第69話 徴兵官殺し 〜あの日〜 その3
万寿香のことは妹以外は誰も知らないはずである。もちろんあの盲人ギルドのテンジンにも、その存在を語った覚えはない。
だからこそ男の言葉には信憑性があった。
つまり、男はその人間離れした嗅覚でカイルが隠し持つ万寿香の存在を知ったのだ。
よく見れば、カイルはこの男に見覚えがあった。
テンジンにギルドを案内してもらった時。部屋の傍らでじっと自分達の事を見ていた初老の男だ。
「……何のことだよ、それは」
カイルはあくまで知らぬふりを貫こうとするが、その声に滲む緊張は、隠しようがなかった。
その様子を感じとった男は、なおも煽るように言葉を続ける。
「もう一度言いますよ。私は誰よりも鼻が効くんです」
腰の低い物言いからあふれる重圧と得体の知れない自信。カイルはそこに、明確な悪意を感じ取らずにはいられない。
(――このまま会話を続けても、埒が明かない。一度この場所を離れるべきだ。)
咄嗟にそう判断するカイルの脳裏には、妹に教えたデタラメの剣技「千年九剣」の歩法が浮かんだ。
野山をまるで平地の様に駆け巡る卓越した状況判断と身体制御。オルマルの村を出てからというものカイルは常に目の前を妹のレイラに歩かせ、自らもそのデタラメのハズだった千年求剣の動きを必死に模倣していた。
あの技を使えば、この嗅覚だけが鋭い男を振り切ることはできる。
しかし、今まさに妹に小さく合図を送ろうとした、その直前――
「どこへ逃げても無駄ですよ。この嗅覚で私は貴方がたを何処までも追いかけることが出来るのですから」
まるでカイルの行動を予想でもしていたかのように、男の声がそれを遮った。
「まぁ、それに……」
男はゆっくりと、声を落として続ける。
「貴方がたにはどうしても砂漠を渡らなければならない理由があったのでは? 例えば……役人に追われているとか……」
(こいつ――そんな事まで知っているのか!)
焦ったカイルは思わず茂みから身を乗り出して、男に問いかける。
「……何者なんだ、お前は。本当に、ギルドの人間か?」
だが、そんなカイルの様子を察知して男は突然大きな笑い声を上げた。
「ギルドだって? そんなものはどうだっていいんですよ」
穏やかだったはずの表情に、狂気が宿り始めたかと思うと――
男はまるで自分の勝利を確信でもしたかのように――突然その身の上を語り出した。
「私はね、かつては東国の王宮に勤めていたのですよ。医務局の本草庫――まあ、薬や香草を管理する場所です。そこは、それはもう静かで……豊かな香りに満ちていた。目が見えぬ私には、そこがすべてでした」
男は、再びその顔を昔を懐かしむような穏やかな表情に変えた。
「その中にね、特別な香りがあったんです。決して開けてはならぬと言われていた棚の奥。フッと、そこから流れてきた……何とも言えない香り。あれを知ってしまったのが、私の間違いでした。万寿香――あれは、香りではない。呪いですよ」
そして、次の瞬間。今度は突然男の顔に、引きつった笑みが浮かぶ。
「ほんの少し嗅ぐだけで、頭が冴えて、心が浮き立つ。私は、それがどうしても忘れられなかった。気づけば、夜ごと庫に忍び込んで……ね。少しだけ、ほんの少しだけ……」
しばし言葉を切り、今度は怯えた様に肩をすくめる。
「バレるのは時間の問題でしたよ。もちろん私は全てを捨てて逃げましたよ。帝の御物に手をつける行為は当然死罪ですから……。そして私は砂漠の方へと彷徨い、盲人ギルドに拾われたのです。あそこは……良いところだ……。目の見えない私を見捨てなかった。そして目の代わりに、私には鼻があると――そう言ってくれた」
ふっと、声が低くなる。男の表情がまた変わった。
「それから長い時間が経ちました。香りを絶ち、欲を捨て、生きてきたんです。けれど……再び、あれを感じてしまった。あの町で――貴方がたが持ち込んだその香りを!」
声に、じわりと狂気じみた執着がにじみ出る。
「お前達のことを見たのは、あのギルドの建物の中だ。席は遠かったが匂いで分かった。あれは、間違いなく万寿香だ!」
男はそっと足を一歩前に出す。
「なぜまた私の前にあれが現れる? 何年も抑え込んできたのに……なのにお前達が、断ち切ったはずのそれを俺の前に持ってきたせいだ!」




