執務室まで(王の思い)_3
隣国の皇族・王族との結婚など珍しいことではない。
婚約した時から、リーンにはもう、この結婚がお互いの国のためのものだとわかっていた。
そしてトゥルーシナもおそらくそうだったはずだ、とリーンは思っていた。
実際、この婚約は当時国王であったリーンの祖父とトゥルーシナの父である皇帝との間で交わされた契約だった。
カラチナ帝国の南に接する三つの王国テリク、ルトリケ、レキラタは、どの国もみな大国カラチナと手を結びたがっていた。
そしてその時点で一番勢いのあったルトリケ王国の王の申し入れが、カルドリ帝を動かしたのだ。
国力だけではない。
皇帝が当時のルトリケ王サーシの人となりを信頼し、個人的にも良好な関係を築いていたのである。
リーンの祖父でもあるサーシはリーンに話した。
「今栄えているルトリケを野放しにすると、いずれ、このカラチナを脅かす可能性がある。そうならないうちに打てる手は打っておきたいとカルドリ帝は考えたようだな。しかも皇帝と私は長い付き合いだから、裏切ることもあるまいと考えたようだ。年齢的にもお前とトゥルーシナ姫はちょうどよかったのだろう」
けれど、リーンは思う。
『王子や皇女としてではなく、お互いに何も知らずに出会っていたのに、この少女を心から好きになっていた』
トゥルーシナと初めて会ったときのことを思い出す。
バルトリスを除くリーンたち四人が彼女と初めて会ったのは、十五年前のことだった。
最年少のアンリが三歳、最年長のマキシムが六歳、リーンとナイジェルは五歳だった。
その年はカラチロの先帝がカルドリに譲位した年だ。
カルドリ帝は即位後まもなく、皇妃と四人の皇子皇女を伴って、周辺の国々を歴訪し、ルトリケにも訪れたのだ。
カラチロの皇族とルトリケの王族・貴族の顔合わせのあと、カルドリは家族を伴い、ルトリケの文化や芸術を見学する時間を作った。
ただ、幼いトゥルーシナだけは、侍女と別行動していたのだろう。
一方、リーンたち四人も顔合わせから解放され、自由に過ごしていた。
そしていつものようにリーンとナイジェルが先頭に立ち、そのあとをアンリ、マキシムがおしゃべりをしながら、庭を歩いていたのだった。
庭に隣接するちょっとした森の中にある秘密基地に行くためだ。
その時
「姫さま、姫さま、お待ちください。そんなに走るものではございません。転んでしまわれますよ」
という侍女らしい女性の慌てた声と、小さな女の子のきゃっきゃっという明るい声が聞こえてきたかと思うと、いきなりリーンに横から何かがぶつかった。
気づいたマキシムが後ろから走り出て、咄嗟にリーンを守ろうとしたが間に合わなかった。
ぶつかったはずみでリーンがよろけ、手と尻もちをつく。
ぶつかってきた女の子のほうも手と膝をつきそうになるが、こちららのほうは辛うじて侍女が支えて事なきを得た。
リーンはびっくりしてそのまま動けなかった。
思わず飛びのいたナイジェルも「あらら」と戸惑っている。
驚いたのかアンリは泣き出してしまい、後方からついてきていた護衛が駆け寄って宥め始めた。
先ほどの顔合わせの場にもいたのだろう。
侍女は、女の子がぶつかっていた相手が誰なのか悟ったようだ。
尻もちをついたのがルトリケ王の孫と認識したのか、慌てて謝罪しようとする。
「も、申し訳あ…」
だが、それより早く女の子のほうが先に立ち上がり、
「ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい」
と、透き通るような、けれど、大きな声で謝罪した。
そしてズボンの汚れを払った手で額を拭いながら立ち上がったリーンの顔を見て目を瞬かせた。
額に土汚れがついていることに気がついたようだ。
「わ、わたしのせいでおかおが」
ハンカチを取り出し、少し背伸びして、リーンの額の土汚れを一生懸命に拭った。
そして
「これ、どうぞ」
とハンカチを渡すと、侍女に連れられて去っていってしまった。
マキシムもナイジェルもきょとんとしている。
リーンは渡されたハンカチを手にしたまま、ぼうっとしていた。
いつの間にか泣き止んでいたアンリが今度は妙ににこにこしている。
そして
「あにうえ、おかおあかいですよ」
と指摘してきたので、
「知るものか」
リーンは思わずそっぽを向いてしまった。
マキシムがやっと
「あのこ、だれだっけ」
と誰に問うでもなく呟く。
リーンとアンリは彼女の赤いリボン飾りのドレスと小さな白い花がたくさんついた髪飾りに見覚えがあった。
「あれはたしか、いまこのくににきている」
「トゥルーシナひめだ」
リーンは受け取ったハンカチをそのまま大事そうにポケットにしまい込んだ。
「はやくきち、いこうぜ」
と何事もなかったかのようにナイジェルが叫び、ほかの二人と駆け出した。
だがリーンだけは女の子の駆けて行った方向からずっと目を離せないまま、ナイジェルの言葉を上の空で聞いていた。
そして女の子の駆けて行った方向からしばらくは目を離せないでいた。




