4-3 君、死に給う事勿れ(その3)
「では妾も風呂に入ってくるでの。大人しく横になっておるんじゃぞ?」
部屋から出て行きながら、セツは振り返ってトモキに釘を刺した。風呂から上がったばかりのトモキは、セツから渡されたタオルで濡れた髪を拭きながら布団の中に入って頷く。
「それと、じゃが……」
言いながらセツは体を部屋から外に出すと、半ばまで引き戸を閉めた。そして頭だけを部屋の中に入れて布団の上のトモキを見てニヤっと笑った。
「妾の入浴を覗くなよ?」
「はあ……」
気の抜けたトモキの返事に、セツは詰まらなさそうに顔を顰めてみせる。
「なんじゃなんじゃその面白くない反応は。こんなにうら若き乙女の入浴シーンじゃぞ? 健全な男子ならそこはもっと喜ぶなり恥ずかしがるなり別の反応があろうが」
「そう言われてましても……」
「なんならもう一度風呂に入るか? 今度は妾と一緒に。背を流してやるぞ?」
そう言いながら今度は脚を部屋の中に入れ、白い着物の裾を僅かにたくし上げて白い足をトモキに見せつける。僅かにセツの白い頬が赤らんでいた。だがトモキはそんなセツの姿を一瞥しただけで新たな反応を示さず、呆としてセツの顔を見ただけだった。
それを見て、セツは深々と溜息を吐くと引き戸の隙間から頭を脚を引き抜いた。
「……もう良い。慣れぬ事をした妾が馬鹿みたいでは無いか。ともかく、暖かくしておるんじゃぞ。もし寒いようならそこの器に鍋の中の乳を移して飲んでおっても良いからの」
ではの、とセツが部屋を辞して戸が閉まる。土間に一度降りて、セツの足音が遠ざかるのを確認すると、トモキは溜息を吐いて呆けた様に何処ともなく見上げた。
脱力し、天井に遮られてみえるはずの無い雨空を見つめた。そして重力に引かれるがままに布団の上に上半身を倒す。伸びた前髪が舞い上がり、目元を覆い隠して視界を黒く染めた。
去来するのは何か。シオを失った悲しみか、生き延びた喜びか、独り生き延びた後ろめたさか、はたまたシオを殺したナーシェへの恨みか。恨むべきはナーシェが壊れる原因を作ったログワースか、ログワースを殺したアウレリウスか。それともアウレリウスやエヴァンス、ガルディリスに見つかった己を恨むべきなのか。それとも狂った様に次から次へと誰かが誰かを、人が獣人を、獣人が人を殺し合う世の中か。獣人が獣人を殺そうとする狂気か。人が人を殺そうとする理不尽か。
頭の中では目まぐるしく思考が巡り、しかし浮かんでは消えていく。
――もう、どうだっていい
トモキは眼を閉じた。アルフォンスと言いシオと言い、大切な人は居なくなってしまうのだ。希望を持たせて、持たせて……目の前でトモキから奪い去ってしまうのだ、世界は。只管に世界は自分を傷つけ、斬り付け、斬り裂いていく。であれば希望を抱くだけ無駄というもの。絶望を最後に見せつけて喜ぶ理不尽な世界の思う壺だ。
(それに……)
トモキが二人と出会わなければ、アルフォンスもシオも死ぬことは無かった。アルフォンスはあのままニコラウスの護衛を続けて無事何事も無く次の仕事に向かっただろう。シオは奴隷として売られていたかもしれない。だが、生きていた。生きていればこそチャンスはあり、生きていればこそ未来があった。二人の将来を、輝かしかったかもしれない未来をトモキが奪った。
良い人ばかりが死んでいく。自分と関わったばかりに死んでいく。まるで、自分が死を連れてきているかの様だ。
(さながら……死神、か……)
自嘲し、トモキは口元を歪めた。それも仕方がない。否定する要素が無い。だが、それすらどうだっていい。
どうせ、もう誰にも関わらないのだから。
「さてさて、それはどうなんだろうね」
聞こえてきた声にトモキは閉じていた眼を開けた。そして首だけを動かして布団の傍らに眼を遣れば、そこにはいつもの少年が胡座を掻き、頬杖を突いてトモキの顔を見下ろしていた。
「またお前か……」
「まあそう邪険にしなさんなって」
何が楽しいのか相好を崩し、長い前髪で隠れた眼の奥からトモキを覗きこむ。
「僕は心配だったんだよ。何時まで経っても君が学習しないから。何度希望に縋って何度希望に裏切られても希望を欲する事を止めなくて、その度に深く深ぁぁく君の心が傷ついていく。実際、もう君は限界だったろう? 誰とも一緒に居たくない、と思う程度には」
「そう、だ……誰かを傷つけるくらいなら僕はもう独りで居る事を選ぶ」
「そうかそうか。それを聞いて安心したよ。
でも、君は馬鹿だからね。いや、君だけじゃないか。人間は皆愚かだ。人間も、亜人も笑ってしまう程に愚か者だ。少なくとも、誰も覚えていない争いを続けるくらいにはね。だから君も時間が経てばきっと忘れてしまうだろう。そしてまた他人に縋ってしまう。他人を求めてしまう。そして、また裏切られてしまって絶望に身を焦がしてしまうんだ」
「僕はもう忘れないさ。他人に裏切られる痛みを思い知った。かけがえのない人を失う痛みに痛めつけられた。他人は皆去っていくんだ。この世は絶望に溢れてる。僕の周りには希望なんてない。それでもこの痛みを忘れられるなんて、そんな幸せな頭を持ってるなら、僕はこうしてまだ汚くも生きてなんていない」
「本当かい?」
「お前なんかに心配されなくても本当だよ」
「ならどうしてこんな場所でのうのうと寝てるんだよ?」
少年は怒ったように、呆れた様に肩を怒らせた。
「助けられたからってそうやって安心しきって、あっさりと他人の肩を借りて、とても他人を遠ざけてるとは思えないね。君はまだ何処かで他人を頼ってるんだ。他人が見返りを求めない無償の愛を注いでくれ得ると信じてしまっているんだ。
いいかい? 他人は所詮他人だ。人間だって亜人だって我が身が一番可愛いのは変わらない。君を助けるよりも利益にあると思えば簡単に売り飛ばすし、君が金の成る木なら容易く現金へと換金するだろう。この世界だって元の世界だってありふれているのは裏切りと悪意ばかり。こっちの都合なんてお構いなしさ。それは元の世界でもこっちの世界に来てからというもの嫌というほど味わっただろうに」
「信じてなんかいないさ」トモキは即答した。「安心したのはまだ僕が生きているから。大人しくセツさんに肩を貸してもらったのはまだ体調が回復しきっていないからだ。逃げる事は出来るだろうけど、まともに動けないって思わせた方が向こうも油断してくれる。それに、どうせ満足に情報も無いし焦って飛び出したって荷物も無ければ金も無い。食事だってまともに取れやしないんだ。なら今の内にせいぜい利用させてもらうさ」
「そうやって君が油断してると先に向こうから裏切られるんだよ。
いいさ。そうやってのんびりしてるといいよ。今は優しくしているけど、君は賞金首なんだ。優しくして油断させて、君の警戒が解けた頃を見計らって兵士なり賞金稼ぎなりを呼び寄せて、報奨金をたっぷり毟り取るに決まってる」
「大丈夫だよ」
どうしてだか先程から怒ったように言い募る少年に対して、トモキは小さく、僅かに笑ってみせた。
「その時はみんな斬り殺してしまえばいい。どうせ、周りには敵しか居ないんだから」
布団の中の剣を撫でると、トモキはもう一度眼を閉じて、今度こそ眠りの中に落ちていった。
そうして眠りを主とした生活が一週間程続いた。
深い腹部と左肩部の傷に加え、冷たい水の中に浸かり続けた代償としてかなりの体力を消費していたらしく、何時間眠ろうとも眼を閉じればすぐに眠りにトモキは落ちた。
一日の大半を深い眠りと共に過ごし、時折起きてはセツの作った食事を囲炉裏で向かい合って食べ、筋肉を解す為にストレッチをしては眠りに就く。刺された腹部の傷は幸いにして重要な臓器を避けていた様で、食事を取る分にはそれなりの痛みは伴うものの不可能という程では無かった。
だがアウレリウスに付けられた左肩の傷はトモキが思っていた以上に重症だった。数日が経ち、表面的な傷はかなり塞がったものの慢性的な痺れは取れない。寝ていても突然襲ってくる激痛に眼が覚め、脂汗に塗れて痛みに耐え、それが引いた頃にまた眠りに落ちる日々が続いた。
それでも一週間が経つ頃には痛みはかなり軽減された。セツはどうやら薬師として生計を立てているらしく、処方された薬を飲み、傷口に塗り薬を塗る。流石に魔法の様に即効性のあるものでは無かったが、今では痛みは疼痛レベルにまで治まり、痺れは残るものの日常生活や、気を付けていれば剣を振るうことも可能な状態までトモキの体調は回復を見せていた。
(普通ならまだ当分安静なんだろうけれど……)
ここでも自身の異常性を感じる。無論、セツの作る薬が優秀だったという事もあるだろう。だが、僅か一週間で表面的な傷が完全に消え、剣の素振りを始めたトモキの姿を見た時のセツの驚き様から普通ではあり得ない速度の回復だったのだろう。セツに譲って貰った白いシャツに着替え、セツの洗濯ですっかり綺麗になった魔技高制服の上着を着こみながらその時のセツの様子を思い出し、小さく息を吐き出した。
自分は何者なのか。かつてからの問いを今一度自らに投げ掛けてみるが、当然答えが出てくるはずも無く、意味の無い問いをしたと頭を掻き毟った。
軽く鼻から息を吐き出し、鞘に収まった剣を腰に挿す。そして一度剣を引き抜く。感触を確かめる様に軽く右腕で一振。特に違和感は無い。剣身を覗きこめば、光の無い眼差しの己の姿がトモキ自身の眼を覗きこんでいた。
剣を鞘に収め、トモキは土間側とは反対側にある引き戸を開けた。
「セツ」
「ぬ?」
トモキに呼ばれ、セツは顔を上げた。どうやら薬の調合作業をしていたらしく、薬草を磨り潰す薬研が正座しているセツの前に置かれていた。横には薬草を乗せた笊があり、テレビの時代劇の中でしか見たことのない道具が並べられていた。かと思えば、左隣にはビーカーやフラスコが並ぶ。だが何よりトモキの眼を引いたのは、部屋の一角を大きく占めていた、家の趣には明らかに不釣り合いな物だった。
それは機械だ。少なくともトモキはそう思った。木の床に置かれたそれは天井スレスレまで達し、穴の開けられた壁から外に向かって細い管が伸びていた。
「なんじゃ、急に? レディの部屋に入る時はノックの一つでもせんか……ぬ? なんじゃ上着を着て。何処かへ出かけるのかや?」
「あ? え、ええ」
どうしてこんな物が、とトモキの頭を疑問が占める。だが、今はそれよりも、と気を取り直して頭を下げた。
「この一週間、本当にありがとうございました。ですが、もうそろそろ失礼させて貰おうと思ってます」
丁寧にお辞儀をし、しかしセツからの反応は無い。どうしたのだろう、とチラと上目でセツの様子を確認した。
すると、セツは唖然としてトモキを見上げていた。
「ど、どうしたんじゃ、急に? 何か気に障ることでもあったかの?」
「いえ、そういう訳では無いんですが……」
「ならどうしてじゃ? 何処か急いで行かねばならぬ様があるのか?」
問われてトモキは言葉に窮した。このまま自分の傍にいればいずれセツにも死が近づいてくる。であればこれ以上ここに居るわけにはいかない。しかしそんな理由をバカ正直に話したところでセツが信じてくれるはずがない。そもそも、トモキでさえそういう役割を世界に背負わされたとすれば受け入れよう、と思っているだけで誰かに明確に言われた訳ではないのだから。単なる妄言に近いものに過ぎない。
しかし嘘を吐くにはトモキは未だ優しすぎた。この一週間セツにはかなり世話になった。利用してやる、と少年には告げたし、トモキも体力が回復するまで食事や薬を貢がせてやると思っていた。だがトモキの中には深く感謝の気持ちが芽生えてしまっていた。どんなに嘯いてみたところでトモキは依然として善人に過ぎなかった。生き延びさせてくれたセツに何も返せていない事が、トモキの決意を綻ばせてしまっていた。
「そう、ですね。早く山を降りないといけないんです」
それでもトモキは心苦しさを押し留めて嘘を吐いた。
「嘘じゃな」
だがすぐにセツに看破された。
「自分すらも騙せんようじゃ人を騙すことなぞ出来んぞ?」
「別に騙そうなんて……」
「良い。別に妾を害そうと思うて嘘を言っとるとは思っとらんからの。
お主が何を思うて出て行くと言っているのかは知らん。じゃが、妾にはどうにもお主が死に急いでいるようにしか思えん。折角助けた相手がまた直ぐに命を放り出すような真似をするなら行かせる訳にはいかんの」
トモキの脳裏に、胸を貫かれたシオの姿がよぎった。
「……そんなつもりはありません」
「そうかの? ならいいが……
それに……お主を助けはしたが、お主の治療に使うた薬に食事の代金、まさかそれまでタダだとは思っとらんよのう? 食事はともかく、実は傷口に使うた薬や熱を出したお主の治療の薬、然るべき所に売れば結構な値段になるでのう」
「……」
「別に金が欲しいわけでは無い。川を流れてきたお主が金銭の類を持っておるとは思わんしの。じゃが、まさかお主がお金の問題だけで無く受けた恩を踏み倒して出て行くような、そんな不義理を良しとする様な人間では無いよの?」
「それは……」
「と、いうのは建前じゃ」
そこまでまくし立てたところでセツはニッと笑って眼を細めた。
「は?」
「妾もこうして独りで暮らして久しいし、こんな山の中にやってくる者も少ないでの。せいぜい月に数度、山を下った所にある小さな村の者がやってくるくらいじゃ。だからまあ、なんじゃ。一言で言えば寂しんじゃな。話し相手も欲しいでの。じゃからもうしばらくこの家に滞在してくれんかの?
ああ、もちろん食事や完全に治るまでの薬代なんぞもいらん。代わりに火を焚くに必要な薪拾いと薪割り、後はそうじゃな、部屋の掃除や畑仕事なぞを手伝ってくれればよいぞ。どうじゃ? 悪い条件では無いと思うがの」
「ですが……」
「それに、お主もまだお主を川から引き上げた村の者に礼も言ってなかろう。恐らくは近々訪ねて来るでな。その時によく礼を伝えればいいぞ」
トモキの中に迷いが生じていた。この一週間、セツ以外の者がこの家を訪れた形跡は無い。セツの実際の年齢は知らないが、仮に見た目と実年齢が異なるにしても両親が居てもいいはずなのに、その両親の姿も全くない。その理由が何なのかは分からない。が、本人が言う通りセツは独りで暮らしているのだろう。老成した雰囲気のある彼女であるが、独りというのは、きっと寂しい。
トモキにもその気持ちはよく理解できた。理解出来てしまった。彼が元の世界の、またこの世界にやってきての自らの姿に意識せずに投影してしまった。
駄目だ。トモキは自らに呼びかけた。今、ここで彼女の言に従ってしまうとまた人が恋しくなってしまう。少年が言った通り同じ過ちを犯してしまう。また、裏切られるかもしれない、失ってしまうかもしれない恐怖に追われる日々が始まってしまう。
「そう言ってくれるのは有難いですが……」
「……ダメかの?」
セツの顔から大人びた雰囲気が消え、見た目相応の幼さが顔を覗かせた。上目遣いに、悪戯を怒られるのを待つ子供の様に、両親との触れ合いを求める幼子の様に。誰かを求める寂しさが、トモキが覗きトモキを覗きこんだ赤い眼に見え隠れしていた。そして、その眼差しはシオが見せた期待と酷似していた。
「……」
結局、トモキは振り切る事が出来なかった。
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