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作家は騙される?  作者: 櫻井東
プロローグ
1/7

バスと偶然

大学生と作家のお話。プロローグです。

 折り畳み傘がない。


 引っ越しをしたのは一ヶ月前だ。玄関の左側に設置された上下の段に分かれた収納棚。急いでいるときにすぐに取り出せるようにと、上の扉を開いてすぐのところに置いたはずの、手のひらより少し大きいチェック柄の傘がどうしても見当たらない。


  昨夜のニュースではアナウンサーが明日は雪が降る予想ですと言っていた。なぜ昨日のうちに確認しなかったのか、いや確かにここに置いたはずなのにと過去の自分に翻弄されたあと、結局持ち手のついた長い傘を持っていくことにした。


 外に出てみると思ったよりも降っている雪の量は少なく、もしかしたら傘はいらないのではと思ったが、帰りのことを考えてやはり持っていくことにした。


 外は寒い。在宅ワークであることに魅力を感じて始めた芸能ゴシップライターのバイトは、何故か半年に一度、食事会を開いて同僚と交流を深めるという謎の風習がある。


 普段インターネットを介してのみコミュニケーションをとっている人たちと、半年ごとに顔を合わせてちょっとお高めのランチを食べるのは、何だか少し気まずいイベントではあるが、バイトの給料はいいし、変に断って角を立てるよりは良いだろうと、今のところ皆勤賞だ。


 今日は表参道の洋風創作料理屋が集合場所だ。名前はなんだっただろうか。歩きながらコートのポケットを弄る。丸められた手袋の奥に、冷たい感触があった。


 その冷たい鉄を顔の前に持っていくが、なかなか認証されない。やはり自分は顔認証より指紋認証派だなと考えながら、四度目の挑戦でやっとこさ開いた画面を操作し、「表参道 創作料理」で検索してみる。


 ああそうだ、サバティ。文字を見るに、多分フランス語だろう。かなりの人気店らしく口コミも良い。一番人気なのは栗とポルチーニ茸を使ったニョッキだという。一体どんな味だろうか。想像したらぐうっとお腹がなった。


 それにしても寒い。家からバス停までは歩いて十分。わざわざ傘をさすほどの距離でもないので傘は右手に持ったままだ。


 さらさらとした軽い雪が少しずつ髪に積もっていく。時折それを手で雪を払いながらいつもより少し早足で歩くと何度か雪が目の中に入りそうになった。


 傘の一件で手間取ったが、おそらくバスには間に合うだろう。二十メートルほど先、住宅街には似つかわしくない大きな木のある角を曲がればすぐにバス停だ。


 到着したバスには乗客が一人もいなかった。いつもならば運転席の後ろ、そこだけ異様に高くなっているあの席に座るのだが、こんなに広いスペースがあるのに前方右端に二人の人間が集まって座るのはなんだかもったいない気がして、今日は後方スペースの一番前、二人がけの窓側に座ることにした。


 窓の外は相変わらず白くぼやけているが、さっきよりは降る雪の量が減っている気がした。やっぱり傘いらなかったかなと思っていると、ゆっくりとバスが速度を落とし、扉が開く合図音が鳴った。貸切状態だったバスになんとなく非日常を感じていた身としては、もう少し一人で乗っていたかったなとも思ったが、外で寒い思いをしている人を恨むほど人でなしではない。


 手元のスマホで時間を確認する。ありがたいことに目的地まではこのバス一本で行ける。サバティまではあと三十分。途中で電車に乗り換えればもう少し早く着くのだが、俺はバス特有のリラックスした空気が好きだ。だからこそ、今日は折りたたみ傘を断念したのだ。


 カバンの中からイヤホンを探し出し、耳につけようと顔を上げた時。思わず、じっと見つめてしまった。普段は人をジロジロ見ることなんてない。むしろそういう人を白々しく思うタイプだ。だがこれは——。


 乗車口付近に立っているその人物の外貌は、異様というほかなかった。腰まで届きそうなくらい長い、黄金に輝く艶やかな髪は、マフラーのようにぐるりと首元に巻かれており、漆黒色のもこもことしたロングコートからはタイトなスラックスが生えている。その足元にはよく磨かれた黒い革靴が品良く輝いていた。


 髪でほとんど顔が見えないというのに、目には真っ黒のサングラスまでかけている。顔立ちは愚か、性別もわからないほどの完全防備だ。


 貸切バスで非日常感を楽しんでいたのにと惜しんでいた三十秒前の自分に教えてやりたい。これこそが非日常だと。これは本当に現実に存在する生き物なのか。スタイリッシュなまっくろくろすけを見て、何故か自分の心臓がドキドキしていることに気がついた。


 一体どんな人なんだろう。身長が一八〇センチほどあるところを見ると男性だろうか。唯一見えているのは黒いサングラスの下、すっと伸びる鼻筋だけだ。と、次の瞬間。


 ファッショナブルなまっくろくろすけは俺の方を見て首を傾げた。しまった。こんなにあからさまにジロジロ見られたら、誰だっていい気はしないはずだ。


 バスが速度を落とす。信号だ。まずい、車体が止まったのを見計らってまっくろくろすけはこちらに近づいてきた。どうしよう。いや、まずは謝らないと。


「あっあの俺…」

「落としましたよ」

「…え?」

「イヤホン」


 差し出された手——指先が細くハンドクリームのコマーシャルに出てきそうだ——のひらの上には、俺が手元に持っていたはずのイヤホンがあった。動揺して落としていたらしい。


 すみません、と二重の意味を含んだ謝罪をすると、まっくろくろすけはとんでもございません、と朗らかな重みのある声で答えた。どうやら男性らしい。


 彼はそのまま俺の後方に回った。音はしなかったが、おそらく後ろか、そのまた後ろの席に座っただろう。受け取ったイヤホンを耳にはめるとき、後ろから小さいため息が聞こえた気がした。やはりちゃんと謝ろうかと思ったが、謝罪のために振り向いたのを違う意味で捉えられうな気がしてやめた。サバティまであと二十五分。

ご覧いただきありがとうございました!不定期で更新します。

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