はみ出した闘技場
大国の問題のひとつは、山脈を境とした北と南で生活基準に激しい差があることである。
四季がある大国には珍しく、山脈の山頂では夏でも雪が降っており、年中無休、人の足で越えるのはとても難しい。そのため、王室の統治が届かず、貴族に分配して任せているのはいいが、その貴族というのが、ほとんどが曲者ばかりである。
海に面した大国の都市は昼も夜も明るく賑やかな街だが、そこから外れ、北に位置する山脈を越えると一気に無法地域となる。
大国の領域にも関わらず、隣国との境界が近いこともあって、戦場でもあり。
同時に、王権の目が届かぬことを良いことに、同じ国の者同士で領主を巡る小競り合いも少なくない。
都市から新たな領主として北部に左遷させられると、弱肉強食の社会。
他の領土を侵略して支配権を奪い取ろうと企むものたちによって、下着の紐まで搾り取られるのが弱者である。
町民の声も届かぬ遠い都市は、その事実に目を背いて、自分自身の平和と、隣国との戦争に明け暮れているのである。
その地において、ここ4、5年の間で、世で最も恐れられる生き物が、闘牛や猟犬と同じ扱いを受けていた。
大国北部の西側に位置する領の中心には、小規模ながらも周辺地域で絶大な流行を得ている闘技場がある。
月に一度か二度のペースで開催される大会が何よりもその領民の娯楽ともなり、どこの地域よりも経済が回っていた。
闘技場自体は民営だが、領主自らがスポンサーとなって膨大な支援をし、盛況は年々右肩上がりだ。
街もお祭り騒ぎになる、月に一度のとある大会。
黒のフードを被った一人の男が、見物客に交じって入場した。
「兄さん、旅人かなんかかい?ここに来るのは初めてかい?」
受付の気の良いオヤジは素顔を見ようとさりげなく声をかけるも、フードの向こうは深い影が覆って口元しか覗けない。
「先月から隣国の、さらに向こうから来たんだが……今月の大会はだいたい観た」
「そうか!そりゃ大した長旅だっただろう!一人かい?ここには何しに?」
「世に珍しい闘技場があるって聞いてな。一昨日までのは、戦士たちのトーナメントを観戦したんだが、なんだか拍子抜けだ。今日を限りでここを出ようと思ってる」
闘技場目当ての観光客は珍しくない。
ほとんどが、詳細を知らずに訪れる者ばかりだが、この客もそうなのだろう。
むんず、と男を掴まえたオヤジがフードで覆われた耳元に顔を寄せ、しかし周囲の喧騒に前ないように声をあげた。
「なら兄さんは運が良い!!目的のショーが今日催される予定なんだ!なんせ、月一の大目玉にこのお祭り騒ぎよ!」
「なんだ、そうだったのか。通りでいつもより人が多いと思った。で?大目玉ってなんなんだ?」
「ほんとに知らんのか!うちではドラゴンが、大目玉になってるんだ!」
ドラゴン。
自然界の頂点であり、神秘の生き物。
その生命体は帝国に秘されていて、この国では隣国との戦場でしか見ることができない。
オヤジはフードの男の反応を見届ける間もなく、他の客に呼ばれてそこから離れた。
驚いた顔も、腰の引けた様子もなく、変わらない歩調で男は客席に向かう。
「………ここも、ビンゴか」
窪みを見世物のステージにし、その周囲をぐるりと取り囲んだ客席は階段状に後列に行くほど段が高くなっている。
最後列では、舞台の人間は豆粒だが、首に鎖を繋がれたドラゴンであればそこからでも圧巻。
かつては鮮やかであったろうに、くすんだ緑色の鱗を持った、少し小柄なドラゴンであるが、物珍しさに勝って歓声や拍手が巻き起こる。
ーーグオオオオオオ!!
咆哮すれば、客席からは興奮した人々が立ち上がって腕を降る。
ドラゴンのパフォーマンスは戦士との決闘だ。
銀白色の分厚い鎧を纏う男が、身の丈もある斧を担いで登場する。
「……ベザール、空の眺めはどうだ?」
先ほど受付のオヤジにつかまっていたフードの男が、思念を飛ばす。
周りの観客は気にも留めない。
ーー快晴。雲の影もない。ここから都市も見えそうだぜ
「離れすぎるな。合図をしたら、分かっているな」
ーーバカでかい斧を叩き折ったらいいか?
「鎖を叩き切れ」
ーーそっちか。御意
かくして、ドラゴンと戦士の決闘が始まった。
血走った目のドラゴンは、殺意に反応して斧を持つ相手が敵だと判断した。
鎖の届く範囲でそこを飛び回り、戦士を追い詰めようとするも、戦士もさることながら、斧を振り回して牽制。
観客は、両者ギリギリのやり取りを汗を握って観戦しつつ、無意識では戦士の敗北が脳内に浮かんでいた。
ドラゴンの蹄が銀白の鎧を切り裂いた。
一気に闘技場の壁に叩きつけられた戦士の身体から血が吹き出て、会場を湧かせる。
こな壁際はちょうどドラゴンが腕を伸ばしても届かない距離にあった。
なので、ドラゴンがトドメを誘うと飛び込んだ瞬間、鎖が限界までに引っ張られ、そこで試合は終了である。
「…げほ、クソッタレ!」
戦士が生きも絶え絶えに罵りながら、救護班たちが駆けつけてくるのを見た。
ドラゴンの鎖が巻き取られ、次の挑戦者を迎えると思いきや…。
ーーガツン!!
ーーグアアアア!!
空から黒い一閃が舞台のど真ん中に落ちた。
瞬間、ドラゴンは壁に寄る人間たちへと飛びかかり、その場を食い荒らす。
衝撃で鎖が、千切れたのだ。
「キャアアア!」
「ドラゴンの鎖が切れたぞ!!」
「にげろ!待て!俺が先だァ!!」
観客は我先にと出口へと逃げ出す。
その中で、会場に散らばるフードをかぶる男たちが、人の波に逆らって立ち止まる。
「合図はしてないぞ」
「ベザールめ、また堪え性のない奴め」
「仕方がない。制圧だ」
ーーグオオオオオオ!!
今までにないほどの大混乱。
ドラゴンが暴れ回り、建物をめちゃくちゃに破壊して行く。それに生き埋めになる人やしっぽに投げた押される人もいる。
そこから一段と高い、唯一屋内になっている建物は、ガラス越しに会場を見渡すことができるつくりとなっていたが、今や無残に割られて豪勢な個室も荒れ果てた。
そこで対峙するのは、黒い体躯の人外と、でっぷりとした貴族である。
人外は骨組みが透けて見える黒羽を背中から生やし、皮膚は顔と胸から腹部を除いて硬い鱗で覆われており、人型をとりながらも人間ではありえない姿をしていた。
「おい、あんたが領主か?縁の切れたドラゴンを上手く利用したな。おい、なに惚けてやがんだ」
胸にある紋様が赤く脈打ち、同じ色の瞳が蘭々と男を睨みつけた。
それだけで、押しつぶされそうな圧迫感に領主は腰を抜かして、震える体を扉へと引きずる。
「逃げるな。あんたがやったこと、落とし前つけろ」
「ばばばばけもの!!なにが目的だ!金か!?領地か!?それともあのドラゴンか!?どこの差し金なんだ!?」
悲鳴に近い叫び声はほとんど聞き取れないものだったが、人外はニヤリと笑って鋭い牙を覗かせた。
「ヒィィッ!へ、兵は何してる!?私を助けろ!!」
「最初から居ねーの気付かなかったのか?廊下に転がってたぞ」
「お前かっ!?お前が殺したのかあ!!」
「さぁな」
まるで、獲物を追い詰める肉食獣である。
舌なめずりをしながら、どこから喰いついてやろうかと目を光らせる。
「ほら、命乞いは終わりか?なら、最期の言葉もないか?」
目下ではドラゴンが人の血を浴びて、その身をさらに濁らせて行く。あれを止めるのは、別の人物の役目だ。
ベザールは、相手の恐怖を煽りるのが仕事である。
「さぁ、喉をカッ捌くか腹をカッ捌くか…腹はなかなか死ににくいだろうな。その肉で」
「ほ、欲しいものはなんでもやる!金か!?何なんだ!?命は、命は助けてくれ!!」
その言葉を待っていた。
「ドラゴンの心臓」
「な、なに!?」
「持ってるか?」
男はきょとんとして、そして、クビを振る。
「知らんッ!」
「分かった」
そしてそれ以上言葉を紡がないように、ベザールは長刀で、その男の首を斬り裂いた。
すぐさま汚いものを見ないように、背中を向ける。
「…きたねーな。どこも」
長刀の黒刃に自身を映して、ため息を吐き出した。
漸くドラゴンも鎮まり、地獄絵図の景色が出来上がっていた。
ーー出るぞベザール
「御意、ラグドラゼル」
この領地の陥没は、ドラゴン脱走事件として処理され、都市においても大した損害として取り上げられず、すぐに代わりの領主が派遣されて市民の混乱をおさめた。
そこに、ドラゴンでも人間でもない奇怪な生き物が現れたことなど、誰も知らない。