サングラスと髪
大学生と作家の話です。不定期更新です。
「遅かったねぇ」
「すみません、実は——」
「わかってる、わかってる。こまちゃんは良い子だよね」
階段を登った三階の奥には、大きめの一人用のソファーが二脚、膝の高さほどの小さなテーブルを挟んで向かい合わせに置かれている。バスの時と同じように髪をぐるりと顔に巻きつけ、サングラスをかけた涌田は、ワインボトルが並べられたガラス窓とは反対側の席にふんぞりかえったまま駒込を迎えた。
涌田は駒込が到着するよりも先に店に来ていた。駒込が店内に彼の姿を見つけられなかったのは、彼がこの店に初めてきたことが原因だった。
時刻は午後八時五十分。
涌田はワインボトルの隙間から駒込の姿を眺めていた。入り口付近で立ち止まる駒込はメニューを決めているのかと思ったが、眉間に皺を寄せるのを見るにどうやら違うらしい。深呼吸し、戸を引いたのを見届けてから、涌田はソファーに座った。
さて先ほど駒込はソファー席ではなくカウンター席に案内された。彼は入店時、店内にはカウンター席しかないことも確認済みである。ではなぜ涌田はソファーに座っているのか。答えは単純だ。涌田は駒込とは別の場所にいたからである。
ソファーに座って駒込を待つ涌田の視界には、窓一面に飾られたボトルと窓に沿うように配置された背の高いカウンターテーブルが映っている。駒込のいたパスタ屋と同じ間取りである。だが、ここは駒込のいた場所ではない。涌田は文字踊り、駒込より上にいたのだ。
涌田のお気に入りの洋食店では、よほど混んでいない限り、そして客からの要望がない限り、訪れた人は二階のカウンターに案内される。今回は駒込を案内した店員が新入りのバイトだったこともあり、連れを待っていると伝えた駒込は涌田の向かいの席ではなく、彼の下の席に座っていたのだった。
三階に座っている人を二階で見つけられるわけはない。しばらく待ちぼうけていた駒込は、涌田からのメッセージと入店時に二階から上に続く階段があったことを思い出し、店員に確認したのだった。
***
三度メールを交わしただけだというのに、涌田は駒込のことをあだ名で呼ぶようになっていた。彼は駒込に自分を「瑠生」と呼ぶように言ったが、駒込は依然として「涌田さん」と呼んでいる。
リュックを抱えて立つ駒込に、涌田は無言のまま右手をしなやかに動かし、ソファに座るよう指示する。その手に誘われるようにして駒込は向かいの席に座った。ソファーから皮が擦れ合う鈍い音が出る。三階には二人以外誰もいない。
「こまちゃんは何食べる?それとももう頼んだ?」
涌田の軽やかな声からは、サングラス越しでも彼がご機嫌であることが伺える。
「まだ頼んでないです。涌田さんは何か頼みましたか?」
「ううん、こまちゃんと同じものを頼もうと思ってさ。あ、心配しないで、お代は私が払いますからね」
涌田のはちみつのような甘ったるい声を聞いて、駒込は今更ながら、初めて言葉を交わした時の様子からは想像もできないほど、彼の口調が変わっていることに気がついた。言葉遣いを崩してもなお高貴な空気を纏っているのは、艶やかなブロンドの髪のせいだろうか。それともあの時に見た瞳を忘れられないからだろうか。
「じゃあ明太パスタにします」
「ええ〜もったいないよ。ここは大葉の入った和風パスタにしよう!」
駒込は自分の意見を真っ向から否定する涌田に思わず、聞いておいて何なんだと言い返しそうになったが、喉まで出かかった言葉を飲み込み、わかりましたと答えた。
涌田から受け取った二千円を持って、駒込は階段を降りる。「大葉」の文字を探し、二度ボタンを押す。食券を店員に渡し、念のため三階を利用していることを伝えた。再び三階に着くと、先ほどと同じように涌田はソファの背もたれに体を預け、駒込の方を見ていた。ただし、今回はサングラスを外し、髪を結んだ姿で。
——しまった。涌田がにこりと微笑みながら首を傾げたのを見て、駒込は自分が涌田を凝視していたことに気がつき、目線を逸らす。
美術館で見た天使や女神、夕暮れ時のグラデーションになった空、キラキラ光る沖縄の海、小さい頃ショッピングセンターで見た宝石店のダイアモンド、奥多摩で眺めた夜空に浮かぶ星々。駒込がこれまでの人生——たった二十年だが——を通して知ったあらゆる美しいものをもってしても、涌田の美貌を表すことはできなかった。
長髪マフラーの下には、シャープな輪郭と形の整ったふんわりとした唇。サングラスを支えていた鼻は程よい長さと高さを保ち、下にまっすぐ伸びていた。いつだったか、大学の友人が鼻の下の〈人中〉というやつは短ければ短いほど良いと言っていたが、涌田の人中の長さこそが世界で最も美しい最適解だろう。長くも短くもなく、収まるべき長さでそこにある。
整った輪郭、鼻、唇が彼の美しさのベースを形作っているとするならば、それを最大限に活かし、世界一の美としているのが彼の瞳だ。間近で見た時ほどではないものの、店内の照明に照らされた虹彩は美しく輝き、神々しさすら感じさせる。まさに〈絶世の美人〉という言葉を体現化した姿だった。
目を逸らした直後、駒込は再び自分の行動が無礼だということに気がついた。しかし、涌田はそんなことは気にも留めていないという様子でへらりと笑うと、早く早くと言わんばかりに手招きした。
「買えた?」
はいっ、とうわずった声で駒込がお釣りの小銭を差し出すと、涌田はいらないと言いたげに顔の前で手を振った。駒込はしばらく手を出したままにしていたが、涌田が無視を続けたため、とりあえずズボンのポケットにしまった。
「ありがとうございます」
「いいえ。とんでもございませんよぉ」
茶目っ気たっぷりに口角をあげる涌田に、いよいよ駒込は困ってしまった。これから自分はこの人の頼みを断るのだ。何としても。そういえば出会ってから今まで、この人には何かをもらってばかりだ。なのに自分は今からこの人の相談を無下にする。大切な話を他人に明かすのには勇気が必要であることを駒込は知っている。勇気を出して秘密を明かすこの人を、自分はこれから傷つけるのだ。
「このあとどこ行きたい?」
テーブルを見つめながら思い悩んだ顔をする駒込に対して、心配するでもなく理由を聞くでもなく、涌田は今後の予定を聞いた。駒込はまた面食らってしまった。このあと、とは。ここで話をして終わりではなかったのか。
「このあとどこかに行くんですか?」
「うん、流石にここで話すのはちょっとね。今は周りにお客さんいないけど、九時くらいになったら混んでくるから」
だったらなぜここに来たんだ。駒込は再び喉から出かかった言葉を飲み込む。掴みどころのない涌田の言動は、ただでさえ混沌としている駒込の思考をさらに混乱させた。
「どこでも良いなら、良いカフェに行こうか」
一人で話を進めていく涌田に駒込は、はいとだけ答えた。
大葉のパスタは作者の趣味です。次回をお楽しみに!