1、思い出せない男
俺が1LDKのマンションに入ると、電気の消えた薄暗い部屋のガラステーブルに丸いケーキが置かれているのが見えた。
『29』の数字の形をしたキャンドルに灯りがともり、ユラユラと揺れている。
その暖色の明かりに照らされて、ローソファーに座っている彼女の横顔にオレンジ色と黒色がチラチラと陰影を作っていた。
「……ただいま」
返事がない。
怒っているのだろうか。そりゃ、そうだよな。
『海外を旅して写真を撮ってくる』
『もう少しだけ足掻かせてくれ』
『三年間待ってほしい。それで駄目ならフリーの夢を諦めて商業カメラマンになる』
『おまえの二十九歳の誕生日には必ず帰ってくるから』
そう言って出て行ったきり、本当に殆ど連絡もよこさず放置していたんだから。
――だけど、約束は守ったんだ。
俺はちゃんと帰ってきた。
しかも、フリーカメラマンへの切符を手に入れて。
三年間、貯金を切り崩し、バイトをしながら世界中のいろんな場所で写真を撮った。
おもに子供の写真。それぞれの国で生活している自然な姿を写したかった。
アジアにアフリカ、中南米。白人の多い地域よりは有色人種の多い地域のほうに長く居着いたと思う。
最後は南アジアをウロウロして、ネパールからインドに渡って一ヶ月ほど滞在していたところで僥倖がもたらされた。
俺の作品がニューヨークの大きな写真コンテストで大賞を受賞したのだ。
ネパールの寺院で少女がガネーシャ像に祈りを捧げる姿を撮った写真だった。
真っ先に頭に浮かんだのは彼女の顔。
よかった。アイツの誕生日にギリギリ間に合った。
受賞発表の式典は来月マンハッタンでおこなわれる。だけどそれより……まずは約束を果たさなくてはならない。
――帰ろう、彼女のもとへ。
そうして俺は飛行機に飛び乗り、喜び勇んで帰ってきたのだった。
俺は黙ったままの彼女に後ろからゆっくりと近づくと、ローソファーの背もたれ越しに手をのばし、細い肩にそっと抱きついた。
「ごめんな、ずっと待たせて」
「……遅いよ……バカ」
前にまわした俺の腕に、彼女の両手が重なる。
ポトリ……と涙の滴が腕に落ちてきた。
温かい。
「ごめん……」
彼女にはずっと苦労をかけっぱなしだった。
ずっと……。
――アレっ?
俺ってその前は何してたんだっけ?
何か言わなきゃいけないことがあった気がする。
俺はフリーでアート写真を撮りたくて、海外に行って、賞を獲って帰ってきて……。
なんだろう、なぜかそれ以外の記憶にモヤがかかったみたいに思い出せない。
俺は彼女に会わなくちゃいけなくて、伝えたいことがあって……。
「なあ、俺ってさ……」
そこまで言ったところで、振り向いた彼女に唇を奪われた。
「もういいよ、考えなくて」
俺の首に彼女の腕がまわされる。
「何も考えないで。思い出さなくていいから……来て」
彼女にもう一度深く口づけられて、身体の奥の欲望が燻りだす。
――ああ、彼女の唇だ……。
薄くて柔らかくて温かくて……。
俺はローソファーを跨いで彼女の隣に腰を下ろすと、華奢な身体をきつく抱き締めて三年ぶりの感触を味わった。
重ねた唇はそのままに、右手の指を彼女の左手の指にキュッと絡める。
――んっ?
絡めた中指と薬指のあいだに硬いものが当たり、違和感に動きを止めた。
恐る恐る顔を離し、繋いだ細い指に目をやる。
彼女の左手薬指。そこにあるのはシルバーの輪っか。真ん中のツイストした部分に小さなダイヤがはまっただけのシンプルな……。
「指輪⁉︎」
俺は思わずパッと手をほどいたものの、すぐに彼女の薬指をつかみなおす。
そしてその根元に輝くリングをまじまじと見つめた。
「おい、これって結婚指輪……おまえ、結婚したのかよ!」
彼女は否定も肯定もせず、黙ってうつむく。
「なんでだよ……俺、三年で帰ってくるって……成功してもしなくても帰ってくるから待っててって言ったのに……」
すると彼女がバッと勢いよく顔を上げた。目にいっぱいの涙を浮かべて、切なげに首をフルフルと横に振る。
「……待ってたよ。ずっと信じて待ってたよ」
「じゃあ、コレは何なんだよ! なんでこんなの嵌めてんだよ! そんなの今すぐはずせよ!」
「駄目っ!」
彼女は指輪にのばした俺の手を振り払い、右手で自分の左手を大事そうに胸に抱きしめる。
「絶対に渡さない。これは私のだから! 私の大切な……」
「何言ってんだよ! おまえは俺の……」
――アレっ?
彼女は俺の……。
俺は彼女を待たせていて、何か言わなきゃいけなくて、だから帰ってきて……。
「なあ、俺、どうしてここに……」
続きを言う前に、再び彼女のキスで口を塞がれた。
「もういいじゃない、何も考えなくて」
「でも……」
彼女に両手でトンと肩を押され、ソファーに押し倒される。
上から俺を見下ろしながら、彼女は自らワンピースのファスナーを下ろし、スルリと肩を露わにした。
次いでブラのホックに手を掛けてはずしショーツ一枚の姿になると、ゆっくりと俺に身体を重ねてきて……。
身体にのし掛かる彼女の体重と、ほのかに香る甘い匂い。
懐かしさにフラフラと惹き寄せられて、思考が曖昧になる。
顔の角度を何度も変えながら、ひたすらお互いの唇を貪った。
彼女の背中に腕をまわしてキツく抱き寄せ、クルリと身体を反転させて向きを変える。
今度は俺が上から見下ろして、自分から彼女に顔を寄せていく。身体の奥から欲情が滾りだす。
――ずっと、ずっとこうしたかったんだ……。
会いたくて、抱きしめたくて。
だから俺は……。
――あっ!
身体が繋がったその瞬間、俺の目の前で何かがパンッ! と勢いよく弾けた。
それを合図に頭の中を占めていた白い霧がスッと消えていく。
『おまえの二十九歳の誕生日には必ず帰ってくるから』
『絶対よ、約束して』
『ああ、約束だ。ケーキにロウソクを立てて待ってろよ』
『—— やった! 大賞だ! これでやっと胸を張って日本に帰れるぞ!」
キキーーーッ!
車の急ブレーキの音。
地面に散らばる赤い花びら。
真っ青な空。
全身を襲う強い衝撃と痛み。
『……乃……!」
ああ、そうか……俺は……。
そしておまえは……。
「ごめんな……彩乃」
幼馴染の二人の長い長い愛の軌跡です。
楽しく胸をトキめかせていた青春時代を経て大人になって、現実に苦しみもがきながらも愛を貫こうとした二人の物語をどうか見届けてあげてください。