第66話 徴兵官殺し その2
見る間に満席となって行く闘技場の観客席は、決勝戦が始まる前から既に大きな歓声と熱気に包まれていた。
だが、そんな歓声や熱気から隔絶されたように静まり返っているのは、闘技場の地下に用意された選手の控え室。冷たい石とコンクリートに囲まれた薄暗い一室の真ん中には、たった一人で試合の開始を待つドーマの姿があった。
一回戦のアイシアとの戦いでは、身体強化魔法の副作用も手伝って大観衆の前で自ら悪役を演じて見せた。しかし、本来は根が真面目な彼女は律儀にエイドリアンから受けた恩を返そうと先程から精神の統一に余念がない。その彼女から与えられた要求は『決勝戦においての圧倒的な勝利』。
だが、もちろんドーマがその先に見据えるのはエルドラ族の再興である。
三年前――剣の腕前は一級だが、まだ人殺しを躊躇っていたレイラを焚き付けて帝国へと差し向けたのも、1回戦においてアイシアを怒らせ無理矢理に勝利を奪い取ったのも全てはそのためだ。今は利用できる物は全て利用する覚悟を決めている。
かつて、極東の大国エルドラを一瞬にして破滅へと追いやった『邪神テトカポリカ』。その邪神を倒すには、大陸最強とうたわれる剣聖レイラの力を持ってしてもまだ足りない。
そのためには、目標を見失い強くなることを諦めてしまったあの少女にもう一度剣への情熱を取り戻させる必要がある。
「きっかけなどは怒りでも何でもいい――。あの娘には、今以上にもっと強くなってもらわねば……」
ドーマは、冷たく薄暗い控え室で自らに言い聞かせるように呟く。
まずは、決勝での圧倒的な勝利。いずれにせよ彼女にとって今はそれが絶対条件なのだ。
そして――
一方で、ドーマの控室とは正反対の場所に位置するもう一つの選手控室には、やはり一人ぼっちのエデン少年の姿があった。
「チェッ。弟子の晴れ舞台だってのに結局あのおっさんは言いっぱなしかよ……。まぁでも、どうせ負ける試合だからな。見る価値なんて無いか……」
独りそんな小言を吐きつつ、エデンは出場者の控室でじっと決勝戦の開始を待っている。戦いのイメージはもう十分に出来上がっているはずだが、彼はもう一度頭の中で昨日じっくりカイルと詰めた必勝の策と、そしてどの時点で試合を放棄するか――それを念入りに確認した。
師匠のカイルとたった二人この王都に乗り込んできたエデンもまた、部屋を訪ねる知り合いなどはいない。彼もまたドーマと同じくただ試合開始の声がかかるまでこの控室で決勝戦開始の声を待つ。
しかし、そんな時――
ふと扉の外から、飽きるほどに聞きなじみのある声が聞こえて来た。
「ようエデン。様子を見に来てやったぜ」
勝手に扉が開かれて、無遠慮に室内に入ってきたのは……カイルではなくて……
「ちょっとなに!ウサギってどういう事?」
エデン少年の声が驚きで裏返るのも無理は無い。なんと、扉を開けて控室へと入ってきたのは、ピンク色をした安っぽいウサギの着ぐるみを着た誰か(カイル)だったのだ。
「いやいや。まいったよ。どうやってこの会場に入ろうかって悩んだ末に……。ほら。これってビールの売り子の姿なんだぜ。似合ってるだろ?」
だが、両手を広げてくるりとターンを決めるカイルの出で立ちが、ピンクのウサギと言うのが何とも滑稽だ。
「似合ってるも何も、着ぐるみじゃぁ分かんねえよ」
エデンは呆れたように言う。
「あぁ、そうか。頭ぐらいは取らないとな」
そう言うとカイルは、重たそうにピンク色の大きな頭を持ち上げた。
「まったく……わざわざそんな事をしなくても普段着で来ればいいだろう?」
「バカ。妹に見つかったらどうするんだよ。それに騎士の奴らだってうろちょろしてるんだ。もし見つかって俺の身元がバレてみろよ。俺は牢屋にぶち込まれて挙句の果ては死刑だぜ」
もちろんエデンだってそんなカイルの事情は知っている。だが、変装をするにしてもウサギの着ぐるみは無い。
エデンは、カイルの姿のバカバカしさに呆れる反面、緊張に包まれていたその表情にはいつの間にか普段通りの憎たらしいゆとりが戻っている。
「敵前逃亡の脱走兵が死罪ってのは万国共通だもんな。まったく……王国の騎士なんか相手にならないほど強いくせに、面倒なおっさんだよ」
少し皮肉めいたエデンの言葉は、いつもの事だ。
だが、その言葉にカイルは少し不思議そうな表情を見せ、そして返す言葉でこう言った。
「エデンよ。お前、少し勘違いをしてねぇか。さすがの俺だって敵前逃亡はしねぇって」
「えっ? 前に聞いた時は戦いから逃げたって――自分でそう言ってなかったっけ?」
普段から人殺しを良しとしないカイル。そんな彼が戦争から逃げてお尋ね者になったと言われれば、想像するのは脱走か敵前逃亡。エデンは今の今までそう思っていた。
しかし――
「ああ、確かに逃げた。でも俺は敵から逃げたんじゃ無い。俺は戦争から逃げたんだよ。しつこく俺を追いかけてくる徴兵官を殺してな――」
カイル口から出た言葉は――そんな今までエデンが想像もしなかった事実だった。




