アズと猫【番外編】
◆時間軸的プロローグ。
一話目で傷だらけだった原因と、アズのトラウマの話。暗め。
◆本編ネタバレかもしれません。少なくとも『蜘蛛の巣』までを既読の状態で読むことをオススメします。
傷は苦手だ。特に、刀傷と出血。死が目に見えるのが怖くて、魔力の制御が効かなくなる。そのくせ重い傷ほど放っておけない。
治癒魔術が使えるくせに、それでいて怪我に恐怖すら抱いている。強く望んで手に入れた能力は、必要な時には上手く使えない。皮肉なものだ。
今朝までいた村からトトナ村までは、歩いて三時間ほど。それを耳にしたアズは、徒歩を選択した。少しでも旅費を節約したかったのだ。
そのおかげで、負傷者ならぬ負傷猫に出くわしてしまった。このタイミングで通りすぎようとしたのが治癒魔術師だというのは、少なくとも猫にとっては幸運だろう。
腹いせにいたぶられたのか。殴る蹴るだけでは済まずに、毛皮が赤く濡れるほどの傷を付けられて、それでもなおアズを睨み付けていた。
近付こうとすると、毛を逆立てて「ふしゃあぁっ」と鳴く。アズには危害を加えるつもりが毛頭ないのに、警戒心が強いようだ。目を凝らすと、背後のくさむらに隠れてもう一匹、子猫らしき影が見えた。子猫も酷い怪我を負っているようだった。
きっと、こちらの気性の荒い猫は親なのだろう。親猫は、誰ひとり通すものかと身構え続ける。死にかけの子猫を必死で守ろうとする親猫の姿に、アズは既視感を抱いた。
あれは〈母〉との出会い。そして別れ。あの当時、〈母〉は無力な子供を守ることに必死だった。別れの時は特にそうだった。傷だらけになって、本当に死んでしまったのだから。
魔術は願望を形にする術だという。アズは、初めて魔術を使った瞬間、心の底から〈母〉を助けたいと強く願ったのだ。彼女は身を挺してアズを庇い、満身創痍で、体が動かなくなるまで抵抗した。
結局、アズが〈母〉を救うことはできなかった。魔力が届くのが、遅すぎたのだ。
あれ以来、アズは刃物が嫌いだ。治癒魔術師のくせに、傷も出血も苦手だ。目の前にある傷を放っておけないのも、優しさなどではない。当時を思い出すのが怖いのだ。初めて使う魔術がうまくいかないのは当然のことなのに、うまくいけば救えたはずの〈母〉を亡くしたことを、いまだに引きずっている。
今さら他人を治療したって、もう〈母〉は生き返らないというのに。
アズが救いたいのは、きっと猫でも他人でも〈母〉でもない。結局は自分なのだ。あの時、自分が未熟だったせいで、治癒が間に合わなかった。自分のせいで〈母〉を殺してしまった。責任がないのは頭で理解していても、どこかに罪の意識があるのだ。だから、治せるものは見過ごせない。見えている傷を治癒すれば、自分の中の傷も少しは薄まるのではないか。そんな気がした。
「痛っ」
触れようとしたら手を酷く引っ掻かれた。
親猫は、足下が覚束なく、捕まえるのは簡単だった。それからが大変で、抱きかかえたら、暴れて腕や顔まで傷だらけになってしまった。
「痛くしないって! 治すだけだって!」
言っても仕方ない。言葉は通じないのだ。実力行使して納得してくれればいい。
みたところ親猫は、脚以外は軽症のようだった。
なんとか脚の骨折を治してやったら、掌をかえしたようにおとなしくなり喉を鳴らした。
あらかた治癒が終わると、親猫はアズの腕からするりと抜けて着地し、子のもとへ駆け寄る。震える子猫を優しく舐め、アズを振り返って呼ぶようになぁおんと鳴いた。
近くに来て見てみれば、子猫は衰弱しきっていた。完治するかもわからない。ただ、あと少し遅かったら死んでいたことだけは確かだ。
奇跡的に、子猫はふらふらと頼りなげに歩けるまで回復した。きっと、このまま何事もなければ、数日で元気が戻るはずだ。
子猫はアズの踝に擦りよって、それから親猫の後ろをゆっくりとついて歩いていった。時折親猫が心配そうに立ち止まり、振り返る。そして堪りかねた様子で子猫の傍まで戻り、首根っこをくわえ、アズに背を向けゆったりとした歩調で離れていく。どんどん姿が小さくなる。
ずいぶん遠くに行ってしまってから、木漏れ日の中で猫は歩みを止めて、最後にアズと目を合わせた。
アズは手を振ってやる。
「……そろそろ、行くかな」
いつまでも立ち止まってはいられない。
引っ掻き傷だらけの腕で荷物を拾い上げ、猫とは反対のほうへアズは歩き出した。
〈母〉の生きる未来はもうない。
〈母〉の犠牲のうえに存在する、彼女が命懸けで生かそうとしたもの。
救えるものならば救いたいと思った。