4-1 君、死に給う事勿れ(その1)
今回から通常営業です。
週一か二週に一回くらいの頻度になりますが、これからも宜しくお願い致します。
ちゃぷん、と器の中で水が弾けた。水面が躍り、雫が溢れて縁から垂れ、木の床に染みを作る。
次いで何かを絞る音。何処か懐かしさと優しさを思い出させるその音色が耳に届き、その音の正体を知りたく、トモキは眼を開こうとした。
だが、重い。全てに億劫で、開こうにも開かない瞼が気持ちを挫く。このままで良いか、とぼんやりした思考のまま息を吐けば喉を焼く痛み。一瞬無意識に息を止めてしまうが、不足した酸素を補うべく体は正直に息を吸い込み、トモキは痛みに顔を顰めた。
体が、熱い。まるで火に焼べられているかのようだ。痛みが全身を襲い、一呼吸の度に鈍痛と針に刺された様な鋭い痛みがトモキを苛む。心臓は早打ち、微かな身動ぎさえしたくないのに荒い呼吸が否応にも体を揺らして苦痛をトモキに与える。
(なん、で……)
こんなにも辛いのだろうか。こんなにも痛いのだろうか。こんなにも……心が軋んでいるのだろうか。
分からない、分からない、分からない。何か大切なものを忘れてしまっている。
眼を背けてはいけない、そんな気がするのに。キチンと考えなければいけないのに。思い出さなければいけないのに。そうだと分かっているのに考えたくない。何も考えられない。
眼を閉じたトモキの眦から一筋、涙が零れた。ただ只管に胸を劈く悲しみの声に、溢れる雫が止まらない。
だがその流れた涙の通り道を、不意に何かが掬い取った。柔らかな温かみを持った何かが、触れたトモキの蟀谷に静かな熱が伝わり、トモキの思い詰めた様な寝顔が幾分緩む。そして水を含んだ布がトモキの額に置かれた。
(冷たい……)
だが、気持ち良い。熱で真赤になったトモキの顔に微かに笑みが浮かぶ。喉の痛みも忘れて、思わず安心した様に安堵の溜息が漏れた。
トモキはその優しさの元を見たくてもう一度眼を開こうとした。変わらずに瞼はひどく重く、閉じていたい欲求に駆られるがそれを乗り切って、僅かにだが開く事に成功する。
眩しい。予想していなかった光の衝撃にトモキは思わず開いた眼を閉じてしまい、眼の奥に感じる鈍い痛みに、眉間に皺を寄せる。それでももう一度、と自分を鼓舞してソロソロと少しずつ開いていく。
やはり強い眩しさを感じるが、次第に光にも慣れていき、やがて視界全体を覆う光の中に一つの影の存在を認める。
輪郭はぼやけ、大きさも形もはっきりしない。影、とは言ってもあくまで真っ白な光に対比して陰影があるだけで、薄らと見えるその影自体も全体として白く見える。少しずつだが視界が晴れてきて、どうやらその影は人の様で、ぼやけた存在のまま身動ぎを繰り返していた。
(誰、だろう……?)
それでも靄が掛かった様な視界は完全には晴れず、薄ぼんやりとしたままだ。姿を見定めようと眼を凝らすが霧は晴れてはくれない。
やがて自分を凝視する眼差しに気づいたのか、影が振り向く。はっきり見えないが、トモキはその人物が微笑んだのが分かった。
「おや、眼を覚ましたか。一時はどうなる事かと心配したが、そうか、良かった、良かった」
声色からどうやら女性らしい。彼女は安心した様に溜息を吐き、トモキの顔を覗きこんでくる。そして額に乗せていた布を手に取ると、トモキの額や顔、首筋の汗を拭い取り、傍らに置いてあった桶の中に浸した。水をタップリと含んだそれを引き上げると両手でしっかりと絞り、丁寧に折り畳み直すとまたトモキの額に静かに乗せてやった。
(ああ……)
頭から熱が布の水で吸い取られていく。その感覚にトモキは息を吐いた。さっきの心地よさはこれか。そこでようやくトモキは、自分が誰かに看病されていることに思い至った。どうやら自分は風邪を引いてしまったらしい。
どうして風邪を引いているのか、その点については思い至る原因が無いが、ともかくもひどい高熱を出してしまっているようだ。ならばこの喉を焼く痛みも仕方ないだろう。心が軋むのは、きっと滅多にしない風邪を引いて、心が弱ってしまっているのだ。
「じゃが、まだまだ熱は高そうじゃ。今しばらく寝ているが良いぞ」
だから怖いんだ。不安なんだ。何故かは分からないけれど、ひどく恐ろしいんだ。トモキは思った。どうか、どうか僕を独りにしないで、と。
女性はトモキに寝ているように告げると立ち上がろうとする。中腰にまでなり、しかしそうしたところで彼女の細く白い手をトモキの手が力無く握った。行かないで、と不安気なトモキの声の出ない口が象った。
一瞬、女性は驚いた表情を浮かべるが、すぐに微笑みを浮かべるとまた座り直して、トモキの手を両手で柔らかく包んでやった。
「安心せい。妾はどこにも行かん。お主を独りにはせんからの。じゃから安心して眠るのじゃ」
左手でトモキの手を握り、右手でゆっくりとトモキの髪を撫でてやる。前から後ろへ。髪を梳くように優しく、優しく撫でてやる。トモキは安心して笑みを浮かべ、眼を閉じた。ずっと昔、まだ自分が幼かった日々に感じたのと同じ感触に、冷えきった心が温まっていくのを感じて懐かしさに微笑んだ。
意識が遠のいていく。だが、不安は無い。怖さは無い。全て頭を撫でるこの手が取り除いてくれた。
だから眠りに落ちる直前に、トモキは何とか絞り出した。
「ありがとう……――母さん」
気がつけばトモキは水の中で藻掻いていた。
眼を開ければすでに水面からは遠い。辺りは暗く、ただ独り。
自身の置かれた状況に理解が追いつかず、驚きと共に口の中の気泡が漏れる。当然水の中で呼吸は出来ず、トモキは苦しくなる。上を見れば、遥か遠い水面に光が一点。悲痛な表情を浮かべてトモキはそこを目掛けて泳ぐ。口から漏れた気泡を追って水面へ向かって水を掻く。
何度も何度も両手を使って上へ上へと向かっていく。だというのに一向に光は近づかない。
息が続かない。次第にトモキの水を掻く力が弱くなり、それでも必死に酸素を求めてトモキは泳いだ。歯を食いしばり、だが水面は遥か遠いまま。
やがてトモキの手が止まった。瞼が徐々に狭まり瞳が光を失う。意識を無くし、深い水底へトモキの体が落ちていく。ゆっくり、ゆっくりと光を眺めるよう仰向けのまま沈んでいく。
その時、光が動いた。
水面より上に在ったそれが水中へと沈み込む。そして水の抵抗を物ともせずに奥深くに向かって、今尚沈みゆくトモキを光の玉は追いかけていった。光はトモキとの距離を見る間に詰め、トモキの胸の上へと降り立った。
暗い水中で光が仄かに輝く。点だった光は次第に光を増し、トモキの全身を照らすほどになる。光に包まれ、トモキは眼を開けた。不思議な光に向かってトモキは手を伸ばし、暖かく輝くそれを両手でそっと掬い上げた。
途端、光が世界に溢れた。
暗く、黒一色の水中が色鮮やかに彩られていく。景色が一変し、それはトモキにとっても見覚えのある場所だった。
「ここは……っ!」
そこは家だった。家の中の一室だ。トモキは目を見開いて部屋の全てを見回した。
見覚えのある机。見覚えのある本棚。見覚えのあるクローゼットに見覚えのあるベッド。風に靡いたカーテンが涼し気な風を招き入れ、朝の香りを満たしていく。
そこはトモキの部屋だ。トモキがずっと育ってきた、帰りたくても帰れない我が家であり、毎晩寝起きしていた自分の部屋だ。明日が毎晩憂鬱で、泣くのを堪えながら眠りに落ちた毎日。故にあまり好きでは無かった自分の部屋。それなのに、どうしてこんなにも懐かしいのか。郷愁に胸が押し潰されそうになり、トモキは眉尻を下げ、泣きそうになりながら家の中を慈しむように眺めた。
「そうだ……!」
トモキは部屋を飛び出した。階段を駆け下りる。最後の数段を飛び越し、一階のキッチンへ身を躍らせた。
「母さんっ!」
息を弾ませながらトモキは母を呼んだ。呼ばれたアカリはトモキの方を振り向き、トモキが知る笑顔を浮かべた。
「おはよう。今日はゆっくりなのね」
「あ、う、うん……」
トモキは答えに詰まった。何を話していいか、次から次へと溢れてきて胸がいっぱいになって、話したいことだけが頭の中を駆け巡って、だけども言葉になってはくれない。それでもトモキは涙が溜まった目元を拭って微笑んだ。
「お、おは……」
「ああ、おはよう」
背中の方から低い声。台所のドアを開けて現れたのは、皺のよったワイシャツに身を包んだ父のケンジだった。眠た気に眼を擦り欠伸しながらケンジはトモキの脇を抜けて椅子に腰掛け、テーブルに置いてあった新聞を広げた。その父の様子もまたトモキのよく見知ったものだった。
変わっていない。何も変わっていない。その事にトモキは安堵した。そうだ、全てが夢だったんだ。いつもと同じ様にケンジとアカリと共に朝ご飯を食べ、ケンジは新聞を読みながらご飯を食べるため、アカリがプリプリと怒り出す。そんな朝は変わらずそこにあるはずだ。
「おはよう、父さん」
トモキは父を、母を感じたかった。これまでの日々が夢であった事を確かめようと、その体の温もりを実感として確認しようと、料理を作るアカリの首筋に手を伸ばした。
しかしその手はアカリの体をすり抜けた。
「あ……れ……?」
もしかしてまだ寝ぼけているのだろうか。トモキは自分の手をマジマジと見て、もう一度アカリに手を伸ばした。だが手はまたしてもアカリに触れる事無く通り抜けて行ってしまった。
「はい、ご飯。梅干しは冷蔵庫にあるから自分で出してね」
茶碗に装った、炊立ての白飯を手にアカリは振り返った。そしてトモキの体ごとトモキを通り過ぎていった。
トモキは呆然と立ち尽くした。朝食を取り始めた二人をただ眺める事しか出来なかった。そしてトモキに見つめられている二人の姿は、何処までもいつも通りであった。トモキという息子など初めから居なかったかの様に、ずっと夫婦二人だけで暮らしていたかの様に、トモキが居ないのが当たり前である様に過ごしていた。
トモキは愕然とした。父と母が居ると思っていた。ケンジとアカリを両親だとずっと思っていた。しかし、もしかしてその記憶そのものが作り物、或いは自分の想像が作り出した幻想なのではないか、そんな考えが内から首を擡げてきた。
だが。
「トモキ……」
無意識なのだろうか、不意にアカリの口からトモキの名が零れた。
そしてトモキは気づいた。いつも通りに見えた二人の様子が、よくよく見れば何処か違うことを。
記憶の中のケンジと比べ、頬は痩けてしまった様にも見える。ご飯を食べながら眼が覚めて段々と鋭くなる目付きも今日は力が無い。何処かぼんやりしているみたいで、らしくない、とトモキは思った。
アカリもそうだ。柔和な笑みは変わりないが、目元には化粧で隠しきれていない濃い隈が主張していた。食卓を見ればいつもより並べられている料理の数は少なく、二人の食事を取るペースもかなり遅かった。そして時折視線を送る先。
そこは、いつもトモキが座っていた席だ。
「父さん、母さん……」
ひどく疲れて見えた。二人の姿が、急に小さくなった様に見えた。
そう思ったと同時に、トモキの体が何かに引っ張られた様に宙に浮いた。
「え、あっ……!」
ゆっくりとトモキの体は上へと昇っていく。必死にトモキは何もない空気を掻き、藻掻き、抗う。しかしトモキは不可視の何かに手繰り寄せられ天井へと吸い込まれていく。
「父さんっ、母さんっ!!」
トモキは両親を呼んだ。だが声は聞こえるはずもなく、二人は黙ったまま食事を続けるばかりだ。背中を丸め、その様はまるで、死を間近に控えた老夫婦の様。悲しくなった。
そうしている内にもトモキの視界は急速に闇が幅を効かせてきて、体は顔以外が完全に天井の中に消えていく。
トモキは手を伸ばした。しかし当然ながら届かない。近く、だが遥か遠くにトモキは居た。
こんなに近くに居るのに、声さえ届かない。触れることも出来ない。
だから。
「父さんっ、母さんっ! 僕はここだ! ここに居るんだ! 気づいてよっ! 父さんっ、母さんっ! ねぇ!」
叫んだ。喉よ、張り裂けよと祈った。この声が、この声が二人に届くのならば、喉など裂けて潰れてしまっても構わない。血反吐を吐こうと、舌がもげようと、それで想いが届くのであれば、代償としては安い。
だから、トモキは叫んだ。
「父さぁんっっっ!! 母さぁぁぁぁんっっっ!!!」
その声を残し、トモキの姿は掻き消えていった。
そしてケンジとアカリは同時に目の前の皿から顔を上げ、天井を見つめた。そして互いに顔を見合わせ、椅子を立ち、階段を駆け上ってトモキの部屋の扉を乱暴に押し開けた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
だがトモキの部屋には誰も居なかった。毎日アカリが掃除しているおかげで埃一つ無く、そして、昨日アカリが整えた時のまま、何も変わりは無かった。
誰も居るはずが、無い。だが――
「……アカリも聞こえたのか?」
「ええ……何となくだけど……そういうケンジさんも?」
問い返してきたアカリを振り返り、ケンジは頷いた。そして眉根を寄せて、堪える様に僅かに顔を顰めているアカリを抱き寄せた。
「――大丈夫だ。あの子は、まだ生きている。何処に居るかは分からないが、生きている。絶対にだ。トモキが、そう簡単にくたばるはずがない。あの子のことはお前が一番知っているだろう?」
「そう……ね。あの子は強い子だもの。優しいから辛い事も多いでしょうけれど、きっと乗り越えて、私達の所に帰ってきてくれる。だって……貴方と私の自慢の息子だもの」
「ああ。俺達の息子なんだ。いつか、絶対に帰ってくる」
「ただ――」
アカリはケンジの肩に顔を押し付けた。
「あの子の、声を聞けて良かった……」
アカリの吐息の温もりと涙の熱をワイシャツ越しに感じ取り、ケンジは何も言わずにアカリを強く抱き締めてやった。
その仕草は、トモキがシオにしてやったものと瓜二つのものだった。
お読み頂きありがとうございました。
ポイント評価、お気に入り登録、(どんな一言でも)感想お待ちしています。




