3-6 あの人は言った、君の帰る場所は何処だと(その6)
3-5話から一週間連続更新中です。
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「トモキお兄ちゃん?」
トモキに掛けられていた服は、シオの来ていたパーカーだった。それを確認すると同時にトモキは声を掛けられてそちらを振り向くと、白いランニングシャツだけを着たシオが立って、パーカーを抱きしめているトモキを不思議そうな眼で見ていた。その眼には不思議と共に安堵の色が灯っていた。
トモキもまたシオがまだ居てくれた事に胸を撫で下ろし、そこでシオの腕に眼を遣った。
「大丈夫? どこも具合悪く無い?」
「え? う、うん。もう大丈夫だよ。それよりシオ、その腕は……」
シオの細い腕には幾つもの真新しい切り傷があった。一瞬ニコラウスにつけられたものか、と考えたがそれにしては傷は新し過ぎる。まだ少し血が滲んでいる箇所もあり、傷を負って然程時間が経ってない事は明らかだ。
昨日までと打って変わって積極的に話し掛けてくるシオにやや戸惑いながらも腕の傷について尋ねる。だがトモキの質問にシオは応えず、さっと腕を背中に隠した。不信に思って辺りを見回せば、少し離れた河原の上には黒い毛並みの犬が数匹横たわっていた。いずれも体のあちこちから血を流し、事切れている。
「……もしかしてシオがあの犬から守ってくれたの?」
パーカーにも昨日には無かった切り傷があり、幾箇所も血の痕がついている。まさか、と思いつつも尋ねると、シオは小さく頷いてみせた。
「トモキお兄ちゃんを、守らないといけないと思ったんだ……」
怒られるのを恐れているかの様にシオは体を縮こまらせ、トモキの機嫌を損ねないよう眼を逸らしながらも横目でトモキの様子を伺う。
「そう……そっか、ありがとう。頑張ってくれたんだね」
トモキは眼を細めて微笑み、シオの頭を撫でようとする。が、少し動いた所で手は止まった。
――やっぱり、シオには僕は必要じゃない。
死んでいる野犬達を見てトモキはそう思った。トモキは守る立場ではなくて、守られる立場。立派にシオは戦う力を持っていて、独りでもやっていける。その事を痛感し、情けなく、そして自分の思いあがりに恥ずかしくなる。
表情が曇るトモキだが、シオはそんなトモキを見てまだ本調子じゃないと感じたのか、顔を心配そうに覗きこんでくる。
「やっぱり、まだ具合悪いの?」
「あ、いやいや! 全快……とは流石にいかないけど、動けるくらいには元気になったよ。それと、左腕もシオが手当してくれたの?」
トモキの左腕には布が巻かれていた。刺さっていた矢は引き抜かれ、シオのズボンと同じ色の布には紅い血が滲んでいるが、すでに出血は止まっているようだった。
「うん、どうしていいか分からなかったから、前に里の人がしていたみたいに縛ってみたの。どう? 痛くない?」
「大丈夫だよ。まだ少し痺れて感覚が鈍いけど何とか動かせそう……いや、大丈夫だからさ、そんな顔しないでよ。シオのお陰で出血は止まってるみたいだから感謝してるよ。ありがとう」
傷の後遺症をトモキが口にした途端にシオは泣きそうに顔を顰めたため、トモキは慌てて慰める。そしてシオと向き合って感謝を口にして左腕をグルグルと回して問題ないことをアピール。そうしてやっとシオも安心したのか、顔を綻ばせた。
「あ、そうだ」
何かを思い出したか、シオは声を上げるとトモキの傍から離れる。トモキもまたその後ろに付いて行くと、そこには焚き火の跡があり、黒く焦げ落ちた枝の上に新たに新しい枝が積み重ねられていた。その前にシオは立ち、掌を積み枝に向けて翳す。
「――フレイム」
小声でそう呟いた。すると、シオの掌の中に小さな火球が生まれた。
「うそ……」
トモキは呆気に取られた。小さな火球をマジマジと凝視して固まる。そんなトモキの様子に気づく事無くシオはそれを枝の中に落とし、次第にパチパチと音を立てて枝が炎を上げ始めた。
「……シオは、魔術が使えたんだ」
「うん……僕は半端者だから、これくらいの大きさしか使えないけど」
何か思う所があるのか、シオは綻ばせていた顔に影を纏わせて俯いた。しかしすぐにまた破顔させると川の方へ走って行く。
残されたトモキは石の上に腰を下ろし、橙色に光を放つ炎の中で次第に黒く炭化していく枝を見ながら俯いた。
やっぱり、僕なんか居なくてもシオは大丈夫じゃないか。こうして一人で枝を集め、火を起こし、魔獣に襲われても返り討ちにできるだけの実力を備えている。魔術だって僕は使えないのにシオは使うことが出来る。
昏い思考がトモキの中で渦巻く。それが嫉妬だとトモキは自覚し、幼い子供に何を考えているんだ、と髪を掻きむしった。根本が赤くなった髪の毛が数本抜け落ちた。だが心は晴れない。
結局、自分は何処に行ったって必要とされていないのだ。元の世界でも、まるで存在している事が悪のように扱われ、こんな幼い子にさえ劣るのだ。そんな人間を必要としてくれる人なんて、居るはずが無い。
――体力が回復したら、別れよう。トモキはそう決意しようとした。頭が、心がおかしくなりそうだった。傷つけるべきでないのに、傷つけたくないのにシオを傷つけてしまいそうだった。淀んだ感情の赴くまま、何もかもをかなぐり捨てて心に巣食う絶望を一方的にシオに叩きつけてしまいそうな、そんな気がする。
「お兄ちゃん」
戻ってきたシオが声を掛け、トモキは暗い思考を胸の内に無理やり収めて、笑顔を浮かべてみせた。
「どうしたの……ってそれは?」
シオが持ってきたものを見てトモキは思わず声を上げた。シオの腕の中には何匹もの魚が居た。山女魚か岩魚か、それらに似た魚がどれも元気そうに腕の中で跳ね、シオの腕から逃げ出そうと足掻いている。
「お兄ちゃんと食べようと思って、朝から捕ってた。魔術は上手く使えないし、他の皆みたいに運動も得意じゃないけど魚取りや山菜を探すのは得意なんだ。トモキお兄ちゃんもお腹減ったって言ってたし、きっと美味しいよ」
そう言いながらシオは手際よく食事の準備をしていく。右手に意識を集中させると、人の物と変わらなかった手が毛に覆われていき、柔らかそうだった掌がゴツゴツとしたものに変化する。丸みを帯びていた爪が見る見るうちに鋭く伸び、それを確認するとシオはその爪を器用に使って魚の腹を捌いていった。
「それって……」
シオの腕を見てトモキは眼を丸くし、その力について尋ねようとして口を噤んだ。料理をするシオが楽しそうだったからだ。
そういえば、とトモキは獣人に関する特徴を思い出していた。獣人は、本来は獣に近い容姿をしており、しかし中には人に近い容姿へ変身することができるものも居る、と何かの本に記載されていた。元の世界では人と獣人の垣根はかなり低いが、それでも数として獣人は圧倒的に少ないため町中で数度見かけたことがある程度であり、またその誰もが人に溶け込んでいたため今の今まで失念していた。
人に変身できる条件が何なのかはトモキは知らないが、きっとシオもそうなんだろう、と納得してシオを見守る。
瞬く間に魚の内臓を全て取り出すと、薪とは別にしていたらしい木の枝に挿し、燃え上がる火の傍らに突き刺した。その手際は傍から見ていたトモキも見事と思うくらい手馴れていた。
「よくこうして魚を取って料理してたの?」
「うん。家だと余りお腹いっぱいに食べられなかったから……」
魚の火の通り具合を一生懸命見つめながらシオはそう答えた。魚から油が滲み出て火の中に落ち、一瞬だけ勢い良く炎が大きくなる。その一瞬に阻まれてトモキはシオの表情の変化を窺い知る事は出来なかった。
「……ごめんなさい」
魚を見つめていたシオの口から不意に謝罪の言葉が零れた。
「え? ど、どうしたの、急に?」
「ずっと、お兄ちゃんに酷い事をしてたから……」
酷い事、と言われてもトモキには心当たりは無い。むしろ酷い状況を齎したのは自分では無いか、という思いがあるトモキとしては困惑するばかりだ。だがシオは視線を落として話し続けた。
「怖かったんだ……」
「怖かったって……僕と一緒に居るのが?」
応じながらトモキはその言葉に納得していた。人と獣人との確執もあり、見知らぬ他人と行動を共にするというのは、幼い子供でなくても相当なストレスだ。だからトモキも理解してシオには必要以上に近づかないようにしていた。
シオは、躊躇いがちに首を縦に振った。
「攫われて馬車に乗せられた時はとっても怖かった。人が僕達をどう思ってるのかは大人達が話してたから知ってたから、とっても酷い事をされるんだって思って怖かった。トモキお兄ちゃんが助けてくれたのは分かってたけど、でもトモキお兄ちゃんも『人』だから。人はとっても怖い生き物だから何をされるのか分からなくて怖かった」
「うん……それは分かるよ」
咄嗟にトモキはシオに謝ろうと考えた。トモキ自身が獣人達に対して何かをしたわけではないが、自分と同じ「人」が為した許されざる行為に対して謝罪したい衝動に襲われた。だがこの世界に属していない自分が謝るのも何かが違う、と感じてその言葉は喉元で留まった。
「でも、その後は怖くなかったよ。トモキお兄ちゃんは優しかったし、殴ったりしなかった。意地悪をしたりもしなかったし、お兄ちゃんが良い人だっていうのは分かったから。だけど、里の大人達は皆、いつだって『人には近づくな』ってしか言わなかったから、どうしていいか分からなくて……」
つまりはシオも戸惑っていただけだった。シオの感性ではトモキを「良い人」と判断していたが、一方で大人達の言いつけでは、人は皆誰でも「悪い人」だ。子供であるシオにとって大人達の言葉は強制力があり絶対的であり、それに反する自分の感情をどう扱って良いかが、経験の乏しいシオでは分からなかった。近づきたいけど近づいては駄目。相反する二つがバランスを取った結果が、シオとトモキの間に広がる「距離」であった。
「お兄ちゃんも僕と話したかったんだよね? 途中でいっぱい話し掛けてくれたよね? 本当は僕も嬉しかったんだ。話したかったけど、言いつけを破る勇気が無くて……お兄ちゃんもさ、寂しかったよね? 話し掛けても無視されたら僕も寂しいもん。里で、皆から要らない子供みたいに、居ない子供みたいにされた時、とっても寂しかった。一人ぼっちになった時、寒かったんだ。だから、お兄ちゃんも寂しかったよね?」
伏し目からチラリと様子を伺う様にしてシオは焚き火を挟んで反対側に座るトモキの顔を仰ぎ見た。その顔は叱られるのを恐れる子供そのもので、しかし素直な少年の真摯な後悔の気持ちがありありと現れていた。
「昨夜分かったんだ。お兄ちゃんが倒れて、独りぼっちで暗い中に居て怖かった。馬車の中に居た時よりもずっと怖かったんだ。魔獣に囲まれて、一人でどうにかしなきゃって思って。とても怖かったよ。そして思ったんだ。お兄ちゃんが居てくれたからこれまで怖くなかったんだって。お兄ちゃんが僕の不安を何処かに持って行ってくれてたんだって。お兄ちゃんが頑張ってくれてたから、僕は寂しくなかったんだって思ったの。なのに、僕はお兄ちゃんにお礼も言わなくて、逆に酷い事をしてしまった。悪いことをしたから謝らないといけないって思ったんだ」
シオの気持ちは単純なものだ。同じことをされた時、嫌な気持ちになった。そして今度は自分が同じことをしてしまったから、トモキも同じ気持ちだろう。寂しかっただろう、辛かっただろう。嫌な思いをさせてしまったから、だから謝る。それだけだ。
人の心はそんなに単純なものではない、とトモキは考えている。同じ事をされても同じ感情を抱くとは限らない。そんな想定をしても時には全然見当違いの場合もある。
けれども。
シオはトモキの気持ちを慮ってくれた。トモキの心情に思いを巡らせてくれて、そして子供ながらの純粋な気持ちで素直に謝ってくれた。それは、人が人として生きる上で必要な考えであり、だけどもいつしか忘れてしまいかねないもので、トモキの周りにはその考えを置き去りにしてしまった人ばかりであった。だからこそ、トモキはシオの考えをがとてつもなく眩しいものに思えた。
「だから謝ります。ごめんなさい。それと、助けてくれて、傍に居てくれてありがとう」
「…………」
「あの、だから……これからも一緒に付いて行っても、いい?」
トモキから反応が返ってこないため、シオは不安そうにトモキを上目で見つめた。
「……ああ、勿論だよ。当たり前じゃ、ないか。一緒に……一緒に、帰ろう」
「ホントっ!?」
少し間を置いてトモキが頷いてみせると、シオはそれまでの不安で今にも泣き出しそうだった表情から一転して一気に破顔した。萎れていた耳が驚いた時と同じ様に真っ直ぐに伸び、クリっとした眼が更に大きくなって喜びを如実に表している。心底嬉しそうに笑い、そして安心して大きく胸を撫で下ろした。
「良かったぁ、お兄ちゃんに嫌われたかと思って怖かったんだ。けど、勇気を出して良かった。
あ、もうそろそろお魚焼けたかな?」
意識をトモキから火元の魚に移し、シオは「あちちっ」と声を上げながら魚が刺さった枝を手に取るとふぅふぅと息を吹きかけて冷ましながら魚に齧り付く。
「うん、もう焼けてる! はい、トモキお兄ちゃん。とってもおいしいよ!」
魚の味に一層顔を綻ばせるとトモキに向かって他の一匹を差し出す。トモキはそれを受け取って、シオと同じ様に魚の腹を齧った。
口の中に広がる濃厚な味。皮ぎしの良く乗った油が焼かれたことで程よく落ち、野性味溢れる旨味が口の中に広がっていく。温もりのある身が噛み解されて喉の奥を通って腹へと落ちていく。トモキはもう一度魚に噛み付いた。
「……お兄ちゃん?」
だが二口目は噛み千切られる事は無かった。噛み付いたままの姿勢でトモキは動きを止め、不思議に思ったシオがトモキを見つめた。
トモキは泣いていた。魚を噛み千切ろうとしても口が動いてくれなかった。小さく震え、細められた両目からは止め処なく涙が頬を流れ、一滴、また一滴と足元の小石を濡らしていく。
「どうしたの、お兄ちゃん!? もしかして、まだ火が通ってなかった? あ、それとも怪我した所が痛いの!?」
突然泣きだしたトモキにシオは狼狽し、急いでトモキの隣に駆け寄る。手当をした左腕をそっと擦ったり、おろおろとトモキの泣き顔を見上げたりして、だがトモキは奥歯を噛み締めて頭を振った。
「ううん、そんな、事ないよ……怪我も痛く、ないし、シオが、焼いてくれた魚も、とっても美味し、いよ……」
訥々と言葉を発しながらトモキはもう一度魚を囓り、震える喉で無理やり咀嚼した。
「美味しい、とっても美味しいよ……シオ、ありがとう……」
だがそこまでが限界だった。震える手で枝を石の上に置くと、しゃくりあげながら両手で目元を強く押さえつける。それでも涙は止まってはくれない。
不安だった。寂しかった。シオの言う通り、トモキは寒かった。心が寒かった。独りで居る事が怖かった。何より、シオに嫌われているかと思うことが、怖かった。この世界で、誰にも理解されないと思っていた。それだけにシオの気持ちが嬉しかった。嬉しくて堪らなかった。
「う、うぅ、あ、あ……」
これまで貯めこんできた物が堰を切ったかの様にこみ上げて、涙となって流れる。止まらない。誰かに望まれる。居ることを望まれる、ただその事がこの上なく嬉しくて心の閊が一気に取れたようだった。
「えっと……」
シオが困った様子で頬を掻く。泣いている大人に対してどのような態度を取れば良いのか、シオにはまだ分からなかった。だから彼は、自分が泣いている時に一番されて嬉しかった事をした。
「泣かないで、トモキお兄ちゃん」
戸惑いがちにシオはトモキの頭に手を遣った。そしてゆっくりと、優しい手付きでトモキの髪を撫でた。トモキよりもずっと体温の高いその温もりが髪の毛越しにトモキに伝わっていく。トモキの心に伝わっていく。
――誰かの温もりが、こんなに心地いいなんて。
ついにトモキは声を上げて号泣した。これまでギリギリの所で耐えていた心の緊張が一気に解け、溢れかえる心地良い感情そのままに涙を流し続けた。
「あり、がとう、ありがとう……」
僕と一緒に居てくれてありがとう。僕を必要としてくれて、ありがとう。
いつまでもトモキは泣き続けた。だが激しいはずのその感情は、枯れていく喉とは裏腹に、傍を流れる川の流れの様にこの上なく穏やかなものだった。
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