執務室から(宰相の気持ち)
執務室を出たナイジェルは、自分のやるべきことを頭の中で整理しながら歩いていた。
まずは、夫人の来歴や素性、出奔してからの足取り、帝国の事情。
とにかくあらゆるものについて、先入観を持たずに調べていかなくてはならない。
どういった方法を取るのが効率的だろうか。
人を遣るほうが有効な場合も、記録を確認するだけで判明できる場合もあるだろう。
とりあえず、まず王立図書館には立ち寄ろう。
客観的な事実を押さえておく必要がある。
知っていると思っていることでも、一応確認したほうがよいだろう。
今回のためだけじゃない。
リーンがカラチロの皇女を娶れば、これから、本格的にカラチロという国と付き合うことになる。
カラチロの文化や伝統、風習をまとめた事典と、あとはカラチロが国家として出している公式文書。
ルトリケの貴族名鑑みたいなものはカラチロにはあるだろうか。
そんなことを考えていると、急に集中力が途切れてしまった。
ふと、「王の結婚」を話題にしたときのリーンの様子を思い浮かべる。
冷静に相手の名を聞いてきたと思ったら、トゥルーシナ姫の名前を聞いた途端、急にあたふたしたり、寂しげになったり。思わずナイジェルの口元が緩む。
「あれは重傷だな。彼女にぞっこんじゃないか」
それにそもそも、トゥルーシナ姫の名を聞いて、リーンがあんなに驚くとは、ナイジェルも予想だにしていなかった。
「あれは下手すると、私の婚約者の名を出すより驚いていたんじゃないか。」
「それとも、もう、婚約はなかったこととして、あいつの頭から消えていたのか」
確かに、キーツ王は破談だとは言っていた。
ただ、それがどこまで効力を持っていたのか、疑問だ。
外交など決して得意ではないキーツ王がどうやればカルドリ帝と交渉できるのか、想像もつかない。
しかし、あの分だとリーンのほうは、親の言うことを素直に受け取って、何の抵抗もしなかったのだろう。
本当にトゥルーシナ姫のことが好きだったのか。
もし自分が同じ立場だとしても、あんな遠慮はしない。
本当に好きな相手なら会いに行くなり、手紙を送るなりして、トゥルーシナ姫をつなぎとめる。
まったくリーンてやつは。馬鹿正直な。
五年ほど前から、ナイジェルは従弟のリーンに対して敬語を使うようになっていた。
あえてそうしていたのだ。
リーンが王太子だったということももちろんある。
だが、私的な場でも敬語を崩さないのは、自分はどんなところをとっても、リーンにはかなわないと悟ったからだ。
けれど、今日の様子を見て心から思った。
「色恋だけはアンタの負けだ。ヘタレめ」
面と向かっては絶対に口にできない言葉をわざわざ吐いた。
あのあと、貴族たちには根回しをした。
おおむね好意的だった。
キーツ王の時代に力を持っていた貴族たちは彼の退位と同時に追放されたり、代替わりしたりした。
そのため、リーンに合う年回りの令嬢を持つ貴族は少ない。
それもあって。今リーンの周りにいる貴族たちのなかに、自分の血縁をリーンにとあからさまに訴える者もほとんどいなかった。
「ふっ」と息を吐き、例の「王の結婚」を話題にする数日前に隣国に送った二通の書状に思いを馳せる。
そのうち一通にリーンの初恋を賭けていた。
自分の考えている通りなら、あの書状で反対している貴族も一気にこちらに傾くはずだ。
こちら側の障害はほぼなくなる。
懸念が解消されたら、今度こそリーンにきつく言おう。
トゥルーシナを放っておくなと。




