29、彩乃の記憶 (3)
「愛を感じる……ですか。難しいですね」
彩乃がぼんやりと天井を見上げると、成瀬先輩もその視線の先を追って、苦笑する。
「木崎くんのことを考えてるの? 今はどこの国?」
「……わかりません」
――その頃、俺は……どこにいたんだ?
一年前……トルコのカッパドキアを撮りに行っていたか? いや、もうネパールに移動していたかも……。
彩乃はどこにいるかも知らせてこない俺を、こんなふうに待っていてくれたんだな。
憎んだって、愛想を尽かしたっておかしくはないのにな。
目の前で王子様がキラッキラの笑顔で口説いてるのにな。
「晴人くんから聞いたよ。仕事を辞めて三年間の自分探しの旅だって?」
「晴人? アイツお喋りだな……自分探しじゃなくて、撮影旅行です。とびきりの一枚を撮って、どでかい賞を撮って凱旋帰国ですよ」
「そんな言葉を信じてるの?」
「信じてますよ……とか言って、諦めて早いとこ帰ってきちゃえばいいのに……なんて酷いことも考えたりするんですけどね。だけど、それだとアイツは納得できないだろうから……応援するんです」
――彩乃……。
「彩乃はさ……木崎くんのどこがそんなにいいの?」
彩乃がクスッと鼻で笑う。
「先輩、前に同じ質問しませんでしたっけ?」
「した。聞いたよ。だけど学生時代と今じゃ違うだろ? 自分で言うのもなんだけど、俺のほうが将来性があるし、お母さんへの心象もいいと思うんだよね」
「ああ……母の先輩推しが凄いですよ。家族へのプレゼント攻撃はやめてもらえませんか? 晴人にカメラとか贅沢ですよ」
「本丸が手強いから外堀を埋めるしか手がないんだよ」
成瀬先輩はあくまでもふざけた口調で、だけど真剣な目つきで彩乃の顔を覗きこむ。
それに対して彩乃もゆっくりと、でもハッキリと告げた。
「それでも私は揺らぎませんよ。あんなお馬鹿なヤツに付き合ってあげられるのは、私しかいませんから」
一瞬の沈黙。
そして先輩は空気を変えるようにハハッと笑ってみせる。
「デジャブだな。それ、高校のときにもまったく同じセリフを聞いた」
「ふふっ……私も成長してないですね」
「うん……君をこんなふうに放っておく木崎が馬鹿だし、信じて待っている君も馬鹿だ……お似合いだよ」
「ありがとうございます」
「褒めてないけどね」
成瀬先輩が立ち上がって伸びをする。
「さあ、撮影を再開しようか」
「はい」
メイクさんが駆け寄って、彩乃の口紅を塗りなおす。
先輩はその姿を見てふっと微笑んで……『愛しい人』にカメラを向けた。
パシャッ!
「――彩乃、我が儘をいうのもいい加減になさい」
さすがに俺にだってわかる。次もまた彩乃の記憶のどこかに飛ばされたんだ。
でも……今度は何の場面だ? ここはどこなんだ?
「あなたはもう若くないんだし、これからどうにかして仕事の幅を拡げていかなきゃならないのよ。選り好みしている場合じゃないでしょう」
「だけどこのまえの写真集といい、ここまで意図的に先輩とブッキングする必要ないじゃないですか」
「なにを言ってるの。あなたのためなのよ」
「私のためだと思うのなら、これ以上噂になるような仕事の組み方はやめてください。もうこういうの、嫌なんです」
「噂になるようにしてるのよ」
女の割にはドスの効いた低めの声。
狐のようにつりあがった目の……。
「社長、そんなのひどいです!」
――そう、彩乃のモデル事務所の社長だ!
ここは以前、彩乃と同棲をはじめるときに呼びだされた社長室だ。
大きな重役デスクの手前に応接セットがあり、その応接セットのガラステーブルを挟んで向こう側に社長とマネージャー、手前に彩乃が座って対峙している。
「社長は私に結婚前提の恋人がいるって知ってるじゃないですか。なのに私と成瀬先輩が噂になっても事務所は否定してくれないし、週刊誌にも結婚間近とか書かれるし。こんなことをもしも雄大が知ったらどうしてくれるんですか!」
テーブルに両手をつき前のめりで抗議する彩乃に対し、社長は冷静だ。
白いカップのコーヒーを一口飲んでから優雅な手つきでカチャリとソーサーに戻し、ソファーに背中を預ける。
「彩乃、その彼氏は、今どこにいるんだった?」
「それは……あちこち移動して頑張っていて……」
それを聞くと、社長はふーっと大袈裟にため息をつく。
「彩乃、成瀬さんはあなたを引き上げてくれる人よ」
「社長っ!」
「聞きなさい」
社長はゆっくりと足を組みなおすと、彩乃に言い含めるように懇々と説いた。
「彩乃は高校卒業したての十八歳でうちの事務所に来てから、よく頑張ってきたと思う。でもね、必死さがないのよ」
いわく、彩乃ならもっと上を目指せるはずなのに、どんなことをしてでも売れてやろうという野心がなさすぎる。
それは彩乃がデビューから今まで順調に売れてきたせいでもあり、さらに言えば今の仕事をいつ辞めても構わないと思っているからだ。執着がないのだ……という。
「あなたはよくやってきたと思う。これからはモデルやバラエティーだけでなく、女優業をするだけのポテンシャルもあると思っているのよ」
「私はそんな……」
「そうね、あなたは結婚してかわいい奥さんになりたいんだものね」
だけどね……と社長はため息を吐いてから、最後通牒のようにキッパリと言った。
「もう少し視野を広げてごらんなさい。そして考えて。あなたの人生に本当に彼が必要なのかどうか。もっとふさわしい男性がいないのか……って」
彩乃は不満げに押し黙ると、そのまま事務所をあとにした。




