33、思い出さなければよかったのに
透けていく。
彼の身体の向こう側に、キャンドルの揺らめく灯りが、キッチンが、部屋の壁が見えている。
「嫌だ! 雄大、行かないで!」
駄目っ! 駄目だよ。
やっと帰ってきたのに、誕生日のお祝いだってまだなのに。
忘れろ、忘れろ、忘れてしまえ!
もう一度すべてを忘れて、私といるためだけに、この場に留まり続ければいい。
――だってあなたは、私との約束を果たしに帰ってきてくれたんでしょう?
* * *
『俺の写真が大賞をとった。帰る』
突然届いた彼からのメッセージ。
ほんの短いその一文が、どんな長文よりも価値あるラブレターだった。
『おめでとう、待っています』
震える指で打ち込んで、涙で顔をクシャクシャにしながら送った返事。
今の私の顔を見たら、きっと雄大は「ブサイクだな」と笑うだろう。
それでもいい、早く会いたい……と思った。
――もうすぐ会えるんだ……。
そう考えたら、もっと顔がグシャグシャになる。
雄大に涙を拭いてもらう姿を想像したら、とうとう感情が決壊した。
両手で顔を覆って、声をあげて泣いた。
『もうすぐ帰るから』
『うん、待ってる』
成田空港からメッセージが届く。
いよいよだ。ドキドキしながらマンションで待機する。
この日のために半日のお休みをもらった。
昨日美容院に行って毛先だけカットした。お洒落なワンピースを着て、化粧は濃すぎず薄すぎず。
三年ぶりに会ったらいい女になってたって言わせてやるんだから。
だけど……。
次に届いたのは、雄大の母親から聞かされた悲報だった。
心臓が凍りつき、私の夢は砕け散った。
「姉ちゃん、本当に大丈夫なのかよ」
「うん、大丈夫」
葬式の帰り、必要ないというのに晴人がアパートまでついてきた。
雄大が座るはずだったローソファーの定位置に弟がいる。
どうしてこんなことになっているんだろう。
「晴人、ありがとう。もう帰りなよ」
「でも……」
それでも晴人は動こうとしない。
「俺も母さん達も姉ちゃんが心配なんだよ。 こんなことは言いたくないけどさ……雄大のあとを追おうとするんじゃないかって考えちゃって……」
「しないよ」
即答したら、晴人が驚いた顔をした。
驚くことないのに。死のうだなんてこれっぽっちも考えていない。
だって明日も午後から仕事が入っている。
雄大は一生懸命に仕事をする私が好きだと言っていた。 頑張れって、応援するって言ってくれた。
――いい加減なことをしたら雄大に嫌われちゃうじゃん。
「雄大のことを想いながら、一人で静かに誕生日を過ごしたいの。 お願い、そうさせてもらえないかな」
絶対に大丈夫だから、また電話するからと力強く頷いてみせたら、晴人は何度も心配そうに振り返りつつ帰っていった。
――やっと一人になれた……。
一昨日から散々泣き続けて、もう涙も枯れ果てた。
頭がぼんやりして身体が重い。 今は何も考えたくない。
フラリと立ち上がり、キッチンに向かう。
冷蔵庫から誕生日ケーキを取り出して、ガラステーブルに置いた。
『29』の数字のキャンドルに自分で火を灯す。
本当ならこれは雄大の役目だったのに。
一緒にケーキ入刀して、『二度目の共同作業だね』って言って、『三度目は本当のウエディングケーキがいいな』って言ってやろうと思っていて……。
雄大の遺品のカメラをケーキの隣に置いた。出発する少し前に買ったカメラは、既にあちこち傷ついている。
三年間頑張ったんだね、ご苦労様。
キャドルの薄明かりの中、 カメラをジッと眺めて、左手の薬指の指輪を灯にかざして見つめて。
――雄大はちゃんと約束を果たそうとしてくれてたんだ。
最高の一枚を撮って凱旋帰国して、 最高のプロポーズをしようと準備してくれていた。
あとは帰ってくるだけだったのに……。
――雄大、一番大事な約束を果たしてないよ!
帰って来てよ! 一緒に二十九歳の誕生日を祝ってくれるって言ったでしょ!
「……ただいま」
私の肩がピクンと跳ねる。
――ああ……。
聞きたくて聞きたくて、聞きたくてたまらなかった、 懐かしい声。
ほらね、 あなたはちゃんと帰ってきてくれた。
後ろから前にまわされた腕。
冷んやりとしている。
だけど大丈夫、ちゃんと触れられる。 感じられる。
「ごめんな、ずっと待たせて」
「遅いよ……バカ」
涙がこみあげてきた。あんなに泣いたのに、まだ水分が残っていたのか。
でも泣いちゃダメだ。雄大が気づいてしまう。
絶対に思い出させてはいけない。 絶対に。
彼は幽霊なのだろうか。 私が作り出した幻なのだろうか。
何でもいい。 彼はここにいる。 手で触れて、口づけて、 抱き合って……。
冷たい指先で私の髪を梳き、 氷のような唇で言葉を紡ぐ。
それで十分。 他には何もいらない。
だからお願い。どうかずっと、ここにいて……。
『もういいよ、考えなくて』
『何も考えないで。思い出さなくていいから』
『もういいじゃない、何も考えなくて』
なのにあなたは思い出してしまった。
「彩乃、写真を撮ってやるよ」
ずっとスマホでしか撮ろうとしなかったあなたが、はじめて自分のカメラを構えてくれた。
最高の笑顔を見せたいのに、バカヤロー、今の私の顔、思いっきりブサイクじゃん。
「ハハッ、最初で最期なのに、ブサイクな顔してるぞ」
ほらみろ、やっぱり言い放った。
だけどそのあとでいっぱい褒めてくれる。
そんな不意打ち、卑怯だよ。 やっぱり笑顔が作れなくなる。
でもいいや。
あなたのモデルにやっとなれた。やっと……やっとだ……。
ありがとう。嬉しいよ、雄大。
――愛してるよ。
カシャッ!
あなたの手が、足が、どんどん透けていく。
身体の向こう側に、キャンドルの揺らめく灯りが、キッチンが、部屋の壁が見えている。
ふわりと微笑むあなたの瞳が潤んでいて、そこには濃紺と紫とオレンジ色の美しい空が写りこんでいた。
私の涙も、この景色と共に、あなたの記憶に残ってくれるだろうか。
「彩乃、ごめんな……ありがとう。愛してる。しあわせになって……」
最後の言葉は、そよ風のように耳元を通り過ぎて消えていった。
私はまたテーブルの前に座り、ケーキを見て、カメラを見て、薬指を見る。
だけどいくら待ってももう、「ただいま」の声は聞こえてくれなかった。
もう一度、左手の薬指を見る。
そこにはもう指輪はなく、血の滲む歯型が残るだけ。
そこに口づけながら、一生消えないで……と願った。
――雄大のバカ……。
指輪くらい置いていけ。
私が他の人を好きになったら絶対に悔しがるくせに。
最期までカッコつけのヘタレを発揮してるんじゃないわよ!
雄大……私は『花嫁さん』になりたかったんじゃない。『雄大のお嫁さん』になりたかったんだよ……。
「馬鹿……バカ雄大……」
私との約束だけを覚えていればよかったのに……こんなときだけちゃっかり全部思い出しちゃって……。
「馬鹿ね……思い出さなければよかったのに」
1LDKのマンション。
電気のついていない部屋のガラステーブルには丸いケーキ。
『29』の数字の形をしていたキャンドルは、すっかり溶けて消えていた。
朝の淡い光が差し込む幻想のような部屋に、私は一人きり。
私は傷だらけのカメラを胸に抱えたまま、声をあげて泣いた。




