第61話 帰ってきた兄 その6
「俺、あいつのこと知ってるぜ――」
テーブルの下を覗き込んだ俺に、エデンは珍しく真剣な面持ちで呟く様に言った。
「知ってるって……さっきの残念な女のことか?」
「うん、あいつが俺の兄貴をそそのかしたんだ。そして多分あいつが帝国の奴らも。おっさんも聞いたことぐらいあるだろ?傾国の魔女って名前ぐらいはさ――」
「まさか――あの短気な女が傾国の魔女なんて器かよ。」
俺はそう言い切ると、いつまでも床に座り込んでいるエデンに手を差し出すと、勢い良く椅子へと引っ張り上げた。
「チェッ、信じられないって言うんなら、それでもいいけどよ」
椅子についたエデンが舌打ちと共に不貞腐れた視線を俺に向けた。
エデンの言葉通り、俺だってもちろん噂ぐらいは聞いたことがある。今回の帝国の侵攻は裏で一人の女が糸を引いていたんじゃないかって言う、嘘のような本当のような出どころのはっきりしない噂だ。
しかし、噂はあくまで噂。
ましてや『傾国の魔女』と言えば、この異世界の歴史の中で度々登場する伝説の魔女。古代中国の殷王朝を滅亡へと導いた妲己や日本における玉藻前の如き大悪女なのである。
「信じるも信じ無いも――ありゃそんな大層な女かい?人の話を盗み聞きした挙句に、コップの水を引っ掛けるんだぜ――」
俺は鼻で笑いながら言った。だって、そんな残念な女が『傾国の魔女』な理由がない。
「だから人違いだって。いくら小国だと言ってもさ、さすがにお前の親父や兄貴があんな女にそそのかされるはずが無いだろ?」
俺は、少しうなだれた様子のエデンに対して半ば説得でもするようにそう言い聞かせた。
後で思い起こせば、多分この時の俺は色々と頭に血が上っていたのだと思う。
「果たして本当に勘違いなのだろうか――」
結局そう思えたのは、散々な目にあった店を後にして濡れてしまった上着を夜風がかすめた時だった。
自分から父と母親を奪ったエデンにとってはまさに敵とも言える女の顔を、果たして見間違えることがあるのだろうか。
俺は、思い出したくもない先ほどの出来事をもう一度頭の中で再生する。
だが、あまりにも突然の出来事だったので事細かな詳細は俺もほとんど覚えていない。気がつけば頭に水をかけられ罵声を浴びせられていたのだ。それも仕方のない事だろう。
ただ――それでも忘れられない言葉が一つ。確かあの少年は彼女のことを「エイドリアン」と、そう呼んでいた――




