偽りのリボンは夜にほどける
第一章 白瀬ルナ、十九歳
鏡の中にいたのは、二十七歳の男ではなかった。
淡い栗色のロングウィッグ。目尻をわずかに下げた柔らかなアイメイク。頬には血色を足し、輪郭は影と光で細く見せてある。白いブラウスの上から薄桃色のボレロを羽織り、濃紺のスカートを合わせれば、そこに立っているのは、どこから見ても清楚な若い女性だった。
狭山廉は、鏡の前で首を傾けた。
「はじめまして。白瀬ルナ、十九歳です」
喉の奥を締めすぎず、息を少し多めに混ぜる。高いだけではない、柔らかく、無理のない女声。何度も録音し、聞き直し、癖を潰してきた声だった。
「今日は一人で来たので、ちょっと緊張してます」
完璧だった。
廉は満足げに口元を緩めた。
胸元と腰回りには、衣装の線を整えるための体型補正用パッドを重ねている。胴にはコルセットを巻き、肩から腰までの比率が自然に見えるよう、鏡の前で何度も位置を調整した。尻の線も同様だった。どの器具も衣装の外から直接見えることはない。歩けば布地が揺れ、その下に作られた輪郭が本物らしい動きをする。
目的は、賞金でも撮影でもなかった。
今夜の成人限定コスプレ交流イベント「ミラージュ・ナイト」には、全国から参加者が集まる。廉はその中で女性参加者に近づき、警戒心を解かせ、連絡先を集めるつもりだった。女性同士だと思わせれば、初対面でも距離は縮まりやすい。撮影の約束、衣装の相談、次回イベントへの同行。そうして親しくなった後で、自分に都合のいい関係へ持ち込む。
卑怯だという自覚はあった。
だが廉にとって、良心は勝てない者が自分を慰めるための言葉だった。
更衣室の外では、会場案内の音声が流れている。
『まもなくメインホールを開場します。参加者の皆さまは、入場証を見える位置にお付けください』
廉は小さなバッグから入場証を取り出した。
白瀬ルナ、十九歳。
身分確認を通すための証明書は正規のものではない。入手経路も、作った者の名前も、廉は誰にも話すつもりがなかった。
胸元に証を留め、最後にウィッグの生え際を確認する。
「今日も、誰も見抜けない」
その声に、男の名残は一片もなかった。
扉を開けると、照明と音楽と人のざわめきが一気に押し寄せた。
旧展示場を改装した会場には、巨大な撮影セットが並んでいた。星空を模した黒い壁、白い階段、ネオンで縁取られた近未来都市、花びらが舞う庭園。参加者たちは思い思いの衣装で歩き、互いに写真を撮り合っている。
廉は背筋を伸ばし、スカートの裾を軽く整えた。
その瞬間から、狭山廉は消えた。
残ったのは、少し人見知りで、上品に笑う十九歳の少女――白瀬ルナだけだった。
第二章 最初の獲物
廉は急がなかった。
会場に入ってすぐ声をかければ、慣れていない参加者に見える。まずは撮影スペースを巡り、周囲の会話を聞き、どの参加者が一人で来ているかを見分けた。
狙うのは、友人と離れて行動している女性。初参加らしく、写真の頼み方に迷っている者。あるいは、衣装に自信がある一方で、誰かに褒められたがっている者。
廉は人の欲しがる言葉を見抜くのが得意だった。
庭園セットの前で、白い魔法使い風の衣装を着た女性が、スマートフォンを片手に立ち尽くしている。年齢は二十代半ばほど。周りを見回しているが、撮影を頼める相手が見つからないらしい。
廉は一度通り過ぎ、数歩進んでから振り返った。
「あの、よかったら撮りましょうか?」
女性は目を丸くした。
「え、いいんですか?」
「はい。せっかく衣装がすてきなのに、写真がないともったいないです」
その一言で、相手の表情がほころんだ。
廉は何枚か撮影し、角度を変え、照明の位置まで助言した。相手は朝霧真菜、二十四歳。地方から一人で来ており、衣装は自作だという。
「縫い目、すごくきれいですね。私、こんなに上手に作れないです」
「近くで見ると粗いですよ」
「そんなことないです。写真でもちゃんと形が出てます」
廉は相手のスマートフォンに撮った写真を確認させながら、自然に距離を縮めた。
真菜はすぐに警戒を解いた。
「ルナちゃんは、友達と来たの?」
「一人です。こういうイベント、まだ慣れてなくて」
「じゃあ、一緒に回る?」
予想どおりだった。
廉は控えめに笑い、少し迷うふりをしてからうなずいた。
「いいんですか? うれしいです」
二人で歩き始めると、真菜は自分から話題を出した。好きな作品、普段の仕事、衣装を作るときの失敗。廉は相槌を打ち、必要なところだけ質問する。自分の設定については、専門学校に通う十九歳で、姉に勧められて参加した、と答えた。
嘘は、細部を増やすほど破綻しやすい。
だから廉は、聞かれた分だけ答えた。
十分ほど話した頃、真菜が言った。
「連絡先、交換する? 今日の写真、あとで送るよ」
「はい、ぜひ」
一人目。
廉は胸の内で数えた。
そのとき、背後から乾いた拍手が二つ響いた。
「いやあ、自然。初対面からそこまで懐に入れるの、才能じゃん?」
振り返ると、鮮やかな金髪のツインテールを揺らす人物が立っていた。
黒と蛍光ピンクを組み合わせた近未来風の衣装。濃いアイライン、光沢のあるリップ、大ぶりのイヤリング。派手だが雑ではない。全体が一つの意図で統一されている。名札には「レオナ 二十歳」とあった。
体の線は華やかに整えられていたが、廉は一目で気づいた。
同類だ。
化粧の技術も、姿勢も、声の作り方も高い。しかし、ごくわずかな肩の使い方と、重心移動の癖が隠し切れていない。
女装コスプレイヤー。
レオナは真菜に笑いかけた。
「ごめん、邪魔した? その衣装、さっき撮影列できてたよね。めっちゃ映えてた」
「ありがとうございます」
真菜は照れたように頭を下げた。
レオナは次に廉を見た。
視線が一瞬、ウィッグの生え際から首元、腰、靴へと滑る。
「ルナちゃん、だっけ」
「はい」
「かわいいね。作り込み、すごく丁寧」
ほめ言葉の形をしているのに、廉には警告に聞こえた。
「ありがとうございます。レオナさんも、すてきです」
「そりゃどうも」
レオナは笑った。
その笑顔だけが、妙に鋭かった。
第三章 ギャルの警告
レオナは、しばらく二人についてきた。
会話には自然に入り、撮影のコツを話し、真菜を笑わせる。廉は表情を崩さなかったが、内心では苛立っていた。
邪魔者は早めに遠ざけた方がいい。
「レオナさん、お友達は大丈夫なんですか?」
遠回しに離れろと告げる。
「一人参加。あたし、群れるの苦手なんだよね」
「そうなんですね」
「でも、怪しい人を見つけると放っておけないタイプ」
真菜が笑った。
「何それ、会場の見回り?」
「趣味みたいなものかな」
レオナは廉から目をそらさなかった。
やがて真菜が撮影受付へ向かうため、その場を離れた。
二人きりになると、レオナは壁際へ歩き、廉に顎で合図した。
「ちょっと話そっか」
「何のお話ですか?」
「その声、うまいね」
廉は笑顔を保った。
「声ですか?」
「とぼけなくていいよ。あたしも同じだから」
レオナは自分の喉元を指で軽く叩いた。次の一言だけ、声を落とす。
「二十四。男。普段の名前は黒崎玲央」
すぐに声を戻した。
「で、そっちは?」
「意味が分かりません」
「なら、分からないままでいい。でも一つだけ言っとく」
玲央の笑みが消えた。
「女装して参加すること自体は、誰にも迷惑かけない。あたしだってやってる。でも、相手をだますために使うなら話は別」
「何を根拠に、そんなことを」
「見てたから。さっきの子だけじゃない。入場してから、誰が一人か、誰が話しかけやすいか、ずっと選別してた」
「思い込みです」
「そうかもね。じゃあ、安心させてよ」
玲央はスマートフォンを取り出した。
「このイベント、参加者同士の勧誘や迷惑行為は禁止。年齢詐称と身分証の偽造はもっと重い。あんた、本当に十九?」
廉の背中に、冷たいものが走った。
だが顔には出さない。
「失礼です。スタッフを呼びますよ」
「呼びなよ。あたしも一緒に説明する」
廉は数秒、玲央を見つめた。
先に引いた方が負ける。
「あなたの方こそ、他人の秘密を勝手に暴こうとしているんじゃないですか」
「秘密と不正は違う」
「証拠は?」
「今はない」
「では、ただの言いがかりですね」
廉は一礼し、その場を離れた。
背後から玲央の声が追ってくる。
「三回までにしとくよ」
廉は振り向かなかった。
「何がですか?」
「止まる機会。今ので一回目」
軽い口調だった。
だが廉には、宣戦布告にしか聞こえなかった。
第四章 笑顔の裏側
廉は計画を変えた。
玲央が見張っている以上、一人ずつ時間をかけて近づくのは危険だ。ならば、複数人の輪に入り、誰にでも親切な参加者として振る舞えばいい。接触の目的をぼかし、連絡先交換を自然な流れに見せる。
午後の企画「ペア撮影ラリー」は好都合だった。
参加者同士で即席のペアを作り、会場内の四つのセットで写真を撮る。完成した写真を投稿すれば、抽選で限定グッズが当たる。
廉は真菜を誘い、さらに近くにいた二人の女性参加者とも話し始めた。
「せっかくだから、みんなで撮りませんか?」
四人で移動し、撮影し、笑い合う。廉は場の中心に立ちすぎず、誰かが困ったときだけ助けた。スマートフォンを預かって撮影し、衣装の乱れを指摘し、荷物を持つ。
善意は、目立たない形で積み重ねた方が信用になる。
連絡先は三人分増えた。
玲央は遠くから見ていた。
視線が合うたび、指を一本立てる。
一回目を忘れていない、という合図だ。
廉は無視した。
夕方、真菜が一人で飲み物を買いに行った隙に、廉は彼女の同行者用バッグへ手を伸ばした。
目的は財布ではない。
中に入っている参加者証を確認し、本名と年齢を知るためだった。相手の情報を多く持つほど、後から関係を操作しやすい。
ファスナーへ指をかけた瞬間、別の手が上から重なった。
「それ、自分のじゃないよね」
玲央だった。
廉は即座に手を引いた。
「倒れそうだったので、置き直そうとしただけです」
「ファスナー開けながら?」
「開いていたから閉めようと」
「さっきまで閉まってた」
「見間違いです」
玲央はため息をついた。
「二回目」
「あなた、私につきまとって楽しいですか?」
「全然。あんたみたいなののせいで、真面目に女装を楽しんでる人まで疑われるのが嫌なだけ」
「被害者ぶるんですね」
「被害者じゃない。迷惑してる当事者」
廉は玲央の肩越しに、真菜が戻ってくるのを見た。
ここで騒げば、かえって不利になる。
「何を言っているか分かりません」
廉は声を少し震わせた。
「私、さっきから怖いです。秘密を知ってるみたいなことを言われて、ずっと見られて……」
真菜が歩みを止めた。
「ルナちゃん?」
廉は振り向き、困ったような表情を作った。
「何でもないです」
「何でもなくないでしょ。レオナさん、どうしたんですか?」
玲央は廉を見た。
廉はわずかに口角を上げた。
玲央がここで正体を口にすれば、他人の個人情報を暴露する者に見える。証拠がなければ、信じてもらえない。
玲央は数秒黙り、肩をすくめた。
「ごめん。あたしの勘違いだった」
「勘違い?」
「バッグが落ちそうに見えて。ルナちゃんが直してくれてたみたい」
真菜は安心したように笑った。
「そうだったんだ。ありがとう、ルナちゃん」
「いえ」
廉は玲央から勝ちを奪ったつもりだった。
しかし玲央は離れ際、低い声で言った。
「次で最後」
その表情に、敗北の色はなかった。
第五章 鏡合わせの勝負
中間発表の前、会場では「キャラクター即興撮影」という企画が行われた。
参加者は抽選で二人一組となり、三分間の打ち合わせだけで一枚の物語写真を作る。小道具は会場側が用意し、撮影テーマは直前に発表される。
廉が引いた札には、番号十二と書かれていた。
同じ番号を掲げたのは玲央だった。
「運がいいね」
玲央は金髪の毛先を指で払った。
「最悪の間違いでしょう」
「企画スタッフの前で言う?」
二人のテーマは『秘密を知った親友』だった。
スタッフが小道具台を示す。銀色の手鏡、封筒、古びた鍵、造花、黒いリボン。二人は一つだけ選ばなければならない。
玲央は手鏡を取った。
「これでいこう」
「相談する気はないんですね」
「あるよ。ルナちゃんが鏡を持つ。あたしは鏡じゃなく、ルナちゃんの顔を見る」
「意味が分かりません」
「写真を見た人が考えればいい」
廉は気に入らなかった。
玲央が作ろうとしているのは、自分の秘密を見抜いた構図だ。だが拒めば、テーマから逃げたように見える。
「では、私は笑います」
「秘密を知られたのに?」
「知られたことに気づいていない人物なら、笑うでしょう」
廉が答えると、玲央は一瞬だけ目を細めた。
「いいね。それでいこう」
撮影セットは、左右に細い照明が並ぶ白い廊下だった。
廉は胸元で手鏡を持ち、カメラへ微笑む。玲央は半歩後ろに立ち、鏡ではなく廉を見つめる。
撮影者が指示を出した。
「ルナさん、もう少し顔を鏡へ。レオナさんは、何かに気づいた感じで」
廉は角度を変えた。
鏡の中には、整えた眉と柔らかな目元、栗色の髪が映る。
その向こうに、玲央の視線があった。
カメラのシャッターが鳴る。
一枚目。
「次、表情を変えましょう。ルナさんはそのまま。レオナさんだけ笑ってください」
玲央が笑った。
明るいギャルの笑顔なのに、目は冷静なままだった。
二枚目。
廉は鏡を持つ指に力を入れた。
撮影が終わり、画像が確認用モニターへ表示される。
そこには、何も知らず笑う清楚な少女と、その背後で真実を知る派手な少女がいた。
企画スタッフが感心した声を上げた。
「二人とも表現がはっきりしてますね。対照的で、すごく物語が見えます」
「ありがとうございます」
廉は笑顔で答えた。
玲央が横から言う。
「ルナちゃん、秘密を持ってる役、似合うもんね」
「レオナさんは、人の秘密を勝手に暴く役が似合いますね」
「暴くんじゃなく、気づくだけ」
「気づいた後に黙っている人には見えません」
「相手が自分から話す時間は待つよ」
廉は手鏡を台へ戻した。
「待っているようには見えませんけど」
「もう二回、待った」
玲央の声だけが低くなる。
「三回目は、あんた次第」
廉は返事をせず、撮影セットを離れた。
ところが、企画写真はすぐに会場内で注目を集めた。大型モニターに映し出されると、参加者たちが足を止める。
「この二人、雰囲気が真逆でいいね」
「鏡の使い方がうまい」
「ルナちゃん、ほんとに何か隠してそう」
最後の言葉に、廉は肩をこわばらせた。
冗談だと分かっている。写真の物語について話しているだけだ。
それでも、自分だけが笑えなかった。
真菜は写真を見て喜んだ。
「すごい。二人、仲悪そうなのに息ぴったり」
「仲が悪いわけでは……」
廉が否定しかけると、玲央が割り込んだ。
「ライバルってやつ。ね?」
「勝手に決めないでください」
「じゃあ、ステージで決めようよ。どっちのスタイリングが上か」
周囲が面白がって声を上げる。
真菜も手をたたいた。
「それ見たい!」
廉は逃げ道を失った。
だが同時に、好機だと思った。
人前の勝負なら、玲央は証拠のない疑いを口にできない。技術だけなら負ける気はなかった。
「分かりました」
廉は清楚な笑顔を作った。
「正々堂々、勝負しましょう」
玲央は一拍置いてから答えた。
「うん。正々堂々ね」
その言葉が、廉の胸へ細い針のように刺さった。
以後、二人は会場の注目を集めるようになった。
清楚なルナと派手なレオナ。正反対の女装スタイルを競う二人として、撮影を頼まれる。廉にとっては都合がよかった。人気が上がれば、玲央の疑いは嫉妬に見える。
しかし撮影のたび、玲央は必ず廉へ確認した。
「この人、肩に触っていいって?」
「聞きました」
「写真の掲載範囲は?」
「本人が決めています」
「連絡先は運営経由?」
「そうです」
玲央は何気ない会話の形で、廉の行動を一つずつ公のルールへ戻していく。
廉はそれが窮屈だった。
同時に、周囲の参加者が玲央を信頼する理由も分かってしまった。
玲央は派手で遠慮がない。だが、相手の境界を勝手に越えない。触れる前に確認し、撮影後は必ず画像を見せ、削除を求められれば迷わず消す。
廉は親切を信用させる道具として使った。
玲央は親切を、相手の選択を守るために使っていた。
見た目は似た技術で作られていても、二人の間には埋めにくい差があった。
その差を認めたくなくて、廉はさらに笑顔を整えた。
第六章 見えない綻び
廉には一つだけ誤算があった。
玲央は感情で動く人間ではなかった。
二度目の警告以降、玲央は正面から近づいてこなくなった。その代わり、イベントスタッフと短く話し、撮影者に声をかけ、会場の案内表示を確認して回った。
何をしているのか分からない。
分からないことが、廉を苛立たせた。
午後六時、メインステージで「ベスト・スタイリング投票」の中間発表が始まった。参加者は衣装の完成度、表現力、撮影人気の三項目で評価される。
白瀬ルナは暫定三位。
レオナは二位だった。
順位が発表されると、真菜たちは大喜びした。
「ルナちゃん、すごい!」
「私なんて、そんな……」
「一位狙えるよ。最後のステージ、出ようよ」
廉は迷うふりをした。
本当は、出るつもりだった。
ステージに立てば注目が集まる。撮影データが増え、参加者との接点も増える。玲央が何か訴えても、人気のある参加者を一方的に疑う危険人物に見せられる。
「でも、私、人前に出るの苦手で」
「大丈夫。みんな応援するから」
廉はしばらく俯いた後、覚悟を決めたように顔を上げた。
「じゃあ、頑張ってみます」
周囲から拍手が起こった。
その輪の外で、玲央がスマートフォンを操作していた。
廉は視線を向けた。
玲央は画面から顔を上げ、今度は指を三本立てた。
第三の警告。
廉は笑ってみせた。
止まるつもりはない。
むしろ、舞台の上で玲央を負かす。
その後、廉は控室へ向かった。化粧を直し、ウィッグの固定を確認するためだ。
鏡の前に座り、バッグを開ける。
中身がわずかにずれていた。
リップの向き。予備のピンの位置。使い捨ての化粧用スポンジの枚数。
誰かが触った。
廉は周囲を見回した。
控室には十人ほどの参加者がいる。誰もこちらを見ていない。
バッグの底を探ると、小さな紙片が入っていた。
『偽名でも、声でも、衣装でも、人は別人になれる。でも、行動だけは隠せない』
署名はない。
玲央だ。
廉は紙を握りつぶした。
すぐに玲央を探したが、見つからない。
代わりに、会場スタッフの桐生真帆が近づいてきた。黒いジャケットを着た三十代の女性で、入場時に受付を担当していた人物だ。
「白瀬ルナさんですね」
「はい」
「確認したいことがあります。少しお時間よろしいですか」
廉の心臓が強く打った。
「これからステージなので、後でもいいですか?」
「簡単な確認です。入場証を見せてください」
廉は笑顔で差し出した。
真帆は番号を確認し、端末へ入力する。
「登録情報に一部不一致が出ています」
「不一致?」
「住所の入力形式です。身分証をもう一度確認させてください」
廉は即座に答えた。
「更衣室のロッカーに置いてきました」
「では、一緒に取りに行きましょう」
「ステージに間に合わなくなります」
「確認が終わるまで出演は保留です」
周囲の視線が集まり始めた。
廉は声を少し弱くした。
「私、何か悪いことをしたんですか?」
「現時点では、登録内容の確認だけです」
「でも、みんなの前でこんな……」
涙を浮かべれば、同情を得られる。
そう考えた瞬間、控室の入口に玲央が現れた。
「桐生さん」
真帆が振り返る。
玲央は一枚の写真を見せた。
「さっきの件、撮影者から元データもらえました」
画面には、真菜のバッグへ手をかける廉の姿が写っていた。
偶然、背景に映り込んでいたらしい。指はファスナーにかかり、バッグは明らかに開きかけている。
「これだけじゃ窃盗とは言えないけど、説明と違うよね」
玲央は言った。
廉は写真を見つめた。
まだ終わっていない。
「誤解です」
「そうかも。だから、身分確認して終わりにしよう」
真帆が静かに手を差し出す。
「ロッカーへご案内します」
廉は立ち上がった。
従うふりをして、椅子を引く。
次の瞬間、その椅子を玲央の進路へ蹴り出し、反対側の扉へ走った。
悲鳴が上がった。
スカートでは全力を出しにくい。だが、会場の裏動線は入場前に確認してある。搬入口へ抜ければ外に出られる。
廉は扉を押し開け、暗い通路へ飛び込んだ。
背後で真帆が叫ぶ。
「止まってください!」
廉は走り続けた。
第七章 舞台裏の追跡
通路はメインホールの裏側を半周していた。
片側には大道具、反対側には機材ケースが積まれている。廉はヒールの音を響かせながら走り、途中で靴を脱いだ。素足ではない。衣装用の薄い室内履きを仕込んでいる。
追跡の足音が近づく。
玲央だった。
「逃げたら、余計まずいって!」
「来るな!」
廉は反射的に地声で叫んだ。
低い男の声が通路に響く。
一瞬の沈黙。
だが、ここには観客はいない。
まだ会場全体には知られていない。
廉は非常口の扉に手をかけた。しかし警報装置が付いている。開ければスタッフに位置を知られる。
別の搬入口へ向かおうとしたとき、玲央が追いついた。
廉は振り返り、持っていたバッグを投げつけた。
玲央は腕で防ぎ、足を止める。
「どけ」
「身分確認だけなら、すぐ終わる」
「お前には関係ない」
「ある。あんたが女性参加者をだましたまま消えたら、次から女装参加者全体が疑われる」
「知るか」
「そういうとこだよ」
廉は玲央の肩を突き飛ばした。
玲央はよろめいたが、倒れなかった。逆に廉の腕をつかむ。
「離せ!」
廉は振りほどこうと腕を振る。
二人の体が機材ケースへぶつかった。上に置かれていた布や小道具が崩れ落ちる。
廉は玲央の手を外し、走り出そうとした。
その瞬間、ウィッグの後ろが何かに引っかかった。
固定ピンが頭皮を引き、鋭い痛みが走る。
「っ……!」
振り返ると、玲央の手がウィッグの毛束をつかんでいた。
故意ではなく、崩れた布を避けようとして手を伸ばした先に絡んだらしい。
「離せ!」
廉が前へ進み、玲央が後ろへ引いた。
固定が耐え切れず、淡い栗色の髪が大きくずれた。
額の生え際が浮き、下に押し込んでいた短い黒髪がのぞく。
廉は両手で頭を押さえた。
「返せ!」
「まず止まれ!」
「ふざけるな!」
廉は玲央へつかみかかった。
その勢いで、ウィッグは完全に外れた。
栗色の髪が玲央の腕へ垂れ、廉の短い黒髪が露出する。
それでも化粧と衣装は残っている。
廉は顔を隠しながら、もう一度逃げようとした。
しかし通路の先から真帆と男性警備員二人が現れた。
「そこで止まってください!」
廉は反対へ向く。
玲央が立ちはだかった。
「終わり」
「まだだ」
「もう声も戻ってる」
廉は息を呑んだ。
女声を維持する余裕はなかった。
真帆が距離を取りながら告げる。
「暴れないでください。身分確認と事情聴取を行います」
「何もしていない」
「バッグへ手を入れようとした記録、虚偽登録の疑い、スタッフの制止を振り切った行為があります」
「全部誤解だ」
「それを確認するために話を聞きます」
廉は左右を見た。
逃げ道はない。
玲央の手には、自分のウィッグがある。
完璧だったはずの白瀬ルナが、頭から崩れていた。
第八章 白瀬ルナの解体
廉は会場奥の管理室へ連れて行かれた。
人目を避けるため、観客のいない通路が使われた。真帆は参加者に必要以上の情報を広めなかった。真菜たちには「登録確認のため出演を取りやめた」とだけ伝えたという。
管理室には、真帆、男性警備員二人、玲央がいた。
「玲央さんは目撃者として同席します。ただし、必要な確認が終われば退室してもらいます」
真帆はそう告げた。
廉は椅子に座らず、壁際に立っていた。
頭にはウィッグがない。化粧は残っているが、走った汗で目元が少しにじんでいる。
「身分証を提示してください」
「ない」
「ロッカーにあると言いましたね」
「なくした」
「では、登録された氏名と生年月日を口頭で確認します」
「白瀬ルナ。十九歳」
真帆は端末を見た。
「登録上の住所へ照会しましたが、該当する居住記録が確認できませんでした」
「個人情報を勝手に調べたのか」
「イベント運営規約に基づき、登録情報の不正が疑われる場合、必要な確認を行います。受付時に同意されています」
廉は黙った。
真帆は机の上へ透明な保管袋を置いた。
「現在の姿では本人確認ができません。化粧と体型補正具を外し、素顔と服装を確認します。別室で男性警備員が対応します。着替え用のジャージを用意します」
「断る」
「拒否する場合、警察到着までこのまま待機していただきます」
「警察?」
「虚偽の身分証を使用した疑いがあります。会場からの逃走時にスタッフへ物を投げ、備品も破損しています」
廉は玲央をにらんだ。
「お前が余計なことをしたからだ」
玲央は表情を変えなかった。
「違う。あんたが選んだことの結果」
「偉そうに。お前だって男を隠してるだろ」
「隠してない」
「何?」
「受付では本名と性別を出してる。女装名は活動名。撮影相手に聞かれたら、必要な範囲で説明する。誰かを口説くために女性だと偽ったこともない」
玲央は入場証の裏を見せた。
運営管理欄には本名が記されている。
「同じに見えるなら、あんたが見たい部分しか見てないだけ」
廉は何も返せなかった。
真帆が静かに言う。
「確認を始めます」
別室へ移る前に、廉は化粧だけでも自分で落とすと言った。
真帆はクレンジングシートと鏡を差し出した。
廉は一枚取り、頬を拭った。
ファンデーションが白い布へ移る。
もう一度。輪郭を細く見せていた影が消える。
目元を拭うと、長く見せていた線がにじみ、つけまつげが外れた。
廉は手を止めた。
鏡の中には、白瀬ルナと狭山廉の中間のような顔があった。
「全部落としてください」
真帆の声は冷静だった。
廉は唇を拭いた。頬を拭いた。眉を整えていた色も落とした。
一枚、二枚、三枚。
鏡の中から十九歳の少女が消え、疲れた二十七歳の男が現れる。
誰も笑わなかった。
それが廉には、嘲笑よりも耐え難かった。
次に別室へ入り、男性警備員の立ち会いで衣装を着替えた。肌を見せる必要はなく、衝立の向こうで上からジャージを着用し、衣装と補正具を順に外して保管袋へ入れた。
胸元の形を作っていた複数のパッド。
腰を締めていたコルセット。
尻の輪郭を整えていた補正パッド。
固定用のテープ、予備の留め具、声を整えるためののど飴、化粧道具。
それらが一つずつ袋に収められていく。
作り上げた輪郭は、道具を外すたびに消えていった。
最後に、玲央が拾った栗色のウィッグが袋へ入れられた。
衣装を失ったことより、技術を否定されたことが悔しかった。
廉は何年もかけて女声を練習し、化粧を学び、体の線を研究した。その努力自体は本物だった。
だが、その本物の努力を、他人をだますために使った。
袋の中の道具は、何も悪くない。
悪いのは使い方を選んだ自分だと、廉は初めて理解しかけた。
それでも、認める言葉は喉から出なかった。
第九章 偽名の向こう側
警察が到着するまでの間、真帆は被害確認を進めた。
廉が連絡先を交換した女性参加者には、運営から個別に事情を伝えた。個人情報を消去するよう求め、端末の確認は警察立ち会いで行うことになった。
真菜は管理室の前まで来たが、中には入らなかった。
扉越しに声だけが聞こえた。
「ルナちゃんに、会えますか」
真帆が答える。
「今は難しいです」
「本当の名前も、年齢も、違ったんですか」
「詳細は確認中です。ただ、登録情報に虚偽があった可能性があります」
長い沈黙の後、真菜は言った。
「写真を撮ってくれたことまで、全部うそだったんでしょうか」
廉は扉の内側で目を閉じた。
写真を撮った行為そのものは本当だった。
衣装をほめた言葉も、半分は本心だった。
だが目的が偽りなら、受け取った側にとっては全部が疑わしくなる。
廉はその当然のことを、考えたことがなかった。
真帆は慎重に答えた。
「行為の一つ一つがどういう意図だったかは、本人にしか分かりません。ただ、あなたが不快だったり、怖いと感じたりしたなら、その感覚を無理に否定する必要はありません」
「分かりました」
足音が遠ざかる。
廉は扉を見つめた。
謝ろうと思えば、呼び止められた。
しかし、何と言えばいいのか分からなかった。
だますつもりだったが、写真は本気で撮った。
利用するつもりだったが、衣装をすてきだと思った。
そんな説明は、言い訳にしかならない。
玲央は部屋の隅に立っていた。
「言わないの?」
「何を」
「謝罪」
「今さら何を言っても同じだ」
「同じじゃない。許されるかどうかと、謝るかどうかは別」
「正論が好きだな」
「正論で止まれるなら、もっと早く止まってる」
玲央は椅子へ座った。
「一回目でやめてたら、注意だけで済んだかもしれない。二回目で認めてたら、少なくとも逃げなくて済んだ。三回目で身分証を出してたら、道具まで証拠品にならなかった」
「勝った気分か?」
「全然」
玲央は即答した。
「あたしは、女装で誰かを負かしたいわけじゃない。自分がなりたい姿を作って、写真に残して、同じ趣味の人と話したいだけ。あんたのせいで、明日からまた『女装参加者は信用できない』って言う人が出る」
「それは俺の責任じゃない」
「全部じゃない。でも一部はあんたの責任」
廉は机の上の保管袋を見た。
栗色のウィッグが、透明な袋の中で形を失っている。
「俺は、うまかった」
廉はつぶやいた。
「何が?」
「声も、化粧も、歩き方も。誰も気づかなかった」
「うん。技術は高かった」
玲央は否定しなかった。
「だから余計に悪質だった」
廉は唇をかんだ。
ほめられたかったわけではない。
それでも、技術だけは認められたことに、わずかに救われた自分がいた。
「どうして分かった」
「最初は同類だと思っただけ」
「どこで?」
「重心。あと、女声がきれいすぎた。普通の人は、そんなに一音ずつ整えて話さない」
「それだけで?」
「それだけじゃない。いちばん不自然だったのは、女の人に近づくときだけ、急に弱そうになること」
玲央は目を細めた。
「本当に怖がってる人は、相手の反応をあんなに冷静に観察しない」
廉は返事をしなかった。
見抜かれたのは、ウィッグでも骨格でも声でもない。
行動だった。
控室の紙に書かれていた言葉が、頭の中によみがえる。
人は別人になれる。でも、行動だけは隠せない。
第十章 消せない記録
事情聴取の途中、警察官の立ち会いで廉のスマートフォンが確認された。
真菜たちと交換した連絡先、イベント中に送った短いメッセージ、撮影データ。端末の中には、廉が今夜積み上げたものが時系列で残っていた。
最初のメッセージは、真菜への礼だった。
『今日は一緒に回ってくれてありがとうございます。真菜さんがいてくれて安心しました』
文章だけを見れば、何もおかしくない。
次には別の参加者へ送った文がある。
『初参加同士で話せてうれしかったです。今度は二人で撮影できたらいいですね』
さらに別の相手へも、似た言葉を送っていた。
『私、人見知りなので、優しくしてもらえて救われました』
廉は画面を見ながら、自分の文章が急に薄く見えるのを感じた。
相手ごとに言葉を変えたつもりだった。だが並べれば、同じ構造しかない。
不安を見せる。
相手を特別だと思わせる。
次に二人きりになる提案をする。
廉はそれを会話の技術だと考えていた。相手が喜んで応じるなら問題はない、とも。
しかし、その前提には「十九歳の女性」という偽情報が置かれている。相手は、その条件を信じた上で距離を決めていた。
警察官が尋ねた。
「この方々には、実際の氏名や年齢を伝える予定はありましたか」
「後で、関係ができてから」
「いつですか」
「それは……相手による」
「伝えたことで相手が連絡を断った場合、受け入れるつもりでしたか」
廉は答えに詰まった。
受け入れるつもりはなかった。
ここまで仲良くしたのだから、見た目も声も女性と変わらないのだから、性別や年齢など細かい問題だと説得するつもりだった。
場合によっては、相手が秘密を暴露したと責めたかもしれない。
自分が最初に欺いたことを棚に上げて。
「黙秘します」
廉が言うと、警察官はそれ以上追及せず、事実確認へ戻った。
その冷静さが、かえって廉を逃げにくくした。
端末には、会場へ来る前に作った一覧もあった。
『一人参加』『衣装自作』『地方参加』『反応良好』
名前の横へ短い評価を書き込み、接触の順番を決めている。
玲央が最初に言ったとおりだった。
廉は入場直後から、誰が話しかけやすいかを選別していた。
自分では観察力だと思っていた。
画面に並ぶ言葉は、人を人としてではなく、攻略しやすさで分類した記録にしか見えなかった。
「これは誰かに命じられて作ったものですか」
「違う」
「あなた自身が?」
「そうだ」
認めた瞬間、廉は初めて、自分の計画を外側から見た。
清楚な衣装も、柔らかな声も、親切な撮影も、その一覧へ相手を追加するための入口になっている。
真菜が言った言葉がよみがえる。
写真を撮ってくれたことまで、全部うそだったんでしょうか。
廉は、写真だけは嘘ではないと思っていた。
だが、真実の行為を一つ混ぜれば、全体の欺きが消えるわけではない。
端末確認が終わると、玲央が管理室へ戻ってきた。
真帆から必要な説明を受け、廉の向かいへ座る。
「連絡先、全部消すことになった」
廉が言うと、玲央はうなずいた。
「当然」
「相手だって、自分から交換した」
「渡すかどうかを判断する材料が間違ってた」
「見た目と声は、実際に見せたとおりだ」
「年齢も立場も、接近した目的も違った」
「目的まで最初に話す人間なんていない」
「普通は『だますために近づきました』なんて目的を持たない」
廉は机を指でたたいた。
「俺が男だと知っても、気にしない人はいる」
「いると思う」
玲央は簡単に認めた。
「だったら」
「でも、それを決めるのは相手。あんたじゃない」
廉の指が止まった。
「最初から本当の情報を出して、それでも話したいって人と話せばよかった」
「そんな人はいない」
「探してないのに、どうして分かるの」
廉は言葉を失った。
拒絶される前に、拒絶されない条件を作った。
相手が受け入れたのは自分だと思い込みながら、実際には架空の白瀬ルナを差し出していた。
その矛盾を、廉はこれまで考えないようにしてきた。
玲央は保管袋を見た。
「女装を外されたことが、一番きつい?」
「当たり前だ」
「違うと思う」
「何が分かる」
「道具が外れたからじゃない。道具を外しても残る自分を、あんたが嫌ってるからきついんでしょ」
廉は立ち上がりかけた。
男性警備員が動いたため、再び座る。
「知ったような口を利くな」
「知ってるよ。あたしも最初は、レオナじゃない自分を見られるのが嫌だった」
玲央は帽子を取り、短い髪を見せた。
「でも、どっちかを偽物にしたら苦しくなる。女装してる自分も、してない自分も、両方自分だって決めた」
「俺と一緒にするな」
「一緒じゃない。だから言ってる」
玲央は帽子を戻した。
「あんたは、ルナを作るために廉を消そうとした。消えないから、他人をだましてでもルナだけを本物にしようとした」
廉は保管袋のウィッグを見た。
白瀬ルナは、自分が作った。
自分がいなければ存在しない。
それなのに、廉はいつからか、ルナだけが価値を持ち、狭山廉は隠すべき残骸だと考えるようになっていた。
「だから何だ」
声は、自分でも驚くほど弱かった。
「だから、次があるなら名前を消さないこと」
「説教は終わりか」
「うん。あとは自分で考えて」
玲央は席を立った。
扉の前で振り返る。
「ただ、真菜さんたちに返事を求めないで。謝るなら、許してもらうためじゃなく、したことを認めるためにして」
扉が閉まる。
廉は一人、端末の消去確認画面を見つめた。
連絡先を削除する。
確認ボタンを押すたび、名前が消えていく。
真菜。
次の参加者。
その次の参加者。
最後に『白瀬ルナ用』と名付けた偽のプロフィールフォルダが残った。
廉は指を止めた。
中には、十九歳という設定、架空の学校、架空の家族、好きな食べ物、苦手なこと、過去のイベント参加歴まで書かれている。
人物としてはよくできていた。
よくできていたからこそ、他人が信じた。
廉はフォルダ名を変更した。
『創作キャラクター・ルナ』
削除はしなかった。
ただし、本物の身分の代わりには二度と使わない。
その判断が償いになるわけではない。
それでも、最初に選び直せることは、それしかなかった。
第十一章 返り討ち
警察の聞き取りが終わった頃、イベントは閉場時間を迎えていた。
廉は虚偽の身分証に関する事情聴取と、備品破損、スタッフへの妨害行為について確認を受けた。真菜のバッグから物を取った事実はなかったが、無断で開けようとした行為についても記録された。
その場ですべてが決着したわけではない。
だが、少なくとも「白瀬ルナ」として会場を出ることはできなかった。
廉は灰色のジャージに着替え、化粧を落とし、短い黒髪のまま建物の裏口に立っていた。
手元に戻されたのは、財布とスマートフォンだけだった。衣装と補正具、ウィッグ、偽造の疑いがある証明書は、一時的に保管された。
冷たい夜風が頬に当たる。
入口側では、イベントを終えた参加者たちが笑いながら帰っていく。真菜の姿は見えなかった。
玲央が遅れて出てきた。
すでに金髪のツインテールは外していた。短い髪に帽子をかぶり、顔の化粧も薄く落としている。衣装の上から長いコートを羽織っていた。
「まだいたの」
「迎えを待ってる」
「そう」
玲央は自動販売機で温かいお茶を二本買った。
一本を廉の隣のベンチへ置く。
「いらない」
「じゃあ置いとく」
「同情か?」
「のど、痛めてるでしょ。逃げながら地声で叫んだ後、ずっと無理に声を整えようとしてた」
廉は黙った。
玲央は少し離れた場所に立った。
「今日のステージ、あたしが一位だった」
「自慢しに来たのか」
「違う。結果だけ伝えに来た。あんたが出てたら、たぶん勝ってた」
廉は顔を上げた。
「何?」
「衣装の完成度は、あんたの方が上だった。立ち姿も、カメラへの向き方も。だから、返り討ちにしたって気分でもない」
玲央は会場の明かりを見た。
「勝負になる前に、あんたが自分で降りた」
「俺は逃げ切れなかっただけだ」
「そういう意味じゃない」
玲央は廉を見る。
「技術で勝負すればよかったのに、だます方を選んだ。女装の腕で誰かに認められる道を、自分で捨てたってこと」
廉は笑おうとした。
だが声が出なかった。
会場で何人もの参加者が、白瀬ルナをかわいいと言った。衣装がすてきだ、写真が上手い、話しやすいとほめた。
それらは、だまされていたから出た言葉だと思っていた。
しかし玲央は、事情を知った上で技術を認めた。
そのことが、廉には腹立たしかった。
「お前に何が分かる」
「全部は分からない」
「俺は男のままじゃ、誰にも相手にされなかった」
「だから別人になるのは分かる。でも、相手の同意まで作り替えたらだめだ」
「きれいごとだ」
「そうだね。でも、きれいごとを守るために規約がある」
玲央は踵を返した。
「次に女装するなら、誰かをだますためじゃなく、自分の名前でやりなよ」
「次なんてない」
「それは自分で決めればいい」
玲央は数歩進み、立ち止まった。
「ただし、同じことをしたら、次も止める」
振り返らずに言い残し、歩いていく。
廉はベンチに置かれたお茶を見た。
しばらくしてから缶を取る。
温かさが手のひらへ広がった。
蓋を開けると、かすかな湯気が夜気へ消えた。
第十二章 名前を戻す日
三か月後。
狭山廉は、小さなレンタルスタジオの受付に立っていた。
警察の確認と運営側との話し合いは続いたが、真菜の所有物を盗んだ事実はなく、備品の修理費とイベント側への損害については弁償することになった。虚偽の証明書については入手経路を含めて調べられ、廉は二度と使わないと誓約した。
謝罪文も送った。
真菜から返事はなかった。
返事を求めてはいけないと、玲央に言われるまでもなく分かっていた。
廉は女装道具の大半を処分しなかった。
しばらくは箱を開けることすらできなかったが、ある日、栗色のウィッグを洗い、絡みをほどき、形を整え直した。化粧道具も不足分を買い足した。
技術を捨てれば、過去まで消える気がした。
だが、捨てても過去は消えない。
それなら、使い方を変えるしかない。
この日、スタジオでは初心者向けの小規模な撮影会が開かれる。参加者は全員成人。事前登録制で、本名と活動名を運営へ提出する。廉は運営欄に「狭山廉」、活動名に「ルナ」と書いた。
年齢は二十七歳。
性別欄も偽らなかった。
鏡の中には、以前とよく似た姿がある。
淡い栗色のロングウィッグ。柔らかなメイク。白いブラウスと濃紺のスカート。体型補正用のパッドやコルセットも使っている。ただし、盛りすぎず、動きやすさを優先した。
「狭山さん、準備できましたか?」
スタッフに呼ばれ、廉は一瞬だけ息を止めた。
「はい」
女声で答えかけて、やめた。
自然な自分の声で言い直す。
「今、行きます」
扉の向こうには、玲央がいた。
今日はレオナではない。黒いシャツに細身のパンツ。撮影補助として参加しているらしい。
「逃げなかったね」
「受付で帰ろうとは思った」
「帰らなかった」
「それだけだ」
玲央は廉の姿を見て、ウィッグの前髪を指さした。
「右、少し浮いてる」
廉は鏡を確認する。
確かに、生え際がわずかにずれていた。
「触るなよ」
「触らない。自分で直しな」
廉はピンを差し直した。
以前なら、完璧だと言い張っただろう。
今は、浮いているものは浮いていると認められた。
撮影会が始まる。
廉は参加者の前に立った。
数人が、衣装を見て声を上げた。
「すごい、きれいですね」
「ウィッグの色、似合ってます」
廉は笑った。
「ありがとうございます。活動名はルナです。本名は狭山廉。二十七歳です」
一瞬、相手は驚いた。
それから、普通にうなずいた。
「よろしくお願いします」
拒絶されなかった。
その事実は、あまりにも簡単で、廉は拍子抜けした。
撮影が進むにつれ、廉は以前のように相手の反応を細かく読み取っていた。ただし今回は、弱点を探すためではない。相手がどんな写真を望んでいるのか、どこまで近づいてよいのか、何を不快に感じるのかを確かめるためだった。
真似している行動は同じでも、目的が違えば、結果も変わる。
休憩時間、参加者の一人が言った。
「ルナさん、撮る側も上手そうですね」
「少しだけ」
「今度、衣装の写真をお願いしてもいいですか?」
廉はすぐに連絡先を求めなかった。
「運営の共有フォームがあるので、そこから依頼してください」
「分かりました」
相手は何も気にせず離れていった。
玲央が後ろから言う。
「成長したじゃん」
「うるさい」
「女声、今日は使わないの?」
「使う必要があるときだけ使う」
「じゃあ、一回聞かせて」
「断る」
「けち」
玲央は笑った。
廉も、わずかに口元を緩めた。
白瀬ルナは、一度壊れた。
ウィッグを外され、化粧を落とされ、補正具を一つずつ取り去られたとき、廉はすべてを奪われたと思った。
だが、奪われたのは偽名と、偽った年齢と、他人を利用するための筋書きだった。
技術は残った。
選び直す余地も残った。
撮影用の照明が点灯する。
廉はカメラの前へ進み、背筋を伸ばした。
「準備できました」
今度の声は、女声だった。
高く、柔らかく、よく整っている。
だが、その声の主が誰なのかを、もう隠してはいなかった。
シャッターが切られる。
淡い栗色の髪が光を受け、静かに揺れた。
偽りのためではないリボンが、胸元でまっすぐ結ばれていた。
撮影後、廉は鏡の前でウィッグを外した。そこに映る短い黒髪の男を、以前ほど憎いとは思わなかった。化粧を落とした顔も、女声をやめた低い声も、ルナを作った同じ人間の一部だった。玲央が扉の外から急かす。廉は「今行く」と地声で答え、箱の中へ道具を丁寧に戻した。隠すためではなく、次に正しく使うために。
建物を出ると、夜風が栗色の毛先を揺らした。廉はそれを押さえず、自然に任せた。完璧でなくても、名乗るべき名前を名乗れば立っていられる。その事実だけを、今度は忘れないつもりだった。
玲央は先に歩き、振り返らず片手を上げた。廉も同じように手を上げ、遅れてその背中を追った。
偽名ではなく、自分の足で。 夜の道を歩いた。
【了】




