黄昏とオリーブと姉 2
結局、二人で一緒にいたせいでまた晩御飯の時間が遅れてしまった。
フォークの先を口ではんでいる愛理姉は俺の右隣でぼうっとした顔で正座しており、夢心地な彼女の姿を理子姉が心配そうに見ていた。百合姉は事情を知っているのか、彼女に対しては何も言わないものの時折こちらに視線を動かしている。
美香姉は既に一足先に食べ終え、床でごろんと横になって目を閉じていた。
先程から愛理姉はずっと頬を赤らめながら俺のことを見つめており、理子姉もこちらが気になるそぶりを見せていた。
「えっと、将君、愛理に何かやった?」
「……最後までは、してないぞ」
「すっかり将も女遊びが上手くなったのね」
「百合姉」
からかってくる姉さんの方を見ると、百合姉はフォークを持った右手の人差し指で愛理姉を指した。愛理姉の皿にはまだパスタ麺が多く残っており、ほとんど手が付いていないようだ。
「見て、愛理の顔。頭の中をとろとろにされて、貴方のことしか考えられなくなってる。よほど将とのスキンシップが気持ち良かったのでしょうね」
そう言って俺が動揺するのを楽しそうに見つめながら、百合姉はスプーンとフォークで上品に巻いたパスタを綺麗に口へと運んでいく。その所作に見惚れながらも、やはり彼女の言動を全て肯定出来ずに言い返す。
「だから、してないって」
「でも、キスはしたんでしょ? 指も絡めてたわよね」
「それは――」
「え?」
初耳だと言う顔で理子姉が俺を視線で貫いた。
百合姉はおどおどする俺の様子を見ながら一人くすくすと笑う。
「あれ、もしかして、あのメッセージってまさか」
「……ごめんなさい」
一応、理子姉に隠し事をしていたということで謝ると、彼女は魂が抜けたような愛理姉をもう一度確認してから優しい笑みに戻った。
「愛理とデートしたかったら素直にそう言えばよかったのに」
「いや、まあ……うん、分かった、今度からそうする」
そろそろ元に戻ってるかな、と隣を見る。
愛理姉との距離が縮まっていて、もうすぐ肩と肩がぶつかってしまいそうだった。彼女は幸せで頬を緩ませきっており、目の焦点はほとんど合っていない。
そんな中でさっきからご飯そっちのけでじっとこちらを見られているせいで、何もなかったはずの俺も緊張してきてしまう。頭が勝手に妄想を膨らませ、身体が硬くなる。
「将君……」
「ど、どうしたの?」
愛理姉に甘ったるい声で名前を呼ばれ、動揺した俺は口の中にあったパスタの塊をあまり噛まない内に飲み込んでしまう。
コトリ、と愛理姉の手からスプーンとフォークがテーブルへ落ちる。
直後、天国にいるような笑みを浮かべながら、愛理姉が俺の方に倒れてきた。
「愛理姉……っ!」
「将君、すきっ、好きになっちゃったよぉ……」
胸元へもたれかかってくる、彼女の柔らかくも張りのある双丘。優しく緩やかに身体を包み込んでくる、細くて綺麗な両腕。どんよりと重い身体を支えきれず、俺は愛理姉に床へ押し倒されてしまった。
抵抗しようとするも、目の前には、俺以外のことが何も見えなくなってしまった姉さんの顔がある。目が合ったせいで心を掴まれて、彼女を拒否出来ない――
「り、理子姉、百合姉……」
「ふふっ、お邪魔なようだから私は失礼するわね、将」
「あはは、大変だね……私も美香ちゃんを部屋で寝せてこようかな」
他の姉さんに助けを求めるも、呆れたような返事をされた俺は愛理姉と部屋で二人きりになってしまう。そして遂に、彼女に口を吸われてしまった。
「んんっ、ちゅっ……」
虚ろな目のまま行われる、一方的に気持ちよくなることしか考えない口づけ。
夕方の公園のベンチとは全く逆の状況だった。今度は、俺は蹂躙される方……
(駄目だ、頭の中を溶かされる……)
ひとたび彼女に舌を潜り込まされると無抵抗のままにとろとろに柔らかくなったそれを吸わされてしまい、ほのかな甘みと一緒に幸せを感じてしまう。愛理姉のことが好きで好きで仕方なくなって、理性が働かない……!
「ぷはぁ……えへへ、将君、すっごくえっちな顔してる」
「愛理姉こそ、いけない顔してるじゃないか」
「幸せで、頭の中、ふわふわしてきちゃう……」
愛理姉は俺の身体の上にぼてりと落ち、ぐったりとしたように動かなくなる。最初は彼女の柔らかい胸や脚の感覚に酔いしれていたけれど、しばらくしても向こうから何の音沙汰もない事に気が付く。
目を閉じたままの姉さんの顔は物凄く熱く、赤く火照っていた。
「愛理姉!?」
「ふぇ……あっつい……」
普段通りの活気もなく、弱弱しくなってしまった彼女の声。急いで近くにあったスマートフォンへ手を伸ばし、理子姉と百合姉にこのことを知らせた。
※
「頑張り過ぎね」
「うぇ……」
いかにも女の子、というピンク色の壁紙の部屋の隅に置かれた白いベッド。水色や黄色のハート形クッションに囲まれながら、愛理姉は水色の掛布団の中でうーうー唸りながら横になっていた。おでこに氷嚢を乗せた彼女の周りで、百合姉と理子姉は心配そうに姿勢を低くして様子を見ている。
「おかたづけ、しなきゃ……」
「私とお姉ちゃんたちでやっておくから、愛理はしっかり休んで」
「家事とかは結構愛理姉に任せっきりになってたからな」
理子姉の言葉を聞いた愛理姉はもにょもにょと言葉にならない何かを呟き、掛布団を両手で持ち上げて口元を隠した。誰かに物を任せることに慣れてない愛理姉を落ち着かせるように、百合姉は彼女の頭をぽんぽんと優しく叩くように撫でる。
「こういう時くらい、年上の姉弟を頼ってもいいじゃない」
「ふぇい……お願い、みんな……」
その後、あれをしなきゃいけない、これをしなきゃいけない、と愛理姉からいろいろ教えてもらい、百合姉、理子姉、俺の三人でそれを済ませることになる。美香姉には明日お買い物を頼もうか、と話しながら部屋から出て行こうとした時、何故か俺だけが愛理姉に呼び止められた。
「将君」
「ん?」
ファンシーな部屋の中で二人きり。
ベッドの横で、ちょっと悔しそうにしている愛理姉と見つめ合う。
「ごめんね、お姉ちゃん、気が緩んじゃった……」
「いいんだよ。それに、このままだといつかこうなってたから……謝るのはこっちだよ。気が付けなくて、ごめん」
「えへへ、将君って、優しいなぁ」
ゆったりとした、仄かに黄色いルームウェアに身を包んでいた彼女はこちらの謝罪を聞くと、ちょっとだけ嬉しそうに表情を緩ませる。それでも、頭痛があるのだろうか、すぐに眉間へ皺をきゅっと寄せてしまった。
「うーっ、あたまいだい……」
「大丈夫だよ、じきによくなるから」
「よろしくね」
辛そうに息を吐いた愛理姉を見て、彼女の代わりに頑張らなければと決心して頷く。
頭をそっと撫で、姉さんが眠るまで傍で見守っていた。
そして、百合姉が洗濯、理子姉が部屋の掃除で動いている間、俺は台所で夜ご飯の跡の片づけに入っていた。もう夜十時過ぎだが、明日の為にはやらなければならない。五人分ともなれば時間はかかるが、愛理姉はこれを朝昼晩と毎日やっていたのだ、と自分を奮い立たせる。
(思ったより単調な作業だな……前に少し手伝いしたけど、全部やるのは初めてだ)
スポンジに泡をつけ、軽くすすいだ皿の汚れを擦って落としていく。僅かに残ったオリーブオイルの跡を五枚分消し、乾燥させる為に一枚一枚を縦に並べていたら、洗濯物の整理を終えた百合姉が様子を見に戻って来てくれた。
モカブラウンのタートルネックとジーンズに身を包んでいた彼女は冷蔵庫からお茶の500mlボトルを取り出し、蓋を開けて喉を潤す。そしてまた冷蔵庫の中に戻し、ちらりと横目にこちらを窺ってきた。
僅かに潰れる、ニット生地越しの膨らんだ胸に唾を飲んでしまう。
「そっちはどうかしら」
「えっと……やっぱり量が多いかな。愛理姉は毎日これやってるんだ」
そこまで言って、ふと胸の内に疑問がわいてくる。
愛理姉は、どうして自分一人で家事を抱え込むようになったのだろうか。
「百合姉たちは手伝わないのか? いつも愛理姉がやってるけど」
「手伝おうとしたことはあったわよ。でも、その度に『お姉ちゃんは休んでて』って言って聞かないの。それが昔から続いて、今もこんな感じ」
冷蔵庫に背中を預けた百合姉は、少し遠い所を見ながら続きを語ってくれた。
「将がこの家に来る前……それこそ、まだ理子がオーディションに受かったばかりの話。私は経営の勉強で、理子は歌のレッスン。親もいなかったから、家には美香と愛理だけになってた」
「そんな頃が」
「いつからか、家に帰ったら愛理がご飯を作ってて……私も理子もヘトヘトだったから、それに甘えちゃったの。それから」
彼女の話を聞きながら、皿洗いの手を止めてしまっていた。
そして我に返った後、慌てて水道の水を止めて百合姉の方を向く。
「もしかしたら、あの時もう少し頑張ってたらって、思う時もあるわよ」
「姉さんたちは何も悪くない……と、思うけど」
悲しそうにも映る表情に耐え切れず言い出してしまったが、自分は当時の状況は何も分からない。そして、これは愛理姉が悪い、と言う事でもないのだ。かつての火の車の環境が残していった、役割の分担と言う置き土産だった。
「愛理姉が頑張り過ぎるのも辛いし、それで姉さんたちが負い目を感じるのもなんか嫌だよ……俺だって何とかしたいんだ。その時はいなかったけど、今は俺も家族なんだから」
俺がそう言うと、百合姉は静かに笑みを作ってくれた。
次の言葉を探している内に彼女は俺の傍まで歩み寄り、そっと頭を撫でる。
「その言葉、ちゃんと愛理にも言ってあげなさいよ」
「……うん、分かった」
「愛理は一番の頑固さんだから……でも、将の言葉なら素直に聞ける。私や理子では届けられない言葉も、貴方なら届けることが出来る」
そうして百合姉は一度、俺の事をぎゅっと優しく抱きしめた。
仄かに香る大人の女性の香り――それでも、女の肌の匂いは愛理姉にそっくりだ。しかしそれを味わっている暇はない。普段と違い、百合姉はすぐに俺を解放した。
「皿洗い、手伝う?」
「いや……一人でやってみる。話を聞かせてくれてありがとう、百合姉」
それじゃよろしく、と言って百合姉は背を向けて去って行く。
彼女の話してくれた情景を頭で思い浮かべながら、俺はまた蛇口をひねった。




