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蒼い月と檸檬と姉 3(終)

 バルコニーの手すりに両肘を預けるように立ち、穏やかな夜風に当たる。その隣には小柄な愛しい人が同じようにして並んでいた。少し肘を動かせば当たる程の距離で、上の辺りに浮かんでいる満月に無言のまま見入る。


 あの檸檬味のリキュール缶を手に、なんとなく横に視線を向けた。すると同じタイミングで隣にいた姉さんもこちらを見てくる。自分の酒に何度か口を付けていた美香姉の顔は僅かに赤く、少し薄くなった瞳は月光で艶やかに光っていた。

 白い半そでのTシャツの上から、薄手のブラックのロングパーカーを羽織っている彼女はどこか大人びて見えた。背がもう少し高ければ、と思うが、それは彼女に失礼だろう。


「なんだ、ブルームーンって全然青くないな」

「うん」

「もう少し、向こうの映画みたいに青白く光ってる物だと思ってたけど」

「そんなもの」


 少し期待外れな所もあったが、綺麗な物が綺麗であることに変わりはない。

 表面のうさぎ模様を見上げ、酒を一口飲む。口の中が少し苦くなった。


(酔ってる?)


 そんな事を聞かれたような気がしてちらと隣に目をやった。

 彼女が、あまりに近すぎた。先程からお互いに一歩も動いてないのに、美香姉がぐっと近づいてきたような感覚に陥る。姉さんの事に夢中になっているのだ、と気が付いた頃にはため息が漏れていた。


(かもな)

(顔、赤くなってる)

(美香姉も)


 酒の飲む速さも、顔の赤くなる加減も姉弟で本当にそっくりだった。

 そのまま夜に溶けていきそうな風貌の美香姉はそっと瞼を落とし、また一口飲む。


「最近、寂しかったか?」


 朝の事を思い出しながら質問を投げかけると、しばらくしてから彼女はこくりと頷いた。その表情は微笑んではいたが、やはりどこかに影がある。


「少しだけ」

「本当に、少しだけなのかな」

「……意地悪」


 満月模様を見つめながら悪戯心でもう一度つつくように聞くと、美香姉は手すりに乗せていた腕を動かして肘をこつりと当ててきた。


「ごめんごめん。ここしばらく、あんまり美香姉と話してなかったから」

「うん」

「美香姉の事、ちゃんと好きだよ」


 その言葉に対する彼女の返事は無かった。

 姉さんはリキュール缶をくいと傾け、あと少しになった所で、先程設置したアウトドアチェアの一つに腰を預けた。缶をホルダーに置き、僅かに開いた両脚の間へ両手を投げ出すようにくたりと座った彼女は、ぼんやり上気した顔でこちらを見つめた。

 酒が回った美香姉はダウナーな雰囲気を漂わせ、ほんの僅かに笑う。


「朝まで、ここにいる?」

「風邪ひかないか?」

「将と一緒なら、大丈夫」

「そうか」


 手すりに背中を預け、顔に当たる夜風を楽しみながら、彼女の目を見た。重い頭に自分を見失っているのか、美香姉は虚空を見つめたままこちらの視線に気づかない。


(好き……将、好き……)


 心がきゅっとなったのは錯覚か、それとも、彼女とシンクロしたからか。無意識的に姉さんの横に座り、同じような格好で夜空を仰ぐ。その視界がぼやけていき、やがて、蒼く輝いた世界に意識が飲まれていった。

 どこまでも続く星空に囲まれた、現実とはかけ離れた精神世界。そこに、今とても会いたい人がいて、抱きしめると向こうも同じように返してくれて――


(好き)


 自分の物か、姉さんの物かも分からない感情が湧き、周りを温かくし始める。それがなくならないよう、二人で一つの心を大切にしながら身を寄せ合った。どうして身体が二つあるのかを理不尽に思いたくなる程に自分と美香姉は心の底で繋がっている。


 誰からも理解されなくていい。二人の時間は他の誰にも邪魔出来ない。

 きらきらと静かに光る心象風景を漂いながら、美香姉とそっと唇を重ねた。


(んっ……)


 微かに苦い檸檬の風味が二人分になった。

 身体中を包み込むような暖かさに酔いしれ、姉弟一緒に悦楽の底へ落ちて行く。

 ふわふわと広がる快感の波に飲まれるままに回る。好き過ぎて、戻れない。


 苦みが甘味になり、触れ合う部分がじっと汗ばむ。

 好きで、好きで、好きで……



「将」


 美香姉の声がして、目が覚めた。

 すぐ目の前には彼女の顔があって、夢の中の勢いでそのままキスをしてしまう。


「んっ……将」

「あっ、ああっ、ごめん」


 自分がやったことをすぐに理解して離れたけど、彼女は全く怒っていないようだ。あの穏やかな笑顔を浮かべながらこちらを覗き込むようにして前かがみになっていた。

 先程のは夢だったのだろうか。それとも、本当に美香姉の心と――


「好きで……何?」

「げ」


 あまりに意地悪な質問に、はぁぁ、と長く甘い息を吐いてしまう。

 どうしようもなく笑いながら、隠し切れない気持ちを言葉に出来ずに立ち上がり、目の前の彼女をまた抱きしめてしまった。触れた所に広がる暖かさを感じながら、ああこれだ、と泣きそうな程の幸せに浸る。


「好きで、好きなんだ。意味わからなくてごめん」

「同じだから、いい」


 ひとしきり抱き合った後、肩に手を置いたまま距離を取って、また月を見た。はっきりと白に光っている満月は幻想的で、このまま二人で夜空に溶けていけそうな気さえする。

 だが、しばらく座っていたせいか少し寒い。昼寝もしたからまだ眠くも無い。


「美香姉、少し出かけるか」

「うん」

「他の姉さんたちには内緒でな。二人だけの、特別だ」

「うんっ」



 夜の盛りを過ぎ、間もなく早朝と言う時間に美香姉と二人でこっそり家を出る。

 斜めの空に輝く満月の下、自分たち以外に誰もいない町を彷徨っていた。


「眠くないか、美香姉」

「平気」


 互いに気遣いながら、普段通ってるコンビニエンスストアを避けるようにして進んで小さな公園に辿り着く。春が訪れた中でも未だに虫は少なく、揺れることもない遊具には青色の帳が静かに降りている。

 少し俺には低いブランコへゆっくり腰を下ろした。その隣に彼女も同じように座る。きい、とチェーンが軋む微かな音が生まれては闇に溶けて行く。


「将」

「どうした」


 珍しく姉さんの方から声を掛けられた。ちらりと脇を見ると、美香姉がチェーンに両手を置いて振り子のように振られている。その表情を読むことは出来ない。


「寂しい時、ある?」

「うん」

「私は……」


 美香姉は僅かに口をつぐんだが、意を決したように、長い言葉を吐き始めた。


「お姉ちゃんたちに取られてる時……将はとても楽しそうで、私は見てるだけ、聞いてるだけで何も出来ない。将が幸せだから、それを邪魔したくなくて、我慢するしかない」

「美香姉……」


 下手な口答えが出来ず、自分の中に渦巻いた複雑な感情を整理する。

 彼女にはもう何も隠し事は出来ない。だから、誠実に、真っ直ぐになるしかない。


「私だけの物に、なって。今だけでいい」


 ひんやりとした感情の波が伝わってきて、返す言葉もなく無言になってしまった。日頃からこうやって腹を割って話すことなんてないし――出来るには出来るけど、美香姉の心中を無理矢理探ったこともない。だから、彼女の切実さが、痛い。

 今だけ……本当に、今だけでいいのか? ここでキスして終わり、でいいのか?


「美香姉」

「なに?」

「……もっと、貪欲になっていいよ。今だって、我慢してるじゃないか」


 美香姉の視線が逸れた。

 分かっている。こっちだって、彼女の心を読み取れるんだ。


「出来るか分からないけど――」


 目を閉じる。そして、自分の意識を心の奥底までゆっくりと下ろす。先程バルコニーで経験したあの不思議な現象を再現するようにして、彼女の心に潜る。

 俺が何をしようとしているのか悟ったのだろう、まるで何かを隠すように、酷く慌てた声で彼女が訴えかけてきた。


(将、駄目っ、今来ちゃ駄目っ……!)


 美香姉と深い所でシンクロしていくと、徐々に雨音が響き始めた。

 周りでぼんやりとしていた景色が固まり、遂に彼女の心の中にやって来た事を知る。


(これは――)


 どこまでも続く広い闇の中に、ぽつりと一つだけ電灯がともっていた。滝のような雨でずぶ濡れになりながら唯一の光源へ向かうと、電灯の下に電話ボックスが一つある。四方と上方をガラスに覆われたその場所の中に、丸くなっている一人の少女の姿があった。

 慌てて駆けつけるが、彼女が顔を上げることはない。煤けた水色のパーカーに身を包み、その袖の中からは赤い火傷でただれた小さな手が伸びていた。その手に、あの檸檬味のリキュール缶が収まっている。


(美香姉、こっち見てくれ)

(嫌だ……将には、嫌われたくない……!)


 彼女がそう訴えかける中、ゆっくりと電話ボックスの入り口の戸を引いて開ける。姉さんがそれを邪魔することはなかった。そして、二人で入るには狭苦しい場所で屈み、美香姉の顔を見ようとする。

 それでも、美香姉は顔を上げない。

 じれったい。彼女にこんな気持ちを抱くのは初めてだ。


(……美香姉)


 遂には返事すらも聞こえなくなり、電話ボックスの外の雨音だけが反響する。

半ば強引に、彼女を傷つけないよう両腕でそっと包んで胸元へ引き寄せた。


(将……!)


 姿勢が崩れた彼女を受け止め、絶対に離さないと抱き締める。最初は腕の中でもがいていた彼女だったが、次第にそれは収まり、今度は肩をぷるぷる震わせて泣いてしまった。

 そっと、視線を下に落とす。

 涙に濡れる美香姉の顔は、頬の部分が大きな火傷に蝕まれていた。そして首筋も所々の皮膚が変色しており、身体が燃えているように熱い。


(……大丈夫だよ。美香姉)

(将は、嫌いにならない? 嫉妬と寂しさに焼かれた私を見ても、何とも思わない?)


 嫌いになる訳なんてない。

 たった一つだけの答えを胸に、心象世界の底で好きな人を抱き続ける。


(ごめんよ、美香姉。ずっと気が付けなくて)


 ボロボロだった彼女は俺がそう呼びかけると言葉を失い、ぎゅっと絡みついたまますすり泣いた。そして、顔を上げた彼女が欲しがるままに、静かに口を合わせる。

 パラパラと打ち付ける雨音に囲まれながら、暖かくも小さい彼女の舌をそっと吸う。すると、姉さんの方もまた、お返しと言わんばかりに優しく吸ってくれた。


(美香姉、キス、上手だね)

(将の方こそ……とっても、気持ちいい)


 ぺちょぺちょと二人分の唾液を舌の上でこねる。僅かに檸檬の味がしたそれを二人で分け合いながらなんとなく外を見ると、先程まで散々降っていた雨が止んでいることに気が付いた。

 そして、電灯の物ではない青白い光が美香姉の顔にかかっている。向こうもこちらの顔に当たる光に気が付いたのか、唇を離して外の方を向いた。


(あ……)


 言葉もなく、二人で天井に輝くそれを見つめる。

 蒼い輝きを見せる満月――雨雲の隙間から現れ、底の世界を優しく濡らしていた。




 朝、皆で食卓を囲んでいると、今回は向かいに座っていた愛理姉がなんだか不思議そうな顔で俺のことを見てきた。じゃりじゃりとした茶色い玉子焼きを噛みながら愛理姉の視線に反応すると、彼女は俺と美香姉を交互に見た後にぽつりと呟く。


「やっぱり、美香ちゃんと将君、なにか通じ合ってる……」

「あら、愛理もそう思うかしら」

「その通りだね。言葉がいらない、って感じする」


 他の姉さんたちの言葉を聞きながら俺は美香姉と顔を見合わせる。


(二人だけの秘密)

(ああ、そうだな)


 甘ったるい玉子焼きを美味しそうに頬張っていた彼女はほんの微かに、だけどとても嬉しそうに微笑んだ。目を閉じれば、二人で見たあの蒼い満月が輝いている。


美香姉と将は二卵性双生児の双子です。

双子だからこそ分かり合える何かっていいよね……

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