蛹男
鬱です
少年は元気でした。とても健康な体、不自由のない生活、優しい友達。成長にぴったりなとても素敵な環境がありました。
そして、勉強という葉っぱを食べながら、いつか夢に向かって美しく舞う蝶になれることを夢見ていました。
少年は、ただ純粋に幸せな未来を思い描いていたのです。
時は経ち、彼は青年になりました。
失敗が怖くて、青年はいつしか飛べない理由を提示してくれる蛹に閉じこもるようになってしまいました。
そうすれば、周りは挑戦を自分に望まないから。
挑戦して無様に失敗する自分を見せなくてすむからです。
時は過ぎ、いつの間にか蛹なのは自分だけでした。
みんなは、それぞれ蛹の中で努力によって形成した自分だけの姿を持ち自由に夢を追いかけ、光を追いかけ、温かな世界を飛び回っていたのです。
周りの人たちはそれを、嬉しそうに眺めていました。
焦った彼は、蛹を破ります。
夢を追いかける仲間たちの輪に入りたかったのでしょう。
ですが、それは叶いませんでした。
蛹から出た自分の体には、彼らのような羽はあらず、あるのは羽の残骸だけだったのです。
長年を蛹で過ごした彼の羽はすでに、その機能を失い腐り落ちていたのでした。
それでも、諦めきれず地べたを這いずりながらでも彼らを追います。
そして心のなかで気づくのです。
これは、自分がなりたくなかった醜い蛾よりも醜いなにかなのだと。
失敗ばかりして、嫌われる蛾より。
醜悪で恥さらしの姿なのだと。
挑戦も失敗も期待も成功も、できない、されない、ただの息を吸うだけの生物で存在価値のないものなのだと。
失敗を何度も行えばいつしか学習することを覚えます。
では、失敗を怖がり何もしなかった生き物は何を覚えているのでしょう?
地べたを這いずる彼は、視線が怖くなりました。
誰かが笑ったような気がします。誰かがけなしてきたような声が聞こえたと感じます。誰かが見えないところから指を指してあざ笑った気がします。
幻聴や空耳だと考えるほどの冷静さは彼には、ありませんでした
美しい蝶の親から生まれたはずの彼は、この世で最も醜い存在になっていたのですから。
笑われます笑われます笑われて、笑われて
悲しくて辛くて、苦しい苦しい苦しくて、
親に見られて、悲しまれて。
美しい蝶になっていた妹を見て、惨めさで吐きそうになって妬む自分が気持ち悪くて。
惨めな己を涙でできた水面に移した瞬間、何かが崩れてしまいました。決定的に砕け散りました。
幻聴はもはや、自分を表す鏡となり、砕けて歪んだ鏡はこう言いました。
「なんで生きてるの?」
「他人に迷惑かけて、たのしいの?」
「なんで死なないの?」
「お前は、なんで最善策を取らないの?」
「それで、全部解決するのに?」
「ああ、そうか...わかったよ、ごめんね。」
「結局お前は自己中心的のクズ野郎で、気持ち悪い嘘つき野郎で、自分の我が身可愛さで人の幸せを願うことのできないろくでなしなんだ。」
「それが、理解できてなかったよ」
彼は、鏡の言葉を否定できませんでした。
ただ、嗚咽が部屋に響きました。
母の幻聴が、父の幻聴が、妹の幻聴が彼にこういうのです。
「もう、何もしなくていいよ」
「お前に期待なんてもうしないから」
嫌
ひったくるように掴んだ自分の上着を着て、その上にレインコートを羽織って誰にも見られないように、暗く先の見えない、誰も追えない雨の中へと「ここにいてはいけない」という強迫観念の焦燥にかられ走り出していました。
その肌を見せることを許さないコートは、まるで未熟な自分を隠す蛹のようでした。
雨音と雨は彼を隠します。誰も彼を見ませんでした。
いえ、もしかしたら無関心なだけかもしれませんね。
「自意識過剰で気持ち悪いよ?」
吐き気が込み上げたのを飲み込みました。
少年から青年へそして、成人した男になった彼は、姿と似つかない幼虫のままである己の内面へ絶望しながら、遅すぎる後悔の憂鬱に沈んでいきます。
蛾にも蝶にもなれない彼の居場所は、もうどこにもないのでしょう。
すくなくとも、彼はそんなふうに感じていました。それが正しいと信じ、正しい事を認識しているという『正しさ』だけが心の拠り所でした。
正しくない自分を否定して、否定する『正しい』自分を肯定することでしか自分を維持できないのです。
無情な雨は彼の孤独を際立たせるように、レインコートに弾かれてすべての音をかき消していきます。
気づけば男は飛んでいました。
いえ、それは落下でした。
私は、蝶になれなかった蛹の中身を見たことがあります。
彼の最後はまるで、それと同じでした。
長い月日によって、体を作る液体をグズグズに腐らせた蝶になれない蛹の汚い中身と同じように。
雨粒とともに地面に叩きつけられた彼の中身が、服の中で散らばっていました。
そこにはもう動くものはありません、ただ蛹の代わりである服が内側からゆっくりと赤く黒く穢されていくのみです。
「人に迷惑かけて、結局身勝手に死ぬ」
声が聞こえます。彼が自分を否定します。それが正しいから自分が自分を否定することで彼は自身を肯定できて
「なんで、生まれてきたんだよ疫病神。」
「お前より、苦しんでるやつはごまんといるのに、なんで自分が世界で一番不幸みたいな顔して絶望してんだよ、傲慢で気持ち悪い。」
「お前がいなければ、両親はあんなに悲しい顔しなかったのにな」
「生まれてきて、関係作らなければ悲しませなかったのにな」
「お前が生まれてきたから、お前が身勝手に死ぬから、周りはいい迷惑だよ。こんなクズに心をかき乱されるんだから。ほんとかわいそうだよなぁ?お前のせいだぞ?わかってる?」
「お前が生まれてきたから」
「お前が生きたから」
「お前が夢を持ったから」
「お前が努力をしなかったから」
「お前ができない努力をしようとしたから」
「お前が前を向いたから」
「お前が立ち直ろうとしたから」
「お前が今更、死ぬから」
「お前が、生きたせいでみんなを不幸にしたね!人生、楽しかった?」
雨が周りの音を遮る孤独の中。
彼は死ぬ間際まで「正しい」自己否定だけが聞こえた。
蛹は形なき己をさらけ出し自壊した。
全部、自業自得。