藍絵と赤薔薇の姉 1(百合姉)
胸の奥が重く苦しい日々だった。不安や恐怖など普段の生活とは縁遠かったはずの物が自分を参らせ、いつものように笑おうとしても何か形のない物がそうさせない。このことを姉さんたちに伝えない後ろめたさを抱えながら、皆になんとなくの作り笑顔を見せてここ数日を過ごしていた。
どうして突然気持ちが沈んだのかはよく分からない。
夕食を食べた後、あまり彼女たちの事を心配させたくなくて、布団の中で一人潜りながら姉物の漫画のページをめくっていた。辛い境遇にあった少年が「お姉ちゃん」と出会い、凄惨な過去と向き合いながらお互いに親交を深めていく物語だ。
(一人で悩んでいるのは良くないって、分かってるんだけどな)
どこか暗い雰囲気を纏いながら進む物語に惹かれて読み進めるうち、自分の抱えていた淀みが漫画の中へ自然と溶け込んでいることに気付く。持ち込んできた小型電灯で布団の中を照らし、一人だけの空間で自分を作品の主人公へ投影させた。
家の姉さんたちとはまた違う「お姉ちゃん」との出会いと別れ――中断することも無く読み切った後、暖まった明かりを落として暗がりで丸くなる。
(姉さんたちとも……いつか、離れ離れになる時が来るのかな)
言葉にならない吐露だったが、意外とその言葉がすんと胸の中へ降りてきた。自分を蝕んでいた元凶が分かったようでほっとするも、今度はその痺れるような絶望感に気分が塞がる。
嫌だ、離れたくない、ずっと姉さんたちと一緒にいたい。それだけでいいのに。
亀のように首を出し、枕に突っ伏していると部屋の戸がノックされた。
「入っていいかしら」
「百合姉?」
自室のドアが僅かに開く。隙間から彼女の鋭い目がこちらを窺っていた。いつもの狩人のような目つきを想像していた俺は思ったよりも姉さんが優しい目をしていたことに驚きを隠せなかった。
蝸牛のように鈍いこちらを見た百合姉は部屋の中へ入ってくすっと笑いかけた。緩いスウェットの胸元が強調されていたが、今はそれを見つめる気にはなれない。
「怖がらなくて大丈夫よ」
「あ……うん」
「最近どうしたの? 私にも教えてもらえない事かしら」
ベッド際までやって来た彼女が屈むと視線の高さが一致する。
暖かい笑顔……に見えるが、その裏にある僅かな苛立ちを察知してしまった俺は、自分の弱さが姉さんたちに不満を抱かせていると自覚して申し訳ない気持ちになってしまった。前々から分かっていたのかもしれないけど、もしかしたら見て見ぬふりをしていたのだろうか。
「ねえ……黙ったままじゃ何も分からないわよ」
「ひっ」
百合姉の目がぎっと鋭くなると同時、もう一歩足を踏み入れられる。半ば威圧的な態度に心が縮みあがり、まともに姉さんの事が見られなくなってしまう。
「その、百合姉」
「何?」
「笑わないでくれると、嬉しいんだ」
これ以上隠しても何もいいことは無い。
彼女との間に一つ二つと保険を並べ、その後ろに隠れながら恐る恐る白状した。
「百合姉と……姉さんたちと、いつか、離れ離れになるのが怖くて」
「それは、死別ということ?」
「うん。あとは、何かの事情があって一生に暮らせなくなる、とか……」
薄氷を踏む思いで告げた本心からの言葉。部屋に来てからずっと不機嫌だった百合姉はそれを聞くや息をつき、腕を伸ばし片手で頭を撫でてくれた。先程の厳しさから一転、その瞳は穏やかさで満ちていて見る者を安心させる。
「教えてくれてありがとう。辛かったでしょう……?」
「姉さんたちに、迷惑、かけたくなくて」
「将は本当に優しいのね」
布団から身体を出すと、彼女は両腕で包み込むようにして抱き締めてくれた。女体の柔らかさや女性特有の香りがどこか懐かしくて感動すら覚える。普段の百合姉とこうしてしまうと後はなるようにしかならないが今はそのようなことはなく、ただ安心して姉さんの腕の中に収まる事が出来ていた。
「百合姉……怖い……」
「大丈夫よ。私がいるから、好きなだけ甘えなさい」
弱い自分を受け入れてもらう幸せ――それに肩まで浸りながら百合姉へ全てを委ねる。
その大きな胸を枕代わりにしても彼女は決して怒らない。赤ん坊のように甘え、潤んだ涙で着ている服を僅かに湿らせる。
ぽん、ぽん、と背中を叩かれる度に溢れる、痺れるような甘い感動。
穏やかな眠気が訪れるも、まだこの意識を手放したくないと意固地になってしまう。
「一人に、なりたくない……」
「そうね。一つ、お話をしてもいいかしら?」
姉さんの提案に顔を上げる。
少し腫れた目尻を見られてしまった。百合姉はもう一度頭を撫でてくれた。
「場所を変えましょう。私の部屋に来てくれるかしら」
「うん」
「いい子ね。大丈夫、私は貴方の傍にいるわ」
※
百合姉の部屋は不思議な雰囲気に包まれている。
部屋の内装自体はベッド、クローゼット、本棚、PC用デスクにその為の椅子と大して珍しい物が置いてある訳ではないが、それでも、新しい場所にやって来たような期待と不安が入り混じった気持ちを感じていた。
「ベッドに腰掛けて良いわよ……ふふっ、大丈夫よ。今日の私はそんなことしないわ」
「うん、ありがとう」
ベッドに座っている俺に背中を向けた百合姉はクローゼットの戸を開き、その奥から大きめの段ボール箱を一つ引き出してこちらとの間に置いた。両手で持つに不便ではない丁度良い大きさだが、床に着いた時の音はそれが大変重い物であることを示している。
「私が『白金組』にいたことは知ってるわよね」
「うん」
「この箱にあるのは、その時の思い出よ」
箱のふたを開けると中では所狭しと物が密に詰まっていた。一つはすっかり分厚くなったクリアファイルフォルダー、一つは大量の手紙をひもで縛った紙束。どれもこれもが自分の知らない姉さんの過去の記録で、興味が掻き立てられると同時に自分がそこにいなかったことへの僅かな悲しみも沸いてくる。
百合姉が取り出したのは1枚のラミネートされた切り絵だった。
藍色の紙を切った下に白い紙を敷いていたそれは見た所歴史の教科書に出てくるような印象を受けたが、絵に描かれている女性の立ち姿をよく見た俺は息を呑む。
「これ、百合姉だ」
「あら、分かっちゃったかしら。当時の仲間が切ってくれたのよ」
そこに表れていたのは凛々しく力強い、組織のリーダーとしての姉さんの姿。
作った人は相当百合姉の事が好きだったのだろう。精密に加工された部分は白く鮮やかに浮かび上がり、見ているだけでこちらも絵の中の彼女に引き込まれてしまう。美人画、という言葉がよく似合う一枚だった。
「皆で集まって組織を作った時……まだ子供なのに皆で杯を交わして大人のように振舞っていたわね。そして『永遠の絆』とか言うことも話して、このまま私たちは死ぬまで一緒にいるものだと誰もが信じていたわ」
「百合姉……」
「結果は見ての通りよ。組織としての活動はなくなって、今は皆がそれぞれ自分のやりたいことに専念している。私はカフェをやってるし、千秋は焼き鳥屋をやってるわよね」
過去を淡々と語る百合姉の視線は今ではないどこかへ向けられていた。
しかしその表情は暗くはない。思い出を慈しむ彼女は穏やかな微笑みを浮かべており、俺はそれにただ見入るだけだった。今はその表情が羨ましかった。
「あんまり昔の事ばかり話していると将が悲しむかしら」
「いやそんなこと」
「横になりましょ。大丈夫よ、食べたりはしないわ……」
箱にしまい直してふたを閉めた百合姉は俺の隣に片膝を乗せ、優しくこちらの肩に手を置きながら二人でベッドに倒れ込む。身体をくるりと回して彼女の方を見ると思っていた以上に距離が近く、吐息の一つ一つが顔にかかるようで赤面した。マットレスに沈む柔らかい身体もまた魅力的でつい触れたくなってしまうような物だ。
「こうして一緒にいる時間もいつかは終わって、後から懐かしむだけになる。将はそれが怖かったのよね」
「うん」
細くしなやかな片腕が背中に回ってきて引き寄せられた。彼女の身体と触れた所が熱くなり、いよいよ顔も接しようとするところまで近づく。表情の変化の一つ一つを百合姉に見られているようで、その為か心地よい被虐感に包み込まれていた。
「あなたが思っている以上に、未来は悪いものにはならないわよ」
「そうかな」
「私も……将と同じ悩みを抱えていた時期があったから」
その言葉を聞いた時、胸の奥につっかえていた物がすっと抜けていく感覚を得た。
大好きな人と似た者同士だと知ったら彼女のことが余計に愛おしくなって、ここから一歩先へ踏み込んでいいかと視線でねだってしまう。百合姉はこちらの背中を指先で優しく押し、上から包み込むようにして唇を捕まえてきた。
「んっ……将っ……」
「百合姉ぇ……」
一生懸命に百合姉の事を抱き締め、身体中で安心を感じていく。舌をねぶってもらいながら火照った夫婦のように見つめ合う。互いに息を乱し、身体の欲するままに手足を絡め密着した。
しばらくの間ディープキスで我慢していた俺たちだったが、遂にそれだけでは満足できなくなって俺の方から離れてしまう。粘ついた唾液が曲線を作った。
「百合姉」
「駄目じゃない、将。今は貴方が怖くならないよう一緒にいるだけなのよ」
耐え切れなかった俺に向かって百合姉は叱るような口調で言う。
でも、彼女の口元は嬉しそうに歪んでいて――




