25、旅の思い出 (1)
俺が日本を発って最初に訪れたのは、インドの首都デリー。
インディラ・ガンディー国際空港に到着してすぐに時計を見ると、時刻は午後五時近くだった。
素早く脳内で時差を計算する。日本のほうが三時間半進んでいるから、向こうは午後八時半頃か。
たぶん仕事中だろうと思いながらも彩乃に電話をかけると、意外にもすぐに彩乃の声が応答する。
「雄大⁉︎ 空港? 無事についた?」
「うん、無事に着いた。おまえは? 仕事はもう終わったの?」
「今は控え室で出待ち中。雄大から電話が来る頃だと思ってスマホを握りしめてた」
「そうか……」
ああ、駄目だ。彩乃の声を聞いただけでもう会いたくて堪らない。
胸がギュッと締めつけられて、スマホを持つ手が震えだす。
「……通信量に制限があるからあまり長電話できないんだ……それじゃ、仕事がんばれよ」
「うん、雄大も身体に気をつけてね」
「おう、じゃあな」
「あっ、雄大!」
「えっ?」
「待ってるからね」
「……おう」
不意に視界が滲んで涙声になる。
それを悟られたくなくて慌ただしく電話を切った。
もう少し気の利いたことが言えなかったのかと反省したが、電話口で『好きだよ』とか『愛してるよ』と言うのも照れ臭くてできなかった。
周囲は外人ばかりなのだから、聞かれて困るものでもないのにな。
俺はTシャツにジーンズ、腰にパーカーを巻いた軽装で、背中にバックパック、肩にカメラバッグを掛け、黒い小ぶりのスーツケースを引きながら空港の建物を出る。
途端にタクシーの客引きがワラワラと声をかけてきた。
どうしようかと困っている俺に欧米人らしい二人組の若者が寄ってくる。
どうやら俺と同じバックパッカーらしい。
「メインバザール?」と聞かれたので頷くと、英語でタクシーの相乗りに誘われて同乗する。
うん、これで少しは節約になるな。
メインバザールはデリーにあるバックパッカーの聖地で、安宿がひしめいている。
タクシーを降り、宿泊先が違う彼らと別れると、俺は自分の宿を目指して歩きだした。
インドは人口が多いと聞いていたが、噂以上に人がひしめきあっている。
そしてそれ以上に驚かされたのは物乞いの多さだ。
インドでは七十年以上も前にカースト制度が廃止されているはずなのに、実際には身分による差別が今なお根強く残っている。
物乞いをしているのはダリットと呼ばれるカースト以下の身分の人々だ。
虚ろな目をして着の身着のままで道端に横たわっている男性や、レストランの前にしゃがみ込んでひたすら手のひらを差し出してくる老人。
そんな姿が街のあちらこちらで見うけられた。
不意にTシャツの背中をツンツンと引かれて振り返る。
そこには目だけがギョロギョロと大きい、十歳くらいの痩せこけた少年が立っていた。
彼が指さしたほうを見てギョッとする。
この少年の弟だろうか、彼の足元には幼い男の子が這いずっていた。両脚が無く、腕だけで上半身を支えつつ低い地面から俺の顔をジッと見上げている。
――マジか……。
物乞いをする人々に障がい者の姿が目立つのは、同情心を煽って一ルピーでも多く稼ぐためだという。
日本にいる時にある程度の情報を仕入れてはいたが、目の前にある現実は想像を上回ってた。
物乞いすべてに同情していてはキリがない。
これもインターネットで仕入れてきた情報だ。
「ごめんな……」
俺は日本語を知らないであろう少年にそれでも一声かけると、逃げるようにその場を立ち去った。
驚愕と同情と罪悪感。心臓が早鐘を打つ。
貧富の差や差別なんて世界中にゴロゴロと転がっている。今見たのはそのほんの一部にすぎない。
そうわかっていてもショックが隠せない。
海外に来て早々に手痛い洗礼を受けたような気がした。
そして、彼らに比べて自分が抱えている悩みのなんと小さいことか。
彩乃への劣等感や成瀬先輩への嫉妬。
そんなものでいつまでもウジウジして、今だに好きな女の写真ひとつ撮れやしない。
――俺って小っせーな。
だからこの旅で俺は変わる。変わりたい。
自信をもって彩乃と前に進んでいける、アイツを支えてやれる男に……俺はなりたいんだ。
「彩乃、待っててくれよ」
強い熱気とスパイスの香りでむせかえる街を見渡しながら、俺は遠く日本にいる彩乃を想った。
* * *
インド北部の玄関口である首都デリーは、近代的な建物や政府機関が集中している『ニューデリー』と、古くからの遺跡が多くある『オールドデリー』を中心に構成されている。
俺はニューデリーにあるバックパッカー向けの安宿で、一泊四百ルピーの四人部屋に泊まりながら、まずはアルバイト探しから開始した。
幸いすぐに日本食レストランでウエイターのアルバイトが見つかり、しかも親切な日本人オーナーが地下倉庫の片隅にある自分の仮眠室を宿として提供してくれるという。
元は酒瓶置き場にしていた二畳ほどのスペースに簡易ベッドがあるだけだが、他人と同じ部屋の二段ベッドで寝ることを考えたらプライベート空間があるだけマシだ。
俺は大喜びで荷物を運びこむと、週に五日ウエイターとして店に出るかたわら、宿代として毎日早朝に料理の下ごしらえを手伝うことになった。
空いた自由時間は街の散策や写真撮影だ。
そんな生活を始めて二週間ほど経った、ある日の仕事終わり。
仕事仲間であるインド人のハリッシュに、「いいところに連れていってやる」と誘われた。
彼は四十代の妻子持ちで、気のいいオジサンだ。
彼についていった先はオールドデリーの街なかで、廃墟のような建物が雑然と立ち並んでいる陰気な場所だった。
「ここって何なの?」
拙い英語で俺が尋ねると、ハリッシュはニヤニヤしながら建物の上のほうへ顎をしゃくる。
見ると古びたビルディングの二階に鉄格子のはまった窓がいくつもあり、そこから何人もの女性がこちらを見下ろして手を振っている。
――えっ、これって……。
驚いた表情で固まる俺に、ハリッシュが「中で気に入った子がいたら自分で値段交渉するんだ。少女からお婆さんまで選び放題だぜ」と先に立って建物の中に入ろうとする。
つまりここは売春宿で、ハリッシュは今からここで女を買おうと俺を誘っているのだ。
「ちょっ、ちょっと待てよ! 俺はそういうの興味ないから!」
慌ててハリッシュを引き止めると、彼は意外そうな顔で俺を振り返る。
「ユーダイ、おまえはセックスをしたくないのか?」
「セッ! ……そりゃあしたいけど、俺は日本に彼女がいるんだよ。他の女となんてできない」
ハリッシュは肩を竦めながら、「何をお堅いことを言ってるんだ。ここは日本じゃなくてインドだぞ。おまえの彼女は遥か彼方だ。気にする必要はない」と当然のように言ってのける。
――おいおい、ヒンズー教の教えってどうなってんだよ。こんなに性に開放的でいいのかよ!
おまえには妻子がいるだろうと言ってやったら、「それとこれとは別」らしい。
ハリッシュによると、インド人は女性には婚前交渉の禁止や貞淑を求めるが、男性に対してはそうでもないらしい。
本当かよ、おまえが奔放なだけなんじゃないのかよ……と言ってやりたかったけど、俺が口出しすることでもないと思いグッと呑み込んだ。
「おまえは一人の女だけで満足できるのか?」
そう聞かれて一瞬考えてみたが、俺は迷わず「イエス」と答える。
「俺が好きな女は一生一人だけだし、抱きたいと思うのもそいつだけなんだ」
苦笑するハリッシュとはそこで別れて、俺は薄汚れたその通りから足早に立ち去った。
さっき見た、鉄格子の向こう側の生気のない女達の顔を思い出し、次に彩乃の顔を思い浮かべる。
――俺は一生彩乃だけだ。
好きになるのもセックスするのもアイツだけでいい。
そして彩乃もきっと、同じように思ってくれているに違いない。
白いシャツの胸ポケットから写真を取り出して見る。
そこには俺を見ながら花咲くような笑顔を向けている彩乃がいた。
二人で写っている写真は写真立てに入れて倉庫の部屋の枕元に飾ってある。
そしてピンクのビキニを着た彩乃の写真は人目につかないよう手帳に挟んでスーツケースに隠したままだ。
――今夜はあの写真のお世話になるとするか……。
Bカップの胸を無理やり寄せて大きく見せているセクシーポーズの彩乃の写真。
彩乃にはグラビアの写真なんていらないと言ったけれど、性的な匂いのする場所に立ち寄ったことで、なんだか急にそちらの欲求が昂ぶってきた。
「くっそ……彩乃に会いてぇ〜」
今すぐ彼女に会って抱きしめてキスしたい。
一晩中愛し合いたい。滑らかな肌に触れたい。そう強く思う。
――だけどまだ……。
その資格を得るためにも、今ここで日本に逃げ帰るわけにいかないんだ、絶対に。
俺は彩乃の写真を胸ポケットに仕舞ってポンと軽く叩くと、鉄格子の窓を振り返ることなく店への道を急ぐのだった。




