期間限定王妃、口説かれる
かりかりかり……
陛下のペンの音が執務室に響く。私は分厚い資料をめくりながら、その音を聞いていた。
陛下はすぐルイス侯爵に、後宮の会計資料を出すよう、言ってくれた。ルイス侯爵が、戸棚から紐で綴じられた分厚い書類の束を出し、私に手渡した。ずっしりと重い。
『機密書類になりますから、この部屋からは持ち出さないで下さい』
そうルイス侯爵に言われた私は、執務室に置かれてあった作業机をお借りし……今に至る。
(うーん……)
頁をめくる手を止めた。とある箇所を読んだ私は、冊子に要点を記入していく。
宝石にドレス、王妃の間や後宮の改装工事代。庭園の手入れ。新しく雇った侍女や近衛兵の人数。それから薬に魔除け――
――去年の収支と今年の収支があからさまに違う。後宮に側室が入ってから、出費が格段に増えているのは分かるのだけれど。
(一番がディアナ嬢ではないなんて、ねえ)
一人だけ、支出が突出している側室がいる。言わずと知れた、ここ三ヶ月姿を見せていない彼女の事だ。それが今も続いているという事は――
(少なくとも、可能性の一つは消えたという事かしら)
彼女がすでにこの世の人ではなく、誤魔化すために寵姫とした可能性も考えたが、お金の動きがあるという事は生きている可能性が高いという事だ。
(これだけの額が動くのは、普通じゃないわ)
おそらく後宮内で一番お金が掛かっているであろう、ディアナ嬢の支出より高いなんて不自然すぎる。宝石やドレス以上の、『何か』に対して対価が支払われているに違いない。
私は顔を上げ、ちらりと陛下の方を見た。ルイス侯爵から渡される書類にサインをし、二人で税金の話をしているようだ。
赤字が出ている訳ではないので、国としてはこの出費は許容範囲なのだろう。だけど。
(使途不明金も結構出ているわよね)
あの切れ者のルイス侯爵がこれを見逃すなんて、あり得ない。恐らく彼は、この件のからくりを知っていると思う。
(とにかく現場を確かめないと)
これは陛下に事後報告よね。事前に言ったら絶対に拒否されそうな気がする。
ぱたんと資料を閉じたところで、こんこんと扉を叩く音がした。私はポケットに冊子をねじ込み、ささっと席を立つ。私がワゴンを置いた付近に移動したのを見たルイス侯爵が、扉の方へと歩いて行く。
「ラシッド殿下!?」
ルイス侯爵の驚いたような声が響いた。陛下もがたんと席を立り、机の前に回る。私は俯き加減のまま、軽い足取りで執務室に入ってきた男性をさり気なく観察した。
金髪碧眼の美青年だ。神話に出てくる光の神かと見まがう美貌。瞳の色と同じ青色のジュストコールが良く似合っていて、真っ白なクラバットには大きなサファイアのブローチが留められていた。顔立ちは、陛下に似ているが、どこか軽薄そうな雰囲気がした。
(この方が、王弟ラシッド殿下)
年齢は二十になったところのはず。確か、諸外国を遊学されてるって話を聞いた。
「やあ、ルイス。久しぶりだね」
軽く右手を上げて会釈したラシッド殿下は、ふと私の方に視線を投げかけ――いきなりぱちん、と片目を瞑った。
「へえ、君みたいな可愛い侍女を傍に置くなんて、リュークもやるなあ」
(軽っ!)
生真面目な陛下とは全く違う。失礼のないようにお辞儀をした瞬間、不機嫌そうな声が飛んだ。
「その者は王妃の侍女だ。みだりに構うな」
陛下の方を窺い見ると、口がくっと引き締められている。物凄く機嫌が悪そうな感じがひしひしと伝わってきた。
「へえ、王妃様のねえ」
ラシッド殿下がじろじろと私を見回す。愛想笑いを浮かべている頬が引き攣りそう。一通り観察し終わった殿下はふっと私から視線を外し、陛下の方へと歩いて行った。
「ひどいなあ、リューク。僕の留守中に花嫁貰うなんてさ」
楽しそうな殿下の声とは対照的に、陛下の声は苦々しかった。
「お前がこんなに早く戻るとは思っていなかったのでな」
「ふーん……」
にやにやとラシッド殿下が意味ありげに笑う。陛下はぶすっとした表情のままだ。
「ま、後で王妃様に挨拶に行くよ。まだお会いしたことないんだよね、リゼラ=ヴェルシュタイン伯爵令嬢には。リュークを射止めたんだから、きっと絶世の美女だよね」
(ああ、肩身が狭い……っ)
ますます不機嫌になる陛下の様子にはお構いなしで、ラシッド殿下はにこやかに話を続ける。
「美姫と名高い妹のロゼリア嬢は、舞踏会で何度か見かけた事はあるけれど、お姉さんの方はあまり社交界には出てなかったよね」
「リゼラは王宮に来たばかりで疲れている。挨拶なら、今日は止めておけ」
(よしっ!)
私は思わず拳を握りしめた。まだ対策も出来ていない状態で、挨拶は避けたい。
ラシッド殿下は気を悪くした風でもなく、肩を竦めただけだった。
「そうなんだ。じゃあ、改めるよ。という訳で、そこのかわいいお嬢さん?」
「は、はいっ!?」
突然話を振られて、思わずびくっとしてしまった。ラシッド殿下が私の方へ歩いてきて、目の前に立つ。この方も背が高い。私はラシッド殿下の青い瞳を見上げた。
「君、何て言う名前?」
「あ、あの……エリナ、と申します」
「へえ」
興味深そうに、じろじろと見回される。何かを見透かすような視線が居心地悪い。
「この後、ヒマ?」
「は?」
一瞬何を言われてるのか、理解出来なかった。
「僕、一年の遊学を終えて、故国に帰って来たばかりなんだよね。いろいろ王妃様の話も聞きたいし、一緒にお茶でもどう?」
ぽかんと口を開けた私の耳に、鋭い陛下の声が飛んできた。
「女性と見れば声をかける癖、まだ治らないのか」
氷より冷たい声なのに、ラシッド殿下は、どこ吹く風だった。
「誰でも声を掛けてる訳じゃないよ。この子、僕の好みなんだよね、初心そうで可愛くて」
……あのもしかして、私……
(口説かれてますかっ……!?)
私はじりっと後ずさりし、距離を取ってから頭を下げた。
「あ、あの、王妃様のお傍に戻らないといけませんから。申し訳ございません」
ラシッド殿下の眉が片方あがった。この癖は陛下と同じだ。
「それは残念だなあ。じゃあ、次の機会にね」
ラシッド殿下の視線が、テーブルの上を捉えた。
「あれ? このケーキ」
ラシッド殿下がつかつかとテーブルに近寄って、ひょいっと右手で大皿に残ったケーキをつまんだ。ぱくりと一口食べると、彼の目が丸くなった。
「リューク。これって、王妃様の手作り?」
私は思わず目を丸くした。
(どうして判るんですか!?)
「何故そう思う?」
「ほら、ヴェルシュタイン伯爵夫人って、お茶会開くの大好きだっただろう? たまに顔を出してたんだよね」
もぐもぐと残りを食べながら、ラシッド殿下が言う。
(え!? うちのお茶会に来られてたの!?)
私自身はお茶会にほとんど参加した事がなかったから、気付かなかった。
「その時食べた、お茶菓子と同じ味だよ。長女のリゼラが作りましたって自慢してたから、よく覚えてる」
(か~あ~さ~ま~っ!! 余計な事を……っ!!)
じ、自慢してくれるのは、嬉しんだけど……っ!! 『来たばかりで引き籠っている王妃が作った』というのは、まずい。
「あ、あのそれは……王妃様から教えて頂いたレシピで、私が作りました」
あくまで『侍女のエリナ』が作った事にしないと。そう言うと、ラシッド殿下がまたにっこりと笑った。
「へえ~君が? 上手だね、王妃様の味にそっくりで美味しいよ」
「あ、ありがとうございます」
ぺろりとケーキを食べ終わった殿下が、また私の方に近付いてきた。
「いや~ますます口説き甲斐があるよねえ、エリナちゃん。今度一緒に出掛けようよ。何時頃空いてる?」
手、早っ!! この陛下と血が繋がってるとは思えない。口元がぴくぴくと痙攣しそうだ。
「い、いえ……私など、恐れ多くて」
「遠慮しなくてもいいよ? 王弟って言っても、異母兄弟の僕は結構自由だしさ」
さらに一歩ラシッド殿下が私に近付こうと瞬間、大きな背中が私の前に立ちはだかった。
「いい加減にしろ、ラシッド。王弟であるお前を断れないと知っていて、侍女を困らせるような事はするな」
(陛下ーっ!)
今ほど陛下の背が頼もしく見えた事はない。ありがたやと心の中で陛下を拝む。
ラシッド殿下はしばらく黙ったまま陛下と対峙していたが、やがてくすりと笑った。
「分かったよ、リューク。これ以上、エリナちゃんを困らせたりしないよ」
「約束しろ」
「はい、陛下。仰せのままに」
ラシッド殿下が、ふわりと陛下に頭を下げた。こういう仕草は洗練されてて、さすが王弟だ。
「ねえ、エリナちゃん?」
「は、はい」
陛下の後ろから、おずおずと声を出すと、ラシッド殿下が悪戯っぽく笑った。
「からかったりして、悪かったね」
「い、いえ、そんな……」
「あ、でも、可愛いって思ったのは、本当だよ?」
「~~~!!」
うぐ。顔が熱くなるのが判った。こ、こういう言葉、言われ慣れてないからっ……!!
「ラシッド」
「分かってるって。そろそろ退散するよ。王妃様のご機嫌伺いは、明日にするから、そう伝えておいて」
「……」
「じゃあね、エリナちゃん」
鼻歌を歌いながら、ラシッド殿下は執務室から立ち去った。彼の姿が見えなくなった途端、身体から力が抜けた。
(……どっと、疲れた、気がする……)
「――リゼラ」
「はい?」
陛下がこちらを向いて、私を見下ろしていた。
「ラシッドの言う事は間に受けるな。あいつは気に入った女性に手当たり次第に声を掛けるやつだ」
「はい。そうだろうなあって思ってました」
さっきのおどけたラシッド殿下を思い出して、思わずくすりと笑ってしまった。
「少年っぽくて、憎めない方ですよね」
「そうか?」
陛下の目が吊り上がった。陛下、弟殿下に対して、冷たくありませんか?
「大丈夫ですよ? 可愛いとか冗談だって判ってますし、ラシッド殿下を誘惑したりしませんから」
「……」
はあ、と陛下が大きな溜息をついた。何だかこのヒト、私の前で溜息つく事多くないですか?
「私は違う心配をしていたのだが」
「へ?」
目を丸くした私を見て、また陛下が溜息をついた。
「今日はもう終わりにしろ。私も疲れた」
「は、はい、分かりました」
私は資料を片づけ、カップやお皿をワゴンに片づけた後、ぺこりと頭を下げて執務室を辞した。
***
「陛下。あれは目をつけられましたね……」
私は額に手を当てて唸った。
「だから、あの恰好は問題があると……」
ああいう純情そうな娘に、ラシッドは弱い。おそらくリゼラ、そのものでも。ラシッドが遊学中に話を進めたのも、リゼラを見せたくなかったからだ。
ラシッドは気のいい男だが、いかんせん女に弱い。あちらこちらに手を出して、まだ妃を娶る気もない。
可愛いと言われて、頬を染めていたリゼラを思い出し、思わず右手を握り締めていた。
「ああいう歯の浮く台詞は陛下には似合いません。おやめになった方が無難です」
「お前も言うようになったな、ルイス」
「主が不甲斐ないのですから、仕方ありません」
澄ました顔で言うルイスに、私は溜息しか出なかった。
「とにかく、ラシッドが不用意にリゼラに近付かないよう、サフィニアにも伝えろ。私からもラシッドには再度釘を刺しておく」
「承知いたしました。さ、休憩時間はとうに終わっています。さっさと仕事に戻って下さい」
眼鏡をきらりと光らせるルイスに文句も言えず、私はまた執務に戻ったのだった。