表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

水底には

作者: 入江 涼子

 ある真夏の暑い最中、アスファルトの道を一人の中年の女性が歩いていた。


 じりじりと厳しい照り返しがあり、女性は額や首筋から玉のような汗を浮かべている。それでも、歩く足は止めない。女性は名を暁子(あきこ)と言って、今は亡き夫が眠る霊園へ向かっていた。霊園の近くには農業用の溜池があり、よく面白がって泳ぎに行く子供を見かける。が、大体年に一人は溺れて亡くなるケースが多かった。そのたびに暁子は気の毒でならない。だから、溜池が見えてくると毎年、立ち止まっては念珠を持って祈りを捧げるようになった。


『……タスケテ』


 ふと、小さな子供特有の高めの声が暁子の脳裏に響く。すぐに祈るのをやめて辺りを見回すが。誰もいない。人っ子一人もいなくてただ、蝉の賑やかな声が響いていた。暁子は気のせいかと思い、念珠を持っていたバッグに入れる。霊園へと再度、向かった。


 少し経ってから、霊園に着いた。暁子は入口で柄杓(ひしゃく)や桶を借り、近くの蛇口から桶に水を汲んだ。そうしてから、夫のお墓に行った。借りた柄杓などを一旦置き、持ってきたお花をお供えする。蝋燭を立て、火を燈す。お線香もバッグから出し、蝋燭に近づけて焚く。


(うつぎ)さん、今年も来たわよ。一年経つのは早いね」


 お墓に向かって呟く。暁子は置いた柄杓などを取りに行き、控えめに墓石に水を掛けた。横に置くとバッグからまた、念珠を出した。しばらくは亡き夫の冥福を祈るのだった。


 お墓参りも済ませ、暁子は柄杓や桶を返す。ゆっくりと家路につこうとした。けど、立ち止まって溜池の方角を見つめる。今、暁子がいる場所は溜池からは十メートル程離れていた。


(霊園へ行く途中、溜池の方で拝んでいたら。ちっちゃい子の声がしていたわ。あれは何だったの?)


 気になって仕方ない。暁子はサンダルを履いた足で溜池の近くへと進んだ。じっとりと湿った風が吹き、空の雲が太陽を隠した。


 暁子が溜池のすぐ近くまで来ると雲行きが怪しくなる。辺りは薄暗い。溜池の周りには二メートル近くの高さがあるフェンスが張り巡らされているが。たまに小さな子供なら入れる程の穴が空いてしまっていた。これはフェンスを修理しないと危険だ。そう思いながらも暁子は踵を返す。

 けれど、ざわりと強い風が吹き始め、暁子は反射的に瞼を閉じた。


『タスケテ、オバサン。ボクの声が聞こえないの?』


 はっきりと小学校高学年とおぼしき子供の声が聞こえる。暁子は瞼を開け、ゆっくりと振り向いた。そこには溜池の水面に立つ一人の少年の姿がある。が、暁子は少年が生者でない事がすぐに分かった。青白い顔や手足、ぽっかりと空いた黒い目。びしょ濡れのシャツにズボンを身に纏う少年だが。向こうの景色が透けて見えており、幽霊だと自ずと理解できた。

 ゾワリと鳥肌が立ち、背筋が冷える。少年は口元を引き上げ、にたりと笑った。


『おばさん、こっちにおいでよ。僕と遊ぼう?』


「……え」


『分からないのかな、僕と遊んでくれたら。おばさんの旦那さんと会わせてあげる』


 暁子はごくりと唾を飲み込んだ。まともに相手をしたらダメなヤツだわ。考えながら、何とか逃げようと試みた。気づかれないように辺りを見回す。助けは望めない。万事休すか。そう思い、暁子はバッグを握る手に力を込めたのだった。


 しばらくは少年と睨み合う。また、湿った風が吹く。


「……私の旦那と会わせてくれると言っていたけど、それは嘘でしょう」


『何で分かるの?』


「旦那は()()では亡くなっていないわ、病院で息を引き取った。しかも、関係の無い人を巻き込むのを何より嫌う人だったの。あなたみたいに寂しいからって同じ目にあわせようとはしないわ」


『……残念、もうちょっとだったのに。だから、大人は嫌いなんだよ!!』


 少年は怒ったらしく、途端に周りでつむじ風が発生した。それが暁子に襲いかかる。また、瞼を固く閉じた。すると、リィンと澄んだ鈴によく似た音が鳴り響く。


『……暁子、逃げろ!』


 低い男性の声がして暁子は瞼を開いた。そこには見覚えのある茶色の背広に同系色のスラックス、黒い革靴の男性が背中を向け、佇んでいる。


「棯さん?」


『そうだ、俺が何とかするからさ。早く逃げるんだ!』


「……分かった!」


 暁子は踵を返すと即座に駆け出す。振り返らずにその場からすぐに離れた。


 五分は走ったか。暁子はゼイゼイと息を荒げながら、足を止める。もう、これ以上は無理だ。

 近くに小さな公園があり、敷地内に入る。ベンチがあったので腰掛けた。少しだけ休憩する。


「はあ、疲れた」


 暁子は大きくため息をつきながら、背もたれに寄りかかった。どっと緊張からくる疲れが出る。けど、自宅まではまだ距離があった。仕方ないと震える足を叱咤し、立ち上がる。再度、歩き出した。


 自宅にたどり着き、暁子は玄関のドアの鍵をしっかりとロックした。自身があんな霊体験をするとは思わなかった。夫の棯が助けてくれなかったら、どうなっていたか。今さらながらにゾクリと寒気がした。

 暁子はお仏間に行き、おりんを鳴らす。また、拝むと小さな声で棯に礼を述べた。


『今度から気をつけてくれよ、暁子』


 頭に直接棯とおぼしき男性の声が響いた。暁子はしばらく、驚きのあまり固まる。じわじわと目に涙が浮かぶ。気がついたら、ほろほろと静かに泣いていた。暁子は持っていたミニタオルで拭きながら、棯に「ありがとう」と胸中で感謝を告げた。


 ――終わり――

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ