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蒼い月と檸檬と姉 1(美香姉)

おまたせ。


 激動の数年間も収まった俺の生活は嵐の後のように静まり、今までの忙しさが嘘のような穏やかさに包まれていた。出来ることも色々と増え、なんとお酒も飲めるようになってしまった。すっかり大人である。

 しかしだからと言って生活に大きな変化は訪れず、またいつものように春のゆっくりとした時期を過ごしていた朝であった。居間に向かうとそこでは、美香姉がつい先日までこたつだったテーブルに足を入れながらどことなく寂しそうな表情で床に転がっている。果たして二十歳の「大人」の姿がこれで良いのだろうか。人のことを言える自分でもないが。


「おはよう、美香姉。起きてたのか」

「……おはよう」


 水色のジャージに上下を包み、仰向けで怠惰を貪っている彼女はまだ開き切っていない目でこちらを見つめて来た。何か言いたげな彼女の隣に膝をつき、こちらも腰を下ろす。

 彼女の短い灰髪は少しだけ寝癖が付いており、耳にはイヤフォンが入っている。机の上に乗っている美香姉の物らしきスマートフォンの画面には、失恋ソングを流している音楽プレーヤーアプリが映っていた。


「美香姉、そう言うの聴くんだ」


 そう呟くと、彼女はジト目になって「何か悪い?」と言わんばかりの顔でこちらを見た。それに押されてしまい、なんとなく視線を逸らす。


(将)

(あ……すいませんでした)


 すぐそこにいるのに、あえて言葉に出さず心で話しかけて来る彼女に慌てて謝る。逃げるようにして美香姉の隣でスマートフォンを操作し、普段やっているゲームのデイリーガチャを回した。もしかしたら最高レアの奴が来ないかな、と期待するけどいつも通りのノーマルが当たる。まあそんなことないかと思っていると、美香姉がつんつんと指で太ももの辺りをつついてきた。

 先程彼女が差してたイヤフォンの片方を取り出し、無言でこちらへ向けている。聴いて、と大きな目で誘って来る美香姉に付き合い、彼女と同じように横になってイヤフォンを片耳に差した。互いに外側の耳に差している物だから彼女とついくっ付いてしまう。


「あ、これか」


 何度かテレビで聞いたことのある曲だった。ドラマで使われたなとか、最近この男の人って人気だよな、とか歌詞がいいなとか思っていると、美香姉が身体を横にしてこちらの方を向いた。曲の雰囲気にあてられたのか、ちょっとだけ悲しそうな目になっていた。

 仕方なくこちらも横を向き、片腕を横にどけて胸元を空ける。すると彼女はそこへ吸い込まれるようにくっつき、安心したように息を吐いて腕の中に収まった。


「もしかして、美香姉って意外と感傷的?」

「うるさい」


 ぽつり、と帰って来る小さな声。

 しばらく抱いていると、どうもこちらも雰囲気に流されてきたようだ。胸元に顔をうずめている美香姉の事が愛しくなってきて仕方ない。このままずっと自分の傍にいて欲しい、隣にいるから離れないで欲しいと思っていると、背中に回っていた美香姉の腕の力が強くなった。


(そうか、美香姉、分かっちゃうもんな)


 声を抑えているけど、美香姉がちょっと泣いているのが俺には分かる。

 心地よい共依存で頭がだるくなって、胸にあふれる愛おしさを逃がそうと彼女の頭を撫でた。小さな身体を懸命に抱き締め、持ちうるだけの愛情を肌越しに伝える。

 脚が絡む。お腹が温かくなっていく。そして、お互いに眠くなっていく――


「……ん?」


 部屋の戸が開いていた。おかしい、しっかり閉めたはずなのに。

 そう思って居間をくるくる見回すと、円テーブルの対面で誰かが正座で座っている。


「理子姉、いたの?」

「……っ!?」

「うん、将君がぎゅーってした所から」


 耳からイヤフォンを外して上半身を少し起こすと、テーブルの向かいで理子姉は微笑ましい表情を浮かべてこちらを見ていた。美香姉は驚きで僅かな間、胸元から離れて涙でほのかに赤くなった顔を晒してしまう。すぐさまもう一度俺に抱き付いて顔を隠したけど、理子姉は何か訳があると思ったのか「あー、うん」と当たり障りの無い事しか言わなくなってしまった。


「えっと、将君、あんまり美香ちゃん泣かせちゃだめだよ?」

「あ、違うんだ、理子姉、これはな」

(将のバカっ……バカっ……!)


 顔をうずめながら美香姉がぽかぽかと殴りつけてくる。

 ああ、こうなったらもうどうしようもない。理子姉はすっと視線を上の方に逸らして逃げてしまい、恥ずかしさを爆発させた彼女の柔らかい拳をずっと受け止め続けることになってしまった。


 そう言う訳で、皆が集まった後、不機嫌な美香姉の隣でご飯を食べる。

 二人きりの時間を邪魔されたことが気に障ったのか、普段は仲の良い理子姉ともあんまり話したがらない。一方の俺は、姉さんが来ることを教えてくれなかった、と言う事で、先程から円テーブルの下にてちょんちょんと裏箸でつつかれていた。


 そして、普段はずっと無表情で食べ続けている美香姉が珍しく怒り気味であることから、理子姉含めたほかの姉さんたちはてんやわんやである。頭をがっくしと垂れて落ち込んでる理子姉を慰める役を俺は担っていた。


「うー、美香ちゃん怒ってる……」

「いや、理子姉は悪くないから。あれは不運な事故で」

「……」


 ギロ、と美香姉の視線が俺の横顔に飛ぶ。

 それだけでぶすりと刺されたような気がした俺はつい黙ってしまった。


「美香、何か思ってることがあるならしっかり伝えた方がいいわよ」

「なにかいい番組やってないかな……?」


 愛理姉がたくあんをポリポリ噛みながらリモコンを操作する。テレビの画面が切り替わっていくが、美香姉の気を惹きそうな物は無い。とりあえずこの重い雰囲気を何とかしようと適当なワイドショーが流れ始めた。

 未だに機嫌が直らない美香姉の顔を見る。ここまで根に持つ性格ではなかったのだが。


(美香姉、何か言いたいことがあるんじゃないか)

(うるさい)


 他の姉さんたちに聞こえないように尋ねるが、あっけなく弾かれてしまった。

 ため息をつきながら焼き鮭をつついていると、テレビの画面に大きな月が映った。


〈今日はなんと「ブルームーン」が見られる日なんです! 先生、ブルームーンとはどう言った月なんですか?〉


 何やら権威がありそうなエライ先生が画面の中でクドクドと語り始めるのを聞きながら、口の中に残っていた魚の骨を取り出して皿の端に寄せる。

 ちらりと美香姉を窺うと、彼女の視線がテレビの画面の方に流れているのが見えた。だがすぐにまたテーブルの上に戻る。それでも、先程の険悪な空気はちょっと薄くなっていた。

 月か……うむ、いいかもしれん。


「ごちそうさま」

「あら、将、どこかに行くのかしら」

「ちょっとね。昼までには戻るつもり」


 台所に食器を下げ、自分の部屋に戻った俺はスマートフォンを財布を持って家から飛び出した。外は快晴。上着がなくとも寒くない季節である。



 家を出た後少しして、美香姉がご飯を食べ終わったであろうタイミングを見計らって彼女に電話をかける。数回程コールした所で彼女は出てくれた。一緒にお出かけしないか、と言うと美香姉は僅かな間を置いてうんと答え、最寄りのスーパーの前で待つこと十分で合流する。

 朝ご飯の時とは違い、美香姉は見て分かる程に嬉しそうな顔をしていた。カーキの迷彩柄レギンスパンツに白の半袖ロング丈Tシャツ。いささか夏の装いにも近かったが、今日は春にしては少し暑い位だ。その出で立ちは、今までの鬱蒼とした冬の装いに慣れた目にとっては新鮮その物である。


 肩にグレーのトートバッグを提げ、美香姉は俺の一歩前に向き合うように立った。

 沈黙。僅かに背の低い彼女はすこし上を見ると、今までの不機嫌が嘘のように目を細めてにこりと微笑んだ。春風が吹き、ふわりと彼女の髪が揺れた。


「……将?」

「あ、すまん、ぼうっとしてた」


 こちらのことを全部見透かしている癖に、美香姉は口元に手を当ててからかうようにくすくすと笑う。その姿が眩しくて片手で顔を覆っていると、手首の辺りを優しく掴まれて顔に当てていた手をどけられてしまった。


 すぐ目の前で、美香姉が俯いている。

 先程までの自信あり気にも思える表情から一転、上目遣いで様子を窺うようにして弱々しくなった彼女は自嘲するような笑みを浮かべた。


(将、行こう)


 ここはスーパーの前。他の人も通る場所で、姉弟で見つめ合っている様子を既に多くの人々に見られてしまっていた。その事に気付いた俺ははっとすると何事も無かったかを装って店内に入る。後ろに美香姉も続き、横に並んだ後にまた視線を重ねた。

 未だに顔の赤い彼女は、その半開きになった口から僅かに湿った息を吐いている。

 片手に買い物籠を持った時、もう片方の手を姉さんに奪われてしまった。


(美香姉、これ、ちょっと……)

(このまま)


 手の平が重なる。指が絡む。

 一回り小さく滑らかな手に力が籠められ、熱が籠る。


「えっと、これって、その」


 戸惑っている内にも美香姉が一歩先へ出てこちらのことを引っ張ってくる。

 どこに行く訳でもなく、二人で手を繋ぎながらの買い物が始まった。たまに周りの人の視線がちらちらと来るのは恥ずかしいけれど、今こうして二人で一緒にいる浮遊感に比べればそれは小さい事だ。


 肩腕に抱き着くようにして彼女と店内を回り、アルコール売り場の近くを通りかかって足を止める。姉さんの事で頭が一杯になり、ここへ来た当初の目的を忘れていたことに気が付いた。


「そうだ、今日の夜、一緒に月を見ないか」

「月?」

「ほら、テレビでやってたじゃん。ブルームーン、とか言う奴」


 隣を向いてそう聞くと、美香姉はなんとも楽しそうに笑う。ここで立ち止まった理由を察したのだろう。籠を置き、売り場に並んでいる中からリキュール缶の一つに手を伸ばすと、彼女もまたその中から一つ選んで手を伸ばした。

 その手がふと重なり、二人でまた顔を見合わせる。


「ん」


 檸檬味のリキュール缶。

 なんとなく、美香姉だったらこれだろうな、と言う物だった。


「将はこれ、好き?」

「あ、俺は、美香姉がこれ好きそうだなって」


 咄嗟に、ほぼ同時に出された言葉を聞いて、しばらくの間無言で見つめ合った。

 お互いが相手の事を想って手を伸ばした、それに気が付くと嬉しさと恥ずかしさで口元が緩み、彼女への愛しさで胸の中がぎゅうぎゅうになってしまう。一方の美香姉も優しく軽い声を漏らしながら笑い、幸せで力むままに片腕を抱き締めてきた。


(好き……)


 美香姉の心の声が流れてくる。

 このまま姉さんを抱き締めてしまいたい。だけど、その気持ちを抑えて……


「そ、そろそろ、行かなきゃ」

「うん……」


 同じ味のリキュール缶二つを籠に入れ、今度はお菓子売り場に向かう。

 片手に愛しい彼女を絡ませ、蕩けるような心地の中で揺らぐ。


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