一、
「お客様、お客様。そこのグレーの背広のお客様」
俺は「お客様」と呼ばれているのが自分であると認識するのに二、三分を要した。それもその筈、あまりの猛暑にたまらず入り込んだこの店は、数多くのブランドものを扱う銀座でも有名な高級デパートだったからだ。
その店に駆け込んだ理由は明白だ。避暑以外のないものでもない!
照りつける太陽からふりそそぐ焼けるような紫外線と、温帯モンスーン特有の湿気の中を歩いて汗だくになった俺は、上着をたたんで手に持ち、涼しげなこの店に飛び込んで来たのだった。
だが、この高級デパートのお客たちと来たら、専用駐車場から直に上がって来たかと思う程に、普通に薄着ではあるものの、冷ややかなすまし顔で買い物をしていた。
そう、俺のように汗だくで息をきらしながら、胸を開け、ネクタイを緩めたような者などひとりも居なかったのだ。
俺も、人の子。さすがに体裁が悪く、手に持っていた背広を広げ、着られることになった。
背広に着られる?着るだろう、普通は。
そうなんだが、俺は会社の同僚や先輩、大学時代の友人達から『背広に着られている』とよく言われる。
別に体が貧弱で、背広が大きめというわけでもないのだが、どうも、中身の人間様よりも外側の背広の方が高級だというのだ。
『何を失敬な!』と、憤慨するところだが、鏡に映った自分を見ると、それも納得してしまうので、何とも悔しい限りなのである。
人生においても、社会人としても大先輩である父は、『いつか、その背広に見合う男になれ!』と肩をたたいて激励してくれたのだが、まさかそれを言いたくて、父はこの高い背広を買ってくれたのではないかとさえ思ってしまう自分が情けなかった。