とある主従がありまして。
ドアをノックする音で、彼は微睡みから目覚めた。
豪奢な部屋はうっすらと明るい。カーテンから暖かな日の光が差し込んでいるのが男の目に映った。どうやら今日も快晴らしい。
失礼します、と柔らかみのある声がドア越しに聞こえ、彼の返事を待たずに戸口よりメイドが入ってくる。
シンプルで飾り気のない、膝下までを覆うヴィクトリア調のメイド服。艶やかな亜麻色の髪は、細かく結わえられて団子状にひとまとめにされている。目鼻立ちの整った理知的な相貌で、背筋はぴんと伸び隙がない。戸を慇懃な動作で閉じると、思わず見蕩れる程の一礼をした後、彼女は主の元へと歩み寄った。
「お早う御座います。カーテンをお開けしても宜しいでしょうか」
小気味良い口調で、鐘の音のような玲瓏と響く声音だった。うむとうんの中間の返事を彼は返す。確認した彼女はスタスタと無駄ない歩調でカーテンの傍まで寄ると、ジャッと一息で遮光を払った。
眩い光を浴びて、男はくぁと欠伸を一つ漏らした。実に緩慢な動作で上体を起こすと、猫のような姿勢で伸びをした。それから頬の辺りを一撫ですると、メイドの方を向く。
彼は柔和な笑顔で、
「お早うイルマ。良い朝だ」
まだ目尻の下がった奥二重の瞳を細めながら言った。
「お早う御座います。朝食は用意できておりますので、お顔を洗ってからどうぞ」
再び慇懃に礼をしてメイド、イルマは戸口へ立った。
うん、と主は頷くと、もう一度躯を伸ばしてから掛け物を剥ぐと立ち上がった。ゆったりとした寝間着を整えてから出口へと向かう。メイドは物言わず戸口を開き、一歩下がった。
そして主人が出たのを見計らって自身も後に続き、静かに戸を閉める。それから洗面台へと進む彼の後を後ろ斜めに続いた。
朝の冷ややかな水を浴びて男は意識をはっきりとさせた。メイドの差し出すハンドタオルを受け取り柔らかな生地で顔を拭き取ると、しっかりとした足取りで食卓へ向かう。
テーブルには山盛りになった香りの良いバターロールにクルトン、パプリカの乗った彩りの良いサラダ、スープはポタージュにハーブのソーセージ、それとスクランブルエッグといった少々朝食としては多めのメニューが並んでいた。
どれもまだ出来たてで、ポタージュからは湯気が立っている。
見るからに美味そうな料理を前に、男は苦い顔をした。
「おい、私は朝は余り食わんと言っているだろう」
「主の体調管理も侍従の仕事です。お気に召さないのでしたら、コックでも雇ったらいかがです?」
これにメイドは平然と切り返す。ぐぬぬ、と唸る男は言い返せないのが分かっているからこそ悔しげな表情を浮かべるのだった。
「さあ、早く食べねば冷めてしまいます。暖かい内にどうぞお召し上がりください」
明らかに一人分ではない食卓の前に、主はしぶしぶと腰を下ろす。スープを一口飲み、無花果のジャムを半分に割ったバターロールに塗ると、空腹の口の中へと運んだ。
味わうようにゆっくり噛みしめ、チラとメイドの方を見やる。瓶詰めにされたジャムを指しながら、男は尋ねた。
「これはどこで買ってきたんだ」
「お気に召されたのですか」
「ああ。美味いなこれ」
「近くの農夫が趣味で作っているものだそうです。近隣の住民にも評判だとか」
「ふむ、チェロの旦那か。なかなか良いものを作る。あとで礼を言わなければ」
チェロの旦那とは趣味でチェロ弾きをしている農夫である。時折近隣住民を集めて演奏したりもしていて、評判はいい。
背後に控えるメイドへ、彼は反対側の席を指さしながら言う。
「お前も食べろ。毎度の事ながら」
「毎度のことながら言わせて頂きますが。従者は主の食事を待つものです」
「一人で食べても味気ない。それに食べきれないと言っただろう」
「余り物で充分ですので」
「ええい。命令だ。共に食事をしろ」
「……かしこまりました」
イルマは表情一つ変えずに自分の分の支度を始める。数分も経たないうちに彼女は食卓に並んだ。
スープを口に運ぶイルマを見て、主は溜息ともつかない息を吐き出す。
「全く、なんでわざわざ手間をかけるのか」
言外にいつもの習慣に文句を言う彼に、メイドは毅然とした態度で返答をする。
「私は常々言っております。従者は総てにおいて主を優先させるものであると。それが私の信条であり、オーウェン家最後のメイドたるイルマ・カティーツァの責務であると」
「無理しなくても良いよ」
彼は柔和な表情で、サラダをフォークに突き刺しながらくるくると弄ぶように手首を回す。
イルマは憮然とした様子で反論した。
「無理をしている気はありません。まあ、旦那様がもう少ししっかりなされるというのであれば、その限りではありませんが」
ぷつっとハーブソーセージにフォークを突き刺し、イルマは上品に噛み切る。だというのにふんっと鼻を鳴らしそうな、そんな雰囲気を醸し出す所作だった。
主は苦笑した。叶わないな、と。
頑張ると言っても昔と違って仕事が有るわけでもない。形だけの役職で何が出来るというわけでもない。何しろ領土は最早この村だけなのだから。せいぜいが寄り合い会議のようなものである。
仕事が有ればそれなりにはこなす自信がある。だがそれは規模が大きいものだ。領土全体を見渡していた当時の視点とは大きく異なっている。やれることがたかが知れているならば、気力が湧く故もない。
当時の使用人達は皆暇を出された。残ったのは少ない給金でも構わないと言ったイルマ・カティーツァのみである。その容姿と仕事の手際、そして心構えは引く手あまただろうに。何故残ったのだろう、と主はいつも疑問に思う。
言葉少なに食事の時間が過ぎていく。今日の予定はなんだ、とイルマに尋ねれば、簡素な会計と村の視察、商人達との交渉など実に簡単な内容だった。完全に持て余す感じである。
もっと何か刺激がないものだろうか。権謀術数とまでは行かなくても、もっと何かが大きく動くような、そんな仕事が。
今更貴族社会に戻れるとは思っていないが、少し寂しいとも思うのだった。
退屈紛らわしに思わず軽口がついて出る。
「イルマ」
「はい、如何なさいましたか」
片付けを行っているイルマの背中に、彼は声を掛けた。
「今日も綺麗だぞイルマ」
「……は?」
固まったように呆けるイルマ。まずったかな、と彼が思っていると、無表情で彼女は手に持っていた皿を運んでいった。
静寂な朝の陽光の中。
流し口から、絶叫が響いた。
その後何故かイルマの機嫌が良くなったり、流れの商人が新しい素材を見つけてそれが村に大量に有ったりして野望が再燃したりするのだが、それはまた別の話。