陛下、愚痴る
十数年も焦がれて、幾度も会いたいと申し入れようとしては魔女と悪魔に邪魔をされ、何とか策を講じてようやく会えた彼女は
――あの時魔女が『この子の記憶を代償に』と告げた通り、私の事を何も覚えてはいなかった。
***
「……ルイス」
ずらりと本棚が立ち並ぶ執務室に入り、私が座る机まで近付いてきたルイスは、片眼鏡越しに私を見下ろした。その左腕には分厚い書類の束を抱えている。臙脂色のジュストコールに緑のタイ。ダークグレーの髪を後ろで一つに括った彼は、古狸を押しのけて摂政の座に座った冷静で優秀な男だ。
書類を見る時にいつも掛けている眼鏡が、尚更この男を冷徹に見せている。一方の私はといえば、早朝から剣を振るっていたため、騎士が着る麻色と緑のチュニック姿。ルイスの方が王に見えるかもしれないな、と思う。
「お顔の色が優れませんね。何かございましたか」
こいつ、全てを分かって言っているに違いない。相変わらず、底意地の悪い男だ。
(――大有りだ。いや、何もなかったと言うべきか)
昨夜の出来事を思い浮かべながら、私はルイスに問うた。
「お前、リゼラに何と言って王宮に引っ張り出した」
きらり、と彼の眼鏡が光る。紫の瞳に浮かぶのは、どう見ても揶揄いの色だ。
「後宮の秩序を正していただきたい、とお願いいたしました」
「……」
「王妃様は聡い御方です。王妃という座にも魅力を感じる事はないだろうと思いまして、ヴェルシュタイン領への支援金と謎解きという餌にて釣り上げました」
ふうと溜息をついたルイスは、逆に私に尋ねてきた。
「目の下にクマが出来てらっしゃいますね。昨夜は、よくお眠りになりませんでしたか」
「寝られる訳ないだろうが……」
自分の声には、うんざりとした響きが含まれている。ルイスがふうむとワザとらしく首を傾げた。
「昨夜の事を、お聞きしてもよろしいので?」
はあ、と深い溜息をついて、私は言葉を継いだ。
***
リゼラの事情聴取?は、多岐に渡っていた。私が話した細かな事も、一々小さな手帳に取っていた。こんなところも、あの頃と変わらないのか。
『リゼラ……』
『あ! それから陛下、この件についてはですね……』
怖ろしく、生き生きしているように見えるのは、おそらく気のせいではあるまい。隣で、ぶつぶつ言っているリゼラを見下ろす。艶やかな飴色の髪に柔らかそうな白い肌。考え事をする時に尖らせる、薔薇色の唇。薄布の寝間着では隠せない、女性らしくなったまろやかな曲線。次第に薄暗くなっていく部屋の中で、温かな蝋燭の光に照らされている彼女の横顔が……とても美しかった。
――覚えていた通り。覚えていた通りのリゼラが、そこにいた。
(いや、正確には美しく成長したリゼラが、だが)
思わず編んだ髪に手を伸ばしかけたところで、リゼラが顔をあげて私を見た。ぎくりとした私は右手を引っ込める。
『ありがとうございます、陛下。こんなに遅くまで』
顔をあげたリゼラの瞳に、心臓の鼓動が一拍遅れた。
『いや……』
ふっと微笑んだ彼女の口元に気を取られている間に、リゼラの右手が白いカップに伸びていた。
(!)
喉が渇いていたのか、すっかり冷めた茶を一気に飲み干したリゼラを見て、私の顔から血の気が引いた。
『リゼラっ、その茶は!』
『え?』
カップを奪い取って中身を見ると、すでに空だ。慌ててカップを置き、リゼラの両肩を掴んだ。
『リゼラ、大丈夫なのか!?』
私を見上げるリゼラの瞳は潤み、零れ落ちてしまいそうなぐらい大きく見開かれていた。
『ふえ? 大丈夫で……?』
リゼラの身体が大きく揺らいだ。私は咄嗟に手を差し伸べ、リゼラの腰を支えた。
『リゼラっ……!』
――すうすうすう……
くたりと力の抜けた身体。閉じられてしまった瞳。安らかな寝息に、少し紅潮した頬。すっかり眠ってしまったリゼラを抱き締め、私は溜息をついた。
『この茶の効果か』
リゼラが入れてくれた、赤茶色の茶に視線をやる。この薔薇のような甘い香り。我が王家に伝わる――魅了の魔力が入った茶だ。俗に言う、媚薬効果がある。王妃となる娘の、初夜の痛みを軽減するために飲ませるものだが。
(リゼラは何も知らなかったようだな)
筆頭侍女のサフィニアは、わざとリゼラに教えなかったのだろう。あれは今の後宮の在り方と、私の不甲斐なさに眉を顰めている女だ。リゼラの後宮での地位を確たるものにするために、この茶を出してきたのか。
『どうやらリゼラには、媚薬としての作用は効かないらしい』
身体の緊張をほぐす薔薇茶の効果だけ出たらしい。魅了が効かないのは、リゼラの体質のせいか。
『あの悪魔の姉でもあるし、魅了にはなじみがあるのだろうな……』
私はリゼラの身体を抱えたまま、立ち上がった。腕の中のリゼラは、温かくて柔らかくて、いい匂いがした。
天蓋付きのベッドに彼女を寝かせると、私も隣に横たわった。ほっそりした身体を抱き締めると、リゼラが小さく身震いした。
『これくらいの役得は許せよ、リゼラ』
『ふ、む……ん……』
全く起きないリゼラを腕の中に閉じ込めながら、私は天蓋を見上げていた。リゼラの温かさが、心地よくて――そして辛い。それでも手を離す事など出来ない。待ち望んだ存在が、今ここにいるのだから。
(ああ、そうだな。明日の朝一番に、日の薔薇を贈ろう)
黄金に近い色合いの大輪の薔薇は、リゼラによく似合うだろう。王家の薔薇園にしか咲かない、希少な花だ。これで私がリゼラを大切にしている事が、周囲にも伝わるだろう。
――一刻も早く、お前を『王妃の間』に迎えたい――
だが、そのためには、リリティスを何とかする必要がある。手は尽くしたものの、未だ有効な手段が見つかっていない。今のままでは、そう遠からぬうちにあの娘は。
私はリゼラを抱く腕に力を込めた。
(やはり、魔女の力を借りねばならないのか……)
出来ればリゼラを巻き込みたくはなかったが、そうも言っていられないかもしれない。魔女に繋ぎを取るには、リゼラが必要になる。
考えに集中していた私は、ついうっかりリゼラを強く抱き締めていた。彼女が眉を顰め、もぞもぞと身体を動かす。
『……、へい、かぁ……』
『リゼラ?』
ぽやんとした目で私を見上げるリゼラ。半開きの唇が小さく動く。大きな瞳に吸い込まれそうで、思わず生唾を呑んだ。
『……くる、しい……』
『あ』
力を入れ過ぎていたらしい。手を緩めると、ふにゃりと笑ったリゼラは、また目を閉じた。しかも、私の胸に縋り付きながら……だ。
(……辛い……)
愛おしくて堪らないリゼラの身体を抱き締めて……そのまま一晩中……
***
私を見下ろすルイスの紫の目は、どう見ても冷ややかだった。
「それで早朝から、溜まったモノを発散させるために訓練ですか。付き合わされたアーノルド騎士団長も気の毒に」
「あいつには愛妻がいるのだから、少しぐらいはいいだろう」
机に両肘をつき、再び深い溜息をついた私にルイスが言った。
「……陛下。一言言ってもよろしいでしょうか」
「何だ」
ルイスの片眉がくっと上がる。
「どうしてそのまま契りを結ばなかったのです。リゼラ様は一年とはいえ、王妃となる事を承諾なさったのですよ? 諸外国への正式なお披露目はまだにしろ、結婚誓約書にもサイン済み。王が王妃を抱いて何が悪いのです」
私はむっと口を曲げ、ルイスを見上げた。
「リゼラには全くその気がなかったのにか? 無理矢理抱いて、嫌がられたくない」
ルイスが眉間を指で揉んでいる。呆れたような声色で私にとどめを刺してきた。
「……これだから初恋を拗らせた男は。面倒にも程がありますよ。一夜を共にしながら、手も出せないとは――まあ確かに、リリティス嬢の件がありますから、陛下がリゼラ様を食べていれば、節操なしと思われたのは確実でしょうね」
「ぐっ」
「その上、舞踏会ではディアナ様が早々にリゼラ様に接触した様子。かの御方の事ですから、嫌味の一つや二つ言ったでしょうし」
「うっ」
「『男爵令嬢の側室』に呼ばれた王には置き去りにされ、他の側室からは嫌味を言われ。リゼラ様が通常の貴族令嬢でしたら、これだけで潰されているところですよ」
「っ」
何も言い返すことが出来ない。ルイスの言う事はもっともな事ばかりだからだ。だから、少しでも誠意をと思い頭を下げたのだが――
『ぜっんぜん、気にしませんから!』
そう言い切ったリゼラ。あの後の嬉々として尋問する様子を見ていても、本当に何も気にしていないようだった。
(それはそれで、ゆゆしき事態だ)
リリティスの対処も、他の側室達への対応も、そしてリゼラへの求婚も。早急に何とか手を打つ必要がある。
(シェルニアの動きも気になるしな)
おそらくリリティスの一件にはシェルニアが絡んでいると見て間違いないだろう。だが、何の証拠もない。我がディアマンテ王国は、魔法国家シェルニアに比べると、魔術では大きく後れを取っている。証拠など、解析しようがないのだ。
唯一シェルニアの魔術師を上回る魔力の持ち主である魔女は、今もかの国との国境近くで役目に就いている。
(魔女に王宮まで足を運ばせるわけにもいかぬし、かといってリリティスを『王妃の間』から出すのは危険すぎる)
あまりの前途多難さに、うううと呻き声を上げた私の目の前で、山高く書類の束を積んだルイスは、「愚痴はもう十分お聞きました。さあ、とっとと仕事して下さい、陛下。今日も予定が詰まっているのですから」と冷たく笑って告げたのだった。
サフィニア「え、薔薇茶を飲んで寝てしまわれたのですか!?」
リゼラ「そうなの、疲れてたのかしら、やっぱり。話の途中で寝てしまうなんて、陛下に悪いことしたわね」
サフィニア『このリゼラ様のご様子から言って……昨夜は何も……』
エリン『……陛下……』
サフィニア『これは陛下を問い詰める必要がありますわね』
エリン『協力いたします、サフィニア様』
リゼラ「? 二人ともどうしたの? こそこそ話して」
サフィニア&リゼラ「いいえ、何もございませんわ」
陛下「……背筋に悪寒が」
ルイス「病気などしてる暇ありませんよ。はい、次」