定年後の日々
平成29年3月
生活介護施設に娘を送ってからの時間が私に与えられたフリーな時間となった。3時半には迎えにいかなければならないので、正味5時間程度である。なにができるのかは自分の取り組み次第である。今まで残していた原稿をとりあえずは、データー化することが最初になるが、それができれば小説に取り組みたいと思っている。常にこの5時間があるのではないので、自分の意志でしっかり固めておかなければあっという間に過ぎ去ってしまう。
3月28日は、送って行った後久しぶりに学校に行った。なんとなく気恥ずかしい感じである。アマゾンで注文していたコロンバンのお菓子が届いたので、高等部の職員の机に配っていった。教務部長から、教育実習のことや人権教育委員会のことについて問い合わせがあった。四年間、このことについては引き継ぐつもりでやっていたものの、担当に任せきりだったので4月からは人選も含めて大変だろうと思った。部長自らが関わっていないとまわっていかないのではないかと思う。帰るときに進路部長と出会うことができた。校務分掌についてリサーチできた。今いるメンバー以外の人に、学年主任をお願いしなければならないことに、Fさんとかはどのように思っているのだろうか。また、学年に入るOさんがいろいろと出しゃばらなければよいかと思うが、これまでの行きがかり上関わってくるのは間違いない。進路はKさんが総務部長もしながら引き受けてくれた。経験を積んでこれからは中心になってやってもらいたいと思う。そして、車に乗ってからYさんと話をした。後二年といっていたが、この2年間は確かにしんどいと思う。何とか無事にまわってくれればと思う。
4月10日今日から新学期が始まる。娘が便秘気味でこだわりが強くいつもより30分近く時間がかかった。学校に行っていたならば毎日時間を気にするところであるが、今は気にしなくてもいいと思いながら、それでも気にしている自分に気づくことがある。献血の文章は100回達成のところで、とりあえず終わることにした。50枚少しを超えたところなので、これをもう少し肉付けをして増やしていきたいと思う。ポメラを使って打ってきたが、明日からはパソコンを使って推敲していこうと思う。
4月11日 昨晩はお寺で話し合いがあった。住職の身勝手さにはほとほと腹が立つ。自分の都合で人を呼びつける。相手のこと等ほとんど考えない。このペースで巻き込まれたらかなわぬと思ったので、拒否することも大切であると思った。電話で済む用件についても足を運べということがこれまであった。保険のことなどは最たるものであった。花のことについても一週間前に話しておいてくれれば、こちらで対処できたと思う。
8月7日 久しぶりに書く。4月以来、これまでのことを含めて小説らしきものを書いてきた。「献血」「おまいり」の2つは、公募の賞に応募した。100枚までには達しなかったが、おまいりは90枚近く書くことができた。NHK障害福祉賞が20枚、のじぎく文芸賞が10枚と30枚書くことができた。トータルで200枚以上書くことができた。このほか、「こだわり」や「教師生活38年」も書くことができた。また、途中でこれから少しずつ増やしていく「おばさん」も30枚は越えた。書くネタはなくなったので、連続研修会のまとめを書き始めた。書く訓練は続けていく必要があるので、しばらくはこのテーマでやっていこうと思う。また、退職してからの読書のなかで、蓬木逢生さんの本には得られるものがたくさんあった。彼の作品をジャンルに分けると、戦争物・医学物・歴史物の3つに分けることができるが、一つ一つとってみるとその資料の多さに圧倒される。また、「ネガティブ・ケイパビリティ」の考え方が随所にちりばめられていて、どんどん引き込まれていく感じである。彼みたいな作家になればよいが、その道は遙かに遠そうな気もする。とにかくできることは少しずつ積み上げていくことでしかない。「おばさん」については、これからの生活のなかでエピソードがあれば書いていくが、それがなければ何を続けていくか考えて行かなくてはならない。妙好人のことも大きなテーマであるが、宗教的なことよりも、住職との関係のなかで取り組む方がよいのかも知れない。連続研修会のことがまとめられたあたりから、次のことを考えていくのも良いかも知れない。
8月21日 11日から12日までは四国方面に旅行に行った。娘にとっても旅行に行くことは楽しみで、滝野社インターの近くを通るときは高速道路を指さして、旅行に行きたい想いを伝えることがあった。今回の旅行は調子も良く、久しぶりに楽しく過ごすことができた。11日は四国八十八カ所の残りの4か寺に参った。志度寺と屋島寺と長尾寺の3つは私一人でおまいりをした。最後の大窪寺は3人で参ることができた。これで、八十八カ所結願する事ができた。一番の霊山寺に参ったのが、去年の12月末であったから、八ヶ月でまわったことになる。霊山寺ではお姿を貰い忘れたため、再度もらいに行かなければならないこともあった。朱印を集めていくと楽しみなこともあったが、時には惰性になることもあった。その中で、特に難所と呼ばれているところのものは、貰うために苦労したこともあり、やはり値打ちが違うような気もした。雲辺寺や太龍寺のようにロープウェイを使ってお参りするところでは、ゴンドラの中に一人だけということも経験した。寺の奥の深さという点では、善通寺と石手寺が双璧だったように思う。待避できないような道もあり怖い想いもしたが、やはり全部周り終えたと言うことは、それなりに値打ちがあったように思う。またもう一度参りたい気もするが、お金の面から考えると宝くじでもあたらない限りは難しいように思う。退職後の一つの目安はついたような気がする。大窪寺から長尾総合公園にあるコテージに入った。これまでなら入るときの車の止め方や鍵の開け方にこだわっていたが、それもあまりなくスムーズであった。私が近くの温泉に行っている間に食べ始めており、食べてから寝るまでもスムーズであった。翌12日はすぐ近くの亀鶴公園を歩いた。広い公園であったが、池の周りを歩いたので猛暑であったが、まだましであった。それから、津田の松原に行った。海水浴客がそれほどいなかったこともあり、松林を歩くことができた。次に、とらまる公園へ行った。人形劇はやっていなく人も少なかった。その次に、讃州井筒屋敷に行った。ナビがえらい道を案内してくれたおかげで、とても苦労した。娘の状態が悪かったら、大変なことになっていたと思うが、そんなことはなかった。その後、鳴門北インターまで地道を走り、後は高速に乗って帰ってきた。もう少し下調べをしておけば良かったと思うが、結願するのがメインであったので、手抜きになってしまった。12月の中頃にももう一度その近辺のところに行くので、しっかり調べていこうと思う。
13日~15日はドライブに行った。13日は盆踊りの準備をした後に行った。宍粟市のメープルランドに行くつもりが、山崎インター付近で渋滞していて時間がかかった。メープルランドでお弁当を食べることができず、一宮の家原公園で食べることになった。14日は春日町のかまどやでお弁当を買った。それから、和知町の大野ダムのところまで行ってお弁当を食べた。わりと涼しくてダムの堤防のうえで食べても、それほど暑く感じなかった。久しぶりのかまどやの弁当はおいしかった。やはり、ほか弁の弁当はおいしいというのが久しぶりの思いだった。15日はたつの市の菖蒲池公園に行った。怖いような道が多かったが、池の近くの眺めはなかなか良かった。その後、山道を走ったが、後で考えると少し無謀だったような気がする。
16日は、東加古川病院へ薬をもらいに行った。案外空いていて,9時半には診察も終わり薬を貰うだけになった。薬を貰うときに、増薬されていることに気がつきびっくり。何となく変な感じがしていたが、もう一度しっかり確認しておくべきであったと思った。今の状態であれば、これまでのことを思うと、ずいぶん過ごしやすくなってきたのは確かだ。薬を貰った後、Yちゃんのところに行った。豊岡に行っていたときのことを聞くことができた。本を読んでほしいと言ったので、寝ころんで本を読んだ。二時ぐらいになって、昼寝をするというので、あわてて帰ってきた。もう少しゆっくりできればいいのだが、難しいところである。ただ、見るたびに成長している様子はよくわかった。
17日は、娘をショートスティに送っていった後、久しぶりに加西の図書館に行った。昼から、大空の見学があったので、パソコンを使うことはせず、お弁当を食べて本を読んでいたら妻が来た。しばらく話してから、フラワーセンターでHさんを待った。
Hさんは直接大空の方に行ったので、あわててそちらに向かった。大空ではKさんが説明してくれた。クッションフロアーと浴槽が印象的であった。部屋も少しゆったり目に作ってあり、娘もこういうところに入れたらさぞかしいいなと思った。施設本体がどのように変わるか、今後気になるところである。見学の後ホンダに車を買いに行った。今から手続きして、手元に来るのは二ヶ月後だからという思いがあり、時間的に余裕のある今日がいいような気がした。いろいろ話を聞いていくうちに、150万はかかるのは仕方がないかと思った。厚生会から借りる段取りはしていたものの娘婿への連絡が遅れてしまった。まあ、それでも納得のいくものは購入できたように思う。18日から後のことは、明日書くことにする。
8月18日 明け方より猛烈な雷で、稲妻がすごく真昼のような感じであった。その後、雷鳴とともに雨が降り始め、警報が出るぐらいの雨であった。Mさんからは、自重された方が良いとのメールが何回も来たが、I君と出会う予定であったので、そのメールが煩わしく思えた。高速道路が渋滞し、高槻駅に着いたのは11時を少し越えていた。高槻駅から市バスに乗り、3つ目の停留所で降りた。それから5分ぐらい歩くと、先輩のいるサ高住だった。一人で行くつもりだったのと、歩いていく途中でコンビニで何か買えればよいと思っていたので、結局は何も買わないまま来てしまった。Mさんとも一緒するかどうかも未定だったので仕方がなかった。部屋に行くと弟さんも来ておられラッキーであった。先輩は前よりは元気そうであったが、暑さがぶり返したこともあり少ししんどうそうであった。単なる高齢者住宅のため、お盆間は宅配もなく、食べるものに不自由するのが気の毒であった。裁判のことがようやく始まりつつあり、少しずつめどが立ってきているのがよかった。裁判が終わりお金の面で苦労がなくなれば、在宅も近いうちに可能なような気がした。話しが済んでから、弟さんがMさんのお墓まで送ってくれることになった。今日お墓参りに行けるとは思っていなかったのでとても助かった。場所さえ聞いておれば一人でも参れると思っていたが実際に行ってみるとなかなか大変な場所にあることが改めてわかった。Kというところにあり、西国街道の狭い道を通り抜けていかなければならなかった。弟さんだからスムーズに運転できたが、自分が運転するとなると怖い道であった。お墓は竹藪の麓にあり、まだ分譲中のところもあった。墓石に競馬が彫られていて、Mさんらしいなあと思った。近くにもそれと同じような墓石があった。話題があう人が近くにいて、浄土でもそんな話ができているのかなと思った。お墓参りの後、高槻駅に送ってもらった。3時前であったのでI君との約束の時間までは少しあったが、新大阪で土産物を買うために早く行くことにした。土産物を買って新幹線の中央口を歩いていると、I君から声をかけられた。早めに来ていて良かったと思った。新大阪から地下鉄に乗り江坂で降りた。JRホテルと思っていたのが、GRホテルでやはり道に迷ってしまった。セブンイレブンの隣ということを確認しておけば良かった。ホテルでしばらく話しをしてから、王将へ食べに行った。その後、セブンイレブンでチューハイを買った後、ホテルに戻った。最上階に大浴場がありお風呂に入った。温泉に近い成分の風呂で、汗びっしょりになってしまった。部屋に戻りチューハイを飲みながらいろんな話しをした。一番印象的だったのは、教頭時代の時のことだった。激務で止めたいということは、彼のお母さんからも聞いていたが、実際は校長との考え方の違いからそりが合わず、やめたいとおもったことがあったとは知らなかった。そして運転免許を取ったのが、四十才を過ぎてからであり、それから結婚したことを考えると、結婚していなかったら、教師を止めていたのかも知れない。校長ともそりが合わず、今を思えばよく校長までなれたと思うが、今まで自分が知らなかったことに、何か申し訳ない気がした。逆に、校長になってからはギャグを連発したりして、自分の好きなように学校運営ができたように思った。ただ、教頭に恵まれず、苦労した話はこれまで聞いていたが、彼が教頭の時に校長を苦労させていたと思えば、致し方ないという思いもあったのではないかと思った。弟さんとの思いもなかなか複雑で、解決するのは難しいと思うが、お母さんが亡くなり遺族年金がもらえなくなると、そんなことを考えると言い出しにくいこともあり、しこりは残ったままだと思う。お母さんも熱中症で倒れられたりと、これから気苦労が耐えないのではないかと思う。遅くまで話しをしていて、チューハイがなくなると、その日はいつの間にか眠っていた。翌日は、二日酔いで、お風呂に入ったものの、なかなかアルコールは抜けなかった。朝食は、バイキング形式であったので、いつものようにたくさん食べたがやはりしんどかった。江坂より万博記念公園まで行き、エキスポシティに行った。駅から炎天下の中歩いているだけでしんどかった。昼過ぎにそこで分かれた。次回はいつ会えるかというところである。
8月29日 昨晩Aさんから電話があり、お父さんが亡くなり葬式も済ませたとの連絡があった。お盆前に留守電があり、お父さんの具合が思わしくないことは聞いていたが連絡を聞いてびっくりした。留守電はもらっていたが、暑中見舞いを出しのに返事がなかったので、電話はしなかった。オヤジの時の香典帳を調べると、5千円もらっていたので悔やみもかねて、久しぶりに彼の家に行くことにした。駐車スペースがなかったので隣の空き地に止めさせてもらった。そうすると、Aさんの方から先に私を見つけ、家に案内してもらった。玄関の上がりがまちには黒い靴が4足ほどあり、先客がいたのかと思ったが、子どもだということであがらせてもらった。線香の一本でもつけようかと思ったが、祭壇はなく彼の部屋の上の棚に位牌と写真だけがあったので、とりあえず手を合わせて参らせてもらった。死因は胆管ガンからのものだと言っていたが、腎臓や心臓それに前立腺も患っていたこともあり、いつ亡くなってもおかしくはないと主治医から言われていたそうだ。お父さんの写真を見ていると、すっきりした感じで写ってあり、自分でも納得できる人生であったのかなと思った。浄土宗の檀家がそうだが、あまりつきあいはなく坊さん宅配便のような形で導師を頼んだようである。生前の話を聞き、いい戒名がつけられているのを見て、いいお坊さんのあたったのではないかと思った。仏壇や墓のことなどこれから考えなければならないことはいくつもあるが、お父さんの死を通して彼も考えていくことがたくさんあるように思う。
8月31日~9月1日 四国の八十八カ所参りをしていたので京都に行くのは久しぶりだった。ポンパレの格安チケットがあったので、一泊二食7700円という破格の値段で、アピカルイン京都に泊まることができた。京都の北のはずれということもあり、駐車料金もいらなかったので、市バスの一日券が二日分必要だったが安くすませることができた。初日は永観堂を中心に見た。四国の時は朱印を早く集めたいがためにゆっくり仏像を見ることはなかったが、ここではゆっくり見ることができた。なんと言っても、見返り阿弥陀は圧巻であった。また、仏像を見るまでに境内を歩き、ここが紅葉の名所だということも改めてわかった。ここでゆっくり時間を過ごしたので、次の真如堂と金戒光明寺は、四時を過ぎていたこともあり朱印をもらうことはできなかった。しかし、一つの寺をゆっくり見るということは、満ち足りたものがあった。翌日は、市バスに乗り市内観光をした。最後には、府立植物園の隣にある陶版の庭に行くつもりであったが時間がかかってしまい見ることはできなかった。ただ、大谷本廟にゆっくりお参りすることができ、線香やローソクを供えることはできたのは良かった。西本願寺ではたくさん写真を撮ることができた。今回のように、無理をせずにゆっくり見て回るのがよい旅行だと改めて思った。
9月13日 二週間ぶりにAさんと出会った。悔やみにいってから初めて出会うことになった。その前の土曜日に電話が掛かっていたこともあって、その話が出るかと思ったがそのことは出なかった。普段の話しからすると、これまでは週に一回はお父さんのところに行って、お昼ご飯を食べることがあったが、お父さんが亡くなった今、事務的なことで外に出ていくことはあるがそれ以外はほとんど家にいるということであった。借りている畑を耕すことはあって、実際に収穫したものを持ってきてくれた。畑に出ないときは、ほとんど家から出ないで、1日過ごしているという感じであった。話しをしていると、何かむなしい気持ちになりこれでいいのかなあという思いがぬぐえなかった。実際、4月に出会ってからここ5ヶ月は出会ってなくて、話しによるとひと月ばかり入院していたそうだ。詳しくは聞かなかったが、体調だけでなく鬱的なものもあったような気がした。お父さんの祭り方についても、仏壇を買うわけでなく、自分の部屋の棚の上に、遺影と位牌、お骨を置いているようで、自分が毎日お経を上げていて四十九日は葬儀で頼んだお坊さんが来てくれるといった。相続その他諸々のことについても、葬儀会社と相談し、ほぼ決めているような感じであった。こちらとしては何も言う筋合いのものはないが、何かしらそれでいいのかという思いはあった。特に、彼の今住んでいる土地の半分はお父さん名義であると知って、なおさら仏壇を買わなくて良いのかという思いは強くなった。彼の話によると、お母さんもそんなに長くはないと思うし、そうなったときにお母さんも今と同じにまつるのかなと思った。少なくとも自分が生きている間は、親のことは自分がまつれるのではないかと思う。それ以降のことはわからないが。子どもにその後のことを引き継いでもらおうとは思わないが、自分が生きている間はできることをすることが大切ではないかと思う。どうせしても無駄になるのであれば、初めからやらないというのは、人間の一生を考えると、なんなのかと思ってしまう。これまでもAさんが困ったときに相談に乗ってあげるだけで、自分の報から彼を頼りにしたことはない。ただ同期というだけでつきあってきたが、退職後のつきあい方を見ても、深まっていかないような気がする。一時間ほど食事をして彼が時計の針を見た。まもなく12時半という時間であった。彼の方からぼちぼち帰ろうということになり別れることにした。この日は診察が早く終わり、約束の時間まで一時間ほど時間をつぶし彼と出会ったわけであるが、そのことは彼には伝えたが、大して気にする風でもなかった。12時半で別れるとなると、その後の時間はだいぶんあるわけで、いつも通り私としては図書館へ行って本を読むこともできるが、彼にしてみると家に帰るだけで、午後からのルーティンのようなものがあるだけなので、こちらの都合を聞くことだってできると思うが、そんな気は全くなかった。自分の枠の中で生活しているような感じであった。帰るときに彼から次回の診察日を聞いてこなかったので、こちらからは何も言わなかった。携帯がないので、臨機応変にできないこともあり、今回のように早く終わって時間をつぶすのももったいないし、前回のように遅くなって待たせるのも悪い気がした。この前久しぶりにメールをもらったので、メールでまた連絡してくれたらと言って別れた。メールや電話があれば、出会うこともあると思うが、こちらから連絡することはしんどくなってきた。人への関心の薄さがその原因なのかも知れない。それと、私自身もそんなに友だちは多くないが、Aさんはもっと少ないと思うと、私でも話し相手になってやらないと誰がいるのかという思いが、負担になっているのだと思う。
9月16日 施設の役員会があった。Tさんも出席していたので全員そろっての会合となった。議事録の中に、欠席が自分だけというのが気になっていたようだ。Nさんが少し遅れるというので、定刻になると会議を始めた。夕方からの親睦会をどうするかということで、台風が接近している状況なので、それぞれの意見を聞いたが、どちらでも良いのではないかということだった。どちらでもというのは、夕方をなしにする変わりにお昼を【てんぐラーメン】にするということである。Nさんが来てから話し合いを再開した。そのなかで、
「職員のOさんが今日の親睦会で挨拶する。」
と言っていたとの情報があり、Oさんが確実に来ることはわかっていたので、予定通り親睦会をすることにした。その後、年末の役員会での忘年会をどうするかということの話しが中心になった。過去にやったことの話しをTさんがたくさんしゃべった。泊まりがけでいったことや今はもう無くなっている林泉荘のことなど、誰も聞いていないのにたくさんしゃべった。そのために、話し合いに疲れたのか去年と同じ所にするということの話しになった。その後、お昼を食べに行くことになった。これはわりとすんなり決まり、スタジアム横の「グランド」になった。駐車スペースが気になったが、少しでも早く行く方がよいので、部屋があるということで行くことになった。部屋は少し狭く窮屈に感じたが、そこでは、TさんとFさん2人が張り切ってしゃべっている感じであった。2人の会話はキャッチボールのようなものでなく、北朝鮮のミサイルであった。自分がしゃべりたいことだけをしゃべるという感じであった。相手からの反応を期待するよりも、自分がしゃべればよいという感じであった。2人の間にIさんのお兄さんがいたが、お互いの話を聞くだけでずいぶんしんどい思いをしたのではないか。Tさんの隣にいた私もそこそこ疲れたから。一時半前になり、施設への移動の声かけをした。雨はそれほど降ってなかったが、外回りの掃除は無理な感じであった。
施設について会議室に入った。職員さんの方で分担表を作ってくださっていたので、いつもに比べ取りかかりは早かった。作業棟の掃除も入っていたが、私はその分担でなかったので、娘のところが綺麗になったかどうかはわからなかった。蜘蛛の巣とりで天井を向いて作業することが多かったので、頭が痛くなった。首の痛みであったがその時は頭の痛みに感じられた。掃除をしていて、二回もう一人のNさんから指摘を受けた。なかなか厳しいひと言で、思ったことはすぐ口に出すタイプの人だなと思った。そのことは夕方からの親睦会の時でも実感された。利用者が食堂を使っている時間は掃除できないこともあり、ワックスがけは何とかできたが、テーブルや椅子の現状復帰できないまま作業を終えることになった。いつもに比べて、ゆっくり休憩する時間が無く、挨拶をしたときは四時を少しまわっていた。
親睦会は五時からの予定であったが、早めに行ってゆっくりしても良いということで、そのまますぐに行って貰うことにした。しかし、当初の予定を変更してくる人はなく、私が【てんぐラーメン】に行ってみると、来ていたのはFさん夫妻だけであった。五時前には参加予定の保護者はすべて参加して、Nさんの息子やもう一人のNさんの息子も一緒に参加した。2人とも大きな声を出すことはあったが、ここに参加するだけでもえらいと思った。息子が大きな声を出したときに、もう一人のNさんが頭を叩いたのはびっくりした。その後、ご主人が来られたが
「おっさん。息子の横。」
と指定されたのにもびっくり。ご主人は怒るでもなく、またかという感じでにやっとしておられた。六時頃には施設の職員の方もだいぶそろい、理事長も来られていた。理事長は作務衣を着て、のんびりした感じであった。理事長が来ると私の隣にいたFさんは理事長のところに行き、大きな声でしゃべっている声がこちらの方にも聞こえてきた。肝心のOさんはまだ来ていなかったので、いつ来るかと思いながら、職員Nさんの話を聞いた。いろいろ思っているようで、職員不足など事業を広げた今いろいろ心配になることが増えたという感じであった。パン工房のことは午前中の役員会でもWさんに話したが、代表のKさんが辞めておられることを初めて知った。せっかく軌道に乗り、マスコミでもずいぶん取り上げられたのに、どうして続かなかったのかとても気になった。職員Nさんからの話では、精神的に波のある人で心配はしていたと言ったが、フォローできる体制はなかったのか、理事長の言う
「来る者は拒まず。去る者は追わず。」
というかっこの良い言葉だけでいいのかというひと言が気になった。これは、孟子の言葉で弟子との間で交わされた言葉のようであるが、きれい事のように見えて、下に見ているようなニュアンスがあるのはぬぐいきれない。来るときは何かに惹かれてきた。つまり期待するものがあったはずである。去るときは、それなりの理由があるはずである。その理由が、誰が見ても納得のいくものであれば、つまり寿退社とか遠く離れた親の介護とか病気とか、であれば確かに引き留めると気の毒であるが、職場に対する不満とかであれば、追わずというよりも納得がいくように話し合いをする必要があるように思う。勤めてそれほど時間がたっていない人が辞める場合は、本人の適性によることもあり、その必要はないかとも知れないが、人材が宝の職場であるならば、人材を育てるための努力が必要ではないかと思う。それは、研修システムと共に、考えていかなければならないことだと思う。そんな話しをしている中、Oさんが来た。来てすぐに話しをしてくれと言うのも何か悪い気がしたので、三十分後に話しをしてもらったらと伝えたが、
「そんなことしたら、おいしいものすぐに食べられない。」
とNさんが言ったので、本人に確認すると、今でも良いと言われたのでしゃべってもらうことにした。OさんはSさんの後、娘の担当になってもらったが私自身はあまりいい印象を持っていない。ひとことでいうと、それは誠実さが無いと言うことである。今年の夏祭りでは、他の職員の連係プレーで焼きそばやたこ焼きなど運んでもらったが、昨年も同じように伝えていたが何もしてくれないままであった。正式に謝ってもらった記憶もない。作業工賃が141円稼いだとの封筒をもらったが、それがどのような経過で間違いであったかわからないが、詳細を知っているのはOさんであるので、なぜ間違えたのかもっと考えてもらいたいと思った。厳しいことを言って追い込んだりしたら、辞められたら申し訳ないという気持ちがあり遠慮してきたが、この人が郷の女性職員の中ではトップであったことを思うとやはり人材不足であることは否めない。確かに娘の担当ということは大変であったと思うが、Sさんのようにこちらにいろいろ聞いてみるという気持ちがなければ進まないのは明らかである。今でこそ、行動も止まることが無くなってきたが、それは施設長や支援課長としんどい話し合いをした後からである。そこまで具合の悪くなるまでに、話し合いができなかったものなのか、今でも不思議に思っている。そんなしんどいなかで、保護者会の会長をよく引き受けたものだと思う。この辺のしんどいことを理事長と話ができればと思うが、親睦会ではそんな重たいことは話せない。また、その話を聞くことの度量が理事長にあるかと言えば、首を傾げることもある。それは、Oさんの話に茶々を入れ、
「一線を越えたか?」
と言ったことでもわかる。少なくともある程度の人権感覚のある人間ならば、そんなことは言わないだろう。そしてこの言葉は再度その後の話しの中で出てくるのである。なにか発言を聞いていて、やけに落ち込んだ。この親睦会に参加するために、娘は1日家におらせ、妻が1日家で見ており、私自身は車で帰らねばならないので、ノンアルのビールを飲んでいる。途中からは、おなかの調子も良くなかったので、食べることも止め、もっぱら水を飲んでいた。Fさんは自分のことを誰も言ってくれないから、自分で副会長と言っていたが、何も心配することなく焼酎の水割りを何杯も飲んでいる。理事長も同じように、何杯も飲んで2人で大きな声で話しをしている。盛り上がっている中で予定の七時を大きくまわり、それは、大城戸さんが来るのが六時半であったので、七時で中締めをするわけにはいかなくて八時になってしまったが、水を差すような中締めをしないわけにはいかない。それは、ノンアルを飲んでいる人や職員のNさんのように、ウーロン茶を飲んでいる人が多い中ではもうこのぐらいでお開きにしてほしいと思っている人がいるからだ。飲み足らない人は二次会に行けばよい。みんなのお金を使って、自分だけ飲むというのはどうしてもおかしいのではないか。もちろんそんなことをいうと、場は白けてしまうが、酒飲みにはそんなことはわからないのであろう。とにかく、八時になったので中締めをした。当然、Fさんや理事長から、茶々が入り、私も次の言葉がなかなか出ずしどろもどろになった。この場合、私に指名するのでなく、施設長に話しを振る方が筋ではないかと思った。私も、話しの中で施設長の発言の機会を設定するべきであったのかも知れない。このことは次の忘年会の時に教訓としておかなければならない。今日はいろんな思いがあり、たくさん書いているが、私のこれからできることはこういったことなのかも知れない。
家に帰ると九時前になっていた。娘は寝たかと思って期待していたが、まだ入浴中であった。やはりこんなときはうまくいかないのかと改めて思った。なんとか九時半には歯磨きも終わり、薬を飲むだけになったが、それから身体を揺すったりするだけで次の行動に進まない。三十分を過ぎても薬は飲んでいない状態だった。仕方がないのでこちらが動いてモーションをかけた。こちらの動きに対して娘が反応するのに約十分かかったが、その後は薬も飲み十時半には寝る用意ができた。血圧を測ると170と100であった。頭がぼーっとするので血圧は高いかなと思っていたが予想通り高かった。すぐにお風呂に入り、11時頃には寝る用意ができたが、娘の寝付きが悪く寝たのは十二時を過ぎていた。こうして長かった1日がようやく終わった。
10月30日 かぞくねっとの全国大会に行った後、絶えきれない胃の痛みがあった。それでY外科に行って胃カメラを撮ってもらい、細胞を検査に出すと胃ガンという診断になった。これまでも胃の痛みはあったが、漢方胃腸薬を飲んでごまかしていたこともありその間に癌が進んだと思われる。早い段階ならば内視鏡で手術も可能だったと言われたが、その段階を越えていると言うことだった。Y外科からN病院に紹介してもらい、17日から診察を受けてほぼ2週間がたった。その間いろんな検査をやった。太股の付け根からの採血は、陰部を見せなければならず恥ずかしい思いをした。19日には全身のCTの検査をした。造影剤を入れてやる検査で、拒絶反応がどんなものか経験することができた。この検査で転移がないことがわかった。24日は階段昇降をして心電図を取るという負荷を掛けた検査をやった。25日は、胃カメラの検査をした。鮮明な画像が必要と言うことで口からの検査であった。10年前の口からの検査以来、鼻からの検査に変えたが、口からの検査はやはりハードであった。その後、心音のエコーを取ることになったが、横隔膜ヘルニアということで、胸骨の下に心臓があるので心音はとれず、不安感が残った。27日は大腸検査をやった。まず腸の中を綺麗にするために、何度も下剤を飲んだ。トイレも頻繁に行き、これだけでも結構しんどかった。検査はやはり予想通りで、時間も掛かるし腸の中に空気を入れられるので腸が張った感じになり、それが収まるまで何とも云えない気分がした。31日に胃の透視と診察があり、その後何もなければ手術に進むが、明日の診察次第である。今まで大きなけがや手術はなかっただけに、不安感もあるがドクターに任せるしかない。他力本願とはこのことかと思う。自分でやることは頑張って検査を受けるだけで、そのあとのことはドクターに任せるしかない。
12月6日 N病院を退院してから一週間が過ぎた。食べるとすぐ胸焼けするのと、腹部の違和感があるものの、それ以外は前と変わらない。車の運転も少しずつ慣れ、ボーっとしていたのがほとんど無くなった。今日はH病院まで診察と薬をもらいに行った。ドクターはあまり覚えていないようで、いつもながら通り一遍の診察であった。帰りに丸亀製麺に行きおろしうどんとカボチャの天ぷらを食べた。何とか食べることができたが、その後はゲップが出たりしてしんどかった。おいしかったりすると、食べるスピードが知らず知らずのうちに速くなっているのだと思う。
入院中はたくさんの人が見舞いに来てくれた。町内の人が多かったが、町の役員やお寺の総代をしていることがその原因だったような気がする。さすがに住職が見舞いに来たときはびっくりした。嘗て自分がお見舞いに行っていることを考えると、来られるのは何もおかしいことではないが、報恩講の時の対応などを考えるとよもや来られるとはと言うのが実感だった。おかげで今後は強い対応でと思っていたが、しばらくはおとなしくしていなければならなくなった。施設からは、理事長とNさんとTさんが見舞いに来てくれた。理事長には今後自分が取り組むべきことを話し、方向性を示すことができた。また、Tさんのご主人が同じドクターから胃ガンの手術を受けたことを聞き心強い感じがした。手術そのものは自分の方が開腹度合いが強かったが、今後の養生についてはずいぶん参考になることがあった。友だちではSさんとAさんが来てくれた。どちらも現金ではなく品物を持ってきてくれたが、話している様子から見て、2人に共通性があるように思えた。それはどちらも人好きあいが上手でないということだ。Sさんは勝手に内視鏡の手術と思いこみ、そんなに大した手術でないと決め込んでいた。メールの文面からそんなことがうかがい知れた。見舞いに来られていなかったら、今後のつきあい方を変えないといけないと思うくらいであった。他山の石ではないが、人の話にしっかり耳を傾けることの大切さを改めて教えてもらった。また、来られたときに住職に投げかけた言葉もあまりにストレートすぎてこちらが聞いていてびっくりした。Aさんは来るまでに何度もメールしてきた。後で毎日の様子を知らせてくれたが、メールの文面から見ると、毎日がそんなに忙しいわけでなく自分の都合をあわせて来たような感じであった。いつでも行こうと思えばこれたのに、何か後回しにされたようですっきりしない感じだった。次ぎはいつ出会えるかわからないが、彼の方からメールをしてくればよいわけでしばらくは静観しようと思う。晴耕雨読ではないが、彼の生活からは地域とは関係ないような感じがする。それぞれの人生だから、そんな生き方があっても良いと思うが、今の自分にはそういった生き方はできない。
平成30年
1月9日 年が明けて平成30年になった。年明けからは娘の送迎を再びすることになった。退院してからは朝送っていくことはやっていたが、お昼ご飯の多くは家で食べていたので、どこで食べるかが問題となる。手術前はお弁当を作ってもらっていたが、今はそんなに食べられないこともあり、どのようにして昼食をとるかが思案するところとなった。これまでは西脇のミライエに行って時間をつぶしていたが、加西の図書館で再び過ごすことになる。ミライエはパソコンも自由に使えて便利なのだが、加西からは遠いこともあり、娘を送った後に行くことはできない。加西の図書館は3時間の制限があるので、10時に使い始めると、お昼を挟み中途半端になってしまう。12時前から使うとなると早めに食事をしなければならない。早めに食べるとなるとイオンモールに行くぐらいしかいい方法はない。薬を飲まなくてはならないし、おなかの具合もあまり良くない。ちょっと調子がいいから早食いをしてしまうと、すぐにしゃっくりが起こってきて苦しくなってしまう。また、おいしいと思って食べることができても、その後で下痢便が出たりする。下痢便の時はどうしようもない。おなかがぐるぐるという感じである。一か月前のことを思うと、ずいぶん良くなっていることは間違いないが、これまでと同じように行かないのは確かだ。日本酒や焼酎を少し飲んだが、その後に下痢があったり、久しぶりにカレーライスを食べたが、その後やはり下痢便になったりした。ドクターは何事もチャレンジだと言われたが、新しいものを食べたときは、リスクを考えておかなければならない。
また、パソコンを使う場合は何をするのかもあらかじめ考えておかなければならない。NPOの書類などはほぼできあがったし、これからは小説の続きを書くにしろ、その日一日何をするのかを前もって考えておかなければならない。
1月11日 久しぶりに先輩の見舞いに行った。11月1日に行く予定だったがガンの手術の前ということもあって、行くのを取りやめてから二月以上たってしまった。Mさんの話だと食欲がなく、起きれない日々もあって心配していたが、行ってみるとそんなことはなく、話も弾んで3時間近く話をすることができた。疲れが出ないか後が心配な感じであったが、元気そうで何よりであった。弟さんも来られていて一緒に話ができて良かった。Sさんのタクシーの運転手の話はびっくりしたが、おそらくそんなことをする余裕はないように思うし、定年後は気ままに生活したいと言われていたので、もう一度働くなんてことはないだろうと思った。先輩自体はサービス付き高齢者住宅に住むことは、やはり自由が利かないこともあり、一日も早く自宅に住みたいと考えているようだが、相談支援に関わっていないのでそれが難しいように思った。話の中で「その日暮らし」と言ったが、展望のないままここに住んでいても、気が落ち込むばかりだろうと思った。また、損害賠償の裁判の方もまだ始まっていないようで、これから忙しくなるだろうと思った。交通事故の刑事裁判は結審されたようで加害者の刑罰は決まっているが、被害者の救済はこれからという感じだ。一日も早くこの民事裁判が終わればよいと思うが、相手は外資系のチューリッヒ保険というので手強い感じだ。コミューケーションツールもまだ進んでいない感じで、ジョイスティクのようなものがあればパソコンもずいぶん使えるように思うが、とにかく身体障害の相談支援に早くつなげれば、これも可能ではないかとも思った。自分の意思があり判断能力のある人でも、自分の願いを実現していくのは難しいので、それが難しい知的障害者にとっては人の支援がない限りは何も進まないことが改めてわかった。今度高槻に行くのは3月だが、それまでに情報提供が出きればと思う。とにかく、先輩が元気な様子は見られて良かったが、少しでも願いが叶うような方向で進んで行けたらと思う。身体障害者の個別支援計画を勉強していく必要がある。
1月18日 昨日から、娘がショートスティに行っていたので、朝から出かけることにした。夫婦で9時前から出かけるのは本当に久しぶりだ。太閤の湯にゆっくり浸かり、有馬温泉で泊まる旅行である。有馬温泉は近くにありながら、解散旅行で泊まった以外は宿泊したことがなかった。高いわりにサービスがあまり良くないと聞いていたからだが、今回クラブオフで安くとれたので楽しみだった。太閤の湯はこれまで二回ほど行ったことがあったが、平日にもかかわらずたくさんの人が来ていた。特に中国の人が多かった。関空からすぐに来たという感じで、単に見学するよりは何か体験したい、そんな感じの旅行になってきているのかと思った。岩盤浴にはいり大浴場に入った。金泉と銀泉の2カ所があり、炭酸泉もあって、割とゆっくりできたが、脱衣所に時計がなくその分あわてた。温泉からあがるとお昼前であったので、食事をすることにした。ビールを飲みたかったが、宿まで運転して行かねばならなかったので、お昼に飲むのはやめた。うどんと出汁巻きを食べた。これまでなら、うどんをいっぱい食べるのがきつかったが、温泉で汗をかいたこともあり何とか食べることができた。少しずつ食べる量が戻っている感じである。食べた後は電動のマッサージをして、レストルームに行った。シートをリクライニングしていると、睡魔がおそってきて2時間ほど眠ることができた。
お風呂はもういいと言ったので、太閤の湯を出ることにした。ナビをみるとホテルまでは1キロもなかったが、有馬温泉駅前のごちゃごちゃしたところで道を間違えてしまった。温泉街をもう一度一回りしてホテルに着いた。会員制のホテルで、他の大きなホテルと比べると貧弱な感じがしたが、8階建てであり、しかも宿泊場所が8階であった。部屋にはいると眺めも良く入浴もできるというので、ここで温泉に行くことにした。太閤の湯に比べるとこじんまりした温泉であるが、金泉も銀泉もあり人がいない分ゆっくり入ることができた。温泉に入った後は部屋に戻り、それから温泉街を散策することにした。有馬温泉の魅力が散策できて、食べ歩きができるというのが、最近の売りになっている。玩具博物館のあたりにくるとまさにそんな感じで、タイムトリップしたような気分になった。酒まんじゅうとコロッケを食べながら、泉源巡りをした。いくつかの泉源があり地球の躍動感というものを感じた。そのあと、お好み焼き屋に入って夕食を食べた。いつもとは違う旅行ができた。
1月23日 障害者7団体の賀詞交換会があった。要項をなくしていたため早めに行ったが、始まりが遅く時間をもてあまし気味になった。Hさんと早めに出会えたので、終わってから一緒に帰ることになり道中いろんな話ができたのは良かった。同じ胃ガンを手術したもの同志参考になる話が聞けた。ステージがずいぶん進んでいて、抗ガン剤も服用し術後はいろいろと大変だったと改めて思った。自分の場合はステージⅠと言うこともあって、抗ガン剤を服用することもなく、食べられないのは同じだが闘病というわけでもないので比較的助かっている。抗ガン剤を服用しなければならなくなると、制限されることが多くなり副作用のことも気になる。また、障害者の親として、いろいろと参考になることもあった。二つの施設の役員をされているだけあって、成年後見のことや今後の保護者会のあり方など、いろいろ意見を聞かせてもらった。N市の育成会のことも展望がないまま進んでいる感じで、次に引き継ぐ人がないのでこのまま尻すぼみになりそうな感じである。補助を受けている事業にしても私利私欲のために使用することが多くなって、こんなことが公になれば補助金もうち切られてしまうことにもなりかねない。保護者会長をしているが自分がしないとなったら、次に誰がするのか、たとえやったとしてもおきまりのことをやっていくだけで、次への展望もないまま進んでいくのではないかという気がする。自分の子どもだけ良かったらそれで満足するという感じでは、最重度で手のかかる子どもは誰もみてくれなくなってしまう。社会的正義というかそういった観点に立たない限りは、みんなが幸せになることはない。差別解消法、虐待禁止法、障害者を取り巻く法律的なものは整備されたが、法律を唱えるだけでは無力であり、何の役にも立たない。法に書かれていることを私たちが意識して行動しなければ、絵に描いた餅になってしまう。仏作って魂入れずと言われるが、魂に当たるものがどんどん希薄化しているような気がする。自分が何ができるかは未知数であるが、少なくても教師として生きてきたプライドだけは大切にしていきたいと思う。忙しい中でHさんが日々されていることをみて、改めてそんなことを思った。
1月29日。稲美町の加古福祉会館で東・北播磨・淡路ブロックの研修会があった。昨年は、明石市の木の根学園が主催で、明石市長の話や明石市の取り組みが中心であったが、今年は稲美町が中心なのに、なぜかうちの施設が発表しなくてはいけないようになってしまった。経緯は私が入院していたときに決まったようで、こういうことになると、また頼まれることも多くなるのではないかという気がする。それにもまして、かぞくねっとから退会する施設が増えている現在、持ち回りでこういった研修会を実施するのも難しくなっている。現に研修会が大変だからといって、当番にあたっていた園が退会したのは2・3年前のことである。かぞくねっとで何ができるかを考えてみたときに、施設を横断するようなものとして、成年後見の取り組みぐらいしかないような気がする。法人後見について自分なりに考えているが、資格を持たないものが進めていくのには、なかなか難しいところがあると改めて思う。計画相談のことやみとりのことなど、成年後見と関わることだけに何ができるかを今後とも考えていく必要がある。
2月5日 ライフセンター神戸に見学に行った。手術の前に電話で話をしてその理念に感心していたのでもっと早い内に見学に行きたかったのだが、なかなかできずに日が過ぎていたが、メールをした後話が進み見学することができた。まず立ち上げの理念がしっかりされていて、5人のお母さんの思いがこの施設を作ることになったが、その中で現理事長が今も先頭に立って取り組まれていることがよくわかった。苦労して自己資金をためられ、広い場所に立派な施設が建っていた。神戸市の中では西区か北区にしかなかなか施設を作ることは難しく、神戸市と言っても三木市と隣り合わせで、交通の便はあまり良くないところであったのは仕方のないことだ。でもこれだけいろんな建物があり、雨が降ってもそれなりに日中活動がくまれていることはすばらしいと思った。娘の施設の場合、敷地に余裕はないのでその中で体を動かしたりすることはなかなかできない。行動障害の強い人には、別棟の建物があり、特別の配慮がなされている。娘が個別のエリアにいるのもその一つである。ライフセンター神戸の場合は、同じ空間で生活しているのでそこそこトラブルがあるように思った。食堂の前で昼食を待っている姿を見ると、娘の施設よりも重度の人が多いような気がした。特に、水中毒の人や失明している人など注意を要することはあるが、そのなかで平穏に暮らしていることはとてもいいことだと思った。近い内に娘の施設も建て替えになってくるので、地域交流センターのようなものが一つでも作れたらと思う。
成年後見については、話を聞く中でやはりなかなか難しいという思いが強くなった。法人後見のことも考えていたが、専門家がスタッフにいないとなかなか家裁から認めてもらえず、やれることはせいぜい親が後見になることの手助けぐらいしかない。そのためには、何回か講演会を持ってなぜ成年後見が必要なのか、耕していくしかないと思う。そのためには、娘の施設からの情報が必要だが、なかなか施設長から返事がない。市の育成会とも連携をはかって取り組んでいきたいと思う。
2月7日 東加古川病院に娘の薬をもらいに行った。先月は卒業生のIさんと長く話をすることができたが、人が多くずいぶん時間がかかってしまい、やない外科の午前の診察に間に合わなかったので、今日はいつもより早く行くことにした。受付をすまして周りをみると、GさんというIさんと同じ作業所の人は来ていたが、Iさんはまだだった。しばらく本を読んでいるとIさんが元気な姿でやってきた。風邪はひいていなかったが、おばあさんが風邪を引いたようで、お母さんと一緒に来たと話してくれた。薬のことをはなすと夕方だけ飲んでいるということであった。眠くなる成分が入っているので、自転車を運転しているので影響のない夕方だけ飲むようになっていると思った。前回の診察の時、主治医は休診だったので違う先生にみてもらったと言っていた。ホームページには来週の休診のことは出ていたが、2週間前のことはなかったので意外な感じがした。今日も主治医は休みで若い先生にみてもらった。少し話をしただけで、同じ薬を出しましょうと言うことになった。それはそうだろうと思う。診察が終わり、Iさんに
「先生今日もお休みでした。」
と言って休診を告げた。しばらくすると診察の終わったIさんが受付の待合いに来たが、いつもと違う様子だった。出ていくときに私の方から手を振ったが、Iさんは視野に入らなかったようで、飛び出すように出ていった。何か気になった。支払いを済ませて病院から出ると、Iさんのお母さんが施設の方に電話しているのがわかった。声をかけようかと思ったが、電話中でもあり声をかけることもなく、薬局の方に薬をもらいに行った。自分の中に波があり、調子のいいときはお構いなしにしゃべってしまうと言っていたが、事故でも起こさなければと思うしかない。自分の意見をしゃべったり、たくさん会話できたり、いろんなことができるのに、なかなか社会適応がうまくいかない。今度出あったときに今日のことがふつうに話できるようになればと思う。
2月9日 親父の誕生日。生きていれば93になる。亡くなってから18年が過ぎ、まもなく20年になる。振り返れば早いものと思う。神戸市立総合福祉センターでかぞくねっとの全国大会実行委員会があった。これで4回目だったが今まで何を話をしていたのかという会合であった。議事を進めようとしていても、会長が話の腰を折るような感じで決まっても再び混ぜ返すような感じであった。8年ほど前にも兵庫県で全国大会をしているわけだし、そのときの記録が残っていなかったのかと思う。また、I氏も盛んに発言をし自閉症協会の時を思い出した。Hさんから話を聞いていたK氏は、さすがにこれまでいろんなことをされてきたこともあり、話の筋はよく通っていた。初日の内容は、厚生労働省の課長の話と明石市長の話になった。市長の話はこれまでも聞いたことがあるので、新鮮みはないが全国の他市に与えるインパクトはあるように思う。2日目については入所・通所に分かれての分科会となったが、言い放しになるような気がしないでもない。自分の狭い範囲のことの話だけになりそうな気もするので、何を訴えていくか考えていかなければならない。特に、かぞくねっととして何を共通理解し、何を問題にしていくかを持っていないと、単なる話だけになってしまう。3月9日にもこの続きをするということで、次回も参加することにした。いい話合いになればよいが。会が終わってから、妻とハーバーランドで落ち合いモザイク周辺を散歩した。アンパンマンミュージアムも見学に行った。暗くなれば夜景もきれいだが、それまで時間をつぶすことができなくて、イオンで久しぶりに銀だこのたこ焼きを買って食べた。かつてなら、ビールと一緒だとうれしい限りだったが、おなかの具合の良くないせいか冷えたビールはやはりおなかに応えた。神戸高速に乗り三宮で降りて六甲荘で宿泊した。割引券があったので、ツイン朝食付きで1500円ほど支払っただけであった。割引券を使うなら一年に一回は六甲荘で泊まれると思う。
2月10日 妻の59回目の誕生日。娘のマクドを買うことに気をとられて、ケーキを買うのを忘れていた。気の利かないことになってしまった。朝食のバイキングは炊き込みご飯の魚の脂が応えた。前回の有馬よりは食べる量を抑えたが、それでも食べ過ぎた感じであった。雨も降っていたこともあり、三宮からまっすぐ家に帰った。マクドを加東市で買ったのが寄り道ぐらいだった。帰ってからしばらく休んだ後、娘を迎えに行った。部屋から出ていないと担当から言われた。ここ2〜3日よく寝ているが、寝起きが悪く自分から起きてこないので気にはなっていたが、起きるタイミングがうまくいかなくて停止した状態になっていると思った。施設では二人体制を敷いてもらっていたが、どのように関わればよいか難しかったのではないかと思う。様子を見ているだけでは進展しないので、探りを入れることが大切なのだが、へたに入れるとトラブルになったり、他害になることも十分考えられる。現に自分が無理矢理部屋に入ったときは大きな声が出たし、ほっぺたをたたいたりすることもあった。探りを入れて、娘からの合図があれば進展するのであるが、それを伝えることをやって行かなくてはならないと思う。薬を飲んだりして、自分から動いてくれれば問題ないが、そうでないときはこちらから何かきっかけを与え、それに娘が反応すると先に進むように思う。そのときにトゥレット的な声がよく出るが、その声が動き出すきっかけになる。そうすればコミュニケーションが成立したことになる。
2月18日 おばさん(親父の姉)の一周忌があった。午後2時からだったので住職の予定に合わせたのかなと思った。1時半頃行くとまだあまり来られていなかった。お供えとご仏前を渡そうと思ったが、施主が居ないので仏壇に供えることにした。後から来た人が銘々勝手においているのを見て、変な感じがした。予定通り2時過ぎから読経が始まった。最初は無量寿経であった。住職の読経の早さに付いていくことができず、時々あきらめかけた。三部経の中では一番長いお経であるが、スピードに物言わせ半時間弱で終わった。その後お茶になったが、客より先に身内のものに最初にお茶を出しているのにはあきれた。娘が二人居てどちらも成人式をだいぶん前に終えているにもかかわらず、手伝うこともなく母親にお茶を運ばせているのはどんなものかと思ったが、娘にそれを要求しない親もまたしかりであると思った。お茶が終わり次は正信偈をあげることになった。天人ともにのリズムで言われていたのであげよかったが、途中で恩徳讃が入るものであった。そののちにまたお茶があった。今度は二男の嫁が接待をしていた。やはり当家の娘が手伝うということはなかった。そのときに自分が持っている経本といとこの経本とを比べた。ページ数が違っていて掲載されている歌も違っていることがわかった。これまではあまり気にもとめなかったが、本によって違うことが改めてわかった。2回目の休憩の後阿弥陀経の読経になった。このときもやはりものすごいスピードで、焼香で途中抜けたので余計にわからなくなった。何をそんなに急ぐのかと言うぐらいのスピードであった。しかも、途中の和讃もカットし、その代わりに経本にはない語句を入れて読経していた。その後、法話の時間となった。住職の寺が室町時代から続く歴史ある寺で、門徒も由緒正しいという話であった。また、隠れ念仏のことも話題になったが、隠れキリシタンを例に話をするだけで深まりがなかった。せっかくの話であるが、深みのないものになった。最後に本願寺はいつ頃始まったのかという質問があり、住職はだいたいのことしか応えられなかったが、スマホで検索すると1321年と言うことがわかった。住職は急ぐ用事があるようで、衣を着替えるとすぐに帰っていった。その後いつもなら膳の準備を用意するのであるが、施主からは何の挨拶もなく数人の女の人で、お供えの箱をあわただしく開けたりしているのが気になった。しばらく待っていると、荷物になりますがと言って、手提げ袋を3つ渡された。時間が遅くなるので、今日はこれでお開きと言うことであった。そうであるなら、長居は無用とばかり帰りかけると、玄関口でお弁当を渡された。膳は用意してあったとわかると、何か釈然としないものがあった。次の三回忌の時はどうかわからないが、これから出会うことも少ないと思うようになった。
2月24日 施設の研修会があった。午前中は大空の見学会であった。かぞくネットにも案内を配ったがあかりの家の会長さんのみの申し込みで、その人も当日は欠席だったので外部からの参加者はなかった。案内を広げたけれども、あまり意味がなかったのが残念だった。ただこれからのこととして、介護保険と障害者サービスとの違いを明確にしていく必要があるように思った。このサービスを使うためには、どのような手続きが必要なのかを具体的に説明していくことが大切である。また、家賃補助などの手だてはあるが、実際の費用はどれだけなのかも、示していくことが大切であると思う。午後からはIさんの講演会であった。85歳とは思えないほどのバイタリティがあり、あかりの家の設立やグループホームの立ち上げなど、取り組まれたことはすごいのだが、本人も言われるように書いたものにまとめておられないので、そのすごさがなかなかわからない。少なくとも今回のことはテープ興しをして、お返しすることが大切ではないかと思った。厚生省や県庁に要望に行ったことなど、思い立ったらやるしかないと言う気構えが感じられた。今日改めて聞き返してみて、その思いを新たに持つようになった。当日の進行のことなど、いろいろとしんどいことはあったが、テープ興しをする中で、解消するのではないかと思った。
3月7日 入院でお見舞いの時にあって以来、3ヶ月ぶりでAさんと出会った。村木さんの読売新聞の原稿をスキャーナーしたというメールがあり、それをきっかけにして出会うことになった。当日は東加古川病院が込んでいて診察が遅くなり、稲美町の図書館に着いたのは11時もだいぶんすぎていたが、なんとか出会うことができた。話題の中心は健康のことがおもで、彼が頻繁に検査に行っていることを初めて知った。この年になると、健康のことが話題の中心になると思うが、それだけのために話しをするのは何かもったいない気もした。お昼を1時間程度一緒に食べたあとそのまま別れた。次のことについては、別に何も決めずに別れた。退職して以来それぞれが時間をつければもっと話し合う時間もとれるが、長い時間話しをしてもそれほどおもしろくないし、彼もルーティンを崩すのはあまり好まないようなので、このような会合が続いていくのだろうと思う。
3月14日~15日 久しぶりに奈良に行った。3月中頃なのに5月頃の気温でとても暖かかった。今回のメインはお水取りを見ることであったが、昼頃には着いたのでホテルの駐車場に車をおいてバスで東大寺に行くことにした。やはり、ここも外国人の観光客が多くざわざわした感じだった。夜に行く二月堂の下見を兼ねて、まず最初に二月堂に行った。練行衆がおつとめをしているのが、本堂にあがるとその格子窓から見ることができた。何ともいえない厳かな感じがしたが、国家安泰や個々人の幸福を代わりに祈ってもらっているからだと思った。舞台からは奈良の町並みを見ることができた。清水寺の舞台ほど広くはないが、西の方に大仏殿のし尾がよく見えた。朱印を書いてもらったあと三月堂の方に行った。三月堂になると外国人の観光客もほとんど居なくて、落ち着いた感じになった。お堂の中の仏像すべてが国宝ということで、拝観料は高かったが値打ちは十分あるものであった。三月堂のあとは、来た道を少し変えて大仏殿に行った。大仏殿に行くとやはりまた外国人の観光客が多くなり、雑踏とした感じになった。奈良の大仏は小学校の修学旅行で見たぐらいだったので、ゆっくり見たことはなかったが、今回はじっくり見ることができた。やはりすごいの一語につきる。特別拝観というのがあって、大仏様のすぐ近くまで行って、拝観していた人が十数人居たが、どれくらい寄付をしたのだろうかと思った。大仏の鼻くぐりでは、列ができていた。小さいとき見たときはもっと広いように思ったが、今の歳で見てみるととてもくぐれそうには思わなかった。大仏殿を見たあとは、残りもう一つの朱印をもらいに行くために、戒壇院に行くことにした。戒壇院ははずれにあり、ここに行くと日本人の観光客ですら、ほとんど居なかった。小さな建物であったが、ここで受戒を受けたものが僧になり、僧は当時国家公務員であった。真ん中の仏像は国宝でなく、四隅にまつられている四天王が国宝であった。それから、東大寺にはいるときに東大寺ミュージアムの拝観券も買っていたので、ミュージアムに行くことにした。この中も外国人の観光客はなく、ゆっくり見ることができた。お水取りの松明までは時間があったので、一度ホテルに帰ることにした。ホテルに帰ってしばらくしたあと、再び東大寺に行くことになったが、食事をしているといい場所がとれないだろうということで、コンビニで簡単なものを買ってバスで行くことにした。夕方になり少しは寒くなったが、思ったほど寒くはならずジャンバーを着ていても、少し暑いくらいであった。警備の警察官が沢山居て、盛んに注意を呼びかけていたが、かつてルミナリエで経験した人の数よりは遙かに少なかった。松明まで半時間ほど待った。テレビの画像で少し見たことはあったが、実際の松明はそれよりも遙かに迫力があった。ゾロアスター教という火の宗教と関係があると聞いたことがあったが、まさにそんな感じであった。大松明は10分ほどで終わったが、火で清められたような感じで清々しい感じがした。これなら毎年見に来てもいいなと思ったぐらいだ。すぐに帰るのはもったいない気がしたので、もう一度本堂にあがって、お参りをしてからホテルに戻った。
翌日は、昨日来るときに石切さんが近いのがわかっていたので、最初石切さんに行くことにした。ガンを患っていたので、石切さんには一度お参りに行きたいと思っていたからだ。ナビを頼りにいったが、石切神社のすぐ近くまで来たが、狭くて怖いような道を通っていくことになった。すぐ近くに駐車場があり、広い道から行けたのに、ずいぶん怖い思いをした。ここの朱印は是非ともほしかったので、書いてもらえてとても良かった。石切さんから法隆寺までは、一般道で行くことにした。ナビを設定すると、40分ぐらいであったので、第二阪奈道路を通らなくても大丈夫かなと思ったが、生駒山に近づくにつれてどんどん道は狭くなり再び怖い思いをした。それで、ナビを変更し第二阪奈道路を通ることにした。法隆寺に近づくと土産物屋があり、そこは駐車料金が無料だったので止めることにした。法隆寺は見応えが多く、その分拝観料も1500円だったが、外国人の観光客もほとんどなくてゆっくりすることができた。朱印は一カ所だけで和を以て尊しとなすと書いてあった。法隆寺夢殿の隣に中宮寺があった。有名な如意輪観音がまつってあったが、広隆寺の弥勒菩薩と双璧の美しい仏像であった。最初は金ぴかの仏像であったが、それよりも今の姿の方がすばらしいと思う。中宮寺のあとは、少し遠かったが、法輪寺と法起寺に行くことにした。途中、北大路という定食屋があり、そこでお昼を食べた。ガイドブックにも載っていたので、少し得をした感じになった。法輪寺には三重塔があつたが、火災で焼けて再建していた。法起寺の三重塔は火災で焼けることなく残っていて、それがために世界遺産の寺になっていた。二つ寺を見てから、おみやげを買って自宅に帰ることにした。ナビを設定すると、西名阪道ではなく第二阪奈道路を設定していた。なにかいやな感じがしたが、そのいやな感じが東大阪ジャンクションで起こった。道を間違えて近畿道に乗らずに降りてしまった。少しあわてたが、昨日もここで間違えたことを思い出した。やはり同じことをするものだ。再び近畿道に乗ろうとしたが、ナビと標識が違い、これも混乱することになった。合流のところで乗り損ねて一旦停止した。幸い相手がいい人だったので、道を譲ってくれたが、下手をすると事故を起こしそうになった。なんとか無事に帰ってきたが、そのことを思うと冷や汗ものである。大したことにならなかったのは、いろんなことのおかげかも知れない。それを忘れないために、ここに書き留めて置いた。
3月19日 「あゆみの里」に見学に行った。かぞくねっとのKさんから、事前にアポイントメントを取ってもらっていたのでスムーズであった。Kさんは午後から講演があるというので30分ぐらいしか話ができなかったが、ずっと前から出会っていたような感じで、これからもいろいろと相談できるように思った。理事長のIさんも元教師でそういう点ではすんなり話しにはいることができた。「ライフセンター神戸」のNさんといい、神戸にはしっかりした人が沢山いると改めて思った。親や保護者としての立場から、できることを少しずつ積み上げてきたという感じで、四年前にオープンした「なごみの里」も、「あゆみの里」に足りないものを作っていったという感じで非常にいい感じであった。理事長さんが利用者の皆さん一人一人に声かけするのも、とてもいい感じであった。成年後見については専門家に頼るのでなく、専門家が中心となっているのは財産管理であり報酬を期待するものであって、利用者のメリットはないというのがよくわかった。それよりも、保護者会が目指すべきものとしては、身上監護に力点を入れて取り組む方がよいということに気づかされた。子どもの身上監護については、親としての目の方が専門家よりも遙かにふさわしいと思う。財産管理については、お金をもっている人ならばいろんな選択肢があるわけでどうにかなると思うが、親の大切な財産が障害のある子に使われずになってしまわないように手だてを考える必要があるように思う。知的障害が重度の場合は後見になると思うが、そうでなければ保佐や補助になってしまってかえって煩わしいことにもなる。NPOの資料ももらったが、いきなり法人格をとるのではなく、まずは調査からやっていくことが大切ではないかと思うようになった。そのためには、研修会なり勉強会をもったりして、親が知識を蓄えていく必要がある。
3月20日 夜6時半から、加西市立健康福祉会館で、施設の理事会があった。終わったのが9時を少し越えていたので、3時間弱の会合であった。最初は、今年度の第三次の補正予算についてであった。利用者が定員に満たない中で、加算が得られなかったため全体で2300万円の減収であった。大空ができたことにより、施設本体に空きができたことは当初の計画通りであるから問題ないのであるが、その間職員の補充ができなくて、加算できなくなったことが一番大きな問題であった。事業規模は大きくなっているが、職員が不足している問題は相変わらず解消されないままである。ミャンマーからの留学生を受け入れることになったのも、その一つの対策ではあるが、どれだけ定着するかは未知数である。次年度の計画と予算についても、大きな問題点があった。まず、新規事業の取り組みである。前回の理事会において、国庫の補助が得られたらという条件付きであったが、国庫の補助が得られることになった。経緯から考えると、今年度の大空については、国庫の補助がなかったので、それを埋め合わせするかのように補助が得られたようである。事業そのものの意味合いはもちろんあるし、他の事業所ではやっていないこともあって、存在価値はあると思うが、施設本体の事業があやふやな中踏み出すことに不安を感じる。国庫の補助があるとはいっても、すべての費用をまかなうことはできず、当然持ち出しを余儀なくされ目ことは目に見えている。また、その新規事業に必要な人材が果たして集まるのかどうかも疑問である。国庫の補助が決まった以上、この事業を辞めるわけに行かず、難しい岐路に立たされているのが実感である。予算については、希望的観測の元で予算だてしているのがとても気になった。この概算にもとずいて見てみると、年間70万円の黒字となっていた。現在の在籍者で予算だてするならば、おそらく3000万円の赤字になるのではないかと思う。それに新規事業で、2000万円の持ち出しがあれば、赤字額は5000万円にもなってしまう。法人の余剰金が1億円ぐらいなので、その半分が無くなることになる。次に理事会を開くときにはどのようになっているかとても気がかりである。施設でもうけた利益は、施設の利用者に還元されるべきであるが、なかなかそうはなっていないのが現状である。
3月22日 先輩のお見舞いにいった。前回見るよりも少し痩せたような感じがしたので、そのことを伝えると先週まで入院していたことがわかった。導尿の管がこすれてだいぶん出血したようであった。弟さんも来られていたので5人でお昼を一緒に食べた。ビールを飲むことは少し怖かったが、先輩と飲むビールはおいしかった。その後の酎ハイも結構飲んだが下痢をすることもなく良かった。最後の方の話しの中で、福祉サービスが使えていないことが気になり、受給者証を見せてもらおうと思ったが、それが手元にないことがわかった。このことについては、これまでも何回も説明してきたつもりであったが、正確に伝わっていないことが改めてわかった。福祉のサービスを利用することの難しさを再確認した。どのようなサービスがあり、それをどうすれば使えるのか、きめ細かく伝えていくことの必要性を感じた。この日、Mさんの訃報が入り、連絡などでスムーズに行かないことがあった。また、役員だけでなくMさんと関係の深かった人に、もっと情報を伝えて行くにはどうすればよいか、考えさせられることもあった。保護者会の連絡網に近いものを考えていく必要がある。
3月23日 利用者のMさんの告別式があった。Mさんは施設開設以来の利用者なので、26年間ここで生活したことになる。虹の家ができてからは虹の家にいたので、詳しいことは知らないが、特別の配慮のいる人だったと思われる。告別式の親族はMさんのお父さんだけであった。お父さんは総会の時の議長を毎年引き受けてくださって、そういったことではとても得難い人であった。悔やみの挨拶をすると、お父さんの方から、今年の総会も議長をやらせていただきたいと言われたときは吃驚した。今年の議長はもう頼まれないだろうなと思っていただけに、とてもありがたかったが申し訳ない気もした。お父さんの方では、今年議長をする中で挨拶もしたいと言われていたので、一つのけじめを付けられるつもりだったのだろう。その後、息子の顔を見てやってくれと言われて、息子さんの顔を見させてもらった。穏やかなとてもいい顔をしておられたのが印象的であった。死ぬ前は心臓マッサージもされていたようだから、さぞ苦しかったと思うが、穏やかな顔で亡くなられているのを見て、親としてはこれで良かったという思いがあったと思う。親より先立つ不孝ということが言われるが、障害者の場合子の安らかな死を見届けることで、安堵感があるのではないかとも思った。喪主の挨拶の中で、お父さんはこんなことを言われた。
「家で息子と一緒に生活することができなくなって、施設にお世話になることになりました。施設から家に帰るときは、息子はとてもうれしそうな顔をして帰りました。やはり家が一番だったのです。家から施設に帰るときは、息子はいやそうな顔をしました。ある時などは柳家金五郎のまねをして、私たちを笑わせたりもしました。そうすることで時間稼ぎをしていたのです。またあるときは、好きな本をもってきては、私に読ませようとしました。彼なりに一生懸命考えて少しでも家にいたかったのです。その気持ちがわかるだけに、本当につらいものがありました。それが彼のできる精一杯のことだったのです。」
それからあとの話しは忘れてしまったが、知的障害者とよばれる息子さんにも彼なりの知恵はあったのです。その知恵を生かし切れなかったことに対しての思いは、さぞ複雑なものであったろうと察するものがあります。お父さんの話は同じ障害者を持つ親として身に詰まらされるものがあった。
4月8日 財産組合の総会があった。今年は役員選挙があり、時間がかかるかと思ったが10時半には終わっていた。もめそうになることもあったが、いつも意見を言う人が何も言わなかったので早く済んだ。あと2年理事をすることになった。これで3期になる。総会が終わると、理事を含め役員みんなで、F寿司に行って飲み会をするのが定例になっているが、自分は行ったことがない。何となくただ酒を飲むというのが、役員の特権のような気がしてなじめなかったからだ。役員手当がないぶん、ただ酒を飲むことで会議費として5万円近くのお金を計上していた。説明責任はつくであろうが、自分としては何となく後ろめたい感じがしてどうもそんな気にならない。理事は自分以外はすべて、M一統のメンバーとなった。そのなかで、土地を持たない自分が理事に推されるというのはありがたいこともあるが、何となく申し訳ないような気もする。
4月9日 ミライエでA施設のFさんに出会った。話を聞くと3月末でA施設を解任されたということだった。これまでも理事長との間でしっくりいっていないことは聞いていたが、ここに来て表面化したようだ。Fさんとのつきあいは、「宿泊訓練ホーム」の時に関わってもらってからのもので、10年以上になる。そのときは、有償ボランティアのことで嫌な経験をしたが、お金の面で信用できない思いはあった。1月のHさんの話の中にも公私混同的なことがあり、また、特別支援学校のPTAをしていたときに、使途不明金があったことも聞いたりした。今回もそんなことが表に出たのかも知れないが、Fさんの話の中は、理事長の理事会などの運営に対して対立意見を述べたことが原因のようであった。話を聞いていると、理事長の方に問題がありそうな気もしたが、一方の話しだけでは真相はわからない。ただ、気になったのは、一週間前まではFさんの味方をしていた家族会が、ここに来て手のひらを返したように理事長側についたことだ。何があったかはわからないが、家族会ともう一度話し合うなどして、文書にしてはっきりした形で残しておかないとだめだということである。家族会は理事長とも話しをしているので、当然両方の言い分はわかっていると思う。Fさんの話しを聞く中で、向こうに落ち度があるのであれば、文書で申し入れすることが大切であると伝えて話しは終わった。利用者が困らないよう、うまく解決してくれればと思うが、こういったゴタゴタが特にNPO法人にはあるように思われる。
4月22日 Mさんの七回忌が高槻セレマであった。もう六年もたったかというのが実感である。この六年いろんなことがあった。振り返ってみても気分的にしんどいことが多かった。三回忌まではあっと言うまであったが、先輩の事故の後は気が滅入ることもあった。これは、自分以上に先輩の方が大変だったと思う。でもこうして友達が集まって法要ができるというのはありがたいことだ。これは何と言っても、Mさんの優しさやその思いを大切にしようと言う奥さんの思いだと思った。先輩からのメッセージを大切にして、今後ともつながりを深めていきたいと思う。
5月6~7日 娘の30歳の誕生日を記念して旅行に行った。前回は退院後の12月下旬だったので、ほぼ半年ぶりになる。昨年は四国遍路の旅が中心だったので、今回は島根に行くことにした。島根にはきららコテージとか緑の村に行ったことがあるので、ルートはよく知ったところであった。今回のメインは、森林公園の中ということで歩くことも考えていたが、お昼ご飯を買わずに着いたので、お菓子がお昼になってしまった。その要因となったのが、蒜山のサービスエリアでトイレ休憩をしたことであった。人が多いところで止めることになったのは失敗であったが、トイレの後にお菓子でも食べながらと思っていたのが、娘がトイレの帰りで大きな声を出し、それを妻が怒ったのがけちのつき初めであった。最近の怒り方を見ていると、どうも感情的になりすぎているような感じである。
「何も買ってあげない。」
と言ったので、こちらも買う気がなくなり、結局目的地まで行くことになった。着いてから展望台までは道もよく、10分足らずで着いた。そこからは宍道湖がよく見え、なかなかの眺めであった。簡単なお昼を食べた後、4時まで時間があるので、荒神谷遺跡に行くことにした。公園があって広かったが人が多かったのと、妻が車から降りる気はなく、そこを歩くことはやめた。出雲空港も近くにあるので、次はそこに行くことにした。20分ぐらいで出雲空港に着いた。雨がぼちぼち降り始めていたが、平地の空港なので飛行機はよく見えた。しばらくすると、名古屋行きの飛行機が飛び立つというので、それが飛び立つまでは見ることにした。飛行機が飛び立つ頃になると、妻だけが車の外に出て、飛び立つ様子を見ていた。それからはいりすの丘に行った。いろんな施設があるところであったが、すでに閉鎖していて何も見ることはできなかった。その後は、国道9号線を西を向いて走った。走っている途中にゆめタウンがあったので、そこで晩ご飯を買うことにした。たくさん買いすぎてはいけないので、セーブして買ったが何か物足りない感じであった。そうこうするうちに、雨がたくさん降ってきたので、3時前であったがコテージには入れるかどうかはわからないが、公園に行くことにした。4時前であるが入れるということで、コテージにはいることにした。コテージはなかなか良いものだったが、駐車スペースがなく、近くの駐車場から歩いていかなければならなかった。当然娘はこだわるだろうと思っていたが、思ったほど長く時間はかからなかった。部屋からは宍道湖が見え、晴天ならばとても良いところなのにと改めて思った。トイレとお風呂が視界の外にあり、部屋からつながっているこれまでのコテージと比べると快適であった。荷物を運んだりしていると、あっという間に5時前になった。晩ご飯といっても、買ってきた物をレンジで温めるだけだが、それすらも妻はやらなかった。何かじゃまくさいと言った感じで、旅行自体が苦痛のような感じであった。仕方がないので焼きそばとたこ焼きお好み焼きはレンジで温めることにした。娘は冷たいおにぎり弁当を食べている間は、私が食べているのをかまうことはなかった。また、妻が食べている同じような弁当にもかまうことがなかった。妻が一番最初に食べ終わり、食堂からリビングの方に行った。娘は自分の弁当を食べ終わると、私が食べていることに関わりだしてきた。早く食べ終わらせたいと思ったのか、ビールを全部のませようとして干渉してきた。ビールは500mlのものであったので、量が多く、それほど食べられなかったので、残りの物は娘に進呈することにした。お昼をあまり食べていないことからすると、晩は結構食べたように思った。娘が食べている間、お風呂の湯を浴槽にはった。オートでないので、適温にするのは難しく少し熱めのお風呂になった。それは食後お風呂に入った娘が本当に短い時間であがって来たことからもいえる。洗髪をするためにもう一度入り直させたぐらいだ。入浴後、娘が歯磨きや眠前の薬を飲んだりしている間、私はお風呂に入った。7時前には寝る用意ができていたので、2階のベットルームに行って寝ることにした。長旅で疲れていると思ったのに、娘の寝付きは悪くなかなか寝なかった。10時から1時までの3時間ほどは寝たが、それ以外は1時間の一回の割で起き出して、ジュースと言ったり、お茶と言ったり、と言ってもしゃべることはできないので、手のひらに書くのであるが、そのたびにこちらも起きなければならず、ええかげんにしてくれと思うことが何度もあった。妻は下の部屋で寝ているので、そんなことは関係ないという感じで、娘が横に行ったときも構うことはなかった。明け方の4時をすぎた頃はこちらも眠たかったので、娘が下に降りたときは一緒に降りるのをやめ、妻に任せることにした。下からの様子では、早めに2人で朝食を食べるようにしたようだ。結局私が下に降りたのは6時半過ぎであった。娘はいつものように2チャンネルのテレビを見ていた。妻は眠たいのかその横で寝ていた。私はレンジで水を温めコーヒーを作って残ったパンを食べた。食べた後は2階の寝具を整理して、下に持っていった。その後、大まかな荷物はバックに詰め、車まで運ぶことにした。この時雨が小やみになっていたので、今日はもう少し散策できるかなと期待を持った。部屋に戻り娘がいつもの番組を見終わるまで、その横でうたた寝することにした。9時前になりチェックアウトすることにした。そのころになると、雨が再び降り始め、散策することはできない感じであった。森林公園内を歩くことはできないので、他のところに行くことにした。水族館の近くにグリーンパークと言うところがあり、入園料がいらないのと、ペンギンミュージアムがあるので、そこに行くことにした。着くと妻はあまり降りたそうでなかったが、せっかく来たのだからと思って、傘を差して歩くことにした。駐車場から直ぐのところに建物があった。当然来客は、私達以外は誰もなく、貸し切り状態であった。館の人が野鳥が魚を脚で押さえつけているところを、望遠鏡で見せてくれた。雨が結構降っていたが、望遠鏡からはよく見ることができた。そのあと、館内をいろいろ見たりした。何と言ってもペンギンミュージアムは圧巻で一生かけてペンギンと名の付く物は、細大漏らさずコレクションしたことがよくわかった。娘も割と見ていたので、30分ぐらいは滞在することができた。その次は、米子空港がここから1時間少しで行けることがわかり、国道431号線を通っていくことにした。その間雨は間断なく降り、やむ気配はなかった。米子空港に着いたが、外の景色はあまり見えず、飛行機も止まっていなかったので、そのまま帰ることにした。11時半頃であった。娘が「ほっともっと」と言っていたので、お弁当やさんを捜したがみつからなかった。そのまま、米子道に入った。高速に入り、最初のパーキングが大山高原であったので、そこに車を止めた。車もあまり止まってなくて、ラッキーと思ったが、妻が降りてこず自分だけがトイレをして、買い物をすることになった。レストランがあることもあり、ハンバーガー以外はお昼になる物は何も売ってなかった。後はお茶とおまんじゅうを買っただけになってしまった。その後しばらく走った後、楢原のパーキングでトイレ休憩をすることにした。今度は自分が娘をトイレに連れて行くつもりであったが、妻も一緒に降りたので、連れて行かなくて済んだ。楢原の次のパーキングの上月は売店があるので、そこで買うつもりであったが、改築中で臨時の売店しか開いていず、思うような物が買えず、アイスとケーキを買うことは出来ず、誕生祝いをしてあげれなかったことが心残りとなってしまった。高いしんどい想いをしたのに、余計に疲れるという旅行になってしまった。これは考えなくてはならないと思った。旅程表というかそういう物を作らないとだめな感じがする。8月のお盆前に旅行に行くことを考えていたが、今回よりもハードになるのが予想されるので9月初めに延期することにした。せっかく、お金を使うのであるから、もう少し考えなくてはならないと思う。年齢からして後何回旅行に行けるのかも、考えなくてはならない。
5月11日 9日~10日のショートスティが取りやめになった。施設の職員さんが体調不良のため、夜勤の体制がとれないということであった。たまたま、出かける予定も孫が泊まりに来る予定もなかったので受け入れたが、ショートスティを予定していてこちらも行事をくんでいるので、次回からこんなことがあったら困るということで申し入れをした。どうしても、ショートスティ変更が無理な場合は、私が一緒に泊まるということを提案した。おそらくこんなことはないと思うが、一度あった以上は想定しておくことが大切だと思った。また、職員さんが足りないのであれば、フルタイムで働くことはできないが、週の3日間程度なら、午前10時から午後3時のまでの範囲ならお手伝いできることを伝えた。理事長にも伝えたが、支援課長にも伝えた。思いとしては「大空」の方に行ってくれる方がよいような感じであった。年金をもらっているので9万円以上もらうと年金が停止されてしまうので、5万円ぐらいならばちょうど良いかも知れない。そうなればこちらの方も少し余裕ができて、先のことをそんなに考えなくても良いようになる。そうなれば、娘のショートスティの時ぐらいしか自由な時間はなくなるが、それの方がメリハリがあって良いのかも知れない。
5月13日 午後3時から仏花立てに行った。代表総代のMさんは体調不良のため、副総代のSさんと2人でやることになった。先月、一方的に講習をするからとの要請があったが、それを拒否したことでユーチューブの動画を見て勉強することになった。実際、これから毎月花を立てるとなるとなかなか気が重いし大変だ。Sさんも松や檜葉などの準備、枯れた花の処分など、これまでもいろいろやっていただいていたが、やはりしんどいのは同じだ。こういった仕事が総代の仕事なのかとも思う。それでなくてもみんなやりたがらないのに、ますますそうなってしまうのではないかと思う。押しつけられたという気持ちがあり、本来ならばありがたいことなのだが、住職のやり方を見ていると形だけという気がますますしてくる。昨年のお盆で鑑賞した「妙好人浅原才市さん」のビデオがほったらかしにしてあったのは、まさにその表れだ。ケースにもしまわず置いてあったのを見て、何か寂しい思いがした。思わず才市さんに、手を合わせずにはおられなかった。形だけなら、造花でも十分ではないかと思う。
5月24日 成年後見のアンケートの集計ができた。後見人の手続きをしている人がわたしを含め、7人しかいなかった。第三者後見はなく親族後見ばかりであった。親のレベルとしてはこんなものかと思うが、他の施設に比べても低いような気がした。一番残念だったのは、成年後見について知らないのに研修会に参加したくない人が数名あったことだ。親の意識を変えていくことは難しいが、できるところから始めていくしかないように思う。成年後見制度を調べていく中で、いろいろと難しいことがたくさん出てきた。後見人になったからといって、それで終わるわけではなく、それから始めなければならないことが沢山あることがわかった。多くの場合は認知症の高齢者に関することで、財産のない知的障害者にはそれほど関係のないことが多いが、その知的障害者に財産があると、いろいろ考えなければならないことが沢山あることがわかった。今の時点では年金の管理ぐらいしかないわけで、その報告も簡単で知れている。ところが、財産を相続することになった場合、親族後見では利益相反するので、後見監督人が選任されるケースがある。監督人が専門職の場合当然ながら報酬が発生することになる。この場合に、法人後見が活用できればと思うが、それはずいぶん先のことである。後見人の手続きを取っていない場合、おそらく親に財産がないので、そんな必要を感じていないのかも知れない。それと放っていても、なんと何とかなるだろうという思いがあり、そんな難しいことは関係ないと思っているのかも知れない。親自身の生活が大変で、子どものことを構う余裕がないのかも知れない。保護者会のお金にしても、減免の人が多くかなりの人がしめていたが、本人の年金だけからすると、決して無理な額ではないと思うが、親の生活のことを考えると、減免を要求するのであろう。所得だけからすると、自分だって年金生活者であるから、そんなに余裕はない。しんどいめをして疲れるだけのような気もするが、今まで教師として生きてきたプライドだけは大切にしていきたいと思う。とにかく、法人として立ち上げることが大切で、それができて広がっていけば、少しは役に立つのではないかと思う。アンケートの結果を見て、役員の中に協力的でない人がいるのを見て残念に思ったりしたが、とにかく進めていくしかないというのが思いである。
5月30日 東加古川病院に診察にいった。診察と言っても本人と一緒でないから、一ヶ月の様子を記入したものをドクターに診てもらって薬をもらうだけだ。診察の時間は5分とかからない。病院までの往復時間、診察までの待ち時間、会計までの待ち時間、薬をもらうまでの待ち時間を入れると、全部で4時間近くはかかることになる。西脇病院から替わってもうすぐ3年になる。初診の時は大変だった。診察の終わりに納得がいかなくて、あきらめてもらうまでに、馬乗りになり30分近く押さえつけなくてはならなかった。そのことを思うと、今の形ですませてもらうのはありがたいことなのだか。勤めていたときは、土曜日に診察してもらっていたが、退職してからは、水曜日に診察してもらうようになった。Iさんと出会ったのは、確か昨年の5月ぐらいでなかったのかと思う。特別支援学校を卒業してからどんなことがあったのかは知らないが、精神的に不安定なのは在学中から感じていた。ただ、服薬が必要なレベルとは思っていなかった。会話もできるし一見したところ、障害があるようには感じないが、気分の変調や対人関係なので、いろいろ生きにくさがあるのだろう。聞くところによると2週間に一回の割で、診察に来ているようであった。今現在通っているところは、生活介護の事業所だと言っていたが、本人の中には物足りなさがあるのだろうと思う。就労継続支援B型のところにも行けそうに思うが、そうなると、精神的な負担が大きいということは、何回か話しをする中で聞いたりした。娘の生きにくさとはまた違うものがあるのだろう。本人の中では、友達と比べたりして劣等感のようなものが渦巻いているのかも知れない。話を聞くぐらいしかできないわけであるが、これから先、悩むことはますます多くなるような気がする。
6月9日 施設の保護者総会があった。以前からも気になっていたがTさんの言動に腹が立った。かつて自分も会長をしていたと思うが、その時とは今は全く違ったやり方で、できるだけ事務局に頼らないでやっているのに、堅苦しいという感じで批判されたことに対してものすごく腹が立った。アンケートの時も、参加したくないと書いてあって気になったが、そんなことよりも旅行に行ったときの古い写真を見せびらかしたりして、親睦的なことを考えているだけで、役員の楽しみのようなことばかりを話題にするのは呆れた。それに会費についても減免する必要はないと思うが、ほとんど払っていないのに、全国大会の参加のことを話しするのは、何を考えているのかと思う。このような人が会長であったから、すべて施設にお任せの体制がずっと続いていたのだろうと思う。また、施設長の第三者後見についての話しも気になった。ずっとこれまで調査を依頼していたのに全然回答がなかったからだ。調査についても、事前に開示していたと思うが、抜け落ちていたのだろう。正確な情報が欲しいというのが今の思いである。
7月4日 第2回の役員会があった。NPO開設の会議である。先週、Nさんに理事の件をお願いしていたが、断られていたので、どうなるか不安であったが、別のTさんやNさんが引き受けてくれたので、Nさんもなんとか引き受けてくれた。法人が立ち上がるかどうかわからないが、一歩進んだことは良かった。総会の時にTさんとやり合ったのが気になっていたが、Tさんも出席してくれたので良かった。とにかく全員出席であったのは良かったと思う。書類がそろえば、来週でも県庁の方に行って申請をしたいと思う。説明をすれば、この制度がいかに大切かわかってくれるものと思う。
7月12日 NPOの申請に県庁に行った。県庁は建物も老朽化していて、冷房もあまり利いていなくてとても暑く感じた。14時からの申請であったので、最上階の展望室で時間調整をした。申請してはじめて、これまで気づかなかったことが沢山あることがわかった。特に様式については、県のものがあることがわかり、これまで頼りにしてきたものと所々違っていることに気づかされた。ただ、大筋では大丈夫であったので、軽微な調整で終わったのは良かった。とにかくなんとか申請することができたので、これからは、登記に向けての準備をして行かなくてはならない。法人を立ち上げるということはずいぶん馬力の居るものであることが改めてわかった。
7月16日 財産組合の役員会があった。事前に議題は聞いていたが、レジュメが何もなく賃貸についてもどうなったのかわからない感じであった。口頭で説明されていたが、何処のだれにいくらで貸したのかまったくわからなかった。これなら、Yさん時よりわからない感じだった。内規についてもほとんど検討することなく、見ておくだけに終わった。それよりも、地積調査についてのことが話題の中心であったが、要点を整理していないので議論のしようがなかった。それで、報告書を持って帰って、時間をかけて検討したが、検討すればするほどこれは大変なことになっていると思った。この組織を今後維持していくためには、このままでは無理だということがわかるが、変えて行くには大変な労力が居ることになる。しかも、それをしたからといってどれだけの人が理解するかである。解放運動がさかんであったころ、どうしてこんな組織を解体していこうとする話し合いがなかったのか、とても不思議な感じである。既得権益にとらわれて、差別意識に立ち向かうことができなかったのかも知れない。解放同盟のありようそのものに対して疑問を持っていたので、入会しなかったのは正解であったが、他の人から身内に甘い組織と言われても返答できない。
7月22日 お寺の葉刈りがあった。暑い中割と多くの人が参加していた。住職が出てこなかったので、最初にお勤めをするということはなしになった。坊守さんがお勤めのことを言われていたが、暑いから早く作業をして早く終わりたいというMさんの意見で、それ以上お勤めのことは言われなかったので良かった。住職であればどうなったのかわからないが、それにしても檀家が奉仕をしているのに、全く出てこないということはどういうことなのか不思議でならない。ただ、そんなことは気にしないと言うメッセージだけはわかる。作業は個人個人の思いで進めていったので、思った以上に時間がかかった。9時から区費割りの予定であったが、葉刈りがなかなか終わらなかったので、10時をすぎて始めることになった。来年は総代をはずれるので、楽にはなるだろうと思うが、お寺との関係がこんな風になってしまったことに対して、なんともいえない侘びしさを感じる。
7月30日 保護者だけの役員会があった。Fさんは欠席だったが、後のメンバーは出席していた。Tさんも前向きな感じがした。始まるまでに、別のTさんの息子さんがけがをされた後の対応について、おかしいのではないかという話しがあった。被害者が泣き寝入りで、医療費も払わなければならないというのは絶対におかしい。そのことに対しては、私の方から支援課長にメールを入れた。翌朝、支援課長から電話があり、対処するということであったが、具体的にどのような対処がなされたなのかはわからない。とにかく、正式に伝えるということでは良かったのではないかと思った。役員会はこの前の役員会の確認と理事会の報告で一時間ほど使ったので、成年後見についての話はあまりできなかったが、資料を用意していたこともあって、私が進めていこうということに対しては、理解してもらえたのではないかと思った。一度にたくさんのことをしても難しいので、できるところから少しずつやって行かなくてはならないと思う。認証については、申請中であるが、次回の役員会までになんとかできていればよいと思うが、ホームページを立ち上げたことだけは、報告したいと思う。
8月2日~3日 松山に行った。去年、八十八カ所巡りで、道後の湯快リゾートに泊まったことがあったので、ほぼ一年ぶりになる。今回は、I君とM君に出会うための旅だった。I君とはだいたい毎年出会っているのだが、M君と出会うのは卒業以来のことになる。ほぼ40年ぶりの再会である。同じ学科ということもあって、本来ならば、M君の方が縁があったと思うがなぜかそうならなかった。不思議なものである。といっても、同じ学科では年賀状のやりとりをしているのが、D君・A君・K君しか居ないし、しかも、年賀状だけのやりとりで、大学の時もほとんどコンパすら行ったことがなかったので、薄いつきあいのままである。年賀状と暑中見舞いを毎年くれるMさんに至っては、本当にそれだけのつきあいで、それ以上のことにはなっていない。I君とM君は同じ愛媛の南予ということもあり、採用試験の時に一緒になったことがあり、それ以来つきあうようになったという。しかも、同じ小学校採用ということもあり、出会う機会が多かった。その縁から、私もM君と会ってみたいと思うようになった。彼については、小説を書いていて、それが愛媛出版文化賞を受賞したことを知って、本も読んでいたので出会うのが楽しみであった。それに自分と同じように管理職になることもなく、平で退職していることも話してみたい気持ちではあった。田舎の中で、管理職にもならないで過ごすということは、返ってしんどいこともあったと思うが、自分がやりたいことをやるという、彼の信念が伺えて納得のいくこともあった。話を聞くと障害児学級の担任をしていたことが長く、宇和島にいれば、そのしがらみからから自由になれないということも察することができた。真摯な態度からは、保護者から期待されることが多かったのでないかと思う。今回松山で出会えることになったのは、彼が松山近郊の伊予市に転居したことが大きい。話を聞くと、2500万円で購入した中古住宅を1500万円かけて、リフォームしたということであった。見せてもらった家は、なるほどというもので、空港や商店にアクセスしやすく、たくさんの物件から選んだものであることがよくわかった。ライフワークとしてやっている宇和島のことについては、高速道路で2時間以上かかってしまうが、しがらみを断ち切り、自分の好きなことをするにはちょうど良いのかも知れない。それにしても、思い切ったものだと思った。そして何より毎日自分の好きなことができるということが、うらやましいと思った。そしてそのことが、長い目で見ると社会貢献に繋つながっているということが実感された。I君については、退職後は再任用したいのだが、その枠がなく、仕方なく時間講師的な形で過ごしているが、娘さんがまだ小さいことを考えると仕方のないめんがあるように思うが、今年になって関わり始めた部活動については、かつて部活動を経験した身からは、あまり関わらない方がよいと思うが、小学校の部活動しか経験していないので、中学校のは新鮮に思ったかも知れないが、この先何十年もやるとしたらいいかも知れないが、そんなに長くやるわけではなく、他に自分のしたいことをやる方がいいのではないかと思った。やり出したらとことん打ち込むI君だけに、中途半端は返って難しいのかも知れない。それにしても、M君の生き方には、考えさせられるものがあった。
自分の毎日を振り返ってみたとき、①小説を書く。②成年後見について。③町内のこと。この3つが取り組んでいることである。町内のことについては、いろいろ検討しているが、なかなか難しいし、宝くじでもあたれば、早く転居したいと考えている。成年後見については認証申請中で、とにかく認証されなければ、先に進めていくことはできない。小説については、ある程度まとまったものは書けたが、書いていく中で難しいことがだんだん実感されてきた。書く話題というものがないとなかなか書けないし、毎日書くということができない。M君のように、もっと資料をたくさん集めてやっていかないと、息詰まってしまうのは仕方のないところか。とにかく、この一泊二日の旅行では、これからの自分の進むべき方向について考えさせられることが多かった。できるだけこの出会いを大切にしていきたいと思う。
8月4日 日帰り旅行に娘を連れて行った。最近の休日の過ごし方は、播磨中央公園に行って散歩するのが中心で、かつてのように遠方までドライブすることはなくなった。その理由はまずお金がかかると言うことだ。ガソリン代高速代を考えると、年金生活者には大きな負担となる。また、車の中で過ごすことが多く、健康的でもないからだ。毎日送迎をしていると、高速道路のところで手を叩いたりするので、高速道路で出かけることも少しはしてやらないといけないが、そうすると割引のきくフィットの方がよいし、家族で出かけることで、なんとくなく旅行になる。これまでの旅行といっても、コテージに泊まることが多く、何か見学することもほとんどなかったので、日帰り旅行で、どこか見学できればいいのではないかと思った。それに、お盆前に予定していたコテージは夏休み料金で値段も高く、愛知県の遠方で、渋滞もあることから、今年は夏に泊まりがけの旅行をすることは見送りにした。9月初めにそこのコテージを予約していたが、施設で9月に旅行に行くことになったのでキャンセルをした。当初は自分も行く予定であったが、なぜか日程の調整がうまくいかず、用事のある日になってしまったので、今回の参加はできなくなってしまった。この旅行をきっかけにして、また再びコテージ以外のところに泊まれるようになったらと期待しているが不安もある。娘にとって少しでも楽しい経験になれば、それに越したことはないと思う。
日帰り旅行は福井の若狭に行くことを考えた。施設が沢山あり、高速もある程度乗れるし、そんなに遠方ではないというのが魅力であった。孫を今度連れて行ってやりたいので、それを妻に見せるための機会でもあった。大飯高浜のインターを降りると「きのこの森」が直ぐあった。暑いときの戸外はしんどいので、場所だけ確認して次の「若州一滴文庫」を探した。直ぐ近くにあると思っていたが、標識がなく、通り越してしまった。帰るときに寄ってみたが、娘を連れて行っても、あまり意味がないという感じのところであった。標識は逆方向から行く場合はわかりやすくしてあったが、行くときは見えるところにはなかった。それで「うみんぴあ」の道の駅の方に行くことにした。その日の晩、花火大会があるということで駐車制限があり、「こども家族館」のところには行くことができなかった。仕方がないので、来た道を引き返し、「エルドらんど」に行くことにした。お昼までには時間があったので、ここを見学してから、お弁当を買うつもりであったが、お弁当もないのにそこに行くのは嫌だというふうに、駐車場についても、娘が降りなかったので、また来た道を引き返し近くのスーパーに行って、お弁当を買うことにした。お弁当は品数も沢山あり、家の近くのスーパーよりも品揃えが良かった。支払いも電子マネーが使えたので、さすがに進んでいるんだなと思った。お弁当を買って、再び「エルドらんど」へ行った。少し見学してからお弁当を食べるつもりであったが、娘が食べる気になっていたので、少し早いがお弁当を食べることにした。2人で食べるときは最初からおかずを取りに来ることもあったが、3人で食べているときは、おかずも沢山あると思うのか、おかずを取りに来るまでは、割とゆっくり食べることができた。食べ終わった後、お漏らしを沢山していたので、着替えることになった。着替えた後、無料の展示コーナーは少し見たが、有料のところは娘も見る気がなかったようで直ぐに出た。いつもなら長い距離を歩いているところをドライブしただけで、お弁当を食べるというのは一緒だった。そこからはミニストップによって、少し高めのアイスを買った。これもいつもとは変わらぬメニューであるが、娘に取ってはそれで満足なような感じであった。アイスを食べれば満足なわけだから、帰りは高速道路に乗ることもなく地道で帰ることにした。次回は8月13日に行く予定であるが前回行くことのできなかった「こども家族館」を中心に見学したいと思うが、どの程度見学できるか?娘にとってはお弁当とアイスがあれば満足するので、単にそれだけの旅行になってしまうことも考えられる。
8月9日 かぞくねっと全国大会の実行委員会があった。実行委員になったときに大きい役をしなくてはならないかと思っていたが、やはりその通りになってしまった。交流会の司会進行をすることになった。和やかな場を作らねばならないので、ノーマルの会よりも苦手だが、役割でそうなってしまった以上仕方のない面もある。シナリオを作ってもらえるので、できるだけそれにそってやっていけば何とかなるだろう。会議の仕方そのものがなかなか難しいようで、もう少し円滑に進まないかとも思うが、昨日は会長が欠席だったのでまだ良かったと言うしかない。とにかく全国大会が終わるまでは、気分的にしんどくなりそうだ。
午後からは先輩のお見舞いに行った。行く途中県庁から電話があり、資料の再提出を言われた。軽微な訂正であったが、前回からは2週間以上立っていたので、もう大丈夫かなあと思っていたが、なかなかハードルは高いと実感した。先輩は割と元気そうであった。ただ、月に一回泌尿器科に尿管の交換に行かねばならない事態になり、それが少し負担になっているような感じであった。前回までは部屋から出て直ぐにところに、テーブルと椅子があったが、昨日行ってみるとそれはなくなっていて、使う人があまりなくて、撤去された感じであった。毎日の生活のなかに、目標というか生き甲斐というか、それに関するものを見つけだそうとしているが、それがなかなか叶わないので、やりきれないという感じがした。二ヶ月に一度行ってるが、そのことが返って気を遣わせているような気もするが、それがなければますます楽しくなくなる訳で、楽しみを見つけて欲しいと思ったりした。先輩の立場も考えると、複雑な感じもするが、やはりこれからの人生大事にして欲しいと思う。
8月11日から15日
娘の夏休みで施設を5日間休んだ。毎年この時期は旅行に出かけていたが、今年は高いところしか予約が取れず、しかも、帰省の渋滞に巻き込まれるおそれがあるのでキャンセルをした。9月には施設で旅行があるので、お金がかかることはさけた方がよいとの判断もあった。ただ、この暑い中、毎日どう過ごすか、考えるのは大変だった。11日は本当は加古大池のコースを歩く予定であったが、花火大会があるために駐車場に入ることができなかったので、いつものパターンの前半播磨中央公園の5キロコース、後半は、丹波並木道公園の2キロコースを歩いた。炎天下歩くのはなかなかしんどいが、娘は歩いた後に、お弁当とアイスが食べれるので、何とかがんばって歩くことができた。これが見通しというものかも知れないが、もう少し楽なことで時間がつぶせたらと思うが、娘にあったプランはなかなか見つけることはできにくい。こちらもある程度修行のような心構えで望まねばならない。12日は新しいコースを開拓するために、大野ダムへ行った。2時間近く時間がかかるのがネックで、しかも歩き出して一時間ほどした頃に、雨が降ってきた。コースの後半は道路を歩くので、日差しがきつく結構応えた。お弁当を食べるのが12時半頃になり、なかなか予定通りには進まなかった。逆コースで歩いたら、途中の林の中でお弁当が食べれていたかも知れないが、歩くという点では、先に遊歩道を歩く方がよいのかも知れない。とにかく、これから涼しくなってくると、紅葉もありなかなか楽しみなコースである。13日はこの前と同じコースで大飯へ行った。時間的に余裕があったので、舞鶴西のインターで高速は降りた。日帰り旅行となっていたので、高速道路を走るということははずせない。「こども家族館」は夏休みということもあって、割とたくさんの人が来ていた。展望フロアからの眺望はなかなか良かったが、昼食を食べる良い場所がなく、結局エレベーター横のソファで食べることになったが、娘はそれほど気にもしていなかった。お弁当を食べた後、久しぶりに写真を撮った。とても機嫌のよい顔で、久しぶりに見る笑みだった。その後別に見学することもなく、アイスをいつものところで買って、地道をとおってゆっくり帰った。歩くことがないぶん、楽な旅であった。もう少し何かできればと思うが、本人が満足しているからそれで良いかとも思う。14日は「さとう」で買うと要求があったので、「野村のさとう」でお弁当を買った。そのときになぜか勘違いをして、いも天を買っていたのに、セルフレジで入力するときに、コロッケと入力してしまった。本当は万引きであるが、単なるミスであるので買い物自体は成立をしていた。何とも恥ずかしいことである。これが思いこみというものの怖さであると改めて感じた。その後、播磨中央公園の5キロコースを歩いた。いつも気になる野外ステージのところで、そちらの方に見に行くことになった。鍵がかかっていて入ることはできなかった。その後引き返そうと思ったが、娘がどんどん前を進んでいくものだから、結局道なき道を歩くことになった。最後は崖からいつもの道に合流したが、合流するときにとても怖いことになった。滑っていれば大けがをするところであった。しかも、いつもお弁当を食べている展望台に行くことはできず、桜の園で食べることになった。時間に余裕があったからできたことなのだが、それがために帰ってしんどいことになってしまった。後半は善坊池2キロコースを歩いた。さすがに歩く人はなく、日差しの照りつけるアスファルトの道を歩くのは、とてもしんどかった。15日は「すき家」ということであったので、久し振りに「すき家」で牛丼を買った。「すき家」が再び二十四時間営業になっていたことは、ここのところ全く知らなかった。雨が降っていたこともあり、新しいコースを探すために、上郡の金出地ダムにいった。ダムは完成されていたが、遊歩道は完成されていず、雨が降っていたこともあり、歩くのはやめにした。お弁当を食べる場所もなかなか見つからず、安富ダムまで行くことにした。安富ダムは少し歩けそうなコースもあったが、今日は歩くのはやめにした。過眠モードに入っていたのか、とにかく車の中でよく寝ていた。やはり長時間ドライブすると、熟眠に入るような気がした。その後、途中のセブンイレブンでアイスを買った。本当はファミリーマートでアイスを買ってもらいたかったようだが、ファミマはなくセブンイレブンで買うことになった。この5日間とにかく目先を変えて同じパターンにならないようにした。普通の土日の場合は、播磨中央公園の5キロコースに、丹波並木道公園か善坊池のコースのパターンで目先を変えることができるが、休みが長いとそういうわけにもいかない。とにかく、正月休みの時のことも考え、もう少し歩くコースを考えていかなければならない。冬場は日差しがありがたいぐらいだが、夏場はもう少し日陰の多いコースも考えないといけないように思う。
8月15日 盂蘭盆会があった。前日住職から掃除をいわれていたが、仏婦さんが掃除を15日の朝されるということで、その必要はなくなったが、収集袋のことが気になったので少し早めに行った。袋は三つあり、そのひとつは確かに側面がほころんでいたが、使えないわけでなく新たに買う必要もないように思われた。花は陶器製の花瓶に生けてあり、たくさん花を生けてあるにしては、いまいちという感じがしなくもなかった。住職から後でいわれるのが嫌であったので、総代さんに彼岸会のことを聞いてもらった。これで後から文句を言われることもないだろう。法要が終わった後、「かくれ念仏」のビデオを見たが、ただ見せ放しでなんの話しもない。これまでと同じなのだが、せっかく仏前に遺影を飾るのであれば、なぜその一人ひとりについて、簡単に話をしないのかいつも不思議でならない。それが縁というものだと思うが、いつもながらそれを大切にしない。初盆の遺族がなければ、十人ぐらいの人しか参っていないのが実情ではないかと思う。本当の意味で、信心から参っているのは高松町から来ている人だけではないかとも思う。帰る頃になって松のことについて住職から総代さんに話しがあった。松は副総代が取ってきてくれているのだから、その人に話す方が筋だとは思うが、それを総代さんに話していた。副総代さんはもーっという感じで呆れていた。松が長いのであれば、生ける人が適当に切ればよいわけで、そのことをいちいち指図するのはおかしい限りである。
8月25日 午前中布教大会、午後からふれあい祭りと忙しい一日であった。布教大会は、懇志と義捐金を持って行かねばならず、総代さんが出席できないこともあって私だけで参加することになった。義捐金の領収書については、受付の時に要望を言ったが、義捐金ということで当初は領収書のことを考えていなかったが、後になって発行することになった。個人のお金であれば問題ないが、団体のしかもノルマを課しての義捐金なので、領収書は必要である。法話は三つあり永代経や報恩講で聞く話よりも良かったが、時間が延びてその分しんどかった。摂取不捨・しにとうない・急ぎ浄土へ参りなどの話しであった。3人目のご縁サンは、民生委員もされていて、そのことと関係ある話しで、やはりこういった素地がないと話しも深まらないものであると思った。
午後からはふれあい祭りに行った。準備が終わった後、偶然理事長と出会ったので、会場まで送ってもらった。その時に、体調が悪く昨日退院したことを聞いた。血栓予防のために、ワーファリンを服用されていることは聞いていたが、血栓の具合が悪くなったのだろうか。詳しいことはわからないが、新しい事業も進行中であり、今後の法人の運営に支障がなければと思った。祭りではイカ焼きをした。ガス器具の具合が悪く、点火したのかどうかよくわからないまま焼いていた。下面は確実に点火していたが、上面は焦げ付きも多く、点火があやふやなまま焼いていた。大きな事故にならなくて良かったが、思い出すと汗顔の至りである。後で確実に点火したことを確認したが、その後はやはり焦げ付きもなく、上手に焼くことができた。やはり確認作業を怠ってはいけない。役員さんも、よく手伝ってくれて、150食販売することができた。
9月4日 勢力の強い台風が、上陸する可能性が大きかったので施設を休ませた。送っていくときはそうでもないが、帰るときは暴風雨の中迎えに行かねばならず、車に乗るのに時間がかかることから、休むことにしたのだ。ここのところは休むこともなく行くことができていたので、休むのは本当に久し振りだ。2年ぶりという感じである。私の方は西脇病院に診察に行かねばならず、午前中はどのように過ごすのか、気にはなっていたが、短いことだから何とかなるだろうとは思った。診察が終わり帰宅してみると、お昼ご飯を食べていた。施設でも11時半には食事を提供してもらっているので、ちょうどそれぐらいの時間になった。午前中どのようにしていたのか、妻に聞くと、テレビを見た後は今度行く旅行のパンフレットを興味深く見ていたようだ。来週旅行があることは伝えていたが、スケジュールについては今日がはじめて伝えることになる。満面の笑みというか、そんな表情でパンフレットを見ていたようだ。お昼を食べ終わった後は、妻がネットをしているのを見て、久し振りにパソコンをすると言って、パソコンの前に座った。パソコンをやり始めるとなかなか終わらないが、おやつまでの時間は3時間近くあり、構わなくても大丈夫だと思ったので、私の方は昼寝をした。昨晩も1時ぐらいから起き出して、お茶を飲むと寝てくれると思ったが、お腹も減ったようでなかなか寝ず、何度も起こしに来るので、私の方は全く熟睡できていなかった。本を読んでいる間にうとうとしてしまうと、目が覚めたら3時前であった。おやつを食べさせると言うより、トイレに行かせるためにパソコンをやめさせて、トイレに行った後にアイスを出すと言ったが、なかなかやめようとはしなかった。何回かカウントダウンをしてやめさせるようにしたが、効果はなかった。仕方がないので無線ランの電源を切ることになった。そうすると、インターネットに繋がらなくなるので、暫くするとパソコンをやめトイレに行くことができた。こういったことが言葉だけでできたらお互い楽なのにと思うがなかなかできない。結局は電源を切るしかない。これまでなら嫌な声を出していたが、今日は仕方がないと思ったのか嫌な声を出すことはなかった。アイスを食べた後、テレビでも見るかと思ったが、それはなくて再びパソコンに座った。アイスを食べている間、再び電源を入れていたので、スムーズであった。私はその横で図書館で借りてきた本の続きを読むことにした。今度は夕食までだから2時間ぐらいである。その時間はあっという間に過ぎていた。トイレに行ってから、ご飯と何度か声をかけたが、やはりなかなかやめることはできなかった。仕方なく、無線ランの電源を切ることにした。ネットができないことがわかると、あきらめも早くトイレに行くことができた。そして、夕食を食べた。台風で外に行くことができなくても、それなりに過ごすことができた。気になる行動もなかったので、まあまあ落ち着いて過ごしていたのかなと思った。夕食後は、いつもの流れがあるので、パソコンをすることはなかった。
とにかく何かすることがあって、一日過ごせるということはありがたいことであると思う。生産ということでは何も生み出すことはないかも知れないが、娘にとってはいまのところこれで十分なのかも知れない。欲を言えば、一日のスケジュールが自分で理解できて、自分で実行できたらと思うが、そこまでできていないので、こちらがタイムキーパーをしているのが毎日の暮らしなのかも知れない。これはおそらく施設でも同じことなのであるが、こういった当たり前のことがなかなかできないのが、娘の抱える生きにくさなのだと思う。久し振りに休ませてみて、そんなことに気がついた。
9月11日 明日から娘のグループ旅行ということで、昨晩、支援課長より連絡があった。計画やスケジュール表は早くからできていたので心配していなかったが、直前になって支援係長がいけなくなり、不安な事態になっているような気がした。昨晩の電話は頓服のリスパダールの使い方というものであった。これまでもそれとなく説明していたが、根本的には伝わってなかったことがよくわかった。頓服は基本的には、不穏時というか必要なときに服用させるということであるが、娘の場合そのような事態になってからでは、服用させること自体が難しくなり、できればそうならないうちに事前に予防的に服用させて欲しいことを伝えた。負荷のかかりそうな状況がわかっていれば、その事前に飲ませるということである。それも、水分補給のついでに飲ませるような感覚で服用させてもらえればと思う。だから、事前のセッティングということが大切になってくる。団体行動の場合、みんなのペースにあわせなければならないが、そのペースにあわせるということが難しい。娘の場合自分ひとりのペースでも、停止があったりして一定しない。ただ、その場合誰にも迷惑をかけているわけではないので仕方がないが、団体で行動する場合、そのことにより、迷惑をかけてしまうことになる。本人は迷惑をかけているつもりはないので、余計に難しい。またそれが生きづらさの原因となっている。施設ではエリアを作ってもらって生活しているが、エリアというのはひとつの環境調整で余分な刺激からはシャットアウトされている。エリアというものがない場合、本人の中でそれにあたるものを作らないといけないわけで、それが感覚を少し緩慢にするということになる。感覚が過敏で有れば、直ぐに周りのことに反応してしまうが、そうでなければある程度、反応せずに過ごせるかも知れない。リスパダールを服用させるのは、わたし自身そういった意味合いがあると考えている。だから、ストレスがかかり、負荷がかかるような場面が想定された場合、事前に服用させることで、過敏さが軽減されればいいと考えている。ただ、たくさん服用させると、過敏さは少なくなるが、その分反応もなくなるわけで、ぼーっとして寝て過ごすようなことにもなりかねない。そこら辺がさじ加減というか、薬を服用する上での大切なことになる。とにかく日程も一方的に決まってしまい、事前の相談が有れば、わたしも行くことができたが、一緒に行くことができないので、後はお任せするしかない。これまでの旅行の経験が生かされていればよいが、その時のスタッフはあまりなく、気がかりではあるが、障害者支援施設という以上、プロとしての力量を発揮して欲しいと思う。本人がうれしそうに旅行のパンフレットをみているのを見ると、この旅行が楽しいものであって欲しいと思っている。また、12月に琵琶湖に行く旅行のことも、少しでも良いものになるよう考えていきたいと思う。自閉症の診断基準の中に、コミュニケーションの障害というものがあるが、娘の場合もちろんコミュニケーションはとりにくいが、それにりも感覚の障害と広く考える方がふさわしいような気がする。コミュニケーションの場合、視覚や聴覚を基にしているが、娘の場合それだけでなく、環境の中から必要なものとそうでないものを分けるフィルターのようなものがないので、すべてが入力されてしまうことになり、そのことで自分が今やらなければならないことに対して行動が止まってしまったり、必要でないことに対して反応してしまうようになっている。そういう点から考えると、感覚の障害ということができる。とくに、固有覚については、本人でないとわからないことがあり、それがカタトニアという現象になって現れている。一歩踏み出して動いたり、唾を飲み込んだりすることは、他人から見ればなんでもないことであるが、人から見て止まっているように見えることでも、本人の中では、葛藤しているわけで、止まっているわけではない。この生きづらさへの理解者が増えることを望むものである。