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思い出さなければよかったのに  作者: 田沢みん
30/35

30、その瞬間の記憶 


 三年間の期限まで残り半年を切った頃。

 南アジアをウロウロしていた俺は、旅の終わりをスタート地点のインドと決め、その前にネパールへと立ち寄った。


 人の数より神々のほうが多くいるといわれている国、ネパール。

 ヒンドゥー教や仏教など異なる宗教が混在し、街のいたるところに大小様々な宗教施設や仏像、神の像が散在している。


 沢木耕太郎の『深夜特急』を愛読していた俺は、真っ先にスワヤンブナート寺院に向かい、小高い丘の上の展望台からカトマンズの街を一望した。



 ニューヨークの写真雑誌が主催しているフォトコンテストへの応募を目指していた俺は、何枚か候補となりそうな写真を撮っていながらも、コレという決め手に欠けて、悩んでいた。

 悩んではいたけれど、不思議と焦ってはいなかった。


 これまでの旅で、確実に自分は変わったと思う。 そして吸収したことも数多くある。

 その経験が自分に力を与えてくれるはずだ、きっと素晴らしい写真が撮れる。


 なぜか根拠のない自信だけはあって、俺は「うん」と力強く頷いてから、長い石段を下りていった。



 その日、カメラを片手に人混み溢れるカトマンズの街を歩いていた俺は、人の波に押される形でガイドブックに載っているような大きな寺院の前まで来た。

 見るとそこから先にもまだまだ長い列ができている。


 混雑を避けて裏道に入ってみたら、頭の上にお(そな)えの入ったカゴを乗せ、小さな寺院に入って行く家族連れを見つけた。



「お参りするのですか? 何の神様ですか?」

 身振り手振りと英語を交えて尋ねると、ラッキーなことに英語が通じた。


「ガネーシャ神です。今日は火曜日なので」


 どうやら火曜日がガネーシャ神の特別な曜日らしく、彼らは毎週この日にはお供物を持ってこの場所を訪れているのだという。

 さすが信仰心の厚いネパール人だけある。


 外国人の出入りも写真撮影も大丈夫だというので、彼らについて中に入った。



 そのガネーシャ像は、地元の人しか行かないような古びた寺院の奥にひっそりと(まつ)られていた。

 訪れる人々が触っていくのだろう。元々は黄金色であったであろう像の頭や鼻が剥げて、中の青銅が見えている。


 象の顔と人間の体を持つ、ヒンドゥー教の神。

 あらゆる事象を(つかさど)る万能の神は、障害を取り除いて成功に導く力もあるという。


 ――ガネーシャ様、俺にも力を!


 グッと目を(つむ)って長い間お祈りしてから隣を見ると、家族の中の一人、十歳くらいの女の子が熱心に祈りを捧げていた。


 薄暗い建物の中、窓から射し込む光を浴びて、彼女がやけに大人びて、そして神聖に見えた。

 まるで彼女自身が神であるかの如く……。


 思わずカメラを構え、彼女が顔を上げたその瞬間にシャッターを切った。


 光の中、空中を舞う(ほこり)でさえも美しく、艶やかな睫毛に縁取(ふちど)られた漆黒の瞳は、どこまでも澄んでいて……。


 カシャッ!



 ネパールの寺院で少女がガネーシャ像に祈りを捧げる姿を撮ったその写真、『ただ祈る』がニューヨークのコンクールで大賞を受賞したと知ったのは、インドに移って一ヶ月ほど経った頃だった。


 ――やった!


 よかった。アイツの誕生日にギリギリ間にあった。

 受賞発表の式典は来月だけど、まずは約束を果たさなくてはいけない。


 ――そうだ、帰らなきゃ。日本へ、彩乃の待つ、俺たちのマンションへ……。


 そうして俺は飛行機に飛び乗り、喜び勇んで帰ってきたのだった。



 カシャッ、カシャッ、カシャッ!


 次々と瞬くフラッシュ。

 目を瞑ってもなお目蓋を明るく照らす閃光。

 目まぐるしい速さでどんどん切り替わる画面。

 

 カシャッ! カシャカシャッ! カシャッ!


『俺の写真が大賞をとった。帰る』

 インドでスマホに短いメッセージを打ち込む俺。


『おめでとう、待っています』

 彩乃からの返事。


『もうすぐ帰るから』

『うん、待ってる』

 日本の空港でやりとりしたメッセージ。


 ――帰ったら、クサい愛の言葉も、おまえがずっと待っていた言葉も全部まとめて言ってやるからな!


 カシャカシャカシャッ! カシャカシャカシャッカシャッ!


 次々と変わる画面の中で、俺はひたすら笑顔を浮かべている。


 空港を出てタクシーに乗り込む俺。

 電話を掛けようとして思いとどまる。


 ――駄目だ、彩乃の声は直接聞きたい。


 左の胸ポケットに手を当てた。

 そこにはずいぶんくたびれた彩乃の写真が入っている。


 途中でふと目についたお店の前でタクシーを降りた。

 ガラスのショーケースを覗き込み、そのうちの一つを出してもらう。


 シルバーの、真ん中のツイストした部分に小さなダイヤが嵌まっただけのシンプルな指輪。

 彩乃の細い指に似合いそうだ。


 ――プロポーズに指輪の一つも無いと格好つかないしな。


 さんざん待たせたんだ。

 お約束の『(ふた)パカッ』くらいはしてやりたい。

 デカいダイヤモンドがドンと乗ってるのは無理だけど、賞金が貰えたらアイツが好きなのを買いなおしてもいいな……。


 紺のビロードの箱はラッピングせずに、そのままジャケットのポケットに突っ込んだ。

 会ったら速攻だ。


 近くの花屋で薔薇の花束も買った。

 ベタ過ぎるくらいがちょうどいい。


 もう一度タクシーを拾おうか。

 反対側のほうがタクシーが停まりやすそうだ。

 スーツケースをガラガラ引いて、横断歩道で信号を待つ。

 傷だらけの黒いスーツケースと薔薇の花束。思いっきり注目を浴びてるな。

 

 向かい側にはベビーカーを押す母親と、母親の服の袖を掴んで立っている小さな男の子。

 信号が青になった瞬間に、男の子が、タッと駆けだした。


 ――危ない!


 信号の変わりばな。

 横断歩道の白いライン。

 立ち尽くす男の子。

 突っ込んでくる車。


 キキーーーッ!


 車の急ブレーキの音。

 地面に散らばる赤い花びら。

 真っ青な空。

 全身を襲う衝撃と痛み。

 道路に散乱する薔薇の花と、車のタイヤに踏みつけられた紺のビロードの指輪ケース。


 最後に脳裏に浮かんだのは、大好きなアイツの……。


「……あや……の…」


 ――彩乃!


 カシャッ! カシャカシャカシャカシャ……


 瞬く閃光。

 そして世界は真っ白い光に包まれた。



 心臓がドクドクする。息が苦しい。頭がガンガンする。

 光がパンッ! と弾けて……ゆっくり目を開けると、そこは懐かしいマンションの部屋。



 ああ、そうか……俺は……。


 俺は……。



「……死んだのか」


 途端に彩乃が両手で顔を覆って号泣した。



 ――ああ、そうなんだ……。



「ごめんな……彩乃」


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