褐色のドラゴン
本当は、この国が戦争で傷ついていることも、隣の国を傷つけていることも、実感はしていない。
都市では、完璧な守りを敷かれているお陰で敵国の火は落とされないし、危険に曝されるような事件もないためだ。
でも、確実に今、人は死に、ドラゴンは傷つき、国の一部は失われている。
どこからか、嘆きの声がするのだ。
祖父が消えてしまってから、ずっと、ずっと。
祖父が乗っていたというドラゴンは、赤が強い褐色の鱗に覆われ、そして、息も絶え絶えに屋敷の中庭に転落して来た。
落ちた衝撃よりも、身体に受けた傷が致命傷のようだけれど、絆を無くしたドラゴンは知性を失い、ただの野生と化してしまう。故に、戦争から逃げ出した果てにここに来てしまったのだ。
すごい轟音で目が覚めた私は、祖父が亡くなったと聞いてから始めてバルコニーに出た。
そして目にしたのが、巨大で誇大でなんて凛々しい生き物だった。
屋敷の騎士たちがドラゴンを捕まえようとかかって行くが、尻尾の一薙ぎ、翼の一振りで蹴散らしてしまう。
長めの首の付け根にあるのが、ライダーを乗せる鞍だろうか。無人のそこは虚しくベルトをはためかせるだけ。
ドラゴンが咆哮する。
ビリビリと圧が肌を震わせて、窓ガラスを割った。
肩が熱い…。もしかして、切れたかもしれない。
「きゃあああ!!シャルティナお嬢様!こちらに!!」
部屋の中から侍女の悲鳴がしたけれど、私は逆に車椅子を進ませる。
仮面の王子と出会ったそこに、今度はドラゴンがいるのだ。
始めて会うドラゴン。
その目は金色で、祖父と共にいた時はきっと明るく輝いていたのだろう。
今はくすんだ黄色のような、血混じりのガラスのように……。
ーーそうか……
「シャル!!お前死ぬ気か!!やっと動いたと思ったら自殺か!!ふざけるなよ!!はやく部屋に戻れ!!」
親友のシマリスが私の頬を叩いた。
そういえば、あの時からずっとそばに居てくれて、語りかけてくれていたのに、私は気付いてなかったみたい。
申し訳ない気持ちでマースを見て、そして、指先で頭を撫でる。
「聞こえないから、黙っててマース」
「おまっ…それが人に言う態度か!?危ないっていってんだよ!和やかに撫でるんじゃねえっ」
「しー」
「マイペースめ!俺も死んだら恨むぞ!!」
マースも、後ろの彼女たちみたいに隠れていればいいのに。私からは決して離れない。
マースの気持ちが流れ込んでくる。
心配と焦りと怒りと恐怖。
ーードォォォン!!
ドラゴンが屋敷に尾を叩き込んで大きく揺れた。
堪えきれずに車椅子が倒れ、床に倒れ込む。
投げ落とされないように手すりにしがみついた時に、眼下の景色が目に入った。
美しかった花園も噴水も見る影も無いほど荒れ果て、建物の瓦礫に潰された騎士や大きな足に踏みつぶされた人達…
「っ!!」
ーーグォオオオオ!!!
ドラゴンの咆哮が屋敷中のガラスというガラスを割り、建物に大きな亀裂をつくった。
このままでは、崩れるだろう。
手すりにしがみつきながら、中庭に続く扉から父が見えた。
人が二人は入る大砲をそこに取り付けている。
腕の力だけで体を乗り出すと、マースが髪の毛を引っ張った。
「やばいってやばいってやばいって!!みんな逃げたぞシャル!!どうしたいんだよお前はぁぁあ!!」
「っ、お父さまー!!」
シマリスの声に被せて叫ぶ。
私の声は祖父譲りで良く響くのだ。しかし、この距離と騒音で届いた様子はない。
その時、ドラゴンと目があった。
血走った金色がギョロリとこちらを向いて、ドシドシと体が近寄ってくる。
振動の度に足が浮いて、マースの悲鳴が上がったが、私は歯を食いしばった。
「シュヴァルティ!!」
届いただろうか……お爺さまの名前が。
ドラゴンは、鼻を震わせて揺らす。
何かの香りを探っているように。
「シャルティナ!!部屋に戻りなさい!!」
父の口がそう動いていた。
しかし、首を振る私を見て大砲を構えさせる。
「待って、待って!!ドラゴンはお爺さまを探しているのよ!呼んでるだけなの!」
彼女は、相棒が死んだことを理解していないのだ。
彼女叫びが聞こえる。悲しみが吠える。
確かに、祖父の名前に反応して、私に鼻面を寄せたのだ。
ギョッとしたマースは、私の背中のリボンに隠れてしまった。
「…っ私と、同じなのよね!?」
大切な人の死が、自分を失わせる。
さっきまでの自分が今、目の前にいる。
悲しみを知っている同志がいる。
「寂しいわ…っ!苦しいわ…っでも、あなたも私も生きなきゃダメなのよ…!」
だって、お爺さまとの約束は、私を生かす約束だったもの。
「もう、お爺さまを探してはだめよ…呼んではだめよ…」
声が震える。
涙が溢れた。
この言葉は、自分への言葉だ。
ドラゴンの悲しみが一気に胸まで溢れてきて、自身の悲しみとより大きく増す。
しかし、それで心が闇に沈むわけでは無く、むしろそれがエネルギーに変換されて、死に向かうドラゴンを繋ぎ止めたい気持ちが生まれてくるのだ。
金色に走る血が引いた。
全身に込められていた力を抜いて、ドラゴンは天を仰ぐ。
祖父の死を、受け入れた。
ーーゴァァァアア
威圧感がない咆哮。
大切なものへの追悼の涙。
「…そっか、お爺さまは…空から見てるんだものね…」
しっかりしないと、優しいお爺さまが悲しむ。
脱力しきったドラゴンへと手を伸ばした時、
ーーズドドドォン!!
硬い鱗に覆われていない腹部に幾つものモリが突き刺さっていた。太さは人二人ほどで、威力は見たとおりに貫通とまではいかないが、深く突き刺さっている。
「あ、ああ…」
ーーグォオオオオ!!!
お父さま、待ってって言ったのに。
しかし、彼女の最期を見届ける間も無く、突然の苦しみに息をつまらせて、私の意識は暗転した。