3-14 あの人は言った、君の帰る場所は何処だと(その14)
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「外しましたか……」
木漏れ日の中でアウレリウスは立っていた。レンズの奥の眺めの睫毛を伏せ、溜息を吐きながら伸ばした手を下ろした。だがすぐに新たに詠唱を始め、励起した魔素が木々をざわつかせる。
「ちっ……グウェインの奴、いよいよ本当にしくじったみたいね。
ログワース!」
ナーシェが名を呼び、すぐにログワースが反応した。ターゲットをトモキからアウレリウスに変え、剣を片手に土の上を駆ける。トモキに迫った時と同じく鋭い出足でアウレリウスに迫ろうとした。
「『アイシクル・アロー』」
だがそれよりもアウレリウスが早い。ローブから露出した右掌に刻まれた魔法陣が光を放ち、同時にアウレリウスの頭上に無数の氷の粒が現れる。氷の粒は瞬時に形を変え、細長い矢となると直ぐ様高速で射出されていく。
「ちっ、無詠唱だと……!」
最初の数本をログワースは剣で叩き落とした。剣で叩かれた氷は容易く砕け、魔素による保護が失われて大気へと還っていく。しかし次から次へと高速で訪れる矢を捌き切れずにその足を止めた。そして前進から横へステップを踏み、回りこむようにしてアウレリウスの周りで旋回を始める。
「逃がしませんよ」
だがアウレリウスの矢撃は止まらない。絶え間なく降り注ぐそれは逃げ続けるログワースの跡に突き刺さり、徐々にその距離を詰めていく。
「ならばっ……!」
追い詰められたログワースは前に出た。氷の矢そのものの攻撃力は低いと見て、致命傷になりそうなものだけを叩き落とし、手足の抹消へのダメージも辞さない覚悟でアウレリウスへ肉薄しようとする。だが――
「私を――代教者を舐めないで頂きたい」
ログワースの行動に怒りを僅かに口調に滲ませると、アウレリウスは左腕を空に翳した。ローブの袖が細くも引き締まった腕の上を滑り落ち、幾つもの魔法陣が刻まれた肌が露わになった。その中の一つが怪しく光を放ち、同時にアウレリウスを取り囲む様に地面に光の線が走る。そして、アウレリウス自身を隠すほどの高さの炎の壁が立ち上り、剣を振り下ろしかけたログワースへと向かって爆発的に広がった。
「ぐぉ……」
直前に脳裏に走った予感に従い、ログワースは前進から一気に後ろへ飛び退く。だがそれよりも炎の壁の速度は疾く、広がった炎の壁はログワースの体を一瞬で通過し、焼いていく。
「ログワース!!」
体毛が焼け焦げ、黒く焼け野原となった地面に膝をつくログワース。剣を支えにして倒れる事はかろうじて免れるものの、全身を焼く痛みに歯を食いしばってアウレリウスを睨みつけるのが精一杯の状態だった。
全員の意識がログワースへと向かう中、トモキは動いた。
「シオっ!」
「トモキお兄ちゃん……」
「今がチャンスだ。急いでここから逃げるよ!」
突き刺さった氷杭に、腰を抜かした状態で呆然としていたシオの元へトモキは駆け寄り、手を引っ張って無理やり立たせると半ば強引に急かしながら走り始める。トモキが先を走り、シオがやや遅れて後ろを追い掛ける。キチンと付いて来ているか、その姿を確認するためにトモキは振り返る。
その瞬間、トモキは進路を変えた。駆け寄ってくるシオに向かって走り、突然の行動に驚きに表情を変えるシオをそのまま突き飛ばした。
もんどり打ちながらシオは土を巻き上げながら転がる。強かに打ち付けた背中に息が詰まり、しかしその最中、シオは目の前に居たトモキが大きく跳ね飛ばされるのを目撃した。
「があああっ……!」
「お兄ちゃんっ!!」
トモキの左腕の付け根に突き刺さっていく氷の杭。脳を焼かれる様な激痛にトモキは叫び声を上げた。衝撃によってシオの元から大きく吹き飛び、滑り転げていき、背中から木にぶつかったところでようやく止まる。
「う、あ……」
「邪魔が入りましたか……ですが異端を庇う以上、貴方も異端と認定致します」
うめき声を上げるトモキに対してアウレリウスは溜息を吐いた。そして、心底嘆かわしいといった様子で頭を振ると冷たくトモキを遠くから見下ろした。
「どう、してシオを……」
「決まっています。神は、亜人の存在を認めていない。どのようにして生み出されたのかは知る由もありませんが、理由はどうあれ滅せられるべきなのですよ」
「シオは、まだ子供なん、ですよっ……!」
「だからどうしたというのです? 子供だから罪は無いと? そんな馬鹿な。彼が罪を犯したのではありません。彼が罪なのです」
再びアウレリウスの頭上に氷の武器が形作られる。切っ先を鋭く尖らせていき、まるでナイフの様な形となったそれらは、尚もトモキに降り注ぐ。
トモキは立ち上がると体を丸めて頭を守る体勢を取った。氷のナイフに魔技高の制服を貫くほどの貫通力は無いようで体に新たに傷が付くことは無い。しかし露出した手の甲や頬を掠めて幾つもの細かな傷を作っていく。
更に厄介なものがその無数に襲い来る打撃力だった。トモキの体にぶつかって砕ける度に鈍い痛みが防御した腕の骨に響き、左肩口の痛みも相まって苦痛にトモキは悶絶し、それでも歯を食いしばって耐える。
氷の圧力に耐え切れず、トモキの体が少しずつ押し下げられていく。滑る靴に砂利が当たり、後ろへ転がっていき、そして消えた。
トモキは肩越しに背後を見た。そして息を飲む。
どこまでも広がっていると盲信していた森は途絶え、地面も消えていた。氷が砕ける音に混じって聞こえてくるのは、荒々しく流れる渓流の水が弾ける音だ。
何とかしなければ、と思うが、思いは空回りする。左肩から流れる血はトモキの体力を奪っていき、ナーシェの針を受け止めた際の毒のせいで最早頭を庇うのも辛い状況だ。額からは脂汗が止めどなく流れ落ちていき、膝から今にも崩れ落ちてしまいそう。頭痛と酩酊感が足元をぐらつかせ、視界を歪めていく。
「おや?」
不意にトモキに降り注いでいた氷の雨が止む。圧力から解放され、荒い息を吐き出してトモキは膝を突き、そして崩れ落ちる。眼下の地面がグルグルと回転し、焦点が定まらない。
「逃がしませんよ」
そう呟いて新たに魔術の矛先を向けたのはシオに接近していたナーシェだった。
彼女はログワースがアウレリウスに一方的にやられた事に唖然としていたが、トモキがシオから離れた事を見るや我に返りシオを捕まえに走った。
――早く、あの子を捕まえて里に。
ナーシェは自らに課した強迫に押されてシオに手を伸ばす。
だがそれよりも早くアウレリウスの魔術が発動した。
ナーシェの目の前で地面に魔法陣が描かれ、ナーシェの足が急停止した直後に炎の柱が空に立ち上る。一瞬で直上にあった木を焦がし、一本の枝に火が灯り、同時にナーシェのズボンと腕の毛にも引火して燃え上がっていった。
「きゃあああああっ!!」
「木に引火してしまいましたか。注意していたつもりでしたが、失敗しましたね……まあいいでしょう。森が焼ければその分亜人共を殲滅するのが容易くなるでしょうから」
地面に火の着いた体を押し付けて転がるナーシェには目もくれず、燃え上がっていく木を見ながら平然とアウレリウスは嘯いた。そして一度前髪を掻きあげて右腕を空に翳す。
「本来なら神の摂理に逆らって生まれてしまったことを後悔させながら撃滅する所ですが、女性に対して余り手荒にするのも趣味ではありません。―― 一思いに殺して差し上げましょう」
自身の腕ほどの太さの氷の杭を作り出していく。先端を鋭く加工し、ようやく体についた火を消化し終えて荒い息を吐いていたナーシェに向かって手を振り下ろした。
「ナーシェお姉ちゃん、避けてっ!!」
「え?」
シオの叫び声にナーシェはようやく自身に迫っていた危機に気づいた。顔を上げれば、直ぐ目の前に敵意の杭があった。
ナーシェは動けなかった。時間が引き伸ばされ、ゆっくりと近づいてくる杭ははっきりと見えるのに、こんなにもゆっくりと動いているのに、眼は杭に縫い付けられ、体は地面に囚われてしまった様に固まってしまっていた。
せっかく、欲しかったものが直ぐ手の届く所にあるというのに。
ナーシェの脳裏にこれまでの人生がけたたましく駆け抜けていった。
ナーシェは物心着いた時から一人だった。両親はすでに死亡し、貧しい里の中でも厄介者扱いされながら育っていった。齢が十になって里の仕事をするようになってからは誰からも粗雑に扱われ、暴力を受けながら一人、里の外れにある今にも崩れてしまいそうな荒屋で暮らす毎日であった。冬の日には凍えそうな夜を薄い毛布一枚で過ごし、骨と皮だけの体で生きていた。
常に一人。誰にも振り向かれず、誰からも求められない。だが彼女は寂しくは無かった。
彼女はすでに悟ってしまっていた。世界は、こんなものなのだと。希望が最初から無ければ絶望は無く、世界は自らに厳しいのだと気づいてしまえば何も望むことはない。故に彼女は何も欲せず、ただ与えられた環境を黙って享受するだけであった。
だから、里が人族によって滅ぼされても悲しくは無かった。
偶然彼女は里の外れに住んでいたため逃げる事ができた。人の兵士が去った後の里で、自分を虐げていた里の獣人達の無残な死骸を眼にしても、何も感じる事は無かった。ただ死体がそこにある。それくらいしか感想は浮かばなかった。
そして、他の生き残った獣人達と共に他の里へ移り住み、やがて彼女は成長した。
それも美しく。
彼女達を受け入れてくれた里は裕福で、誰もを平等に扱い、外からやってきた彼女もまた元から里に居た獣人と同じ様に接してくれた。家を準備し、働けば働いただけ適正な報酬を与える。十分な栄養を得て育った体は魅力に溢れ、里の男達に言い寄られる事が増えていく。
だがそれでも彼女は何も感じなかった。すでに、彼女の心は凝り固まってしまっていた。どれだけ愛の言葉を囁かれても、どれだけ体を許しても心は揺り動かなかった。そんな彼女の態度は、傍から見れば無情いものに映り、また女性から見ればお高く止まっている様に見られ、妬みと嫉みの眼を向けられる様になる。里での立場は次第に悪いものへと変わっていった。
彼女はそんな視線が煩わしくて独りで里を出た。身の回りの物だけを手に、夜中に誰にも声を掛けること無く独り夜の道を彷徨った。そして辿り着いたのが今の里だ。
自ら望んで里の外れに住み、里の人とは積極的に関わろうとしない。与えられた仕事を淡々とこなす日々。ログワースが里長の代理として仕事内容を毎日伝えに来る以外、誰とも関りを持つことは無かった。
そんな毎日が続いたある日、彼女は独りで里山で山菜採りをしていた。いつも通り黙々と作業をこなす中、声を掛けてきた人物が居た。
「あっと、確か……ナーシェって言ったかな?」
それがエドヴァンズ――シオの父親であった。
少し垂れた眦のせいで弱気そうな印象だった。その顔立ちに引っ張られているかの様な穏やかな口調で話し掛ける彼は、里では炭作り役を担っていてたまたまナーシェと同じ様に里山へやってきて木を探していたのだと言った。
エドヴァンズが話す中、ナーシェは変わらず愛想に乏しく終始俯きがちであったがエドヴァンズは気にした様子も無く里であったちょっとした出来事や家族の話をナーシェに話していく。そして一頻り世間話が終わるとエドヴァンズは微笑みを浮かべて去っていった。
それは偶然出会った二人が他愛の無い世間話を数分間交わす。ただそれだけの事だ。特別優しい言葉を掛けられた訳でも無く、危機的な状況を救われた訳でもない。日常の一コマにしか過ぎない。
だが、ナーシェは恋に落ちた。一目惚れだ。生まれて初めての恋に、彼女自身は戸惑い、自らの感情の正体を測りかねて悩んだ。しかし寝ても覚めても最初に思い浮かぶのは彼の事であり、すぐに彼女はその感情が恋であると知った。
戸惑いながら彼女は歓喜した。それは感じたことのない感覚であった。激しく心が揺さぶられ、ちょっとした事で不安になり、ふと眼にした他愛の無い彼の仕草で胸が躍る。
世界が俄に色づいていく様であった。いつもと変わらない日常がまるで全く異なるものの様であった。無愛想にも近かった彼女の表情にも喜怒哀楽が現れるようになり、一層彼女の魅力を増していく。彼を一目見るためエドヴァンズの家に積極的に顔を出すようになり、多くの里の獣人達の目に触れ、彼女に好意を寄せる者が増えていくが、彼女はその彼らにはまるで興味を示さなかった。ナーシェは、エドヴァンズただ一人だけを欲していた。
彼女は欲したのだ。物にしろ人にしろ、生まれて初めて彼女は何かを欲しいと思った。それは彼女が心から望んだ、初めての欲求であった。
そして、初めて故に極めて強烈な希求でもあった。独占欲が芽生えた。これまで何一つ欲しいと思わなかった、本来皆が欲する物も欲しなかった分も合わせたかの様に激しく彼女に手に入れるよう要求してきた。彼に、恋い焦がれた。
何としても、何としても彼を手に入れたかった。彼に自分を見て欲しかった。だが、彼にはすでに妻が居た。子が居た。彼女が見る限り夫婦仲も良好で幸せそうだった。ナーシェがそこに割って入る余地は無かった。それでも、諦められはしない。
そんな折に起きたシオの事件。それをきっかけにして壊れていくエドヴァンズの家庭。子に対する愛情と人への憎悪。その狭間で苦しむ彼を見て、ナーシェの中で愛おしさが増していく。
早く私を見て。
早く私を見て。
早く――私だけを愛して。
その為にはもっと、もっと彼を壊さなければ。その為には一度は逃がしてしまったシオを手に入れる必要があった。
それが、この結果だ。加速する意識と生まれては消えていく記憶達の奔流の中でナーシェは唾棄した。
所詮、自分の人生はこんなもの。ただ一つ欲しかった物ですら手にすること無く消えていく。だが、それでいい。期待した自分が愚かだったのだ。たった一つでも何かを欲しいと願ってしまったから死んでしまうのだ。
死の間際にて彼女は再び心を凍らせた。迫り来る恐怖を受け入れる為に、無様に、心が欲するがままに泣き喚いてしまわないように眼を閉じた。
しかし自身を貫く衝撃はやって来なかった。代わりに何かに優しく包まれ、抱き寄せられる感触があった。
「ログ、ワース……?」
眼を開けて呆然とその名を呼んだ。
全身の体毛が焼け焦げて黒く変色し、彼の背には大きな杭が突き刺さっていた。
それでも名を呼ばれたログワースは微かに眼を細めて微笑んだ。そして何か口を開き掛け、しかし代わりに紅い血が吐き出された。それがピシャリ、と音を立ててナーシェの頬に紅い線を作った。
「お怪我は……無いですか?」
全身を襲う苦痛を微塵も表情に出さずログワースは尋ね、ナーシェが泣きそうな眼差しを浮かべて無言で頷くと、ログワースは安心した様に強面の顔を綻ばせた。
「そうです、か……貴女を最後に守れて……良かっ……」
最後まで言い切る事無く、だが満足そうに笑って眼を閉じる。そして、ナーシェの体を抱きしめたまま、それきりログワースは動かなくなった。
「ログワース……ねぇ、ログワース、ちょっと重いからどきなさいよ。ねぇ、どいて、よ……ねぇってばぁ……」
「死にぞこないのおかげで失敗してしまいましたが、まあいいです。どうせ所詮、死ぬのが遅くなるだけ……」
「グオオオオオォォォォォォッ!!!!」
邪魔をされたアウレリウスは忌々しげに呟くが、その声を何処かから聞こえてきた雄叫びが掻き消した。その声は地の底から体の芯を震わすほどの威圧を放ち、アウレリウスだけでなくトモキとシオも身を強ばらせた。
「どこから……!」
アウレリウスは視線鋭く辺りを見渡し、声の主を探す。だが生い茂る木々と、燃え盛っていく枝葉から放たれる煙が視界を塞ぎ、見つけ出すことが出来ない。
声が止み、続いて地響きにも似た足音が轟く。煙の奥に一際大きな影が現れ、それを認めるとアウレリウスは素早く魔術を発動させた。
「そこですかっ!!」
ログワースを貫いた巨大な氷杭が数本一瞬で現れ、影に向かって打ち出された。
真っ直ぐに向かっていったそれらは全て煙の奥の影に突き刺さり、悲鳴の様な雄叫びが響いた。
ほくそ笑むアウレリウス。だが、影から何かが煙の壁を斬り裂いた。
「なっ!?」
それは巨大な鉈のような剣であった。人の身よりも遥かに巨大なそれが煙を裂き、空気を砕く。そしてその剣に込められた怒りと嘆きは、行く先の全てを砕いた。
気づけば、アウレリウスという人間は消失していた。
貫かれた剣の衝撃によってアウレリウスの上半身は肉がぶつかり合う生々しい音を立てながら微塵にまで砕かれ、撒き散らされた肉片の一部が燃え盛る火炎に飲み込まれて灰へと帰していく。残った下半身が、止まった時間がようやく動き出したかのように血を垂れ流し、バランスを失って倒れた。
「ハッ……何とかやって、やったぜ……!」
全身を焼き焦がしたミノタウロス――グウェインが煙の奥から現れ、高らかに空に向かって吠えると地響きを立てて倒れた。仰向けに伏せ、大の字になったままもう動かない。体に突き刺さった氷杭が墓標の様に空を穿っていた。
「おわ……った……?」
誰一人動く者は居ない。トモキは肩口を抑えたまま動けず、シオは腰を抜かした姿勢のまま呆然としている。アウレリウスは上半身を吹き飛ばされ、ログワースはナーシェを抱きしめたまま息を引き取っていた。
「どうして、どうして貴方が死ぬのよ……何で私なんかを……」
その中で独り、ナーシェだけがログワースの頬を何度も撫でていた。その様を、トモキは沈痛の面持ちで眺めていた。
剣を合わせた時、ログワースは「惚れた弱み」と言っていた。その言葉の通り、彼は彼女に対して恋心を抱いていた。彼女の為に、彼女が望んだことであればどんな事でもしていたのだろう。例え、彼女の眼が自分に向くことは無くても。
ナーシェに抱かれるログワースの表情は嬉しそうだ。だがその表情のまま、変わることは無い。満たされたまま、幸せそう。だが、死した今、果たして本当にそれが幸せだったのか。トモキは分からない。
トモキはこれ以上、二人の姿を見ている事が出来なかった。眉根を険しく寄せ、空を仰ぐ。そんなトモキの心情を慮った様に立ち込める煙がそれぞれ姿を覆い隠していった。
「お兄ちゃん、大丈夫……?」
シオが立ち上がって近寄りながらトモキに声を掛け、トモキはシオの姿を捉えた。酩酊感は未だ残り、視界も揺れてはいるが、そんな中でシオの全身を見る限り特に大きな怪我はしていなさそうだ。むしろ、トモキ自身の方が重症だ。
「なん、とかね」
トモキも立ち上がってみるが、足元の感覚は無い。左肩から出血で大分血を失ってしまったらしく、辺りは火に囲まれ始めているというのに熱を感じられなかった。ふらつくトモキをシオが支え、まだ動く右手でシオの頭を撫でてやる。
「……とにかく、ここから逃げよう。早くしないと火に巻かれてしまう」
自分達もだが、ナーシェもまだ生きている。ログワースに縋っている彼女も何とかして連れ出さなければ、とナーシェとログワースの方を見た。
「……あれ?」
しかし先ほどの場所にはログワースしか居なかった。ログワースは丁寧に地面に寝かされ、だがナーシェの姿が無い。何処へ、と首だけを振って彼女を探せば、トモキのすぐ傍に立っていた。
「良かった……ナーシェさんも早く逃げましょう! そして里に行って人を集めてください。じゃないと山が……」
トモキが話し掛けるが、ナーシェから反応は無い。立つ姿はゆらり、という形容が当てはまり、前髪で顔が隠れたその立ち姿はまるで幽鬼の様で、気を抜けば何処かへと消えてしまいそうだった。
ひどくショックを受けた様子の彼女を見て、トモキは実は彼女はログワースの事を本当は好きだったのではないか。そんな考えが頭を過るが、今はそれどころではないと頭を振った。
「急いでください! じゃないと山どころか里にも火が行ってしまいます!」
トモキの叫び声に、ナーシェは顔を上げた。眼は虚ろで涙で赤く腫れた瞼が痛々しい。
「里が……燃える……?」
「そうです! 早く消火しないと……!?」
トモキが話している途中、ナーシェは走りだした。身を低くし、だが進む方向は里では無くトモキの方へ。
その手には、ログワースの剣が握られていた。
「が……っ!」
ズブリ、とトモキの腹へ剣先が消えていく。感じなかった熱が、トモキの内側を痛みで焼く。突き刺さった剣の勢いに押され、トモキの体が後ろへ下がり、しかし踏み出した先は――
「おに、いちゃ……」
後ろ足の足場が崩れる。グラリと体が傾き、後ろへと投げ出されていく。その最中でトモキが眼にしたのは、トモキを庇って胸元を貫かれたシオの姿だった。
「シ、オ……!」
「里も、私も……何もかも皆消えてしまえ……!」
胸から溢れたシオの血がトモキの体を濡らす。離れてしまいそうなシオの体をトモキは薄れゆく意識の中、最後の力を振り絞って手を伸ばし抱き止める。それが分かったのか、シオは力無く微笑んだ。そして小さく口を動かした。
――ありがとう
「あはははははははははははははははははははっ!!!」
崖から落ちていくトモキが見たのは、狂った様に笑い声を上げるナーシェが、燃え盛る炎の中で自分の喉にログワースの剣を突き刺す姿だった。
「うあああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!」
トモキの絶叫が崖へ木霊する。
『この世界も悪くねぇ』
頭の中で響くアルフォンスの言葉。一度はそれに頷き、しかし今、トモキは首を横に振る。
(なんて…くだらない世界……!)
何もかもが、狂っている。
自分の心が砕けていくのを感じながら、トモキの意識は渓流の水泡と共に何処かへと流されていった。
第3話「あの人は言った、君の帰る場所は何処だと」完
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また来週か再来週にお会いしましょう。それでは。。




