三日目‐1 今宵の私の切れ味は一味違うのだ。朝だけど。
まだ白く薄い霞がかかる中、緑は輝く粒を纏っている。新しく始まる一日の中の一番尊い時間だ。
一人の男が夏子の祖母の家に入ってきた。
縁側にいた夏子を見つけると、難しい表情を浮かべたが、そのまま夏子の傍まで歩みを進める。川田と名乗るその男は夏子に祖母を呼んで欲しいと頼んだ。
子供とはいえ、夏子も不穏な空気を感じられたようで、急いで祖母を呼びに行った。
川田の表情を見た夏子の祖母は離れているようにと伝え、玄関から出て行った。
戻ってきた祖母は、夏子の母とひそひそと何かを話していた。やはり何か良くない事が起きたのだと、夏子は確信したようで、恐る恐る二人の様子を伺っている。
智也が死んだと聞かされた。夜に家を抜け出して、川に落ちてしまったと。人の死というはまだよくわからないようで、夏子は静かに頷くだけだった。
昨日と同じように太陽があり、暑く、普段なら川田兄弟が来る時間だ。
蝉の鳴き声が一匹、二匹と増えていく。
夏子はそわそわと、何かを期待しているようだ。
「ナッちゃん」
声が掛かった。夏子は飛び起きて庭を見回した。そこに立っていたのは勿論、康雄だけだった。夏子は寂しげな表情を康雄に向けた。
「もう、聞いたかい?」
まっすぐに、夏子の目を見て康雄は言った。
「うん」
夏子は頷いた。小さな声は、セミの鳴き声に掻き消された。
無言のまま、康雄は夏子にしわしわの折り紙を差し出してきた。それは昨日、夏子が書いたものなのだろう。一度水に浸かって乾いたもののようだ。硬くなった、色あせた折り紙を受け取った。
蝉時雨の中で、この時の康雄の鋭い視線が夏子の心に傷を付けた。
三日目
まだ暗い部屋の中で、薄い意識の中、夢を見た気がした。とても辛い夢だったように思う。そんなことよりも今日は大事な日なのに寝坊してしまったようだ……。
決戦は送り盆~の一日前~
まぁ、送り盆の必要はなかったな。なんか語呂が良いからタイトルを付けるとしたらこんな感じだろう。やる気を出すのだ、私が私を鼓舞するのだ。自分のモチベーションをあげるのは自分しかいないのだ。誰かが言ってた。カッコイイと思う。私もそうなりたいぜ。そして過去に決着を付ける。
かくいう私は決意を胸に……まどろんでいる。意識を手放すのは簡単だ、でも二度寝はカッコワルイし。本当はこの家で一番早く起きてラジオ体操(自己流)をして臨むはずだったのに結局、私が起きれたのは寝室に一人ぼっちになってからだった。
かっこつかねーな。でもいい、私はこんなヤツだ、こんな自分だけど結構好きだ。格好良くありたいと、そうありたいと思う私は私が好きなのだ。駄目なトコロは実行力のなさだけだ、ちょっとずつ努力しよう。
もぞもぞと起き出した私は手探りで雨戸をガラガと空けた。開いた瞬間、光が溢れて新鮮な風が流れ込んでくる。新しく始まった一日を実感させてくれる。
丁度、母が入ってきたところだったらしく、口に手を当てて驚いていた。
「珍しいね、いっつも起こすまで起きないのに」
今宵の私の切れ味は一味違うのだ。朝だけど。
「そういう気分、やれば出来る子!!」
自分に言い聞かせながらついでに母にも答える。歯を磨き、ラジオ体操(自己流)、緑の朝食+ソーセージ付きを頂く。
あの日のケジメを付けに行く。知ったところでなにか変わる訳ではないけど、私の中に居座っている、このもやもやとした感情を吹っ切る為には必要な事だ。きっと兄はまた川へ行くだろう。きっと。
さっさと行きたいような、行きたくないような心持で、そわそわとしてしまって落ち着かない。縁側とリビングと庭を順番にぐるぐる回るっていると母に鬱陶しいぞ小娘!! と一喝された。小娘って……。
そんな事言われたって、落ち着かないのだから仕方がない、どうしろというのだ!! って言いたいけど、それは飲み込む。でもちょっとイライラする。仕方ないので縁側で精神統一を行う。
「暇なら手伝いなさい」
何か聞こえるがこれは私の煩悩が強すぎるからだ。実際には何も聞こえていない。
無だ、今、私は無になるのだからどうでもいい。
心地よい風が通り、少しだけ肌をチリチリと焼く日差し。閉じた瞼の中に見える赤みがかった橙、体の中を巡る血液が、太陽の光を受けて浮かび上がってきている。この血液の循環と同じように自然も巡っているのだ。
目に見えない微細な生き物が自然を作り出す、その活動の中で少しずつ少しずつ生き物達が大きくなる。
それぞれの役割が変わると形を変え、また役割が変わり、そうやって最後はまた微細な生き物の活動によって無に戻ってゆく。しかしそれは終わりではない、また新たな始まりへと形を変えて巡っていくのだ。
なんかやばいかも、このままいくと私は世界の心理にまでたどり着いてしまうかもしれない。高名な数学者達よりも早く宇宙の謎を解き明かしてしまうかも。
見るとも無く薄く目を開くと、ゆっくりと穏やかに時が進む庭が見える。砂砂利と、ゆれる木々の葉、そして目の前に母が……母が?
ゴッと鈍い音が頭の中に響く。痛い!! って電気信号が脳みそに伝わり反射的に痛みが発生した頭を両手で押さえろと信号が疾る。頭を抑えたまま顔を上げると、母が仁王立ちで私を見下ろしていた。
ここにきてやっと理解した、拳骨をくらったのだ。人は今ある瞬間の少し過去に生きているらしい。脳が情報を統括するためのタイムラグがあるせいだかららしい。それがある為に、一連の動きで何があったのかを判断するのだと。これがソレか。真理には到達できなかったものの、私は確実に賢くなっている、さすが私だ。
でも、そんなことよりも。
「っいいいいぃぃぃぃぃ」
凄く痛い。それと父よ、お爺ちゃんの仏壇から半分顔を覗かせてイタソーって顔してるんならさ、助け舟でも出してよ。気持はわからないでもないけど。
「昼寝するほど暇なら、お手伝いしましょうね?」
穏やかに時が進むお庭に鬼婆が、この美しい世界にいるはずの私はなんでこうも美しくないのだろう? 世界のつくりは実に不可思議で残酷なものだと感じた。瞑想なのに。
「……はい」
クリティカル魔人の一撃の前には、矮小な私は何も言い返せない。しかたなく布団を干したり、帰ってからやれば良いものを、私達の洗濯物を干すのも手伝わされた。『あの』お父さんは何処かへ消えていた。駄目な人。
お昼になると、消えていた父もいつの間にか食卓についていた。この人ほんと何処行ってるんだろう?
今日はお蕎麦と緑と脂分だ。好きなものがあるとはいえやっぱり食欲が湧いてこない。脂分により緑が緩和されてきたものの、グリーン化は進行中なのだから。学校の友達とうまくやっていけるだろうか、不安は尽きない。
いざ、決着を。行くのだ。川へ。昨日見つけた疑問をちゃんと持ってる事を確認して、川へ向かった。ジリジリ地帯と謎ミラーを越えて、足取りは、重い。逃げない事を決めた所で軽やかになんていくはずない。
三人で歩いたこの道。三人で走り抜けた涼しいでこぼこ道。こんな気持で思い出さないように。もし、今日これから起こることのせいで、知りたくも無い現実が出てきてもちゃんと受け止める。頑張れ私。
もう少しで川へ出る所まで来た時に後からアイツの声がした。
「おい! 行くなよ!」
解ってないな。
「なんでだよ。なんか都合悪いの?」
困り果てて逆切れしたように奴が言う。
「お前、またふて腐れるだろ!」
昨日見てたんだ。
「そうかもね。でも、これからはそうならない為に行くんだよ」
難しい顔をして何も言ってこない。
「ガキにはまだわかんないんだよ」
完全に怒らせたみたいだ。
「お前なんかしらねー!」
ありがとう、本当はちゃんと解ってるよ。
「私には難しいな、こういうの」
ガキは私のほうだ。追いかけたくなる気持を押さえつける。アイツの姿が見えなくなった。
私はこっちに進まなきゃいけないんだ。きっとヤス兄は居るんだから。
川へ出るとやっぱりヤス兄は居た。傍らにお菓子の入った袋が置いてある。レタス次郎と美味しい棒、それとでっかいソーダの飴だ。他にもいろいろ入って袋がぱんぱんになっていた。
静かに近寄ると川を眺めたまま、振り向かずに声を掛けられた。
「昨日はごめんね」
私のセリフだ。気遣いなのだろうけど。しれっとこういう言葉が出てくるのは何か嫌だ。
「こちらこそ、すみませんでした」
毎年ここにきていたんだろう、一人ぼっちで。私が逃げ出してからずっと。
ヤス兄はこの場所から逃げることは出来ないのに。
本当ならヤス兄の隣に、弟のトモも一緒に居たはずなのに。五年間も逃げていた。
「お話し、いですか?」
少しだけ私に振り向いて言う。
「昔みたいにはいかない?」
そうあれたら、いいだろうな。
「ごめんなさい」
気まずい中で切り口を探すというのは難しい。内弁慶な私にとっては外向きの強さなんて無い。
言葉が続かない事を悟ったヤス兄が言う。
「あの日の事、責めようなんて気はこれっぽっちもない。ただ、見つけて欲しい時期もあった。でもね、五年も経ったんだ。心境の変化だってある」
何かに気付いているのだろうか。私じゃそんなこと判断出来ないけど、きっと大切な事。これからその話になるんだろうって、漠然と感じた。
ポケットに入れておいた青い折り紙を取り出す。
「これ、覚えてますか? もう捨てちゃったと思ってたんです。けど、おばぁちゃんがとっておいてくれました」
ヤス兄は少しの間固まって、ため息をついて先を促した。
「康雄さんが持ってきた折り紙は、この青い折り紙だったんです。でも私がトモにあげた折り紙は紺色の汚く畳まれた折り紙でした」
正直おぼろげな記憶だ。それでも、ヤス兄の表情で確信した。私の記憶は正しいと。
「渡された折り紙は、川に浸かったせいで色が落ちたものだと思ってました。しわしわで書いてあった文字も滲んでしまって、ちゃんと読めなかったから」
何も言わずに静かに話を聞いているだけだけど瞳の中に暗い影が射す。
「だけど、昨日おばあゃんが渡してくれた缶の中に紺色の折り紙も入ってたんです」
もう一枚の折り紙を取り出す。汚く畳まれた紺色の折り紙だ。ヤス兄に見えるように広げる。
――川で鬼灯を見つけた――
私が書いて、トモが持っていった折り紙だ。
「ヤスオさんはあの日、私がトモに折り紙を渡した事、後から知ったんじゃないんですか? 何で紺の折り紙だって知ってたんですか? 何で私の折り紙だって知ってたんですか?」
私が言葉を紡ぐ度にそれは濃くなっていく。
「あの日、何があったんですか?」
さらさらと流れる川に視線を戻すと、少し間をあけて口を開いた。
「くだらない悪戯を仕掛けたんだ、まさかあんな事になるなんて思いもしなかった」
ポツリぽつりと言葉を紡ぐヤス兄は酷く弱々しく見えた。




