26、旅の思い出 (2)
そんなふうに始まった三年間の放浪の旅で、最初、俺はひたすら景色ばかりを撮っていた。
驚くほど大きくて、濃いオレンジ色をした夕陽。
雄大な大河の流れ。
独特な音楽と祈りの声が聞こえてくる歴史的寺院。
目も開けられないような砂塵の舞う砂漠。
旅費の節約のため、九帖スペースに四人暮らしのシェアハウスや、バストイレ共有のユースホテルを泊まり歩いた。
バイトが見つからないときは、何日も食事にありつけなかったり、凍えるように冷え切った路上で夜を明かしたこともある。
転機はベトナムで訪れた。
俺がハノイ市内にある日本食レストランでバイトをしながら、休日にあちこちで写真を撮るという生活をしていたときだ。
その日は何の気なしに、ハノイ市内から南西にある片田舎まで足を伸ばしてみた。
適当にブラつきながら、舗装されていないデコボコ道や庭で放し飼いにされているニワトリを撮っていたら、そのうち身体が怠くなり、どうにも動けなくなってしまった。
たぶん熱中症だったのだと思う。
木の根本に座り、幹にもたれて休んでいたら、ご丁寧にも見知らぬお爺さんがリヤカーに乗せて自分の家まで連れ帰り、看病してくれた。
ベトナム人は英語を話せる人が多いのだが、この田舎ではそうでもないらしい。
「シンチャオ (こんにちは)、カムオン、アィン (ありがとうございます)」
頭をペコリと下げながら、俺がベトナムにきてから覚えた簡単な挨拶をすると、どうにか伝わったらしく、『うんうん』というように頷かれた。
お爺さんからアルミ製のマグカップに入ったココナッツジュースを渡されて一気飲みする。
スポーツ飲料を薄めたような味で、そんなに好きな味だとは思っていなかったけれど、このときばかりは喉に染み渡って凄く美味しく感じた。
日本のパスポートと運転免許証を見せて日本人だと説明すると、一緒に住んでいるらしい息子夫婦や孫がワラワラと寄ってきて取り囲まれる。
日本人に興味津々な彼らにカメラを見せて、自分は二十六歳で、あちこちの国で写真を撮っているバックパッカーだと身振り手振りで伝えたら、カメラを指差しながら、自分たちを撮ってほしいと言われた。
旅のお供の愛機はN社製D850。今回の旅の前に思いきって購入したものだ。
――そういえば、しばらく人間を撮っていなかったな……。
意識的に景色ばかりを撮っていたアシスタント時代。
食べ物ばかりを撮っていた、会社員の二年半。
人物を綺麗に撮る自信が無くて、誰かと比較されるのが怖くて避けていたけれど……。
カシャッ!
全員を家の前に立たせて家族写真を撮った。
画像モニターを見せたらみんなで顔を寄せ合って覗き込んできて、「グッドだ! 上手だな! (と言っていたような気がする)」と大喜びしてくれた。
ここでは芸術性もテクニックも求められていない。
ただあるがままを写し、喜んでもらえた。
それでいいと思えた。
俺を救ってくれたおじいさんはタムさんという名前で、市場で果物を売って生計を立てているという。
孫は二人いて、ファンとダン。まだ十歳と八歳の少年だが、週末には市場でココナッツジュースを売っているらしい。
家に一泊させてもらった俺は、翌朝一緒に市場について行き、ドリンクスタンドでジュースを売っている二人をカメラで撮りまくった。
浅黒い肌に薄っすらと汗をかき、白い歯を見せてニカッと笑う二人は活き活きと輝いている。
カシャッ! カシャカシャッ!
活気ある市場の雑踏。値段を交渉する大きな声。犬を追いかけて走り回る子供達。
あんなに怖がっていたのが嘘みたいに、俺は夢中でシャッターを押し続けていた。
――うん、楽しいな……。
難しく考える必要はないんだ。
背景がどうのとか、構図がどうのとか。
ただ、目の前にある美しいものをあるがままにレンズで捕らえる。それでいい。
素材さえよければ、ソースやクリームで余計な味付けをしなくても、十分美味しく食べられる。
要はそういうことだ。
その夜俺は、街で買ってきた絵葉書で、はじめて彩乃に手紙を書いた。
インドに着いてすぐに電話をしたきりで、あとはたまにメッセージのやり取りをするのみ。それさえも最近は経費削減で途絶えていたが……今は無性にこの感動を伝えたいと思ったのだ。
『ベトナム人はエネルギッシュです。干からびたときに飲むココナッツジュースは案外美味しかった』
もっと色々書こうかとも思ったが、スペースが少なかったため諦めた。
それに、長く書けば書くほど、弱音を吐きたくなってしまうから。
ここで早くも里心がついたら目も当てられない。
――とにかく、俺の撮りたいものが見えてきた。
俺は少し考えてから、さっきの文章の下に短く書き足した。
『子供の写真を撮ろうと思う』
カシャッ!
俺の愛機、D850のシャッター音。
目も眩むような白い閃光。
ああ、まただ。
俺は白い光の中に吸い込まれていく。
今度はいつの時代に飛ばされるんだ?
――ああ、だけど……。
気付いてしまった。
思い出を巡る旅は、終着点に近づいている。




