天国への搭乗ゲート。
「お客様、お忘れ物は御座いませんか?」
「忘れものとは──?」
「──未練です」
死んだはずの俺は、何故かとある空港にいた。
青い空のもと、整備された滑走路に並ぶ何機ものジェット旅客機。
しばらく、透明のアクリル板なのか、階下のグレーのアスファルトの地平線の果てに花畑が延々と広がっているのを見ていた。
俺はと言うと、くすんで色褪せた茶色のスーツとハットをかぶり、人生で2~3度しか使うことのなかった黒色のスーツケースを大事そうに足もとに置いていた。
しかしながら、何か入っているのかと聞かれると困る。
何も想い出せない。
「そうだな。ここに来るまでに売店で見かけた、フレッシュオレンジジュースを飲んでおきたい」
「それでしたら、搭乗までに、まだお時間が御座います。ごゆっくりどうぞ」
「分かった。ありがとう」
黒と紺のスーツとタイトなスカートに身をつつむ女性従業員の笑顔と首もとの水色のスカーフが、柔らかく揺れる。
少し口紅が赤すぎるんじゃないかとも想ったが、特に声を掛ける必要もないかと思い、空港のラウンジなのだろうか、さっきの絞りたてのオレンジジュースが飲める場所に戻って来た。ゴロゴロと黒のスーツケースを引きずって。
「ふむ。ここだ」
見上げるほど巨大なミキサーの中に、外国産の固そうなオレンジが、ぎっしりと詰まっている。
しかしながら、誰も興味を示す様子も無い。
ここで言う人とは、影のような虚ろなカタチをした灰色の人のことだ。
従業員以外は、何故か皆、そんな格好だ。
俺は、巨大なミキサーの中のオレンジを見上げながら、あることに気づく。
「さて。どうしたものか。財布が無い」
ポケットの中には何も無い。スーツケースは、固そうなゴムバンドで締められていて開ける気が全くもってしない。
俺は、白いプラスチックとシルバーの金属製の椅子に腰掛け、足組をしてから、冷たいガラス板のテーブルの上に頬杖をついた。
それにしても、時計と言うのだろうか、空港なら何時発の何便の行き先かが電光掲示板で流され表示されるはずなのだが、何処にも見当たらなかった。
「ジャーン!! オジサーン! わっ!!」
「な!? だ、誰っ──」
──唐突な声。何処から走り寄って来たのだろうか。
クリクリとした愛らしい瞳に、黒髪が揺れている。
何処か知らない学校の制服を着ていて、どうも彼女は女子校生くらいの年齢なのだと俺は認識する。
しかしながら、眩しいくらいに揺れる胸に透けるような彼女の白い肌は、天使なのか女神なのかともさえ想えた。
それに、さっきの女性従業員のような、わざとらしい赤い唇の色でも無い。
「オジサン、死んじゃうの?」
「い、いや、死んでいるはずだが?」
(ま、また──、な、何を唐突に──、?)
縁もゆかりも無いはずの誰とも知らない彼女が、俺の顔を首を傾げて覗き込むようにして心配そうに見つめている。
──が、即答しておく。
俺は、死んだのだ。
けれども、彼女の眼差しが私をいつまでも見つめている。
「君も、死んだんだろう?」
俺は、少し伸びてきた顎髭を少し気にしつつ触りながら、眩しいばかりに張りのある彼女の素顔へと尋ねた。
「かもね。けど、空港にいた従業員の人以外じゃ、オジサンしか見えなくて」
「ふむ。俺もだ。他のは影なのか人なのか、それさえも分からん」
さっきから、灰色の人のカタチをした影のようなものたちが、エスカレーターに乗ったり、このラウンジの中を往ったり来たりしてはいるが、確かに彼女以外は人間らしい姿をした者が見当たらなかった。
少しタバコを吸いたくなってポケットの中を探ったが、財布同様、無いことを想い出して諦めた。
「ねぇ……? オジサン、私と一緒に逝く? オジサン、悪い人じゃないでしょ?」
「そう見えるのか? しかしながら、悪いことと言うのは、事と次第による。例えば、君と──」
「──んもぅ……。エッチだね、オジサン! 未練タラタラじゃない?」
彼女の愛らしい瞳に、ウェィブした黒の前髪がサラサラと流れる。
それから、しばらく彼女の表情を見つめながら、照れ隠しもあってか俺は笑った。
笑ったのは久しぶりなのかも知れない。
「ハハ……。やれやれ……」
俺は俯いて、茶色の帽子を深くかぶり直してから、ガラス板のテーブルの上に置いた自分の握り拳を見ていた。
しばらく、沈黙の時が流れた。彼女は、なんて想ったのだろう。
「じゃあね! オジサン! 生まれ変わったら、今度こそ私、オジサンのお嫁さんになったげるよ。淋しい想いさせて、ゴメンね」
突然の思わぬ声。
俺は、かぶり直した帽子から顔を上げ、彼女の姿を見上げた。
制服を着た彼女が胸を揺らし、私へと手を振って、搭乗ゲートの方へと吸い込まれるようにして──、
──短めの丈のスカートと背中の髪を揺らして、光の中へと消えようとしているのを見た。
「ちょ! き、君っ!!」
「またねっ!!」
もう一度振り向いた彼女の最後の笑顔が、言葉とともに俺の目に映る。
それから、さっきの搭乗ゲートの女性従業員と少し会話をしたかと想うと、彼女はジェット旅客機のタラップのあるエスカレーターを昇って行った──。
─────────……┿……──────────
「──せんせっ!! 先生っ!! 起きてくださいよー!?」
「んあっ?」
迂闊なことに、俺は、居眠りしていたみたいだ。
ここは、箱庭心理療法を専門とする俺のカウンセリングルーム。
昨晩、今目の前に居るクライアントの彼女から「死にたい」との電話が掛かって来た。しばらく話を聞いた後で今日会うことになっていたのだが──。
──そして、今。
目の前に居る彼女は、少し前に見た光の中に消えた夢の中の女子校生なのかも知れないと──、
「ちょっ!! 私が箱庭作ってる最中に、居眠りこくって、どーゆーことです!? ヨダレ垂れてますよ」
「ふあっ!? ま、マジか!? すまん」
──錯覚した俺は、ヨダレを思わずグシグシとスーツの袖で拭き、目の前の彼女の様子を伺った。
「で?」
「も! せんせ、汚ーい!!」
西日が、俺のカウンセリングルームの窓辺から射し込み、棚にある箱庭用の人形たちや、モチーフの置物が光を受ける。
「ど? 私の創った箱庭。死にたい願望なんて、なくない?」
「んー? まぁ、そうとも言える」
「なによ、それーっ!!」
俺は、夢の中で自身の死を体験したのだろうか。
それとも、夢の中の彼女が目の前に居る彼女なのだろうか。
しかしながら、しばしの夢から覚めた俺は、このカウンセリングルームに射し込む西日に照らされた彼女の姿を見て安心する。
「ね、先生? 彼女居ないんでしょ? 私、付き合ってあげるよ?」
「な!? い、いや、クライアントとカウンセラーとは、だな……」
「……ねぇ。先生にも──、私みたいな死にたい願望なんて、なかったの? 私、先生となら」
上目遣いに、私を見つめる彼女の恥ずかしそうな素顔が、日の沈みかけた窓辺の太陽に赤く照らされている。
(──死にたい願望か……)
無いと言えば、嘘になる。
けれど、目の前に居る彼女が元気を取り戻してくれて、本当に良かったとも想う。
それなら俺は──と、自身でも思いがけない言葉を彼女に送った。
「め、飯、喰いに行くか? 今日は、おごる」
「ヤタ!!」
まるで、俺は夢の中の現実を取り戻すように──、照れ隠しに頭を掻くようにして彼女の気持ちに応えた。
──もしも、これからを生きるなら。
しかしながら、カウンセリングルームを出てすぐに、彼女が俺の腕へとしがみついて来た。
「センセ……」
「や、ヤバいから、やめろって。近いって……」
春の少し冷たい風が背中に吹いたけれど、あまり気にならなかった。
けれども俺は、彼女をどうしたいのだろうかとも想いつつ、ポケットの中のタバコと財布があるのを、今一度、ゴソゴソと確認し直していた。




