仔犬と宝石
大学生と作家の話です。不定期更新です。公開後、一部修正しています。
「……今から予定があるので」
駒込は三度唾を飲み込んでやっと、言葉を口に出すことができた。だが、二粒の宝石は変わらぬ圧力で怯える仔犬を縛りつける。
「さっきはジロジロ見てすみませんでした。変な意図はなくて、あまり見慣れない方だったので」
駒込は平静を装いできるだけ声を落として伝えた。目の前の男が自分を選んだのはおそらく、あの時の自分の視線がトリガーになっているのだろう。
十秒ほど経っただろうか、目の前の麗人はゆっくりと瞬きをした。再び駒込を見た瞳には先ほどのような鋭さはない。どうやら謝意を受け入れてもらえたらしい。だが、間もなく麗人は駒込に予想外の言葉を放った。
「どうして謝るのですか。私はあなたに相談がしたいだけです」
***
漠然とした罪悪感が霧となって駒込の視界を覆い隠す。
「これから話を聞いてほしいんです」
これから。《サバティ》の最寄りのバス停を過ぎてからかなりの時間が経っている。余裕を持って家を出たとはいえ、バスが遅延していたのに加え、今から反対車線のバスに乗らなければならないことを考えると、おそらく十五分程度しか猶予はない。
彼の話は十五分で解決する話だろうか。そうではないことをどこかで悟っているからか、謝罪を受け入れてもらってなお、駒込の喉の詰まりは取れない。
「……私では力になれないと思います。申し訳ありませんが、他の方をあたってもらえますか」
駒込の言葉に美貌の主は一度目を伏せ小さく息を吐くと、再び瞳を見開いた。駒込は彼に試されているのだろうかと勘繰った。
本気で話を聞いてほしいならば、このあと時間はありますかとか、明日以降で都合の良い日はありますかとか、いくらでも聞きようはあるだろうに。そうしないということは、気まぐれに悪戯を仕掛けているとしか思えない。
麗人はゆっくり座席にもたれ掛かると、サングラスを掛け直しながら大きく息を吐いた。どうやら諦めたようだ。ぎこちなく笑っていた駒込も正面を向き、降車ボタンを押す。
「そうですか、では明日はどうですか。それから……申し遅れました。私は涌田瑠生と申します」
涌田と名乗る男は人の言葉を聞かない人間のようだ。彼は駒込がボタンを押したのとほぼ同時に、再び駒込の肩に手を置き、身を乗り出した。
「あの、もう降りないといけないので」
振り向きざま、駒込は先ほどよりも強い口調で答える。麗人の目元を隠していたサングラスはどこかに消えていた。魅惑の瞳が駒込を刺す。
涌田は眉を上げ、期待の色を顔に滲ませていた。
瑠生。顔に似合う名前だな、などという呑気な感想を端に追いやって、駒込は話の通じない相手に説得を試みる。ジロジロ見たことは申し訳ないが、面倒ごとに巻き込まれるのは避けたい。
頬と目元に力を入れて意図的に仔犬の表情を作る。すみません、ともう一度告げようとした時だった。涌田の瞳が三日月のように緩み、穏やかな笑みが浮かびあがった。
「さっきジロジロ見られたの、とても不快でした」
低い声が生暖かい空気を伝って聞こえてくる。目の前の表情と声の辻褄が合わない。
「明日の十時に指定のカフェに来てください。連絡先はこちらです」
涌田は、駒込の言葉を待つことなく話を続ける。差し出されたのは手のひらサイズの程よく薄いざらりとした感触の紙だった。名前と職業、連絡先が書かれている。
涌田瑠生。作家。
作家。文字を見た途端、駒込の心臓は爆音を立てて一層強く血液を跳ね流した。会社員でもなく、教員でもなく、警察官でもなく、作家。人生で一度、出会うかどうかの確率と言っても良いほど一般人には縁のない職業。その作家が今、駒込の目の前にいる。
全身黒ずくめの格好に長いブロンドの髪。いかにも非凡な見た目は確かに、夢の中の登場人物のように非日常的な職業にぴったりかもしれない。ロマンと知識の集合体。美と衝撃を携えた存在。
だが、鳴り響く心臓の音は作家との出会いを祝う讃美歌ではない。身体中に危険信号を伝えるサイレンだ。駒込はカラカラに乾いた喉で意味なく嚥下を繰り返す。口元に力を込めて頬を上げる。今すぐバスを降りたい気持ちを抑え、正面から涌田を見つめた。
「作家さんなんですね。初めて会いました」
脳内を駆け巡る血液の音が止まらない。心配することはない、あの人と涌田は違うはずだ。誰だって人生で二人目の作家に会うことはある。あるはずだ。頭の中で急速に膨らむ思考を無理やり押し込めながら、駒込はもう一度、口元に力を込めた。
閲覧ありがとうございました。不定期更新なので気長に次回をお待ちください。
※一部修正いたしました(2025/05/02)