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オレンジジュースと星空の姉友 1(希さん)

 希さんとどのように接したらいいのだろうか、そう悩む時があった。

 俺のことをすぐに「ご主人様」と呼ぶ彼女とはなかなか外に出られない。


「え、えっと、これでいいですか?」

「いや、希さんが見たい作品でいいんです」

「だ、大丈夫です、大丈夫、多分……」


 レンタルビデオショップの一角、高い棚の間で二人。

 なぜか俺は希さんから何度も何度も頭を下げられていた。


 と言うのも、今日は希さんと自宅で映画鑑賞デートをする日なのだ。

 しかし、見る映画を決めている時に希さんに変なスイッチが入ったようで。


「え、えっと、ご主人……将さん、と、だったら、大丈夫」

「希さん、肩震えてますよ、やっぱり映画替えましょう。ね?」

「い、いいい、いや、これでいいですっ、これがいいですっ」


 顔面蒼白。

 希さんが手にしているのは、俺も名前だけは聞いたことあるゾンビ映画だ。


 どうも、希さんはドMのスイッチが入ると自虐に走ってしまう癖があるようだ。

今回もそれが発揮されてしまい、見たら怖いと分かってる映画を手にしていた。


「か、借りてきます、待っててください!」

「あ……行っちゃったよ」


 俺が止める間もなく、希さんはぴゅー、と駆けてカウンターまで持って行ってしまった。そして店員を前に震えながらお会計を始める。あ、店員困ってるじゃん。


「うーん……この後どうなるか、大体わかっちゃうんだよなぁ」


 かくかくとぎこちない希さんの後ろ姿を見ながらぽりぽり頭をかく。

 これまでの経験からして、希さんは家できっと……



「ひっ」

「うわっ」

「ご、ご主人様ぁ……」


 希さんの家の居間。一般的な一軒家のリビングと変わらない広さだ。

大きなテレビを見るにあたっていい位置にあるソファで二人座って見ていた。


 借りる時にちらと見た箱の通り、最初からずっとゾンビが出続けている。

 女性主人公が立ち向かっていく姿は俺にとってはかっこよく映るのだが、希さんにはどうも彼女の姿は欠片も頭に入っていないようだ。


「はっ、は、はぁっ」

「希さん、やっぱりやめ――」

「だ、大丈夫です、ご主人様っ……ひぃぃぃ!」


 ぎゅっと腕に抱きつかれ、ぐらりぐらりと視界が揺れる。

 正直な所、画面いっぱいのゾンビよりも希さんのことが気になって仕方ない。


 フェンスに張り付いてガンガンしたり、主人公が運転するトラックを囲んだりするゾンビがリアリティいっぱいに表現されているせいだろう。やっぱり希さんはこういうゾンビパニック物の映画は苦手だったのだ。


 彼女の事だから、今自分が怖がっていることも内心では喜んでいるに違いない。

 そう考えると、分かっていても、こちらの変なスイッチも入ってしまった。


「希さん、もっと前で見ましょうよ」

「ひっ!?」

「ほら、一緒に行きますよ、よいしょっと」

「ひいっ!? ご、ご主人様、許してくださ、ゆるじぃぃぃぃ!」


 ぶるぶる震えていた希さんを連れてテレビにもうちょっとだけ近づく。

 するとどうだ、さっきよりもゾンビがもっと身近な存在になったではないか。


 希さんの表情を見たが、彼女が今考えている事を読み取れなかった。

 予想通りなら、怖い、嬉しいと相反する感情がごっちゃになっているかも。


「あっ、あひ、ひ、ひひひっ」


 笑ったまま涙を流して腕に張り付く希さん。

 本人には申し訳ないが、個人的には映画よりこっちの方を見ていたい。


 彼女が虐げられている姿を見ているとだんだん嬉しくなってきて、次はこうしてやろう、次はああしてやろう、と勝手に頭が加虐的になってしまう。いや、希さんが俺にそうなるよう「仕向けて」いるのだ。彼女はその才能に長けている。


「無理です、無理ですっ、ご主人様、ひっく、ひぃ」

「そう言われても、希さんが見たいって」

「い、意地悪っ、ご主人様のいじわるぅぅううぅぅ!?」


 大丈夫だと思っていた市民がゾンビ化するシーン。希さんが泡を吹いた。

 さっきまで忙しなく動いていた彼女だったが、突然人が変わったように動かなくなってしまう。


「あっ……」

「希さん?」


 ぷる、ぷるぷる。華奢な身体が小さく震える。

 そうしていると、ふと、妙な匂いが鼻を突いてきた。


「なんだ、この匂い……」

「ああっ」


 俺のつぶやきに反応した希さんは一気に顔全体を真っ赤にすると、その場でもじもじと動きながら遠ざかろうとする。

 しかし、動ける距離はほんのわずか。その間にも変な匂いが鼻の奥に広がる。


「希さん、何か知ってるんです?」

「い、いえ、その、ええとっ、ひっ――」


 こちらに気を取られていた希さんがゾンビの叫び声で我に返った。

 それと同時に彼女は後ろへひっくり返り、履いていたスカートの下にある下着をこちらへ公開してしまう。ん、なんだかパンツが膨れてるように見えるが……


「……」

「そ、そんなに見ないで、ご主人様っ」


 妙な匂いの発生源が特定された。

 露わになっている彼女の下着の中……にある、もこもこした何か。


 いやまさか、いくらなんでも希さんがそんな事するはずない。

 心の中で自問自答しながら、彼女が傷つかないよう、配慮して質問する。


「希さん……おむつ、履いてますよね?」

「ひい」

「それで、多分、漏らしてます……よね?」

「ひあああっ」


 思った以上に直球な質問になってしまい、反省する。

 希さんはグルグル目で「あわわ」と訳の分からないことしか言えなくなってしまった。これ以上質問しても良い回答は返って来ないだろう。


「ば、バレちゃいました、おむつ履いてるって、ご主人様に……♡」

「ああ……」


 恍惚とした表情で後ろへ倒れた彼女を、俺は生暖かい目で見るしかなかった。

 もう映画鑑賞どころではない。折角のクライマックスであろう場面なのに。



「ご主人様、申し訳ございません……」

「いや、まあ、秘密の一つや二つ、多少はありますから、ね?」

「はわぁ……」


 トイレのドアを挟むようにして会話していた。

 希さんが一人では怖い、と言い出したので、彼女が個室の中でいろいろやっている間、こうやってトイレ付近で立ちながら待っているのだった。


 個室からはペリペリと何かが剥がれていく音がする。

 それは下着を履くときの布が擦れる音とは全然違っていて――


「希さん、今日会ってから一度もトイレ行ってませんでしたよね」

「は、はい……?」

「その、最初から、ゾンビ映画でお漏らしする予定だったんじゃ」

「はふっ」


 中からシャーと威勢の良い水音が聞こえてきて思わず耳を塞いだ。

 ま、まさか希さん、今日はそういう日ってことでいいんですか?


「はいぃ♡ 怖い映画で、お漏らししちゃう、悪いメイドですので……」

「ええと、もしかして一人の時もこんなことを」

「わっ、ご主人様、な、なんで知ってるんです……ひゃうっ」


 勝手に自爆してしまった。本人も後から気付き、また水音がした。

 どう反応したらいいか分からない。嫌悪感はないけど、距離感が掴めない。


「……怖い映画で漏らす人って、たまにいますよね」

「は、はい……私も、そうです……」


 希さんとデートに行く時、二人で怖い映画を見るのはやめにしよう、と思った。

 そんなことを考えていると、ドアが開いて希さんがすっきりした顔で出てきた。


「え、えっと、先程はすいませんでした……」

「いや、大丈夫ですよ」

「その、飲み物出しますから、ゆっくりしてください、ご主人様」


 丁寧な礼をしてから希さんは台所へ消えていった。

 ご主人様、と呼ばれてから久しいが、やっぱり、胸の奥がざわざわする。

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