吟遊詩人
2002年の夏。
ほとんどの人は、何があったかなどと、気にしている人はいないと思う。
しかし、その夏は僕を掴み離さない。その事件は、僕の周りにゲリラのように、出現して去っていった。
それは、エドガー・アラン・ポーが描いた「メールストロムの旋渦」のような大きい渦巻きで、五体満足で白髪にならずに、帰ってきたことを除いて、主人公との違いは、途中で樽につかまって逃げ出すことではなく、船が海底の岩で粉々になるまで帆柱にしがみつき、自分の生命、身体を張ってルーレットの玉にしたのだ。だれに、何番に、何色に、賭けてられていたかは、振られた僕自身は知る由も無かった。
僕はさっき、巨大なルーレットの中から五体満足で帰って来たと書いたが、もちろん、無傷で帰ってきたわけではない。僕は多大な犠牲を払わずにはいられなかった。それは、少年性を奪い去り、僕が拒否をする間もなく、大人という汚らしく、いやらしく、そして、厳しい世界へ背中を押したのだ。
いや、それは違う。後から考えると僕がたくさんの選択肢の中から選び取った筋書きだったのかもしれない。確かに、逃げる時間はたくさんあったし、頑なに拒否することもできた。だが、たくさんの犠牲の代わりに、僕は大切なものを見つけることができた。ハイリスク・ハイリターンというのは、大人の世界の通行手形なのかもしれない。頭上に広がる高い空は、馬鹿にする様に僕を見下し、一見配下に広がるように見える地面は、自分とは異質なものを堅く拒絶した。
それらの狭間で、僕は人類を焼き続ける永遠の炎を浴びながら這いずり回った。そして地球、いや銀河系を包み込む宇宙に抱かれた。人生とは、気高く、儚く、か細い、という事を知った。血管が破れれば死んでしまう、そんな我々に、未知なる、我々の心の奥から古くから伝わる偉大な力は何を望むのか。それが分かった時、銀河系の外という遠くから我々を眺めたとき、初めて結局は大きな渦巻きの中の小さな、小さな塵の一欠けらなのだと、理解できるようになるのかもしれない。そしてその渦巻きを引き起こす何かを見たいがために、人類は無謀にも母なる地球の大気圏から、暑くて寒い、暗くて明るい、とても人間の住める場所で無い暗闇の中へ、積み木に毛が生えたようなロケットで、飛び出していくのかもしれない。
始まりは、病室だった。わけの分からない機械にぐるっと囲まれた一台のベッドが広い病室に置かれていた。機械から伸びるチューブやコードは、一人のこの病室の主人である少女の身体に繋がっていた。それは、身体の機能の全てを機械に預けて、ベッドに溶け込んでいってしまいそうな、小さく、ほっそりとした身体だった。
そこは、色が消滅していた。窓の外は、新緑が生命力を彩り、花が咲き乱れ、入道雲が大空に聳え立っていた。だが、窓に掛かったカーテンから透けた夏の日差しは、漂白された白いシャツのような光になって、この部屋の同質の白さに跳ね返り、部屋中に暴れまわり、最終地点として、ぼくの目を焼いた。まるでカーテンが季節を濾して純粋な光だけを取り入れているようだった。何もかもが白い病室に、その少女と僕は二人きりで存在していた。少女のまぶたは、たとえ病院が崩れたとしても開く気配は無かった。一方、僕としても、扉から三~四歩ぐらい歩いたところに、もうたっぷり五分以上、足から根が生えたように立ち尽くしていた。
扉の外は、病院の慌しい中にあり、隣部屋では、中年の男性が長年連れ添った妻の不運を嘆き泣きつくしている。それに比べてこの病室は、世界最後の日や終末の光に包まれるというような趣が立ち込めていた。結局、僕はそれ以上ベッドに近づかなかった。無言で立ち尽くしていたとき、すでに悟り切っていたのだ。自分は無力だと。部屋を出たとき、世界に見切りをつけられたような気がした。
あそこで寝ていたのは、僕の妹だ。三か月前、手首を切る自殺を図り、そのまま寝たきり。医者の話によるといつ目が覚めてもおかしくないのに、一向に起き上がろうとしない。手を緩めると、すぐ脈は弱まり、体温が下がる。何度あきらめて生命維持装置をはずそうかと父と二人で話になったが、膝の上にあった手紙が押しとどめた。「必ず帰ってきます、待っていてください。」と書かれたその手紙は一つの希望だった。
その日の病院から家への帰り道に、事態は急展開を見せる。夕方になっても涼しさを見せる気配すらなかった。風は無く、水蒸気が身体にまとわりつき、額から汗は流れ、一学期が終わり終業式をした学校帰りのワイシャツが身体にはりついた。全身を絞り上げる夏の太陽は、大気を暖めたまま、無責任にもさよならを言おうとしている。影が長くなり背の高いビルが、歩いている僕をかわるがわる飲み込んでは、吐き出していく。ふと、自分は歩いてはおらず、後退の始まった東京という日本の首都そのものに、置いてきぼりにされているかのような気がした。ひたすら僕は、橙色に染まったくもの糸が垂れ下がっていないか、目を凝らしていた。とりあえず、夏の暑さから逃げ出すために、デパートの屋上にエレベーターで一気に急上昇する。
屋上には、やさしく、物憂げな風が吹いていた。だが決して、そこにも救済の一言は無い。空は、教会に飾ってある聖母マリアのように微笑みながら、そこに存在しているだけだった。肌から汗が引いた後、後悔して階段を下りる。凡人たちが、口からばら撒いた毒ガスに満ちていた。人々は、想像力を捨て、誰に向かうとは知らない良く切れるナイフを手に入れ、現代を生き抜くために進化した。妹の身体は時間が進むのを拒否した。しかし、時間が動きを止めるわけはない。我々が、時間なのだ。時計の針がいくら進もうと、結局は同じ場所を回り続けているだけに過ぎない。だが、昨日の十一時二十二分は、決して今日の十一時二十二分ではない。物語は進む。物語に拳銃が出てきたら弾が発射されなければならないように。僕は一人きりで歩道の淵でバランスを取りながら歩いていた。
となりで一台のぼろぼろのトラックが止まった。驚きで車道側に一歩足を着く。反対の足が歩道から離れそのまま体が傾き、車内に引きずり込まれる。次の瞬間車は走り出し、僕は車の中に座り込んでいた。世間一般では、誘拐というものに違いない。不注意だった。しかし誰が誘拐されるなんて予想できただろう。抵抗しろなどと言われても、僕の脳みそには、不意を衝かれても冷静に行動できるような高性能な機能はついていない。ましてや、誘拐などという自分には起きないだろうとテレビを見て楽観視を繰り返している現代人には、対応できるものではない。(あなたにその経験が一生ないことを祈る)車に乗っているのは、運転手の女性と僕を挟むように男性が座っていた。
「暴れても無駄です。暴力は好きではありませんが、不可抗力ということにもなりかねません。そうならない為にもあなたの協力が必要です。分かりましたか」
女性からの鋭くとがった声。何かをしようとやっと脳を回転させ始めたとたん、出鼻をくじかれ、元の混沌へと沈んでいく。しばらく自問自答を繰り返し、何とか一定の方向性を決め、何もしないことに決める。こんなぼろ車で誘拐といっても信じてくれそうにない。「なにもしない」と答えると、やっと男の顔が緩んだ。
「我々は使者なんだ。予言者が君に会いたいといっていてね。色々方法を考えたんだけど、最近の子は知らない人について行くなと言われているだろ。それに周りにあまり知られたくなかったから、こんな方法しかなかったんだよ。君のお父さんは、いつも帰りが遅いだろ。だから、帰ってくる前に君を自宅に送り届ければ、少なくとも君の親戚に誘拐とは思われない」
口調からは人柄のやさしさがにじみ出ている。なんとなく間が抜けていて、それでいて温かい。いや、それだから暖かいのか。
「ぼくは、誰か人に会えばいいんですね」
「そういうことなんだ。理解が速くて助かったよ。その話を聞いて君が行動するかはわからないけどね。でも、きっと聞いて損する話じゃないと思うよ。予言者が話をしたい人がいるなんていうのは珍しいから。どんなに切望しても会えない人はたくさんいる中でね」
やっと周囲を、調べる余裕が出てきた。それにしてもボロボロのトラックだ。クーラーだってかかるか分からない。CDだって付いていない。歴史はまだテープレコーダーだ。おまけにFMしか入らない。
「会わなければならないのは、予言者?」
「そう、予言者だ。我々は予言者を信じてる。君が信じるかどうか知らないけどね」
「予言者は、何を予言したんですか」
「何も予言していない。というより、我々も予言を聞きたいから、彼を信じているわけではないんだよ。なんていうのかな。僕らの親父みたいなもんだ」
「僕らの親父?」
「あなたはいつも大げさなのよ。我々とか言って。私たち二人しかいないくせに。おじさんに会いたい人っていっても、一週間に一人位じゃないの」
運転をしながら女の人が言う。
「よく世間でも言うだろ。量より質だって。たくさんの念仏より心からの念仏だって」
この二人の掛け合いは、本気なようにも楽しんでいるようにも感じる。だから、本気で楽しんでいるのだろう。そして、すごく仲がいいに違いない。女の人はクラスに一人はいるスポーツ万能なみんなのリーダー的な女の子を想像させる。男の人はひょうきんでおおらかな、いい意味で子供のような感じをさせる。
「負け惜しみよ。予言者っていうのもあなたが考えついたんじゃないの。ごめんね、村上君。村上健介君で名前あってるわよね」
「そんなどじをやると思ってんのかよ。そんなに信用がないのか。あの病室から出てくる子が村上君じゃないとしたら、ほかに誰がいるんだよ」
二人ともむきになって口喧嘩をしている。喧嘩するほど仲がいいとは、このことを指すに違いない。慌てて口を挟む。
「はい、ぼくは村上健介です。何で僕の名前を知っているんですか」
「それは、予言者に聞いてくれ。僕たちも何で知っていたのかわからない。さあ、もう少しで着くぞ。もう少しで到着だから言っとくけど、ぼくのことを呼ぶときは、おじちゃんと呼んでくれ」
「えっ」
「私は、お姉さんね。この人は、おじさんでもおっちゃんでもいいけど、私は若いんだからお姉さんね。帰りも私たちが送って行くと思うけど、おばちゃんって呼んだらどっか遠い場所に置き去りにするからね」
「よし、ここだ。降りるぞ。そこのアパートの二階だ。確か番号は、206だったな。階段は古いから腐ってつらぬけるときがある。気をつけろよ。帰りは、予言者から連絡が入ったら迎えに来る。そのとき、お姉さんって呼ばないと殺されるから気をつけろよ。まだ気分は二十代のつもりなんだ」
「私はほんとに二十代よ!こいつー!」
お姉さんの叫びと共に、車は発進した。そして、ぼくはそれまた汚いアパートの前で一人になった。
まったく汚らしいアパートだった。どこまでも無人アパートにしか見えなかった。予言者はどこまでも趣味を一貫させているらしい。言われたとおり階段は穴だらけで真っ赤に錆び付いていた。足を下ろすのも自然と慎重になる。こんなアパートはあっても危険なだけで、早く立て替えたほうが安全だし、得だし。第一、予言者なんて良く分からない人種が住み着かずに済む。二階に上り、各部屋の扉や通路もまったく僕の想像通りだった。通路の雨水用の溝に溜まった土から雑草が生えており、律儀にもどの扉にも、同じような落書きが大きく描かれていた。いや、違う。通路の一番奥、曲がった所にあった扉だけ違った。206号室の扉には、何も描かれていなかった。そこだけ聖域のようにきれいにしてあった。ドアノブには一つの看板が掛けられていた。『現在、予言者在宅中』と。たぶん、あの「おじさん」が書いたんだろうなと思った。息を詰め、筋肉を強張らせ、ドアノブに手をかけるために手を伸ばす。と、その前に扉は開かれた。男の顔が開かれた扉の間からひょいと現れる。
「良く来た。待っていたんだよ。君のためにも君の妹さんのためにも君のお母さんのためにもね」
そのとき、ドアノブにかかっていた看板が落ちた。予言者が拾い上げる。
「まったく。さっき会っただろう、あの男だ。何度もすごい人でも予言者でもないと言っているのに、それでもこういう事をする。それさえなければいい男なのに。君はどう思った、あの子達を」
「いい人達だと思います。やさしくて何でも相談できそうな」
「私よりよっぽどいい奴等だ。きっと、君がそう思ったのなら、彼らもきっと君のことを弟みたいに感じているんだろうな。だがお姉ちゃんをおばちゃんと呼んだらだめだぞ。何をするか分からん」
男は相当老けて見えた。深く彫刻刀で彫り過ぎたようなしわが顔中をミミズのように這いまわっていた。その凝り固まってしまったしわを取り、男の顔を若返らせるのは、僕の貧弱な想像力では不可能であろう。今まで苦労、敗北、あきらめを背負って今の老人の姿ですごしてきたかのようだった。だが声には張りがあり格好と不釣合いだ。
「まあ、あいつが言っていることもあながち間違いではないか。私は、予言する資格を失った予言者だ」
「実際になんと呼べばいいんですか」
「そういえば自己紹介していなかったね。私を呼ぶときは鈴木さんと呼べばいい」
「割と普通なんですね」
「そりゃ、そうさ。芸名でも持ってるとでも思っていたかい。私みたいに社会に身を隠しながら生きている者にとって、ありふれた名前のほうが楽でいい。木は森に隠せとは物事の本質を突いてる。年金を受け取るときも、病院で名前を呼ばれるときも注目を浴びなくて済む。『予言者さんいらっしゃいますか、予言者さん順番が来ましたよ』なんて洒落にもならん。それじゃあ、まず君の名前を聞かせてくれ」
「僕はあなたと話しをしなければならない訳を先に聞きたいですね。鈴木さん」
「君の妹さんについてだ。君も妹さんを助けたいだろうし、私たちも妹さんが囚われている所に用がある」
「その内容は言えないんですね」
「ああ。だが、どちらにも利益があると分かっていたほうが、変に勘ぐりあわないでも大丈夫だろ。共同戦線を張ろうじゃないか」
「信用できない。なぜ、妹のことを知っているんですか?」
「こちらに利益があると考えているからだよ。もう一度聞く。まだ最終決定しろとは言わない。協力する気はあるのか。君の名前を教えてくれ」
「村上健介です。もう知っているのかと思っていました」
「君の名前は知っていたさ。人間とは、自分の名前を名乗るときほど人柄や家族についてなどのことを、正直に話してしまうものだ。自己紹介だと何が好きだとか何が嫌いとかしか分からない。だけどほんとに協力して貰いたい時や信頼できるか見極めたい時は、そんな事を知りたいわけじゃないだろ。この方法が一番早くて確実だ」
「僕もあなたの名前をもう一度聞きたくなりました」
「飲み込みが早いね。私の名前は、鈴木恭平だ。どうだい、少年」
「わかりました。あなたの話を聞きたい。それから判断します」
「じゃあ、単刀直入に言う。君の信用を得るにはそれが一番早い。君の妹さんは確かに自殺した。ある男にそそのかされてだ。ある意志を持って自殺すると、魂は永遠の炎という場所に連れていかれる。人生がいやだとかいじめられてだとか借金で首が回らないからとかでは行かない。というより、行かなくて済む。永遠の炎は触れたものをやさしく包む。そして大切な自分の影が無くなるんだ。周りは明かりだらけだ。影が現われることが無くなる。周りは真っ赤になり前には手探りで進むしかなくなる。感覚が鈍くなり孤独と向き合うことになる。入り込んだばっかりだと大丈夫なんだよ。しかし、長くいるといるだけ、炎は確実に身体を焼いているんだ。永遠の炎から戻る手段は、たった三つだ。一つは血のつながったものが助けに行く。次に影を取り返す。三つめは永遠の炎を手に入れる。それだけだ。しかも、とても難しい。君が妹さんを助けられる確率は高いが、君が帰ってくる方法が難しい。影を取り返すにも永遠の炎を消すしか方法が無いし、永遠の炎を手に入れる方法は誰一人わかっていない。ただ伝説があるだけだ」
「伝説なんでしょ、全てが。からかうつもりなんだ。狂気に飲まれてる。僕は物語を信じてる年じゃない」
「信じさせてあげることはできる。ただ見せる前に約束してほしい。手品だとか仕掛けがあるなどと安易に決めないでほしい。気持ちに正直でいてほしい」
「そんなもんがあるならね。本当にあるのなら妹を助けなくちゃいけない。そしたら協力するしかない」
「僕の足元を見てごらん」
何も変わったところは無い。足は地面につき体重を支えている。当惑した僕を見てこう続けた。
「影が無いだろ。僕の影は、永遠の炎ではぐれてしまったんだ。自殺も意志も中途半端だった僕への天罰だ。私の体深くを今もまだ燃え焦がしているんだ」
信じられなかった。だが、次に出た言葉は重みを持っていた。
「協力します」
「まず、これから家に帰ってやってもらいたいことがある。
これが一番重要でこれからの行動の前提となる。我々はしっかりとした土台を築く必要がある。君の妹さんの部屋から彼女をそそのかした男の手がかりを探るんだ。日記、手紙、携帯等手がかりはたくさんあるはずだ。そいつの正体を見つけるんだ。見つけたら電話してくれ」
といわれ、古いアパートから出て、お姉さんの運転する古い軽トラ(ちゃんと忠告通りお姉さんと呼んだ)に乗って家に帰る。父は帰っておらず、鈴木さんの思惑通り、誘拐は僕の中の深く暗い迷路の奥底に閉ざされた。
そして、今僕は、妹の部屋にいる。ぼくにとって、いや家族にとって大きな事件のあとかたづけの後、たぶん誰も入っていない。一種の聖域となっていた。平凡な部屋だ。味も素っ気も無い。まず、女の子の部屋といえるようなものは無い。かといって、男の部屋でもない。中性的で、よくかたづけの行き届いた部屋だ。カーテンはうすい青、壁紙は白、カーペットは水色、こぢんまりとベッド、洋服ダンスと本棚、そして、勉強机。よく本を読む妹は結構大きめの本棚を持っていた。自分で詩も作っていたらしい。村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』、サガン『悲しみよこんにちは』などの小説などがある中で、妹が集めていた本は変わっているのも多かった。原口統三『二十歳のエチュード』、永沢延子『友よ私が死んだからとて』、奥浩平『青春の墓標』、高野悦子『二十歳の原点』シリーズの三冊。これらは全て若くして自分の命を殺めた人々の手記である。同じ棚に並んでいた妹の詩が綴られている大学ノートの中に一つ、思わず目を留める文があった。
『ただの小学四年生の女の子に自殺を決意させる絶望とは何だろう。
人生からの戦線離脱。
それを勇気と呼ぶ人は、いるのだろうか。
私に無くてその子にあるもの。か、その子に無くて私にあるもの。
幼き火が消える。
さっと息を吹きかけられた炎のように
しかし彼女の誕生日のろうそくは
永遠に息を吹きかけられることは無いだろう
驚きに心を起こして思った事
私にも意外と簡単に死ねるのではないかという事
しばらくして、
Youという彼女が、I という彼女の首を絞めたとき
Sheという彼女は、薄れゆく意識の中で何を思ったかという事
次第にビーズ玉と化してゆくその瞳に
最初の生の息吹を感じ取った人がいたことを
彼女は知らなかったに違いない。』
妹は自殺をしそうにないのは、この文章を読んだだけでわかる。
妹は自殺を憎んでいたといってもいいくらいだった。この文章は初めて読んだが、文章が書かれる原因となったであろう小四の女の子が自殺したニュースを聞いたときのことは覚えている。夕飯を食べながら横目で見ていたテレビから流れてきたニュース。原因はわからないと答え、自殺をする人とは、心の弱いものだと決め付けるコメンテーターたち。ひと通りの会話を聞いた後、妹がぼそりとつぶやいた言葉は、「想像力の無い人達が無抵抗な人々ののど元に鋭いナイフを突きつける」というものだった。二人っきりの食事をそのままに二階へ上がり、妹は自分の部屋に引きこもった。この文章はその時書かれたものに違いない
ノートの最後のページに探していたものはあった。名刺はノートに無造作に挟み込んであった。名前は北沢孝輔と書かれ、電話番号と短いメッセージ「お母さんの家出の真相が聞きたければ電話してください」が書かれていた。そのとき、電話が鳴った。もちろん鈴木さんからだった。
「見つかったか、探し物は」
「何でわかるんですか、見つけたことが。監視カメラでもつけているんですか、この僕に」
「君は本当に矢継ぎ早に質問を重ねる。それに倒置法が多い。聞いてるほうはこんがらがってしまうじゃないか。それにそんなことはどうでもいい。見つけたんだろう」
「たぶんこれだと思います。名前は北沢孝輔、電話番号は090-********です。母のことを知りたければ電話しろと書いてあります」
「これで役者紹介が終わったな。わかってると思うけど本番はこれからだ。そしてキーを握るのも、もちろん君だ。君のやることは妹さんの真似だ。お母さんというところを妹さんに変えればいい」
「電話しろっていうことですか」
「物分かりが実に早い。妹さんと同じところに行きたければ、同じ行動をすればいい。当たり前のことだ。危険極まりないがそれしかない」
まったくけしかける方はいつも一番楽である。大変なのは前線基地にいて実際に行動する兵士である。
「妹と同じように帰って来れなくなることは無いんですよね」
「何を言ってる、あるに決まってるだろ。それを承知で返事をしたんじゃないのか。それじゃあ行動するときは連絡入れろ。映画で言ったら今やっと題名が紹介されたあたりだ。電話してやっと道が開ける。その男にお前の気持ちをぶつけてみろ」
電話は切れた。とりあえず電話をせねば話は始まらない。しかし今日やらなくてもいいだろう。父親が帰ってきた音がする。食事はいつも外で食べてきているのでほっといていいだろう。しかしなぜ妹は母について知りたくなったのだろうか。妹に母の記憶はないはずだ。辛うじてだが僕にはある。妹とは年が四つ離れている。母は妹が生まれた直後に家を出て行ったらしい。だから四歳まで母と暮らしていた思い出がある。いつもは母の話題など出ない。小さいころ兄弟で少なからず母がいないということで嫌な思いをしてきたからだ。いないものはいない、そう割り切って生きてきた。それをいまさら知りたくなるなんて理解できない。
父は会社に出かけた。僕は電話の前の椅子に、名刺を持ったまま座る。ダイヤルを回す前に息を深く吸う。エアコンの入った室内にボタンを押す電話の電子音が響く。呼び出し音が高らかに耳に流れてくる。カチャという電話に出る音。
「もしもし、北沢です」
高くもなく低くもない。人間の声ではないと思った。感情が消されている。落書き長が真っ黒に塗りつぶされているようだ。
「こんにちは、いきなりお電話してすみません。村上といいます。聞きたいことがあるんですが、時間はありますか」
「勧誘であれば聞きませんのでやめてください。質問であればできる限り答えましょう。こちらとしても村上という名前の知人は聞いたことがないので、どうしてこの電話番号を知っているか聞きたいですね」
「村上琴美についてなにか知りませんか。僕の妹です。妹の部屋に名刺があったので、何か知っているんじゃないかと思って」
「君は村上さんの弟さんか。とっさに村上琴美さんの名前は出てこなかったよ。彼女は大丈夫かい。まだ意識は戻らないんだろ」
「意識は戻っていません。まだ病名もわからなくて医者も頭を抱えているんです。あの名刺に母について知っているとあったんですがなんですか。妹についても知りませんか。もうそろそろ生命維持装置を外そうという話も出てきてるんです」
「君は妹を本気で救いたいかい」
「なんか知ってるんですか」
「君の妹は病気じゃないから医者には治せない。彼女を救えるのは血の絆だ。だがお勧めしないね。命を懸けることになるし両方とも死ぬ可能性も高い。一日くらい考えて電話してくれ。君が今すぐと言うのなら、止めはしないけどね」
「もう時間がないんです。お願いします、教えてください」
「電話より実際会ったほうが早い。今日は私も暇だからこれから会わないか。君の妹とも会ったことのある○○駅の喫茶店にしよう。一時間後ぐらいでいいかい。君が本気で妹を救いたいのなら、教える代わりにやってもらいたいこともあるし。じゃあ一時間後に会いましょう」
強引で高圧的、そして、僕が来ないわけがないことをしっかりと見抜いている。皮膚の下の醜さを隠している。使える人物とわかると見た目、声、口調、いや、それだけでなく人格まで変えるようなやつだ。かなりの危険人物の臭いがする。どこでこの男は妹のことを知ることができたのだろうか。予言者に電話をかける。
「鈴木さんですか、村上です。当たりみたいです。妹を救う方法を教える、彼女は病気ではないから医者には治せないといってきました。これから一時間後に○○駅の喫茶店で会う予定です」
「でかした、本当に難しいのはこれからだ。君には一応見張りをつける。君も知っているあの二人組だ。私への連絡はそこから伝わるから心配しなくていい。十二分に気をつけてくれ。そいつはお前を利用したがっているに決まってる。あまり二人きりにならないでくれ。幸運を祈る」
プープープー、電話が切れる。僕の性格では、今の電話の言葉を聴いて「大丈夫だ、味方が後ろで見ていてくれる」などとは思えない。
○○駅まで家から三十分くらいかかる。空はどんよりと曇り、重い空気が身体にのしかかる。低く垂れ込めた雲はもうすぐ雨が降り出しそうだ。入道雲の下までは太陽の光も届かない。遠くのほうからかすかに雷の音さえ聞こえる。余分な時間とは、心の中の恐怖や不安を増幅する。妹は母についての何を知るためにあの男と会ったのだろうか。
自分をなだめるには、僕は妹がなぜ自殺したか、そしてどうして手紙を残したか理由を知りたいだけだと考えることだ。喫茶店で待ち合わせといったがどうやって見分ければよいのだろう。
着いた所はオープンカフェのような喫茶店だった。確かにここなら今日のような天気の日には、客はほとんど、いや誰一人以内だろう。待ち合わせの五分前、座っていたのは、真っ黒なスーツでネクタイをはずし胸元に十字架のネックレスを覗かせるこの場所に似つかない男だった。そしてこの男にも、曇りの日だったからかもしれないが、地面に影が映ってはいなかった。
「北沢孝輔さんですか」
「君が村上君かい。はじめまして。早速だけど場所を変えよう。すぐに雨が降ってきそうだ」
この行動は予定通りだろう。外出前からこの天気、いままで雨が降っていない事のほうが、驚きだ。二人は僕の姿を見ているのだろうか。二人が到着する前に動くと向こうの思い通りに動くことになる、かといって断るのもおかしい。
「じゃああそこのファミリーレストランにしませんか」
あまり場所を動かず人ごみの多い所、窓側であれば見張りの人は店外からでも観察できる。運のいいことに窓側に案内され、コーヒーを二つ頼んで北沢は話し出した。
「じゃあ、単刀直入に言う。君に理解してもらうのにはそれが一番早い。君の妹さんは悩んでいた。君のお母さんについてだ。それを確かめるために自殺した。君は母親がどうして死んだのか知っているだろう」
「自殺と噂で聞きました」
「ただ妹には家出としか言っていない。兄一人だけだった時は一緒に生活していたのに、なぜ自分は捨てられたのか。それと兄に申し訳ない、とも言っていた。自分が生まれたために兄から母を奪ってしまったと」
「だからといって本当のことを言ったって今度は私がお母さんを殺したと考えるようになるだけじゃないですか。父は正しいことをした、あれ以外には何もできなかった。僕だって妹に母がいなくてもさびしくないように精一杯頑張ってきた」
「君の妹が苦しんだのは君が頑張っちゃったからなんだよ。母がいないから兄が頑張る。母がいないのはなぜか私のせいだ。よって私がいけない。こうなるのは目に見えている。それに気づいておきながら、あえて妹が話をしないことをいいことに、君は現実から逃げた。しいて言うのなら君の父親というものは同じ土俵にすら上っていない。妻の死で傷ついた夫を演じ、君たちの事など気にも留めていない。だから妹が母と会う為に自殺したのは君たちのせいだ。仕方ない仕方ないといつも問題から頭を隠していたおまえとおまえの父親のな」
「助ける方法を知っているんですよね」
「君は命を張ってでも妹を助けるという覚悟はあるのかい。それがなければ教えるだけ無駄なんだよ。覚悟ができるような理由はあるのかい」
「今の話を聞いて助けに行かないなんて、そんな事僕にはできない」
「教えてやってもいいが君にやってもらいたいことがある。創世の炎を持って帰って来てほしいんだ」
「僕はどうすればいいんですか」
「君も手首を切るんだ。一度死ななくてはならない。妹が切った傷口に君の血を垂らす。創世の火に血のつながりがある時、互いにその存在を引き合う。創世の火の中に彼女の存在を見出し、そして、彼女を火の中で横たわる彼女を連れて帰ってくるんだよ。君の決心がついたら君一人でやればいい。永遠の炎が手に入ったら電話してくれ」
土砂降りの雨に打たれて家に帰る途中、なぜか以前話したことがあるような気がした。話の切り出し方、口調、それらはなぜかデジャブの様に感じられた。
「北沢と話をしてきました」
電話の先にいるのは予言者だ。家に帰ってきてすぐ電話した。誰一人いないがらんとした家の中で電話の音が鳴り響く。
「無事だったんだな、とりあえず」
「はい、方法も聞き出して来れました。でも一つ聞きたいことがあるんです。あなたはその方法を知っていましたよね」
「君の勘の良さには驚くばかりだよ。そして、君は奴から話しを聞いたばかりに、引き返すことはできない」
「北沢のことも知っていたんですよね。彼が危害を与えないのはわかっていた、というより彼と手を結んでいるんですか」
「彼のことは知っている。本当のことを言うと幼馴染みたいなものだ。しかし、奴は私を裏切った。今ではどちらがどちらの主権を握るかで争っている。だから君を二人で取り合っているのさ。さあ、下地はできた。君にやって貰いたい事を言う」
「あなたの望みも永遠の炎を持って帰ることですか」
「反対だ、やってほしい事は永遠の炎を消すことだ。君がどちらを信じるかはわからない。だが、どちらにしても君は手首を切らねばならないようだな」
「わざわざ自分で死にたかった人を僕は助けに行かなくてはならないとは。僕はそんなにお人好しに見えますか」
「見える、とても見える。君の傾向なんだろう、お人好しで何事も断れない、何にもできないような振りしといて、結局君一人が頑張っている。目に浮かぶよ、いつもいろいろな所で慌てふためく君の姿が。それはもう才能だな、君が受け継いだ血に書き込まれているものだろうな。私はどんな場面であろうと絶対に君の血を輸血しないね。きっと君の血はずぼらな私の生き方まで変えようとする執拗なものだろうよ」
「でも僕には妹のために命が張れるかまだわからないんです。妹も大切ですが、まだまだ若い自分の命も大切です」
「帰ってこれないって考えるからだめなんだよ。親にしかられて家から出ていった子供を家に連れ帰るとき、一緒に帰ってこない母親がどこにいる。手をつないで二人で帰ってくるのが親の務めだ。母親のいない妹さんの母親代わりは誰だい、お前さんじゃないのかい。いよいよどうしてもって時は、妹さんが手を引っ張ってくれるさ。それが親子って言うもんさ」
舞台は一番最初に戻る。わけの分からない機械にぐるっと囲まれた一台のベッドが広い病室に置かれていた。機械から伸びるチューブやコードは、一人のこの病室の主人である少女の身体に繋がっていた。それは、身体の機能の全てを機械に預けて、ベッドに溶け込んでいってしまいそうな、小さく、ほっそりとした身体だった。
そこは、色が消滅していた。窓の外は、万緑が生命力を彩り、花が咲き乱れ、入道雲が大空に聳え立っていた。だが、窓に掛かったカーテンから透けた夏の日差しは、漂白された白いシャツのような白い光になって、この部屋の同質の白さに跳ね返り、部屋中に暴れまわり、最終地点として、目を焼いた。
まるでカーテンが季節を濾して純粋な光だけを取り入れているようだった。何もかもが白い病室に、その少女と僕は二人きりで存在していた。少女のまぶたは、たとえ病院が崩れても開く気配は無かった。一方僕は細く軽い彼女の腕をそっと持ち上げる。薄いピンク色に盛り上がった深く長い傷跡は、無造作に手首の内側に横たわっていた。そっと道を外れないように傷をなぞる。進んだ先で行き場をなくし戸惑う指先。妹よ、お前はどこへ行ったのだ。そっと手を離す。弾力あるベッドに落ち少し弾んでその場に留まる。僕は自分の左手首をまくる。病室に入る前にかいていた汗は、病室の人工的な冷気に冷やされ消え去っていた。妹の手首より幾分か太く、太陽に焼かれて茶色い手首。薄く青く身体の内側に走る血管。手首を曲げる時に浮き出る筋。
今、それらは冷たいカッターナイフの刃に直面させられている。右手が加害者、左手が被害者。じゃあ、これは誰が裁くのだろう。少し力を入れ引いても一向に皮膚は切れる予兆を見せなかった。本気でやれということなのか、カッターナイフの刃を直角に当てる。先の尖った所に殺気がこもる。カッターナイフの刃のざらざらとした感触と共に、手首に多少の血が傷口に沿って膨らんでくる。妹の手首に血を垂らしたあと、同じ所に刃を置き、目をつぶりカッターナイフを引く。しかし、深く切れない。こんなこともできないのかと自分に活を入れなおし、今度は逆に眼を見開く。自分を殺すときくらい見てやろうじゃないか。三度同じ傷口に置かれたカッターナイフは、今度はうまく僕の身体を容赦なく引き裂く。止めようと思っても簡単に止まりそうも無い大量の血が手首から流れ出る。
「まったくお前はその年になっても迎えに行かないと、ちゃんと家にも帰って来られないのか」
目を開けるとそこは草原だった。道は僕の後ろにはなかった。前にはっきりと草を掻き分けて進んでいった先駆者の跡が残っていた。道の先、丘になっている所が目指す場所に違いなかった。空を覆うほどの炎、それは太陽の一部が落ちてきたかのようだった。さわやかな風が頬をなで、励ますように僕の背中を押した。一歩一歩進むしかない。近づくたびにその巨大さを実感させられる炎は消えることのない未来永劫伝わる真理のようだった。炎の前に立つと手前にある二本の脊柱以外は炎しか眼に入らなかった。
「名を言え」
炎から言葉が発せられる。動物の声ではない、ましてや人の声ではない。それは世界を見下ろした声だった。
「村上健介です」
「それはお前の親がお前に与えた名だろう。この先ではそんなものは意味を成さない。炎の中では期待、希望、祈り、そのようなものが一番重たいんだ。身を軽くしなければ、炎の中で足を前に出すことはできない」
「名前は絆だ。捨てることなどできるわけがない。名の重みそれを背負って前に進むことに意味がある。僕は妹を迎えに来た。迎えに来るということはここから二人で家に帰るということだ。決して、現実世界から縁を切るわけじゃない」
「そういうのならそれでよい。先へ進め火に焼かれるのではなく火になるのだ。そうすれば全てを征服するだろう」
火の中に一歩足を進める。決して炎に熱はなかった。さっと火が僕の足を避け、その周りを囲んだ。身体を炎の中に潜らせる。身体は火に覆われ息ができるのが不思議だった。自分から影が消えたことに気がついた。光に包まれると影が無くなる。影が奪われるというのはこのことを指していたらしい。という事は炎の外に出るしか陰は見つけられない。だが今は妹を探すとき、ひたすら前に進む。足を前に出すと火は空間を空ける。その空間に身体を沈みこませると、後ろは瞬く間に炎に埋め尽くされる。目に見える色は赤一色。人の姿など見える兆しもない。ずっと走り続けたため息が上がり、炎の中座り込んでしまった。なぜか身体が重い。疲れて考えることをやめた瞬間に恐怖が襲ってきたのだ。
草原に帰ることさえかなわない。もし草原に帰れたとしても底からの戻り方もわからない。希望、今までの何とかなるさという憶測、それら全てが燃やされていく。その時声が響く。耳を澄ましても遠いため聞こえない。だが妹の声のようだった。「迎えに行く」それを心に響かせ立ち上がる。名前をこちらからも叫びながら走ろうとする。突然妹の名前を忘れてしまったことに気づく。そういえば妹が自殺してから、彼女の名前を読んでないことを思い出した。戸惑いに心を支配されつつ走る。足さえ前に持ち上がれば次は思いのほか簡単に前に出た。
「健介兄ちゃーん」
声が近づく。
「こっちだ、こっち」
こちらも大きな声で呼び返す。目の前に病室に横たわっていた手が見える。そして、次の瞬間に見慣れた妹の姿が僕の前にあった。
「勝手に一人で遠くにいったらだめじゃないか。手紙なんか書き残したって結局、帰ってこられないじゃないか」
「最初は帰れると思ってた。炎に包まれ、さまよっている内に帰れないと思った。もう帰れないかと思った目的も達せられずに、このままずっとここに閉じ込められるのかと思った。どうして何でもっと早く迎えに来てくれなかったのよ。ばかっ」
「悪かった。こっちだって色々大変だったんだ。文句言うんだったらここにおいてくぞ。されたくなかったらちゃんと付いて来い」
「ごめんなさい」
「お前は入り口で名前を捨てたのか」
「そうお母さんに会う為にここに来て炎をくぐったとき門番に言われて」
「この中でお母さんは僕たちの名前を呼んで待っているんだ。名前を捨てたら分からない。お母さんもここに来たとき捨てているだろうから、お母さんが僕の名を呼んでいるのを探すしかないな。僕の服の裾を握れ。迷子になったら僕の名前を呼ぶんだ。ここでは名前は遠くまで響くみたいだ。今、体が向いているこの方向に行くぞ」
「どうしてこっちなの」
「炎の中心のような気がする。焚き火するとき火の中心の色は違うだろ。お母さんが自殺したのは何年も前のことだ。ここの地理に詳しいはずだ。そしたら、いつか僕たちが来るかもしれない時に備えて、一番分かりやすい所で僕たちを待っているはずだ」
「私が生まれたせいでお母さんは自殺したの。私、やっぱりお母さんに会えない」
「お母さんはお前が生まれたせいで自殺したんじゃない。そんなことするような人じゃない。それに実際に会わないと分からないだろ。ここでは本気で心から望みを願わなければと叶わない。お母さんに会って二人で家に帰るんだろ」
炎の中心に母はいた。だがこの火を操っている訳ではないようだった。母はまったく変わらなかった。いや変わらないで待っていてくれたのだろう。妹は母と抱き合ったまま時間が過ぎた。このまま化石になってしまうかのように、堅く抱きしめあっていた。涙が零れ落ち、永遠の炎の中に消えた。
「二人ともずいぶん大きくなったのね。今までここで毎日心配ばかりしていたのよ」
妹を抱きしめたまま話し出した。
「ずっとこのままでいたいけど、この話しを聞いたらちゃんと家に帰りなさい。あなた達は未来を生きる生き物でしょ。お父さんも向こうで待っているわよ」
妹の身体を離しながら、喋っている母の口調はとても厳しかった。その強い口調は我々に使命を植え付けた。ふと気が付くと周りの火が小さくなっているような気がした。
「お母さん、お母さんはなぜ自殺したの」
「あなたも健介も大きくなったわ。二人を傷つけてしまうのではないかと、あの人は理由を言わなかったみたいね」
母は父をあの人と呼んだがとても優しげな響きを持っていた。母の目からは相変わらず涙がこぼれていた。
「あなたが生まれる直前、私はお医者さんに残酷な決断を迫られたの」
妹の肩に手を乗せながら母は話をしていた。確実に炎は小さくなってきていた。
「病院の手術前の白いベッドの上で私が選べる選択肢は二つしかなかった。私が死んで赤ちゃんを産むか、赤ちゃんをおろして私が生き残るか。私が生き残っても、もう出産できない身体になることは、医者から告げられていた。どちらにしろ、私は二度と赤ちゃんを抱きしめることはできない。その話を聞いて、あの人はすぐに私を選んだ。だけど、私はどうしても赤ちゃんを産みたかった。あきらめてはいけないと思った。ゴール直前でゴールを奪われた私に残された方法は、あなたにバトンを託すことにしたの。その方法が自殺だったとしても。私は一人になった隙を突いて手首を切った。私の意志の強さにあの人も決断したみたいね。薄れていく意識の中であの人が叫んだ言葉が脳裏に焼きついたわ。『赤ちゃんをよろしくお願いします』って。健介あなたが一番苦しかったわよね。だけど私の代わりにこの子がちゃんとゴールしてくれた。私は一度も後悔していないわ」
そっと立ち上がり僕を抱いてくれた。
「あなたたちに伝言を頼むわ。必ず帰らなくちゃだめよ。あの人に伝えて、『あなたは人殺しじゃないわ。私は後悔していません』って」
涙の粒が、ろうそくほどの大きさになった永遠の炎を消し、煙が立ち昇り、永遠の炎は消滅した。三人が立っていた場所は暗闇に包まれた。
世界への復帰。精神世界から現実世界へ。目に映るは白い部屋身体にのしかかる重い物体。感じるのは、手首の湿り気。兄の血は手首に流れ、上半身は身体の上に乗せ、意識を失っている。
世界からの消滅。精神世界から脱出したが、現実世界に戻る肉体は無く、行き着く所は無である。しかし、そこには解放と救済の二つの文字が満ち溢れている。全てが浄化され光の源に溶け込む。そうして、神の手の内に戻っていく。
世界の暗転。僕は一人暗闇に取り残される。自分の存在に実感が抱けない。暑い寒いなどの感覚は無い。しかし、孤独は骨の髄まで染み込んでじっくりと身体を冷やす。足の下に地面があるのかすら分からない。上を見上げてもそこが空なのかも分からない。見上げた先が上なのかさえ納得できない。だだっ広い空間に身体が溶け込んでしまいそうに感じる。光の反射や吸収によって色が存在するならば、光なき闇にあるこの黒は果たして色なのだろうか。
ただ恐れるんだ、拒むんだ、戦うんだ
心を硬化させてはならない
日々の移ろいの儚さに
傷つく心を持て
壁を作るな
門戸を開放せよ
それらを守るためには人々は立ち上がらねばならない
それらを守るためだけに人々は立ち上がらねばならない
表現という武器を身につけろ
人の心に伝えたいことがあるなら
相手の懐に踏み込み
心に愛を刻みつけろ
光が無ければ影はできない
影を捜し求めるとき光が無かったらどうすればいい
やることはただ一つ
自分の内から光を灯せ
僕は暗黒に座り込んだ。目的が見出せない。価値が見出せない。存在理由が見出せない。何も存在しない場所、真っ黒な空間、真空、無。そんな場所に僕一人が立ちすくむ。精神世界の抜け殻、それとも、円の外というべきか。どちらにしろここから抜け出す方法が分からない以上そんなものはどちらでもいいが。家に帰るためには影を見つけなければならない。しかし、影が存在するのか分からないこの空間で探せというのは酷な話だ。母に会い、妹が家に帰った今、僕の目的とは何なのだろう。
長い時間が流れる。だが、この空間時間という概念が存在しているのかどうかは分からない。
「また会ったな、少年。いや君には名前があったな。村上健介君。ここで名前を持つものは、初めてだ。ちゃんと敬意を表さねばならないな」
「あなたは入り口であった声ですね」
「君の表現、私のことを声といったのは正しい。私は思想だからな。さっきまであんなに走り続けていたのにどうした。今君がすべきことは何だ」
「僕は…」
「ここまで来れた人間は今までいなかったというのに、ここに来て君は自分の望みをわすれてしまったとでも言うのかい」
「僕は何をすればいいんでしょうか」
「私はただヒントをあげることしかできないが、君はただ歌い上げればいいのさ。君が望むように。信じるものが救われるのではない。自分の望みを声高らかに歌い上げられるものにこそ祝福はあるべきだ」
「ここはどこなんですか」
「真理の中心だ。台風の目のような所だ。ここに温もりを感じろ。この空間に抱かれるのだ。だからといって勘違いは困るのだが、君が中心というわけではない。ありふれた表現だが君は海の中の一滴の水だ。全てに含まれ、だが全てではない。中心でもなければ、端っこでもない。もう一度問う。今君がすべきことは何だ。名を冠す者はそれをできるだけ高く持ち上げねばならない。それが誇りという物なんだよ。村上健介君」
「僕は、僕はちゃんと自分の家に帰ります」
「少年、自分で名前を捨てるな、内なる炎を持て。永遠の炎を飲み込め。そして、歌い続けるのだ。君は私の希望だ。この腐りきった現代社会で声高らかに歌う君の姿だけが私の中の真実なのだよ。君がここから出れないと、私の存在理由が分からなくなってしまうのだよ」
声は消え去り聞こえてきた空間にはビー玉大の青紫色の炎が浮かんでいた。僕は躊躇すること無くそれを飲み込んだ。
決して僕が光ったわけではなかった。しかし僕の身体のうちから光は出ていた。この残酷な世界の中に僕の影が映し出された。
眼を開けたところは白い部屋だった。手首は縫合されているようだ。ベッドを取り囲むように家族がいた。
僕は精一杯しかし、幾分かすれ気味の声で妹の名を呼んだ。
エピローグ一
病院を退院した僕は北沢とあった喫茶店にいた。もちろん北沢と会うためだ。だが二人きりではなかった。
「北沢さん、約束は守りました。だけど、永遠の炎は持って帰ってきましたが、あなたには渡せません」
「だからといってなんでこいつがいるんだ。俺の、俺の体が」
僕の隣には鈴木さんがいた。
「久しぶりだな、私の影。永遠の炎は消滅し、今ではもう手に入らない。お前はもう抗えないはずだ。そろそろ私の足もとに戻るときが来たようだな」
「永遠の炎さえ手に入れば、お前なんか逆に私の足の裏にくっ付いていたのに。何もかも全てお前のせいだ。なぜ火を消した。なぜ内なる炎はお前の中にある。なぜお前が帰ってこられる。もうおしまいだ…」
いつの間にかスーツ姿の北沢さんはいなくなり、鈴木さんの足からは真っ黒い影が不服そうに伸びていた。
「村上君には本当に悪いことをした。結局、私が君たち兄弟を引きずり込んでしまった。私が軽い気持ちで自殺をした報いが君たち兄弟にいって、私は救われるという結果はとても申し訳ない限りだ」
「僕はただ単に妹を迎えに行ったまでです。妹も母に会えてよかったと思います。鈴木さんが救われたのではなくてみんなが救われた。そう考えるようにしませんか」
「君はあそこで声に会わなかったかい」
「はい、彼のおかげで僕はこの世界に帰って来れました」
「君はそれが誰であったかわかっているのだね」
「はい」
「なら、いいんだ。僕はそれを知るまで長くかかってしまった。君はすごい子供だ。」
「そんな風にほめないでください。それより、今度自殺しようなんて馬鹿な考えが脳をよぎったら、その時はちゃんと言ってください。僕の血を輸血してあげますよ」
「そんなことされるぐらいだったら、普通に天寿を全うするよ。君の血にそそのかされて、何に巻き込まれるか、何に頭を突っ込むか分かったもんじゃない」
「巻き込んどいて言わないでくださいよ」
我々の笑い声は、天に昇る太陽まで響き渡った。
エピローグ二
「父さん、もう一度家族を組み立てないか。母さんはもういないんだ。もうそろそろちゃんと前を向かなくちゃ、ここからどこにも行き着かないよ」
「………。」
「あそこでお母さんはお父さんに言ってたわよ。『あなたは人殺しなんかじゃない。私は一度も後悔していないわ』って」
父の目に光が戻ったように感じる。世界に風が流れているのに気がついたようだ。
「今まで、今まで本当にすまなかった」
父はそれ以外何も言わず部屋へ入っていった。その扉の先から大きな泣き声が家中に響き渡った。
「父さんの胸の中は罪悪感で一杯だったんだろうね。だけど、もう大丈夫だろうね。お父さんはお母さんが好きになった人だ。これで新しい家族になるよ」
「違うわよ。戻るの。お母さんがいた頃に。母さんの代わりにうるさい兄貴もいるしね。それより私の詩集読んだでしょ」
「助かったよ。あそこに名刺が挟んでなかったら、万事休すだったよ」
「それはいいとして、中身読んだでしょ。約束してなかったっけ。私のノート覗いたら、一ヶ月間洗濯って」
「それはいいんだったらこれもいいことにしろよ。琴美」
少し周りの季節に遅れて、やっと初夏の爽やかな新鮮な空気が通り抜けていった家の中に、二人の兄弟の声が新しい時代を告げる鐘のように鳴り響いた。
歌の中には悲しみ、喜び、苦しみ、すべてが歌いこまれる。喜び一色、悲しみ一色。洋服も色一色でもいいかもしれない。だが、模様が複雑に一生懸命(ここが大切)に織り込まれていたほうが人々は感動するに違いない。
そして、生命は例外なく誰一人何一匹漏れることなく、宇宙の意志を歌い上げる吟遊詩人である。
完