモキだったが、手を洗った後も教室に戻る気は起きなかった。ユウヤと顔を合わせ辛いというのもあったし、先ほどのクラスの自分を見る眼を思い出すと、どうしてもあの場所に再び脚を踏み入れる勇気をすぐには持てない。とりあえず一度心を落ち着ける場所をトモキは欲していた。
他の生徒の流れに逆らいながら人通りの少ない場所へと脚を運ぶ。巨大な学校故にどこに行っても誰かしらが居るものだが、幸いにもトモキはそんな場所を知っていた。
普段授業が行われる教室棟の隣にある、実験や音楽の授業が行われる特別教室棟。朝であればそちらの教室を使う人は少ないだろうとの予想だったが、その予想通りに人影は疎らだった。その中でも特に人が居ない一階の階段横にある倉庫。その扉の前にトモキは座って膝を抱えた。
(神代君は分かってない……)
膝に顔を埋め、そこで沸き上がってくるのは助けてくれた級友に対する反発心だ。暴力を止めてくれたのは嬉しいが、それは何の解決にもなっていない。その場を収めたのはユウヤかもしれないが、どのみち時間が経って授業が始まれば止まる類のものだったのだ。僅かながらに時間の差異があったに過ぎない。どうせ介入するのなら、自分を取り巻く全てを解決して欲しいのに、と考えて、それが望むべくも無い願いであり、またユウヤに期待するべきものでも無いと改めてトモキは自覚した。
(浅ましいな、我ながら)
現状は自分で招いたものなのだ。望んで入学した高校では無いにしろ、魔術が使えないにしろ立ち回り方は他にもあったはずなのだ。それを失敗してしまったから今があるのであり、そこから抜け出せずにいるのはユウヤの言った通り自分の怠慢なのかもしれない。少なくともユウヤは善意でトモキを助けてくれたのであり、そこにそれ以上の期待を押し付けるのは間違っていると感じた。
(さっきの態度は……流石に良くないよね)
自分勝手に期待を押し付けて、それにそぐわない反応を示すと不愉快になる。追い込まれていたとはいえ、助けてくれた恩人に対する態度として適切ではない。つい先程の自分の態度を思い出して自己嫌悪に陥ったトモキは、その胸の凝りを吐息と共に吐き出した。そして気持ちも落ち着いてきたところで教室に戻ろうか、と考えていた時、
「ここに居たのか」
頭上から降ってきた声に驚いて顔を上げ、そしてその人物の姿に重ねて驚いた。
「神代君……」
「こんなところで何やってんだよ。手を洗ってくるって言ったのに戻ってこないから心配したぞ」
「心配して、くれたんだ」
「当たり前だろ。ほら、もうすぐ授業が始まる。先生が来る前に戻るぞ」
トモキに対してユウヤは手を差し出し、戸惑いながらもトモキは手を取る。端正な顔立ちに反して手は無骨な印象で、それがユウヤの努力の痕なのだと想像した。
「……さっきは悪かったな。きつい事を言って」
「ううん、僕の方こそゴメン。助けてくれたのにあんな態度取っちゃって」
「お前が謝る必要は無い。だけど、さっき俺が言った事は覚えておいて欲しい。お前だってやればできるはずなんだ。才能の無い俺にだってやれてるんだから」
またその話か。ユウヤの手に触れて感じた嬉しさが急速に冷めていき、心がささくれ立つのを感じた。膨れ上がる感情を押し込めようとするも堪え切れず、トモキは視線をユウヤの顔から冷たい床へ逸らした。
「……どうしてそんなに僕に期待するのさ?」
「期待に応えられる素養があると俺が思ってるからさ。お前には俺には無い才能がある。だから……悔しいんだよ。その才能が伸ばされずにいる事が」
「買い被り過ぎだよ。僕にはそんな才能なんて無い。神代君の勘違いだよ。それか思い込みだ」
「そんな事は無い。信じられないかもしれないが俺は何となく人が才能を持っているかが理解るんだ。お前は俺が見てきた中で一番才能がある。だから諦めて欲しくないんだ。そうだ、もしお前さえ良ければ俺が魔術の練習に付き合ってもいい。お前一人じゃ使えない原因も分からないかもしれないけど、二人なら……」
「才能なんて無いって言ってるだろっ!」
言葉を重ねてくるユウヤに対し、トモキは堪らず声を張り上げた。
「僕には才能なんて無い! だから放っといてよ!」
「そんな事は無い! 努力すれば、頑張って練習すれば……」
「努力努力うるさいんだよっ! 君が言う努力はした! 教科書に載ってる魔術も基礎理論も全部理解した! 学校にある図書も専門書も全部調べた! 先生にも聞いたけどまともに取り合ってくれない! これ以上何を努力しろって言うんだよっ!!」
入学した以上は頑張るしか無い。始めはトモキも期待に胸を膨らませていた。トモキも男子であり、人並み外れた強さや魔術に対する憧れもあった。いつかテレビで見た魔術師たちみたいに自由に魔術を行使し、人類の守護者として人々を守る姿を夢想した事もある。
だが現実はどうか。唯一自負のある頭脳を活かし、誰よりも深く魔術理論を原典から理解しても魔術を使える兆しも見えない。一人では行き詰まって教師に教えを請うても露骨に顔を顰めて煙たがる。「努力が足りない」「もっと精進しろ」などと適当にあしらうばかり。挙句、座学で一位になれば「生意気だ」と虐めはひどくなるばかりだった。
仕方なく一人で練習を重ね、詠唱も誰が聞いても完璧だと頷く流麗さと舌を巻く高速詠唱を物にした。魔素の高まりは感じられ、しかしそれ以上先に進まない。後に残るのは霧散した魔素とただ一人その場に立ち尽くすばかりのトモキの姿だけだった。
魔術が使えない。ただその一点だけで級友からは見下され、手を差し伸べてくれる友は居らず、かと言って両親の事を思えば辞める事も出来ない。故に、トモキが選んだのはただ一日下を向き、誰の気分も害さない様に黙して時が過ぎるのを待つ事だけだった。努力しても報われない虚しさだけが去来する胸中を握りしめて耐えるだけだった。
「才能が欠片でも無ければ何にもならない……!」
だからこそ腹立たしかった。努力を誇れるユウヤの姿が、もしかしたら成れたかもしれない自分の姿がユウヤに奪われてしまった様で悔しかった。けれどもトモキが尚更に苛立たしかったのはユウヤの無理解だ。トモキとユウヤは才能も能力も違う。ユウヤも努力した。そして才能を開花させた。だがトモキとユウヤは別人なのだ。同じだけの努力をしてもユウヤと同じ能力を持ち得ず、ユウヤ以上の努力をしたところで同じ頂に立てるとは限らないのだ。ユウヤが努力が報われる達成感を得た背後で、努力が欠片も報われない空虚さに身も心も削り取られていく者が居る事をユウヤは理解できていない。だからトモキはユウヤの親切を手に取ることができなかった。
「……もう僕は頑張るのに疲れたんだ。だからゴメン。放っておいてよ……」
「待て! 俺はそんなつもりじゃ……」
ユウヤの言葉に聞こえない振りをしてトモキは脇を通り過ぎて教室へ戻ろうとする。しかしユウヤは行かせまいとトモキの手を掴んだ。トモキはその手を力づくで振り解こうとユウヤの方を振り返った。
「いい加減に……っ!?」
だが振り向いた瞬間、トモキは眼を見開き驚愕に固まった。視線は一瞬だけユウヤを捉え、しかしすぐにその背後に固定されて言葉を吐き出すことができない。ユウヤもトモキの表情を見て怪訝な顔をし、トモキの視線が自らの背後に固定されている事を察して後ろを振り返った。
「何だ、これは……」
そしてユウヤも言葉を失った。
ユウヤの肩先から見えたその先にあったのは、漆黒であった。倉庫があったはずのそこは、しかし今は巨大な真っ黒な孔があって全てを飲み込まんという迫力でジワジワと迫って来ていた。
蠢く、何か。孔の中は真実、空虚だ。光さえ飲み込んでしまいそうなその中では何も見えないはずで、だがトモキにはそこに何かが居るような気がしてならなかった。
「特異点……」
トモキの口から意図せずユウヤの呟きに対する答えが零れた。
ここと、ここでは無い何処かと繋がる異次元の孔。その先がどこにあるのか研究が進められてはいるが、まだ誰も成果を挙げることができていない。一説には孔自体は次元の狭間と呼ばれる虚数空間に繋がっているだけであり、その虚数空間を介して異なる次元へと偶発的に繋がるのだと言われている。だが明らかになっている事は、その孔の中から人類を脅かす魔物が現れること、その孔の大きさに比例して強大な魔物が通れる様になること、そして日中は発生しないというのが通説であった。だからその説に従えば、決して今二人の目の前に現れた孔は特異点では無いはずだ。
しかしならば、これは何だというのか?
目の前の孔をただただ二人は凝視した。不気味なそれに魅入られたかの様に一歩も動けず、声を発することさえ忘れていた。圧倒されていた。人たる身では抗えない暴力的で冒涜的な魅力に囚われていた。
「あ……」
それでもトモキは何とか音を発した。今度こそトモキは孔の中で動く何かの姿を認め、今度は恐怖に身を強ばらせた。
(これは夢の中の……)
今朝方も見た夢。夢の中のトモキは孔の中と同じ昏きに身を置いていた。あの時、夢の世界でトモキに迫ってきたのは何だったか。思い返すまでも無く明確に象る異形の者達。血に塗れたその姿を思い出したと意識した時にはトモキはユウヤの腕を引いてその場を駈け出していた。
「久遠っ!?」
事ここに至ってようやく我を取り戻したユウヤが突然のトモキの行動に驚きの声を上げた。何を、と問い掛けを口に仕掛け、しかし孔の異変に気づく。
音が聞こえる。地響きの様な、遠方で鳴り響く雷鳴の様な低い唸り声。体の芯へと響くそれを聞き、どこから、と思う間もなくユウヤは音源を察した。
孔が吠えた。
重低音が学内へと響き、校舎の窓を震わせる。それは聞く者を竦み上がらせるに十分な声だ。ユウヤの体が強張り、トモキの脚も膝を折りそうになる。だがトモキは脚を止めなかった。
トモキは恐怖した。それでも脚を動かすのは、それもまた恐怖だった。もうすぐ孔から何かが現れる。トモキは確信を抱いていた。そして脚を止めた先に訪れる未来についても確信していた。
果たして、確信は現実と化した。逃げながら振り返ったトモキの眼に飛び込んだのは奇妙な動物だった。鳥の嘴を持ち、だが体は獅子で、その背には大きな翼が乗っていた。
グリフォン。想像上の動物の名前が脳裏を過る。だがその嘴の中には鮫を思わせる鋭い刃が隙間なく並び、猛禽類の鋭い眼差しが二人を捉えて離さない。
その奥からも新たな魔物が踊り出る。梟の頭を持つ灰色熊、翼を持った虎。この世界には在らざる化生が次から次へと孔から這い出てきていた。
グリフォンが低く唸る。巨大な体躯を丸め、息を吸い込む。一瞬黄玉色の眼を細め、そして鋭い嘴を大きく開いた。。
咆哮が響き渡る。途端に砕ける硝子。耳を劈く嘶きに思わず両耳を塞いで二人はその場に座り込んだ。
頭上から砕けた破片が降り注ぐ。顔を床に押し付ける様にして硝子の雨から身を守り、それが収まるとトモキはそっと背後を伺った。そこには満足気に身を震わせるグリフォンらしき魔物が佇んでいて、その脇を孔から溢れ出して来た獣たちが次々通り過ぎて行っていた。
「……逃げなきゃ」
悄然として魔物たちの様子を眺めていたトモキだったが、近づいてくる巨大な影が足元に差し掛かるのを見て急いで立ち上がった。早く、逃げなければ。この場から一刻も早く立ち去らなければ。
立ち尽くすトモキを責め立てる様に衝動が脚を動かす。しかし一歩を踏み出したのはトモキだけだった。
「神代君っ!?」
「久遠は先に逃げろっ! そして先生たちを呼んで来てくれ!」
ユウヤは一人、自身の何倍もの体躯を誇る魔物たちの前に立ち塞がる。腰に差していた剣を抜き取って正眼に構えると幾度と無く繰り返してきた呪文を詠唱し始めた。
「イェ・スペロ・インディシウム・エゴ・レスクリ……」
淀みない詠唱を終えると共にユウヤの体に力が漲る。ユウヤは跳躍して熊に似た魔物――グスモアに瞬時に肉薄してその剣を鋭く振り抜いた。
「破ァッ!」
気合の叫びと同時に振るわれた剣先はグスモアの首を跳ね飛ばす。鮮血が飛び散り、悍ましい叫び声を上げながら倒れ伏すグスモアを踏みつけてユウヤは続けざまに自身と同じ程度の体躯の狼達へ襲い掛かる。狼達――ディスフィンドもまたユウヤを獲物と捉え、五匹が銘々に展開してユウヤを迎え撃とうとしていた。
ディスフィンドの特徴は群れでの行動にある。一匹一匹が優れた運動能力を持つが、群れで連携して獲物を追い詰めていく。そうなれば例え腕に覚えがある魔術師であっても退治には手を焼く。トモキは授業で習ったディスフィンドの特徴を思い出した。そしてユウヤに手を貸すべきか、と頭に過り、腰に携えた剣に手が伸びかけるが、溢れてくる獣たちを前に恐怖で柄を掴んだまま動きが止まってしまった。
「イェ・エスタス・シスト・ウント・ベルトナム……」
だがトモキの心配を他所にユウヤは冷静にディスフィンド達の動きを観察していた。強化した身体能力を存分に使い、巧みに魔物の動きを誘導する。ディスフィンドを連携行動を掻き乱し、狭い廊下を利用して一箇所に集めるとユウヤは天井付近まで跳躍して魔物を見下ろした。
「アイシクル・ランス!!」
叫ぶと同時に十数本もの氷の槍が突如ユウヤの前に出現した。鋭い切先をディスフィンドに向け、ディスフィンドだけでなく周囲に居た他の魔物達も串刺しにしていく。
「凄い……!」
その様を見てトモキは羨望と感嘆を露わにした。これが学年、いや学内でも一、二を争う魔術師の実力なのか。大量の魔物を前にしても気圧されずに立ち向かい、鮮やかに魔術を行使し、剣を振り抜いて敵を屠る。その姿はかつてテレビの中で見た、かつての魔物との大規模戦争中に現れた英雄の姿と変わらなかった。人類の盾であり矛でもある尖兵の後ろ姿を体現するユウヤの姿に、トモキは溜息とともに見とれていた。
十体を越える魔物を斬り伏せたところで、一等最初に現れたにもかかわらず咆哮のみで動く気配を見せなかったグリフォンが低い唸りとともにユウヤに向かって進み出る。ユウヤを自分が討つべき敵と見定めたのかはトモキには分からない。だが、これまでのグスモアやディスフィンドとは明らかにレベルの違う相手に、一層トモキの緊張も高まった。
「……早く、先生を呼んで来なきゃ」
だが緊張のせいでトモキはユウヤから頼まれた事を思い出した。まだ依然として特異点は閉じる様子を見せておらず、繋がった何処かからか魔物は出て来続けている。流石にグリフォンほどの大物は現れていないが、このままユウヤ一人で防ぎ続けるのも限界が来るのは眼に見えている。そしてきっと自分では助けるどころか足手纏でしか無い。微かに込み上げてくる悔しさに歯噛みし、だがトモキは為すべき事をしようとユウヤに背を向けかけた。
その時。
「……っ!」
怖気が背筋を走った。それはユウヤと対峙するグリフォンから発せられたものでも無く、またそれ以外の魔物からでも無い。
それはまだ漆黒を湛える孔の奥から発せられた。少なくともトモキはそう感じた。そしてそれに気づいたのはトモキ一人であった。
瞬間、トモキは走り出した。しかしその方向は本来の目的である教室棟ではなかった。何をしている、と頭の隅で非難する声が聞こえるが、トモキはその声を無視した。それ以外の何かに追い立てられるかの様にトモキはユウヤに向かって走り、その勢いのままユウヤを押し倒した。
「久遠っ! お前何を……」
ユウヤは、級友の突然の愚行を咎めようとした。だが、すぐ自分の目の前を通り過ぎた何かの存在を認めると、二の句を告げずに唖然と自身の居た空間を見つめるしかできなかった。
「ギュアアアァァァァッ!」
叫び声を上げるグリフォン。それは敵を威嚇するものでも己を鼓舞する類のものでも無く、苦悶の叫びであった。孔から飛び出した一本の触手の様な何か。それがグリフォンの喉元を貫いてボタボタと血を垂れ流している。貫いた白い触手は、そのまま何事も無かったかの様に再び孔の中へ素早く戻っていく。
巨体が倒れ、地響きがした。トモキとユウヤ二人の目の前に見開いたグリフォンの眼が転がり、虚ろな骸が無感情に見上げている。喉から流れ落ちた血が床を流れていき、トモキのズボンを汚していったが、呆然としたトモキはそれに気づかない。ただ、異変を感じ取ったのだろう、遠くから聞こえてくる生徒達の騒ぐ声がどこか別世界の様に思えた。
しかしトモキはすぐに立ち上がってユウヤを引きずるようにして再度走り出した。グリフォンを見た直後は、初めに感じた恐怖はあの魔獣に因るものだと思った。だが、それは間違いだったと、先ほどの触手を見た瞬間気づいた。
あれは、あれは駄目だ。あれだけは誰の手にも負えない。
何が駄目なのか、問われてもトモキは応える術を持たないが、本能としてあれに触れては駄目だと知っていて、トモキを急き立てていた感情は全てあの触手から逃れる為のものだったのだ。
トモキの中に既に恐怖は無い。あるのは強迫だ。逃げる、唯逃げる。理屈でも本能でも無くそれらを凌駕した唯一つの感情だ。それだけに縋り付いてトモキは何処へともなく走る。そしてその感情がユウヤにも伝わったのか、または同じ考えに至ったのかユウヤもまた無言で一心不乱にトモキの後ろを追い掛けた。
空間が揺らいだ。走り抜けたばかりの自分の背後でそれを感じ取ったトモキは振り向かずに叫ぶ。
「頭を下げてっ!」
強い語調にユウヤは反射的に頭を下げた。トモキもまた下げ、その直後にまた先程の触手が通り過ぎて行く。触手が通過した、触れてもいないはずの窓ガラスが砕け散った。
硝子を踏み付けながらトモキは逃げた。やがて、騒ぎを聞きつけた教師達と野次馬根性に駆られた生徒達が廊下を走って二人の方へとやってくる。中には普段、トモキを罵り暴力を振るってくる級友の姿もあったが、トモキは構わず叫んだ。
「逃げてっ! 早くっ!!」
「こっちに来るなっ! 特異点だっ!」
トモキの叫びに眉間に皺を寄せる者が多かったが、すぐ後ろのユウヤが叫んで補足するとすぐに顔色を変える。しかし事態を甘く見ているのか、二人の主張に耳を傾ける者は少なく、逆に好戦的に顔を綻ばせると二人が逃げてきた方向へと走っていった。
「っ! 馬鹿野郎が!」
そんな生徒を罵りながらもユウヤは立ち止まった。
ユウヤもまた察していた。あの触手の正体が何なのか、未だ想像できないが少なくともたった一人でどうこう出来るものでは無い。ユウヤの知識の中にある魔物のどれにも当てはまらず、姿は見えずとも特A級の危険度の魔獣だろうと当たりを付けていた。でなければ、あのグリフォンがあっさりと倒されるはずが無い。
見捨てる事が出来ず、ユウヤもまた生徒の一人を追い掛ける。だが、間に合わなかった。
走りながら詠唱をしていた生徒だったが、その詠唱が完了する前に触手が彼の頭を貫いた。砕かれた頭蓋から脳漿が飛び散り、追いかけ始めていたユウヤの顔に張り付いて血腥い匂いが脳を揺らした。
「きゃああああああっ!!」
「くっそぉぉぉっ!!」
見殺しにしてしまった。撒き散らされた頭蓋に近くに居た女子生徒が悲鳴を上げ、またユウヤは激昂し、生徒を貫いた触手を切り裂かんと力任せに剣を振り下ろした。
「な、に……?」
だが剣が触れた触手は固い金属音を残し、強化したユウヤの膂力を以てしても微かな痛痒を感じた様子も無い。思いがけない事態に、ユウヤの動きが一瞬止まってしまった。
「神代君、避けてっ!!」
トモキの声に我に返る。気づけば、新たな触手がユウヤの目の前に迫っていた。
避け切れない。ユウヤの心臓が跳ね、死の景色が頭を埋め尽くした。その想像に追い付くかのように白い触手がユウヤの視界を埋め尽くしていく。しかし――
「うわあああぁぁぁぁっ!!」
触手はユウヤの目の前で方向を変えた。先ほどユウヤが斬りかかった時には傷が付く様子が微塵も無かったが、眼前では今、トモキの振るった剣によってまるで紙を切り裂くかの様に容易く触手が切り裂かれていた。
切り裂かれた触手から紅い血が滴り落ちる。それは同じ赤であっても獣たちの赤とは違うとトモキは感じた。赤みの強い魔物たちよりも深い赤。真紅と呼ぶには黒みが強く、まるで――
「悪い、助かった」
ユウヤの言葉で思考が遮られ、トモキは顔を上げた。差し出された手を今度はトモキも掴み、すぐに二人して逃走を再開する。トモキに斬られた触手は遥か後方まで退き、前方を見遣れば先ほどの生徒が殺られた光景が衝撃的だったせいか、大多数の生徒たちはトモキ達から離れ、また駆けつけた教師と腕に覚えのある特任コース生は距離を置きながら二人の後方から押し寄せる魔獣たちに向かって魔術を放っていた。だが次から次へと押し寄せる魔獣達は黒い海の様で、形勢は明らかに不利だった。
更に遠く、つい数瞬前に姿を消した触手がまた、高速でこちらへと向かってきているのが見えた。ともかくも考える時間が欲しい。ユウヤは唇を噛んだ。あの触手の正体は何か。どうして自分の剣はダメージを与えられなかったのか。何故トモキの剣は切り裂くことができたのか。情報と思考の時間が足りない。
「早く、早く逃げなきゃ……」
対してトモキの思考は逃走で塗り潰されていた。触手に斬りかかった腕は激しく震え、それでもただ「逃げなければ」という強迫観念に突き動かされていた。それは病的なまでの観念だった。
トモキの異常にユウヤもまた気が付いていた。それも急激な命の危機に晒された故に仕方ない、と冷静に考え、しかし状況は切迫していてケアを試みる余裕も、トモキに命を救われたばかりのユウヤにはない。何にせよ、早く安全な場所へ。頭上を通り過ぎて行く味方の魔術を尻目に見ながらトモキの背中を追い掛けた。
その時だ。
「邪魔なんだよっ、愚図が!」
二人の行く先で怒声が響いた。そして転がる一人の女子生徒。二人の前に横たわった少女を無視することも出来ず、思わず二人は走る速度を緩めてしまった。そして、それこそが分水嶺であった。
突如として少女を含む三人の前に広がる炎の壁。明らかに人間が行使した魔術であるそれは、本来ならば三人が通り過ぎた後に、魔物達との間に築かれるはずだ。だが熱風が正面から押し寄せてトモキ達の行く手を阻んでいた。そしてトモキとユウヤは立ち上る炎の奥でほくそ笑む一人の級友の姿を捉えていた。
「秋山ショウ! お前はっ!!」
「ひゃっはっはっ! せいぜい魔獣達と戯れてくれよ、神代――いつも殺してやりてぇと思ってたんだ。まさかこんなに早くそんなタイミングが来るとは思ってなかったけどなぁ!」
「あぁきやまぁァァァァ!!」
「神代君、後ろっ!!」
憤怒に顔を歪めたユウヤがショウを射殺さんばかりに睨んで雄叫びを上げた。そのせいですぐ背後に迫っていた触手に気づくのが遅れた。
トモキの声に反応した時には既に遅かった。触手はすでに眼前に迫っており、だが触手はユウヤに巻きつき、そのまま孔の方へと吸い込まれていく。そしてユウヤに気を取られたトモキもまた触手に口元を掴まれ、見る見るうちに笑みを浮かべるショウの姿が遠くなっていく。孔に飲み込まれ、光を失った景色は黒一色で埋め尽くされる。だが、それよりもトモキは口元の触手の感触が気になった。
どうして、どうして。
トモキには触手が女性の手にしか見えなかった。
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