1-1 距離は近けど、想いは遠く(その1)
まだ異世界には行きません。
久遠トモキはひどく陰鬱な気分で項垂れた。
辺りは暗い。日射しはどこにも無く、照明のようなものもない。広がるのは足元さえも満足に見ることが叶わない漆黒の闇だけで、その中に自分が立ち竦んでいるだけでとても不安な気持ちになってくる。どこか、どこか明るい場所を探して落ち着きたくはあるが体は全身がその場に縫い付けられたかの様に動かない。声を発して不安を紛らわす事も両耳を手で塞いでこれから押し寄せてくるであろう陰惨な音に抵抗することもできない。トモキに許されている事は唯一つ、その鳶色の瞳を一点に固定して瞬きをする事だけだ。
沈んだ気持ちになりながらもトモキは落ち着いていた。否、落ち着いていたと言うよりは諦観だ。すでにこの夢を見るのも何日目だろうか。初めて見た時は訳が分からずパニックに陥りかけていたが今ではもうすっかりと慣れてしまった。どうせ自分には何も出来ない、と投げやりな気分になる。これは夢であり、夢はいつか覚める。それまでただひたすらに耐えればいいのだから。
暗く静寂だけの時が過ぎ、これまでの経験からそろそろか、と抵抗できないことに半ば諦めを含んだ吐息を肺から吐き出したのと同時にそれらはやってきた。
初めは点の様であった。暗闇の中の視点でぽっかりとできた光。最初にこの夢を見た時はそれが希望に見えた。不安で押し潰されそうになっていたトモキの眼には救いに思え、しかしすぐ後にはその認識が過ちであると思い知らされた。
遠く離れた点が何なのかトモキに見えなかった。だが少しずつそれが近づいてくることで大きくなり、光源に何があるのか分かるようになる。
忙しく動く腕と脚。踊り狂っているようにも見えれば、戦いに躍動する英雄のようにも見える。激しく腕を振り回し、丸太の様に太い脚が地面を蹴って駆け抜けていく。それが具体的に何であるかよく見えず、いつもはここで夢から覚めていた。覚めた後は夢を見ていたという感覚だけが残り、夢の中身が何だったかは掌から零れ落ちる雫の様に敢え無く霧散していた。
しかし今日は様子が異なっていた。トモキが眼を凝らしても夢は覚めず、光の正体も明らかになる程度に近づいてきた。光そのものも強くなり、姿は大きくなる。これまでにない事態にトモキは強く不安を覚えた。何かに拘束された体は動かないが、心根が恐怖で震えている、そんな気がした。やがてトモキは自分の考えが間違いであることを知った。
光と共に躍り出てきたのは獣であった。トモキも知る獣――虎や獅子をはじめ、熊や鷲、鷹など多くの肉食獣で、しかしながらそれらの姿はトモキの知る姿とは各所で異なっていた。羽を広げた虎、発達した下半身を持つ鳥たち。その姿もさることながらそれらのサイズが明らかに異なっている。虎や熊の顔の時点でトモキの体躯と並び、羽を閉じた鷲でさえその全高はトモキの立ち姿を凌駕する。気がつけば眼前に迫っていたその姿を認め、トモキは戦慄し、悲鳴を上げそうになった。
逃げ出そうにも体はその場から動けない。獣たちは銘々に争い、互いを傷つけあっていたがトモキの姿を見つけた途端に急にその動きを止める。そして示し合わせたかの如く一斉にトモキに対して襲いかかってきた。
虎が開けた口には鋭い牙が光っている。獣たち以外の場所はどうしようもない黒で覆われており、それだけに白い牙が目立って威圧感を醸し恐怖をそそる。同時に鷹が尖った毒々しい黄色で彩られた嘴を突き出してトモキの眼を抉り出そうと上空から襲い掛かる。トモキは息を呑み、悲鳴を上げることさえ叶わない。ただ襲い来る惨事に身を固くし、凶暴な嘴からしてみれば何とも頼りない瞼の薄皮で些細な抵抗を試みるばかりだった。
だが恐るべき衝撃がトモキに降り掛かることは無かった。
獣たちの生暖かい吐息が掛かる程に近くに居て、いくつかの獣はトモキの頭を噛み砕こうと分厚い顎を常の位置よりも大きく下げていた。後はその巨大な口を閉じるだけでトモキの頭蓋は微塵となり、彼らの栄養となるはずだった。しかしその口は閉じられる事は無く、代わりに一人の男がその顎を片手で支えていた。
次の瞬間、虎の獣の頭蓋がトモキの視界から消え去った。その様にしかトモキには見えなかった。だが次の瞬間にはかつて頭部が存在していたところから生暖かい血液が吹き出してトモキと、突如現れたその男を頭から濡らしていく。匂いも無い、しかしぬめり気だけは確かにある液体が顔を真赤に染める。
男が横一文字に手を振るい、それに合わせて次々と頭部が跳ね飛ばされていく。縦に振り下ろせば獣たちの体は真っ二つに割れ、無手のはずのその腕はあたかも鋭い刃の様に容易く異形のものたちを弑していった。
血が噴き出し、砕かれた頭蓋の骨が飛び散り、脳漿が飛沫となって体を汚す。トモキなど容易く屠れるはずの獣たちが為す術もなく切り裂かれ、貫かれ、そして倒れていく。一面黒の床に赤い獣の血が流れ、そこで初めてトモキはむせ返る匂いが自身の肺腑を満たしている事に気づいた。
吐き気がこみ上げ強くえづく。キリキリと胃がきつく締め付けられ、いつの間にかトモキは膝を突いて胃の中身を吐き出していた。何度も何度も嘔吐し、口元と床に突いた掌を容赦なく汚す。獣の血と吐瀉物が混ざり合って、床のパレットが得体の知れない色へと変貌していく。
吐く物も無く、やがて収まり掛けたトモキだったが、それでももう一度大きくこみ上げてくるものに耐え切れず、それを吐き出した。それを見てトモキは目を見開いた。
吐き出したものは自らの血であった。獣の血と吐血が完全に入り混じり、全てを真赤に変える。
襲う戦慄。真赤に染まった自分の掌を震えながら見つめる。と、視界の端に男の脚が踏み入ってくる。血溜まりを踏みしめ、自分の脚が汚れることも厭わずにトモキの目の前に立つ。トモキはゆっくりとその男を見上げた。
全身を赤く染め上げた男の姿。ダラリと下げた腕の指先からは斬り裂いた獣の血が溜りに流れ落ちて音を立てている。そして、その顔を見た。
その顔は、自分の顔だった。
今度こそトモキは悲鳴を上げた。
「――っ! はぁ、はぁ、はぁ……」
ベッドの上でトモキは跳ね起きた。息は荒く、眼は胡乱で焦点が合わさらない。収まらない呼吸の中、トモキは慌てた様に顔を動かして自身の居場所を確認する。遮光性の高いカーテンの裾からは微かに曙光が漏れ、頻度の高い呼吸音の合間には雀がじゃれあう声が聴こえる。その声を聞き、トモキはようやく落ち着きを取り戻した。
ベッド脇のデジタル時計を見遣る。時刻は午前六時手前を示している。更に奥に視線を動かせば木製の焦茶色をした学習机がいつもと変わらない静寂さで佇み、白い壁紙に映えている。トモキは前屈みになって大きくため息を吐いた。
(なんだ、今の夢は……)
獣の様な生物の夢はこれまでに幾度か見てきた。特にここ数日は毎日の様にトモキはうなされ、しかしそれでも遠巻きで眺めている程度で、その正体も判別が困難であった。そのまま朝を迎えてトモキを悩ませては居たが、時間が経つと霧散して記憶の端に追いやられるのが常だ。それが今晩に限って明瞭で、しかも――
トモキは頭を振った。これ以上思い出したくも無いし、思い出しても何にもならない。再びため息を吐くと、右手を額に当てた。そこでヌルリとした感触を覚えた。
「――っ!」
手にベットリと付いたのはただの汗。魘されている間に掻いただけの冷や汗であった。だがトモキは手に付着する、夢で見た獣たちの真っ赤な鮮血を幻視した。
「う……」
口元を抑えてトモキはベッドから駆け下りた。ドアを押し開け、足早に洗面台へと駆けこむと激しく嘔吐した。
「がは、げほっ……」
すでに昨夜の食事は消化され、吐き出すのは黄色い胃液ばかり。それでもなおトモキの胃は拗じられたかの様に絞り上げられて無理やり消化液を吐き出させる。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
冷たい汗が噴き出して薄青い半袖のシャツが背中に張り付く。気分の悪さは続き、しかしいつまでもこうして居るわけにもいくまいとトモキは顔を上げた。そしてそこで鏡に映る自らの顔を見た。
「ひっ――!」
その途端にトモキは腰を抜かして倒れこむ。板張りの床に尻を強かに打ち、背中も白い壁紙が貼られた壁に打ち付けるがその痛みもトモキには気にする余裕が無かった。
一瞬だけ映った鏡の中の自分。その顔は頭部から流れる血に塗れて真赤に染まっていた。まるで先ほど見た夢の中の自分の様で、トモキは慌てて顔を両手で拭い去った。しかし改めて見た自分の掌のどこにも血は付いておらず、何度顔を拭って頭に触れようとも変化は無い。そして恐る恐る鏡を覗きこんでみるが、そこにあったのはいつもと変わらない、自信なさげな自らの顔だった。
「見間違いか……」
考えてみれば当たり前のことだ。思い返してみてもベッドから落ちたりだとか机の角で頭を打ち付けた形跡も無い。昨晩だって何か怪我をしたわけでも無く、であるなら血が流れ出るはずがない。まして、夢の出来事が現実の世界を侵食したかのように具現化するはずもない。安堵のため息を吐き、しかしながら気分は優れない。頭は重く、体は気怠い。
「また今日が始まったのか……」
いつも起きる時間よりまだ三十分程早い。かといってまたベッドに戻って眠る気持ちにもなれない。眠れるとも思えない。階下に意識を向ければ、すでに起きているだろう母の朝の準備の物音が聞こえてくる。
(僕も準備するか……)
鏡に映る自分の顔は暗い。それを夢見のせいだと自分に言い聞かせ、気分を変えるべく蛇口から流れ落ちる冷たい水をトモキは顔に叩きつけ、寝ぐせの目立つ黒髪を蛇口の下へ押し込んむ。流れ落ちる冷水が頭を冷やしていくが、気分はやはり晴れなかった。
気分と同じく重い体を動かして着替える。入学して一年以上が経ち、初めは服に着られている感のあった魔技高の制服も、今は手慣れた様子で身につけていく。鞄の中を覗き込み、必要な教科書類が入っていることを確認すると、トモキは机の上に置かれていたスケッチブックを教科書の上に乗せた。着替え終え、鞄を肩に担ぐと部屋の壁に立て掛けてあった一口ひとふりの剣を手にした。魔技高の特任コースに入学する時に全員に支給される剣で、しかしトモキのそれは貰い物だった。かつての在校生から譲り受けた、と彼の両親は話していたが、その話を裏付けるように鞘や柄には一瞥では分からない程度の微細な傷が多く付いていた。
数秒その剣を掲げる形でトモキはじっと見ていたが、やがて剣を腰に挿し、階下へと向かっていった。
「おう、トモキ。おはよう」
「あら、もう起きたの? おはよう。今日って早く行くんだったっけ?」
一階に降りたトモキを出迎えたのは父・ケンジと母であるアカリの声だった。薄いピンク色のエプロンを身につけて朝食の準備を進めていたアカリは、トモキの着替えた姿を見て近くにある時計を見るが、自分が時間を間違えていないことを確かめる。
ダイニングの椅子に荷物を置き、トモキはその隣に腰掛ける。
「おはよう。いいや、ただちょっと早く眼が覚めただけだよ。でもせっかくだから早く行こうとは思ってるけど」
「そう? ならちょっと待ってて。もう少しでご飯できるから。お父さんと一緒に……そうだ、先にお味噌汁から飲んでて」
そう伝えながらアカリは一層忙しなく動き回る。微かに染めた茶色の髪を振り回して、だがどこか楽しそうに朝食を作っていく。すでに四十を越える齢のはずだがトモキから見てもまだ若々しく、ともすれば幼くも見える。対照的に父親であるケンジはトモキの対面に座り、ワイシャツ姿で新聞を広げている。黒縁の細い眼鏡を掛けて細かな文字を追っているが、アカリと同年齢にも関わらず頭部には白髪が目立っていた。
「はい、召し上がれ。もう少しでご飯も炊きあがるからね」
先に出来上がった味噌汁をケンジとトモキの前に置くとアカリは炊飯が完了するまでの時間を活用して食器を洗い始める。
「それじゃ俺も先に頂くとするかな」
ケンジは読んでいた新聞を折り畳むと、箸筒から自分の分とトモキの箸を取り出してトモキに渡す。そしてトモキに対して目配せをすると二人で声を揃えた。
「頂きます」
それは昔からの習慣で、丁寧に両手を合わせて挨拶をし、ケンジは最初の一口を飲み込むとホッと息を吐いた。しかしいつもならばケンジと同じように味噌汁に口を付けるトモキの手が動かない。
「どうした? 吸わないのか?」
「え……ああ、うん。ゴメン、何でもないよ」
ケンジが心配気な声を掛けたところでトモキは我に返った。慌てて茶碗を手に取って湯気の上がる味噌汁を口元に持っていく。だが口を付けるも碗を中々傾けることができない。
アカリの手から渡された時、トモキの眼には味噌汁の中身が真っ赤な血の様に見えていた。無論それは見間違いでしか無く、今のトモキには単なるいつもの味噌汁でしかないのだがどうしても夢の光景が脳裏にちらついてしまう。それでも勇気を振り絞って飲み干していく。具を箸で掻き込み、熱い汁が臓腑へと流れ落ちて、ようやくそこで一息吐けた気がした。
だがそんなトモキを、炊き上がったご飯を置きながらアカリが心配そうに覗きこむ。
「……どうしたの、トモキ? 具合でも悪いの?」
「え? いや、そんな事は…ないけど、どうして?」
「だって顔色が悪いわよ? 真っ青になってる」
「……ちょっと変な夢を見ただけだよ。それで眼も覚めちゃってさ。大したこと無いよ」
「ならいいんだけど……」
「なあ、トモキ」
ケンジが手にしていた茶碗と箸を置き、テーブルに肘を突いてトモキに向き合う。
「学校ではうまくやっていけてるか? お前が自分から問題を起こすとも思えないが、大人しくて我慢する癖があるし、優しいから迷惑掛けるのを気にして誰にも相談できない、なんて事になってないか?」
「なんだよ、急に」
「いや、こんな事お前に言うべきじゃないんだろうけど、魔技高専は特殊な場所だからな。お前の性格とは合わないことが多いだろうし、俺たち大人の都合で入学させてしまったから気にしてるんだ。お前が本当は普通の高校に入学したがってたのも知ってるし」
「大丈夫だよ」
トモキは即答してみせた。
「確かに少し上手くいかない時もあるけど、そんなの何処だってあるからさ。仮に僕が行きたかった高校に入学してたとしても起こり得る問題だしね。父さんたちが気にする事は無いし、心配すること無いよ」
「そう言ってくれるのは有難いけどな、せめて心配くらいはさせてくれよ。俺たちはお前の親なんだからな」
「分かってるよ。父さんたちの気持ちは、さ。感謝してる。でも大丈夫だから。
っと、ゴメン、今日はやっぱり朝ご飯はやめとく。もう学校に行くね。父さんも仕事頑張って」
「ああ、ありがとうな。気をつけて行けよ」
本当はトモキも話したい事があった。二人が気兼ねなく相談してほしいと本心から願っている事は気づいてもいたし、例えば恋の話や進路の話であればすんなりと相談できた、と思う。
しかし、トモキは今抱えている悩みを気軽に話す気にはなれなかった。言えば必ず両親に不安と心配を掛けてしまうから口にすることは憚られた。心配をさせてくれ、とケンジはトモキに言ってくれたが、だからといってトモキが心配させたいかと言えば逆であり、そんな両親だからこそ余計に心配する話題は避けたかった。だからこそ強引に話を断ち切った。これ以上優しい言葉を掛けられれば、胸の裡を晒してしまいそうだったから。
鞄を肩に掛けて黒い頑丈なブーツに近いフォルムの靴の紐を結んでいく。手早く結び、アカリが追いかけて来るのを背後から感じながら、だがトモキは敢えて無視して玄関から飛び出していった。背後からの「気をつけて!」という母の声に後ろ手で応えながら。
そんなトモキを見送ったアカリは腰に手を当てて「もうっ……」と一人憤慨してみせる。トモキの姿が小さくなり、角を曲がって見えなくなるまで見送り、すると大きくため息を吐いて肩を落とした。
「ねえ、お父さん……やっぱりトモキ、何か隠してるわよね?」
「たぶんな」眼鏡のズレを直し、コーヒーを流し込んでその熱さに僅かに顔をしかめた。「だけどアイツももう十七だ。悩むこともあるし、傷つく事もある。俺らに言えない悩みだってあるさ」
「でもあの子が通ってるのは魔技高よ? 普通の環境とは違うんだし、あの子も普通とは違うわ。私たちならただの喧嘩で済むような諍いだって魔術師同士なら取り返しの付かない事になりかねないのよ」
「だとしても、だよ。他の道を俺たち大人が閉ざしてしまったんだ。あの子はもうそういう世界で生きていかなくちゃいけないし、生きていく術を身につけていかないといけない」
「私たちの過ちのツケをあの子に背負わせるというの?」
「そうだ。私たちが背負わせてしまったんだ。だからといって悔やんでばかりいても仕方ない。俺だってあの子には辛い思いをさせたくはないよ。だけどもう数年もすれば俺たちの手が届かない世界へ行ってしまう。時計の針は戻せない。なら俺たちは俺たちができる事をするしかないだろう?」
「…………」
「俺たちはあの子を見守ってやればいい。そしてあの子がどうしようもなく途方に暮れてしまった時にサインを見逃さずに助けてやればいいさ」
「……親っていうのは本当に難しいものね」
アカリは椅子に座って力なくため息を吐き出した。ケンジもまた白髪の目立つ髪を掻くと、コーヒーを流し込んで息を吐く。
「本当に、苦いもんだな……」
お読み頂きありがとうございました。
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次回は10/7の14時頃掲載予定です。