第70話 徴兵官殺し 〜あの日〜 その4
得体の知れない何かに取り憑かれたような男の声に、カイルの背筋にじわりと悪寒が這い上がっていく。
男の、流暢に紡がれる言葉の裏にあるもの――常軌を逸していた。
(コレじゃまるで麻薬の中毒患者じゃないか――)
万寿香への執着。それにすべてを飲み込まれてしまったような男の態度。 万寿香と言う麻薬にしか興味を持てないそんな男が、取引の通りに砂漠を渡らせてくれるなど、到底信じられるわけがない。
“奪ったあとに用済みとなれば置き去りにされるだけだ”
それが、カイルの出した結論だった。
もう一度、カイルは男に気付かれ無いよう背後のレイラにそっと視線だけで合図を送る。レイラもまた、静かにうなずいた。
息を合わせ、地面を蹴る。二人が木陰から駆け出した、その瞬間――
「どうやら交渉は決裂みたいですな」
男の声が微かに高ぶった。そして、男はゆっくりとその右手を掲げる。
カイルの足が止まる。瞬間、周囲の空気が変わった。
かすかに吹いていた風が止み、いつの間にか止まっていた空気。その中に確かに聞こえる――複数の足音。気配。呼吸の音。
カイル達の背後に、そして木々の奥に。男の背後にも数名の気配。
レイラの手が反射的に剣の柄へ伸びかけたのをカイルは咄嗟にその手で制しながらも――
「……やられた」
思わずカイルはそう声に出していた。
盲目の男の、あの異様な語りに気を取られすぎたばかりに、周囲への注意を完全に疎かにしていた。そして結果として二人はその隙に包囲されてしまっていた。
木々のざわめきの向こう、いつの間にか闇に潜んでいた気配。男の常軌を逸した自分語りはある意味で兄妹の逃げ道を塞ぐためのデコイ(おとり)だったのである。
まさに事態は万事休す。
しかし、カイルはそう判断しながらもその意識を自分を取り囲む男達へと拡散させた。
千年九剣第一層――超空間認識。視覚から取り込んだ情報を脳内に瞬時に仮想空間として構築し、周囲の状況を正確に把握する技。
兄と同じ様に、背後にいるレイラも周囲に第一層の視線を飛ばしていた。
新たに認識出来た人影の数は六。 そしてその中には、見覚えのある男の姿もある。
黒い官服に、背の低い男――オルマル村で徴兵の任を負って現れた徴兵官だ。 ならば周囲を囲む人影は、同じ日に彼が引き連れていた王国兵たちに違いない。
二人は完璧に包囲されていた。
「まぁ、最初からこうなる予定だったのですがね」
盲目の男が、少し楽しげに口角を上げた。
そして、それと同時に徴兵官が耳障りな甲高い声を上げた。
「国王の命に背く大罪人め! カイル=バレンティン。貴様の行き着く先は牢獄などではないぞ、決して生きて戻ることの出来ない最前線だ。罪を犯してなを王国に貢献できる栄誉をありがたく思え!」
決して人など殺すものか。
カイルはあの時そう誓いを立てて村を抜け出したはずなのに、ここで捕まってしまえば送り出されるのは最前線。
だが、だからと言って徴兵官の言葉に抗い剣を抜こうと言う気にはなれなかった。人を殺さぬ為に逃げ出したと言うのに、空気に押されてここで剣を抜いてしまっては身も蓋もない。
それに――
《千年九剣》それは、カイルが適当に作り上げた、架空の剣術。 それなりに理屈は通し、いくらかの実績も残してはいる。しかし実戦はそんなに甘いものでは無いことは分かっていた。
だからこそ彼はこの『千年九剣』を使用しての命のやり取りなど、夢にも思わなかったのだ。
机上の空論。 それはただの子供騙し。
そんなもので、この状況を打破できるはずがない。だからカイルは、剣に手すらかけなかった。
今、彼の眼の前にあるのは、逃げるという選択肢だけが残されていた。
しかし――背後のレイラは違った。
兄を信じて疑わない彼女は、背中に背負った古びた剣の柄に、しっかりと手をかけていた。
その小さな手に込められた決意を見て、カイルの心がかすかに沈む。
相手は本職の軍人である。万が一にもカイル達に勝ち目などあるはずがない。それにもし、その万が一が起こったとしても妹の手は血に染まってしまう。
妹に人は殺させたくない――
その思いを胸に、妹を騙したまま今この場をどう切り抜けるのか。その方法を探してカイルは、必死に思考を巡らせる。




