二日目-2 強いて言えば人間に近い。いや、人間だこれは。
祖母の家を出て川へ向かう。木陰に入るまでの道は、太陽の奴がジリジリと皮膚を焼いてくる。実に鬱陶しい。もう少しで涼しい涼しい日陰に入るのだけどもさ、そっちが来いよって感じだ。
ぶつぶつと文句を言いながら真っ直ぐ進むとカーブミラーがある。見通しが良い場所にある謎のカーブミラー。
そこを左に曲がり真っ直ぐ行くと、山のほうに続く雑木林の道だ。踏み均されて禿げたのか、舗装として禿げさせられたのかそんな道を進む。
この細い細い道を通り抜けるとあの川がある。一直線に伸びる川までの道を、三人で駆け抜けた事を思い出した。
私は自分で思うよりも心が弱かった、薄まった筈の感情が蘇ってきた。見たくない、思い出したくない、そんな感情が爆発した。どうしようもないこの感情に突き動かされて大声をあげながら走り出す。
目の前の、思い出の三人を追い越す。目の前に現れるな! 見たくないんだ! あの出来事を何でもない事にするためにここに着たんだ。
道が終わり、川辺に出た。石に足をとられて私の体は前方に吹っ飛ぶ。地上にぶつかるまでの、えも言われぬ浮遊感で私は玉ひゅんした、いや、私には玉などなかった。
地面にぶつかるのが怖くて目をぎゅっと閉じた。ぶつかった衝撃を感じた、肘に、ぐにゅりとした感触が伝わる。数瞬の後、ドスンと音がしたのにあんまり痛くない。
あれ? ぐにゅり? 恐る恐る目を開くと私の下に何かある。強いて言えば人間に近い。いや、人間だこれは。
自分が乗っかっていた誰かの体から飛びのく。倒れていた人間はそのままの姿勢で動かない。しゃがんだままソレを見ていると小さくうぅ、とうめき声を捻り出した。それにしても、四肢がすらっとしてるし、涼しげな眼もと、強いて言うならイケメンに近い、いや、イケメンだこれは。違った。そん事より謝らなくちゃ。
「ごめんなさい……」
一応、謝ってみたものの、私の声は聞こえていないらしい。お腹を押さえながらごろごろと転がる。ぴたっと止まると一言。
「大丈夫、凄く痛かっただけだ」
それは大丈夫なの? いや、そこじゃない、自分の膝小僧を助けてもらったのだ。冷静に様子を伺っている場合じゃなかった、ふつふつと申し訳ない気持が湧き上がってくる。
「ごめんなさい! あ、あと有難うございます!」
どれほどの申し訳なさ加減かを伝える為に、出来る限り深く頭を下げた。ちらりと顔だけ上げると、上半身を起こした彼がじっと私の顔を見つめていた。お互いに動きが止まった。
木々がざわめき、水の流れる音がする。
ふと、笑顔になりポツリと呟く。
「なっちゃんは、相変わらずそそっかしいな」
まさか、と思った。
「康雄さん?」
私が聞き返すとやっぱりか、といった顔で続ける。
「だと思った。僕はなっちゃんが肘からタックルを仕掛けてきた所で気付いていたけれどね」
サッと血の気が引いた。私が最後に来たあの夏、思い出さないようにした記憶、思い出として底のほうに置いておいた。なるべく触れないようにしていた。
一番会いたくない人だ。体が動かない、どう接すれば良いのかも分らない。そのままの姿勢で固まってしまった。きっと私は恨まれているのだから。
妙な間が開いてしまったせいで、あの事を思い出してしまったようだった。俯いて困った表情からはまだあの事件を引きずっていることが伺える。
「少し話さない?」
それでも笑顔を浮かべてくれる。心の底では、どんな感情を持っているのかはわからない。それが不気味に感じて仕方ない。
ヤス兄は、当時よく三人で集まった岩の影に移動した。私もそれに続いた。本当はここから逃げ出したかったけど、ここから逃げてしまったら、きっと私は今よりも汚い奴になってしまう。そう思うと逃げる事が出来なかった。
ヤス兄は今は県外の大学に通っているらしい、近場に一人暮らしをしていて、正月とお盆に帰省しているそうだ。
あの事に触れないように会話をされると、嫌なことを考えてしまう。笑顔で会話をしながら、罪悪感で押しつぶされそうになる私に復讐をしているのではないかと、そんなふうに思ってしまう。どこまでも私は自分本位な汚い人間なのだ。
気まずい時間はやたらと長く感じる。ヤス兄に会ってしまうなんて十分ありえる事だったのに、全く想定していなかった。
私が此処に来た目的はあの事件を克服する為だ。それなのに、ヤス兄と遭遇した時の事は考えていなかった。顔を合わせる事になる何て考えてなかった。
今、出来るのは謝る事だけだ。あの時の事を謝ろう。触れないようにしてるけど、自分から言ってしまおう。この拷問のような時間が続く事のほうが、私には辛い。
「あの日の事なんですけど」
ヤス兄の顔から表情が消えた。視線を逸らして川の流れを見つめながら言った。
「あのことは、もういいんだ」
言わない方がよかったの? 余計な事だったの? あの時、私に持ってきたアレは謝らせる為じゃなかったの?
「私のせいなんです、あの時もってきた折り紙。私があの事故の発端だって解ってたからですよね?」
驚いた顔をした。ヤス兄は俯き、静かに言う。
「あの事は仕方なかった、あの紺の折り紙を持っていったのは、責めるつもりだった訳じゃないんだ」
それだけ言うとまた俯く。
「あの日。私がトモにあげた折り紙の事、知ってたんですか?」
ぐっと拳を握り締め小さく知らなかったともらした。
ごめんなさいと、言いたかった。この件に関しての、卑怯者の私の最後のあがきでしかないけど。でも、こんな顔をされてしまっては、続く言葉を発する事が出来ない。どこまでも卑怯者だ。
お互いに言葉が続かなくなってしまった。二人とも、ただそこに置物みたいに座ったままになった。
ヤス兄に視線をやると、こちらに気付いた。気まずそうに「先に戻る」と言って行ってしまった。
軽蔑された。五年間逃げ回っておいて、今更言いたいことだけを言おうとしたのだ。しかも最後まで伝えられなかった。これじゃ逆切れして追い返したのと同じだ。最悪な気分だ。




